詩篇23編ークリスチャンホームで育った人は暗唱できる。 | 日本のお姉さん

詩篇23編ークリスチャンホームで育った人は暗唱できる。

聖書の言葉の中に
特別好きな箇所があります。
詩篇23編は、
聖書がなくても
暗唱できる箇所です。

クリスチャンホームで育った場合、
親は子供に詩篇23編を丸暗記させる場合が多いので
大人になって困難なことがあった場合、聖書が側になくても
神さまのことを思い出して暗唱できるのです。

子供に聖書の箇所を丸暗記させない親は
かなり神さまに対していい加減な人が多いのではないかと
勝手に思っています。
親が神さまに対していい加減な態度を示していると
子供はクリスチャンにならずに
世の中の人と全く同じような人生を歩む場合が多いのです。
つまり、教会に行かず、他の人と同じように神さまを信じないか、

信じてはいても、偶像を拝むような人と結婚し
お金持ちになることや家族と仲良く生きることだけを
人生の目標に生きるようになり、本当は心の中で
神さまを信じているクセに周りに合わせて
葬式や法事で神さま以外のモノにポーズとして

手を合わせるようになります。

日本的には、それが正しいと言われるでしょうが
クリスチャン的には、それは大間違いなのです。


クリスチャンは、神さま以外のモノや遺体に
手を合わせてはいけないのです。


そういう場面に出くわしたら
「クリスチャンなので、手を合わせることはできませんので
ここでお見送りさせていただきます。」と言って
遠くで控え目に見送るのが正しいのです。
(それができないのなら、葬式の手伝いはきちんとするが
式場には出ないことです。)


クリスチャンであると自分で言いながら

なんのくったくもなく、ポーズでもなく

神社で柏手を打ち、寺で偶像に手を合わせ
葬式で遺体に手を合わせたり、焼香をしたり、
地域の祭りなどに平気で参加して神輿を担いでいる人は
神さまを信じていない人だと思って間違いありません。
たぶん、親がクリスチャンなどで
自分もそうだと思いこんでいる人なのだと思われます。

