シャープを救った台湾企業、鴻海(ホンハイ) | 日本のお姉さん

シャープを救った台湾企業、鴻海(ホンハイ)

台湾企業と言っても

チュウゴクから台湾に渡ってきたチュウゴク人の会社らしいけどね。


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シャープを救った台湾企業、鴻海(ホンハイ)――サムスン潰しへの野望【上】
東洋経済オンライン 4月18日(水)10時33分配信
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世界の電機業界中心を担う鴻海

売上高9兆6361億円、グループ従業員数96万1000人。スマートフォン、パソコンなどの年間生産台数は133億4078万台(2011年12月期)――。あらゆる日本の電機メーカーを規模で大きくしのぐ台湾企業が、とうとう表舞台に躍り出た。

年表・鴻海の巨大企業への歩み

鴻海(ホンハイ)精密工業(通称フォックスコン)。スマートフォンや液晶テレビといった電子機器の生産を請け負うEMS(電子機器受託製造サービス)の世界最大手だ。3月27日、シャープと資本業務提携し、“下請けがメーカーを救済する"という大立ち回りをしてみせた。

シャープは窮地のただ中にあった。液晶ディスプレーと太陽電池の不調で、過去最悪の最終赤字2900億円(12年3月期見通し)に転落。稼働率低迷に伴う液晶工場の減損リスク、巨額の社債償還も控えていた。近く企業存続すら危うくなる、とささやかれる中、シャープは1年半前から始まった鴻海の提携提案をのんだ。3月中旬の電撃社長交代でも下げたシャープ株は、提携発表翌日にストップ高。市場も鴻海を救世主と認めた。

だが、鴻海にとって今回の提携は、壮大な計画の第一歩にすぎない。郭台銘(テリー・ゴウ)董事長(注:会長の意)は、自らが描く怒濤の成長戦略に、シャープを巻き込もうとしているのだ。

■どの家庭にもある「鴻海製品」

鴻海という名を知る人の多くは、中国・深センの巨大工場でアイフォーン、アイパッドを量産する“アップルの下請け企業"として記憶していることだろう。ただ、その姿は、氷山のほんの一角にすぎない。

「まるで秘密工場だ」――。広東省佛山にある鴻海の工場を訪れたある電機業界関係者は、その“異様さ"に驚いた。工場建屋に入り、ミーティングを行う会議室と生産ラインの間を歩いたところ、扉や窓など開口部が極端に少ないのだ。

「隣の会議室、隣のラインがどうなっているかは通常、意識しなくても見えるもの。それが鴻海ではまったくわからない。工場の全体像も想像できなかった」

異様ともいえるほどの徹底した秘密保持も、当然ではある。鴻海はありとあらゆるメーカーの製品を手掛けている。同じ工場内はおろか、すぐ隣のラインにライバルメーカーの製品が流れることも珍しくない。

鴻海が手掛ける製品分野は、スマホからパソコン、家庭用ゲーム機、液晶テレビ、データセンター用サーバーと多岐にわたる(図)。しかも、各分野で主要メーカーを軒並み顧客に抱える。パソコンなら首位のヒューレット・パッカードから5位の台湾・アスースまですべてお得意様だ。製品には鴻海のホの字もないから気がつかないだけで、日本のどの家庭、どの企業にも、大量の「鴻海製品」があるはずだ。

■世界の電機業界の中心を担う

ずば抜けた規模に達した鴻海は今や、業界の共通工場である。デジタルガジェットの鮮度が生鮮食品のように落ちる時代。3万人の金型技術者が、他社の数倍のスピードで製品を量産ラインに載せていく。大量の部品調達が、圧倒的な原価低減力を生む。

メーカーにとって鴻海は、ライバルと生産面での競争力を等しくできる「競争のための前提条件」とさえいえる。実際、日本の携帯電話メーカーの中には、鴻海に生産委託を打診したが「生産数量が少なすぎる」と断られ、結果として海外市場への本格進出を再考せざるをえなかった例さえある。

雪だるま式に、規模が規模の経済を呼ぶ。これは偶然成しえたものでは、当然ない。郭董事長は、意識的に「業界トップシェアかそれに準ずる製品・メーカー」をターゲットに受注を集めてきた。これとほれ込んだ企業は徹底的に骨抜きにする。その最たる手段は、「顧客が必要としなくなった工場・人員を買い取る」ことだ。

鴻海が急拡大した00年代中盤は、ハイテクメーカーが、陳腐化した製造設備を手放し、より付加価値の高い新規領域に力を再配分する時代だった。その局面で、鴻海はささやくのだ。「不要資産をお引き取りしましょう。製品は、今まで御社が造っていたのと同じものを、私たちが提供いたします」。モトローラ、ノキア、ソニー、デル……長期にわたり鴻海の大口顧客である企業はみな、生産人員・設備を安価で鴻海に譲渡している。鴻海は大口顧客との商取引を深めつつ人員・設備に紐づいた技術も吸収してきた。例外は、そもそも自社工場ほとんどを持っていなかったアップルぐらいだ。

■「脱・台湾」で飛躍したカリスマ

郭董事長は1950年、台北の外省人(国共内戦後、台湾に逃れてきた中国本土人)夫婦の家庭に生まれた。海事関連の専門学校を卒業後、23歳で鴻海の前身となるプラスチック部品メーカーを創業した。当初の生産品目は、白黒テレビのチャンネル。続いて国内パソコンメーカー向けにコネクターを手掛け業容をほどほどに拡大する。だが国内では、それが成長の行き止まりだった。

「台湾政府は中小企業を支援しない。台湾の銀行は大企業にしかカネを貸さない。台湾でやっているだけじゃ、自分は一生小さな町工場のオヤジだ」。そう考え始めた90年代末ごろ、ひょんな経緯でIBMのデスクトップパソコンの筐体(きょうたい)を受注し、さらにパソコン本体の製造も引き受ける機会を得る。「これだ」。技術の手ほどきさえあれば、顧客企業が造るよりずっと安い人件費で生産ができる強みに気づいた。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120418-00000000-toyo-bus_all