ブラックウイドウで検索したら出てきた記事。
アメリカでは、人を殺した人数より、犯罪者に助けてもらった人々が多かった場合、
そんなに厳しく裁かれない場合があるようだ。
ドロシア・ヘレン・グレイは、夫を殺したり、行動が粗暴な痴呆老人を受け入れる施設を経営して、やっかいな痴呆老人を7人殺害していたが、この施設は
誰も受け入れてくれない老人を受け入れてくれる施設として有名な施設だったのだそうだ。確かにこの犯罪者によって助かった人々も大勢いたはず。
でも、日本は、ひとり殺しても死刑にはならない。10年、おとなしく服役していたらシャバに出てこれる。未成年が人を殺した場合も、しばらくしたらシャバに出てくる。
未成年だろうが、殺したのはひとりだろうが、殺し方が残酷だったり、赤ちゃんや子供を殺した場合は死刑が当然だろうと思うけどねえ。
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アメリカ カリフォルニア ブラック・ウィドウ=ドロシア・プエンテ
傑作(0)
2012/3/14(水) 午後 4:25
ドロシア・プエンテ
旧姓でドロシア・ヘレン・グレイ
1929年1月9日
カリフォルニアのレッドランズで
トルーディ・メイ・イェーツとジェシー・ジェイムス・グレイへのカリフォルニアの6人目の子供として生まれた
両親は綿摘み労働者だったが父親は彼女が8才の時に結核で死に
母親もその1年後にバイク事故で死ぬ
それがゆえに
グレイ家の子供たちはみな別の家に引き取られるが
彼女はフレズノ(カリフォルニア)の親戚が受け入れてくれるまで孤児院で過ごすことになる
後年
彼女は幼児期について尋ねられると
メキシコで生まれ育った3人兄弟だったと嘘をついている
先に書いてしまうが
彼女は虚言症-つまり病的な嘘つきで
彼女の人生まるごと冗談のよーなカンジだ
彼女の歴史を辿ると
13才の頃にはナパ
16才の頃にはロサンゼルスの学校に在籍している証拠があるが
同じく16才の夏にはワシントンのオリンピアで「シェリ」と名乗りミルクセーキ・パーラーに勤務していることから
学校は辞めたんだらう
その16才の1945年
彼女は友達とモーテルをシェアして売春と美人局をやっていたが
フィリピンからの帰還兵.フレッド・マクフォールと出会ひ
その年齢のうちに結婚した
当時の彼女をマクフォールは「とても美しく賢い人だった」と言っている
実際
身に着けるものや化粧品も年齢不相応にセクシーなもので
セクシーさに相応して高価な代物ばかりだった
そして
その金を捻出するため詐欺まがいのホラで男たちに貢がせていた
13才の時に広島で原爆を生き抜いた
スウェーデン大使の妹
リタ・ヘイワースの親友
これらを聞かされた証言は枚挙に暇がない
マクフォールはこの彼女の虚言症を3年耐える
二人はネヴァダのガードナーヴィルに家を建て
そこで2人の子供をもうける
この2人の子供を出産した直後
彼女は子供を残してロサンゼルスに行き
妊娠して帰って来た
さすがのマクフォールも完全にうんざりし
1948年にカップルは離婚
その後2人の子供は
一人は特定不能の家庭に養子に行き
いま一人はマクフォールの母親が面倒をみることになる
カリフォルニアに帰った彼女はこの離婚に関し
夫が組合の仕事で死んだとまた嘘をついている
彼女はその後
男を次々変えて貢がせているが
彼女の高級品嗜好を満足させるには足りない実入りだったらしく
帽子や財布や靴やパンティーストッキングを買うために知人の小切手を盗み
結局
1948年後期に詐欺罪で逮捕される
この件で彼女は執行猶予となるが
執行猶予中に町を出て逃亡し
捕まって刑務所で4年つとめることになる
1952年
プエンテはアクセル・ヨハンソンとゆースウェーデン人の船乗りと結婚して荒れ狂う14年の結婚に船出する