クリスチャンは、
神さまがこの世界を創られたと信じ、
神さまが遣わされた救い主が
イエス・キリストであると信じている人です。

神さまは、自分のひとり子の神を
予言通りの人を使って
通常ではない方法で
人間として生まれさせ

予言通りに
最後には十字架にかけられて
死ぬようにされました。


人類の代表として罪の罰を受けるためでした。


その罪が無いひとり子の神が
罪の罰を身代りに受けて死んだので
父である神さまは
人間の罪を赦すことができるのです。

それほど神さまの愛は大きく

罪に対する怒りも大きいということです。

罪の無いひとり子のイエス・キリストが

人類の罪の罰を

身代りに受けて死に、

予言通りに

三日目によみがえって

40日後に天に帰られたので

このことを信じる者は救われます。

地獄の罰から救われて神さまの国である天国に行けます。

そのことを信じている人はクリスチャンです。


神さまの愛や厳しさを知らず

救い主によって神さまは人間の罪を赦すという

神さまの約束を信じていない人は

死後に受ける地獄の罰から逃れることはできません。

罪を持って生まれた者は、死後に裁きがあることが

定まっているからです。

定まっているけれども、イエス・キリストを信じる者は

救われるのです。

聖書の預言通り、イエス・キリストはこの世に

特別な方法で来られ、予言通りに

人類の罪の罰を始末し、

予言通りに

三日目によみがえってくださったのです。


突拍子も無いことをクリスチャンは信じていると

日本人ブロガーが無料メルマガなどで書いていますが

この世界が神さま無しに勝手にできたと何の証拠も無く信じ、

そのクセ死後に生まれ変わったり

天国に行けると信じている日本人の方が非科学的で

突拍子も無いことを信じているのだと思います。


神さまはいるし、神さまの国である天国もあるし、

死後の裁きである地獄はあるし、悪魔もいずれ

地獄に落ちるし、生きている間、悪魔に従って

偶像を拝んだり、占いや悪霊(あくれい)と関係が

ある人々は悪魔と一緒に地獄に行くのです。

ですが、

地獄から救われる方法があるのです。

神さまが予言していた通りに遣わしてくださった救い主を

自分のために

罪の罰を始末しに来てくれた神さまのひとり子なのだと

信じることです。

イエス・キリストは予言通り処女マリアを通して

人間になられましたが、通常の方法なら

通常の罪を持った普通の人間しか生まれないですし、

神さまならそれぐらいできて当然です。

死後、三日目によみがえることも予言通りで

神さまのひとり子ならよみがえって当然です。

普通の人間は、生まれつき罪があるので

人間の身代りに罪の罰を受ける資格は無いし、

罪が無い天使が身代りに罪の罰を受けるとしても

天使は神さまではないから

人間をそんなに愛していないので、

身代りに罪の罰を受けて死ぬなんてことはできません。


人間を罪の罰から救うなんてことは、

神さまのひとり子の「神」でないと

できないことなのです。


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詩篇23編

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。

羊は角も牙もない弱い動物で
しかも近眼。道に迷いやすい動物らしい。
だから羊飼いが必要です。
ヤギを羊の群れの中に入れておくと
ヤギを頼ってついて回るらしい。

羊は自分が弱いことをわかっているので

つい強そうに見える相手にについて行くらしい。

聖書には、
イエス・キリストは良い羊飼いであり

羊のために命を捨てる方ですと書いてあります。


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詩篇23篇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
旧約聖書
詩篇23篇(しへん23へん)は旧約聖書の詩篇の中の一篇。ユダヤ教とキリスト教の両方において、祈りの言葉として愛され、よく唱えられてきた箇所である。キリスト教徒にとって「主」とは「私はよい羊飼い」(ヨハネによる福音書10章)といったイエス・キリストその人と重ねあわされる。
日本語訳 [編集]
ダビデの賛歌
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう
ラテン語訳 [編集]
PSALMUS. David.
Dominus pascit me, et nihil mihi deerit:
in pascuis virentibus me collocavit,super aquas quietis eduxit me,
animam meam refecit.Deduxit me super semitas iustitiae propter nomen suum.
Nam et si ambulavero in valle umbrae mortis,non timebo mala, quoniam tu
mecum es.Virga tua et baculus tuus,ipsa me consolata sunt.
Parasti in conspectu meo mensam adversus eos, qui tribulant me;impinguasti
in oleo caput meum,et calix meus redundat.
Etenim benignitas et misericordia subsequentur me omnibus diebus vitae
meae,et inhabitabo in domo Domini in longitudinem dierum.
芸術作品での引用 [編集]
祈りとして現代においても愛唱されるこの詩篇の一節は、さまざまな芸術作品の中でもとりあげられている。
映画・テレビドラマ [編集]
『エレファント・マン』に於いて、エレファント・マンが本章を暗誦するところを主人公が目撃し、精神遅滞ではなく正常な知能を持っていることを知る。
『戦場のメリークリスマス』では、首まで砂に埋められて死ぬまで放置されるという拷問を受けるセリアズに対し、周りのイギリス兵捕虜たちが本章の賛美歌を歌う。
『カジュアリティーズ』では、現地人の恋人を戦友たちに虐殺されてしまったアメリカ兵が本章を暗誦する。
『ER緊急救命室』では、医療ミスを犯し窮地に立たされたベントンが教会で本章を暗誦する。
小説 [編集]
『静かなる水のほとり』(ロバート・シェクリイ)のラストで、雑用ロボットが主人に対して暗誦する。
都市伝説 [編集]
スペースシャトル・コロンビア号空中分解事故に於いて、空中分解の最中のクルーの声がボイスレコーダーで回収されたというデマがインターネット上に広まった。そこでは、クルーが本章を唱えていると言う。
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今回からは詩篇23篇を英語と日本語で読んでみようと思います。今回は、まず最初の2節を読みます。


The Lord is my shepherd, I shall not be in want.
He makes me lie down in green pastures,
he leads me beside quiet waters,

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。



 聖書では、神は度々羊飼いにたとえられているそうです。英語の1行目の、"want"は名詞で、「非常に貧しい状態」のことです。その前の"shall not"は、「そんなことは絶対にありえない」というよ
うな、強い否定の意味になります。ですから、「主とともに歩む限り、私が衣食住に事欠くような状態に陥ることは絶対にない」というような気持ちが表現されていることになります。イエス・キリストも「マタイの福音書」で、「神の国と神の義を第一に求めれば、衣食住の必要は神が満たしてくださる」という意味のことを言われています(マタイ6:25~34)。

 英語の2行目と3行目は、詩人は自分を羊にたとえています。日本語の3行目では「伏させ」と訳されている所が、英訳では"make me lie down"になっています。"make"は「強制的に何かをさせ
る」というニュアンスを持つ語です。主は、羊のために益になると思えば、ご自分に従わせて、緑の牧場に伏させる(横にならせる)、ということでしょうか。

 英訳の3行目の"waters"は、海、川、湖など、水のある場所を指します。"quiet"は直訳すると、「静かな」です。ですから、この行は、「主は私を導いて、静かな水辺を通らせる」という意味です。

 次回は、今回の続きの2節を読みたいと思います。

http://bibleverses.blog80.fc2.com/blog-entry-18.html

早速ですが、前回の続きの2節を読んでみましょう。


he restores my soul.
He guides me in the paths of righteousness
for his name's sake.
Even though I walk
through the valley of the shadow of death,
I will fear no evil,
for you are with me;
your rod and your staff,
they comfort me.

主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。

 英訳の1行目の"restore"は多義語です。ここでは、「元の状態に戻す」というような意味合いで使われています。つまり、「主は、私のたましいを、生き生きとした状態に戻してくださる」ということです。
 2行目の"righteousness"は、日本語訳では「義」と訳されていますが、もう少し詳しく調べてみましょう。この名詞は、"righteous"という形容詞の派生語です。"righteous"は、ODE(Oxford Dictionary of English)によると、"morally
right or justifiable"、つまり、「道徳的に正しい」という意味です。新改訳聖書の注釈によると、「義の道」は「神と共なる祝福された生活」のことだそうです。2行目と3行目の英訳を直訳すると、日本語訳の2行目のようになります。
 また、英訳の4,5行目を直訳すると、日本語訳の3行目のようになります。英訳の6行目の"evil"は日本語訳では「わざわい」になっています。"evil"は「悪」ではないのか、と思われるかもしれませんが、実はこれも多義語で、ここでは可算名詞(数えられる、複数形になる名詞)として使われ、「害を及ぼす事柄」、または「望ましくない事柄」という意味ですので、「わざわい」という日本語はぴったりです。
 英訳の下から2行目の"staff"も多義語ですが、ここでは"a long stick"、すなわち「長い杖」のことです。最後の2行は、主を羊飼いになぞらえて語られた言葉です。「むち」は野獣を追い払うために用いられ、「杖」は羊の数を数えるために用いられたそうですから、ここでは、主が「私」を守ってくださることを表しているように思われます。

 次回はこの詩の最後の2節を読みたいと思います。
http://bibleverses.blog80.fc2.com/blog-entry-19.html
今回は、詩篇23篇の最後の2節を読みます。


You prepare a table before me
in the presence of my enemies.
You anoint my head with oil;
my cup overflows.
Surely goodness and love will follow me
all the days of my life,
and I will dwell in the house of the Lord forever.

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 前節まででは主は羊飼いにたとえられていましたが、この2節では客を迎える主人にたとえられています。
 まず、英訳の最初の2行を見てみましょう。1行目の"table"は「テーブル」ではなくて、レストランや家で出される食事のことです。2行目の"inthe presence of my enemies"は、詩人が敵のすぐ近くに
いる、つまり敵が目の前に迫っている状況を表します。
 英訳の3行目の"anoint"は、聖書に頻出する単語で、「油をそそぐ」という意味です。頭に油をそそぐ、というのは客を迎えるときの歓迎の行為です。ちなみに「キリスト」はヘブル語で「メシヤ」ですが、この語のもともとの意味は、"anointedone"、つまり、「油をそそがれた者」だそうです。イスラエルでは国王が任命されるときに頭に油がそそがれたことが旧約聖書に書いてありますが、この儀式には、神によって聖別される、という意味合いがあったそうです。ですからイエス・キリストは父なる神によって聖別されていることになります。
 英訳の5行目の"goodness"は"good"の名詞形ですので、「恵み」と訳すこともできると思います。"love"はもちろん「愛」ですが、日本語訳では「いつくしみ」になっています。6行目の"allthe days of my life"は直訳すると
「私の人生のすべての日に」ですが、日本語訳のように「私のいのちの日の限り」にしたほうがが詩的な表現になります。
 最終行の"forever"は「永遠に」ですが、日本語訳では「いつまでも」になっています。それから、この行の"will"は5行目の"~willfollow"の"will"のような、単に未来のことを表す"will"ではありません。これは詩人の意志、つまり、「~しよう」という気持ちを表します。

 詩篇23篇は今回で終わりです。
http://bibleverses.blog80.fc2.com/blog-entry-20.html