このヨハンソンとゆー男
俺から見て
頭が少し足りないんじゃないかと思ふ
彼は商船の乗組員で自宅を空けることが圧倒的に多かった
結婚後
彼が長い勤務から帰還すると
妻が他の男と生活していた
こーゆーことはそれからもたびたび起きる
また
彼が帰ると近隣がさっそく
夜な夜な彼のいない彼の家に来るタクシーの乗り降りの音がうるさいと苦情が来た
意外でもなんでもなく二人は喧嘩になる
この二人は
喧嘩して離婚し
そして離婚しては再婚し
また離婚する
このルーチンを14年間繰り返す
このヨハンソンとゆー男
俺から見て
頭が少し足りないんじゃないかと思ふ
1960年に売春宿を経営した罪でサクラメント郡刑務所で90日の収監
さらにその解放後
浮浪罪でさらに90日の収監される
1968年
プエンテの犯罪者人生はこのあたりからはじまるんじゃないかな
"サマリタン"とゆー名のアルコール中毒患者の厚生施設を立ち上げ
同時にペンションの管理を始める
同年
ロベルト・ホセ・プエンテ21才と結婚しているが
1966年にはヨハンソンと正式に離婚しており
とりあえず問題はなかった
彼女が39才だったこと以外
後の地元紙の報告によればこの結婚は1年で破局している
離婚後
ペンションの近くに老人のためのホームを設立し
彼女自身も看護助手として老人たちの世話を始めるが
このホーム事業はこの後拡大をする
1976年に
サクラメントに第2の施設を設立し
その時に入所者のペドロ・アンゲル・モルダボ51才と結婚
この結婚は2-3ヶ月で終わる
モルダボは後に地元紙のインタヴューにこー答えている
"She wanted new pantyhose every day, she thought she was rich."
だが
実際は
彼女はモルダボに思わせていたよーな裕福な人間ではなく
彼女がパンティーストッキングを買っていた金の源はテナントから盗んだ小切手偽造によるものだった
この件により彼女は訴えられ
5年の執行猶予とカウンセリングを義務付けられる
この時のカウンセラーは彼女を精神分裂と情緒障害と診断していた
事実
この執行猶予の間
彼女は同じ詐欺を犯し続けた
カリフォルニア控訴裁判所の記録によると
1981年に彼女はサクラメント中心部で二階建てのアパートを賃貸し始めているが
これもそのあぶく銭から出ていたことは明白だ
ペンションでのプエンテの評判は甲乙あった
一部の入居者は彼女のケチに憤慨して支払いを拒否する訴えを起こしているが
他方
彼女の親切や気前の良さを賞賛する者も確かにいた
俺が思ふにこれも情緒障害の一つなんだが
彼女はそもそも依存性人格障害なんじゃないだらうか
虚言癖などでも分かるとーり
他人によく思はれたい/見下されたくない
とゆー意識が強い
1982年4月
プエンテの軽食堂の共同経営者.ラス・モンロー61才(プエンテの二階建てのアパートで彼女と一緒に暮らしていた)が薬剤過剰摂取で死亡する
プエンテは彼女の夫が末期患者だったので
それを悲観してのことではないかと言った
だがモンローは夫に
食堂ビジネスへの協力はとてもエキサイティングで
将来に対する希望に満ち溢れていると手紙で伝へていた
加えて
彼女がプエンテのアパートに引っ越してきた2週間後
彼女は行った美容院で友人に「近々、私、死ぬと思ふ。」と漏らしていたことが刑事の捜査で判明する
刑事たちはこれを単純な自殺とは考えなかった
だが
殺人事件として分類するには
情報も証拠も乏しかった
ただしその後
プエンテは逮捕される
モンロー死亡より一ヵ月後
4人の入居者に麻痺剤を盛って貴重品を盗んだことが発覚して5年を宣告されることになる
このお勤め期間は仮釈放にて3年で終わるが
その間
彼女はエヴァーソン・グィルマウスとゆーオレゴンのリタイヤマンと文通している
そして彼女の出所の時
彼は赤い1980年のフォード・ピックアップを刑務所の門前に停め
彼女を待っていた
二人の関係は急速に発展した
この時期にグィルマウスが妹に送った手紙によれば
「結婚するだらう」
と書いてある
二人は共有の銀行口座をも開設し
後は式の日取りをとゆーところまで来ていた
その年の晩秋
1985年11月
プエンテは便利屋.イシマエル・フローレスを
木とプラスチックのパネルを彼女のアパートに設置するために雇った
彼には報酬として800ドルと
ロサンゼルスでボーイフレンドが持っていたとゆー赤い1980年のフォード・ピックアップを与え
「本と雑貨」を保存するために6フィート×3フィート×2フィートのケースを造るよう依頼する
その後彼女は
フローレスが作ったケースを釘付けし
サクラメント川に棄てるのを手伝うよーフローレスに依頼する
せっかく作ったものを不審に思ったフローレスだが箱の中身がジャンクだとゆー彼女の言葉を信じた
1986年1月1日
猟師が河川のコーナーバンクにおよそ3フィートのケースを発見する
中には壊滅的に腐乱した老年の男性の死骸が入っていたが
その死骸は
グィルマウスと特定されるのを市のモルグで3年間待つことになる
じっと我慢の子であった
その間
彼女は彼の妹に「いつも君を思ってる」とバースデーカードを送り続け
共有の銀行口座に振り込まれる彼の年金を得続けた
彼女は介護住宅ビジネスを堅調に維持し
更に40人の新しい入居者を受け入れた
その後を巻きで書くと
プエンテは1988年11月11日に尋問を受け
その時に地下室の土の中から死体を発見されて逮捕される
彼女は自分に文句を言った反抗的な老人や手に余る老人に毒(主に砒素)を盛って殺害し
彼らの社会保障小切手を現金化して私服を肥やしていた
彼女の施設は「麻薬常用者」や「暴力的」な入居者など条件的に難しいケースに順応していたのでケースワーカーに人気もあったし
仮釈放監督官の査察も諄々と受けていたことから
法的にはノーマークな存在だったが
入居者の一人で最期の犠牲者.アルヴァーロ・モントーヤが姿を消した時
ソーシャルワーカーが警察に通報してことが露見した
その後
警察の発掘調査で7人がホームの地下で見つかり
裁判中にも2件の殺人が追加され
合計9つの殺人の嫌疑を受け
3の有罪判決を受けて2つの終身刑を宣告されたる
彼女はカリフォルニアの中央のマデーラ郡にあるチョウチラ女性刑務所に収監され
残りの人生を無実の主張…
つまり
すべての入居者は自然死したと主張し続けるが
2011年3月27日
82才で自分が自然死した
少し不思議に思ふのは
なぜプエンテは死刑を宣告されなかったのだらうとゆーこと
殺した人数もそーだが
殺人の全容が判った段階で彼女の死刑を阻害するものはなくなったと考えていい
俺はこれで「殺せ、殺せー」とリンチ感情の虜囚とならなかったアメリカ市民に深い敬意を感じる
すぐに「死刑」と言ふ
精神年齢においてこまわり君が多い国の国民としてはかの国に畏敬の念すら覚える
だが
それでも同時に不思議にも思ふ
彼女がこれを生き延びて何か善行を成すとも考えられない
善行より悪事の方がよほど可能性として高いと考えるのが当然だと思ふし
判事も陪審もその事を考えないとは思われない
結局
彼女が殺した人数より
彼女に助けられたと思ふ人数の方が勝っていたんだらう
彼女は私腹を肥やしていただけだがその恩恵に与った善人が死者に倍していたのだらうな
そー考えると
人間が単純な生き物でないことをつくづく思ひ知らされる
すぐに「死刑」と言ふ国民の方がよほど単純で単細胞で極楽なんだらう
http://blogs.yahoo.co.jp/show_p_dion_ne_jp/8468505.html