政治家たちが国の政治をしないで選挙の心配ばかりしている。 | 日本のお姉さん

政治家たちが国の政治をしないで選挙の心配ばかりしている。

しかし、復興の前提となる復興基本法が参院本会議で成立したのは、発生から3カ月以上が経過した昨年6月20日。


第11部 前へ進むために(1)地に足つかぬ政治 ボランティアで自己満足
2012.3.1 08:03 (1/5ページ)[東日本大震災] http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120301/dst12030108080000-n1.htm


 ≪自民党の甘利明・元経済産業相(産経新聞社の国会議員アンケートから)≫
「『議員は次々視察に来るが、写真をブログに載せるだけ』との苦情を聞いた」
 岩手、宮城両県警は2月23日、東日本大震災で新たに身元が分かった犠牲者2人の氏名を公表した。同月27日には5人、28日は3人。

震災発生から1年が過ぎようとする今もなお連日のように亡くなった人の身元が判明している。

死者1万5854人(2月29日現在)に上る大震災は、なお現在進行形のできごとであることを思い知らされる。
 一方、東京・永田町は、すっかり「日常」を取り戻している。与野党攻防、党内対立、○○降ろし…。いつもの風景だ。そして今、議員の関心事は「いつ衆院解散があるのか」の一点に絞られつつある。


 震災発生直後はそうでなかった。

産経新聞社が昨年7月に実施したアンケートでは回答を寄せた336人のうち、実に92・9%に当たる312人が「被災地を視察した」と答えた。

「被災者の心に寄り添うことが大事だ」。多くの議員がこんな気持ちを強く抱いていたのだろう。


 民主党の1年生衆院議員、阪口直人氏は3月27日に、同僚議員15人とバスに揺られて宮城県石巻市に入ると、がれきを運び出し、炊き出しを手伝った。同じく民主党の1年生衆院議員、初鹿明博氏は、川べりの民家で泥を吸って重くなった畳の処理に取り組んだ。被災者からは「一人ではとてもできなかった」と感謝された。「現地の本当の大変さを身をもって感じた。0泊3日で頑張った」とアンケートに感想を寄せた女性議員もいた。
確かに議員たちは被災地で汗を流した。


 だが、永田町に戻った彼らはどうだったか。
 「炊き出しで満足する『ボランティア政治家』が増えている」。自民党のベテラン議員は、若手議員の話を聞くたびに、こんな複雑な思いを抱いている。


 東日本大震災という未曽有の事態を前にした国会議員の仕事は、まず、復旧・復興策が実行できる態勢を速やかに整えることだ。


そのうえで、震災は日本中どこででも起きうると認識し、自分の目で見て、肌で感じた被災地の実態を踏まえ、国全体の施策にどう反映させるかだろう。


 確かに、そう行動した議員はいる。しかし、復興の前提となる復興基本法が参院本会議で成立したのは、発生から3カ月以上が経過した昨年6月20日。17年前の阪神大震災の際の基本法成立は約1カ月後だった。


 復興の司令塔となる復興庁の発足に至っては今年2月まで待たされた。
 震災発生時の首相だった菅直人氏も在任中、被災地に「足しげく」通った。そして、昨年4月21日、視察した福島県田村市の避難所を立ち去ろうとした際、被災者の夫婦に「もう帰るんですか」と語気鋭く、とがめられた。


 だが、この夫婦の怒りの矛先は菅氏一人だけだったのか。政治家すべて、政治そのものへの憤りと受け止めた国会議員は、何人いるだろうか。

被災地の声 生かせぬ永田町
 ≪岩手・奥州市の主婦 小野トシ子さん(71)≫
 □「地元のために発言してくれると思って応援してきたが、震災後も小沢さんは地元にほとんど入らず、裏切られた気持ちだ」
 「今年は大変な年になるぞ」。年明け早々の1月2日夜、民主党の小沢一郎元代表は岩手県久慈市のすし店で、同県の達増拓也知事らとの会食で、こう述べたという。

翌3日、小沢氏は大津波の被害を受けた岩手県沿岸部の都市を一気に視察した。久慈→宮古→釜石→大船渡→陸前高田。走行距離約220キロ。「大変な年」発言は地元・岩手、東北の復興への決意の表れだったのか。


 ところが、視察先で小沢氏の口から出てくるのは、永田町にいるときと変わらぬ政権批判ばかりだった

「国民が新しい政権に何を期待しているのか、その根本を忘れているのではないか」「これでは政権交代した意味がない」


 小沢氏の被災地入りは、これが2度目。最初は昨年3月28日に県庁を訪問、沿岸部には足を踏み入れなかった。この間、小沢氏は達増知事と頻繁に連絡を取っていたというが、菅首相(当時)の不信任案に同調する動きを見せて揺さぶりをかけ、首相退陣後は、野田佳彦現首相への対抗馬擁立など、政局の主役として脚光を浴び続けていた。


話は28年前にさかのぼる。昭和59年、新潟県中部で発生した大水害。田中角栄元首相は地滑りが起きた長岡市の現場に急行した。「すぐやる。全部やるから心配するな」。住民たちを励ます田中氏の姿を後援会「越山会」で青年部長を務めた星野伊佐夫新潟県議(72)は鮮明に覚えている。


 当時、田中氏はロッキード事件の渦中にいながら、なお大きな影響力を保持し、「闇将軍」と称されていた。政界一の実力者が「すぐやる」と宣言した通り、地滑り現場では2、3日後には、復旧工事の着工日が決まっていた。「カネは後で何とかする。まず取りかかれ」。これが田中氏の口癖だった。


 田中氏は、復興の支障になると思えば、法や制度を変えることをためらわなかった。


39年の新潟地震を契機に政府と損保会社が共同運営する地震保険制度を確立。42年8月の新潟県北部の集中豪雨で死者が100人を超える水害が起きた際には、堤防決壊で、甚大な被害を引き起こした荒川を、河川法で管理主体が県単位となっていた2級河川から国が直轄する1級河川に昇格させた。


 小沢氏は、その田中氏のまな弟子とされている。ともに長く政界で影響力を持ち、自らの「政治とカネ」にまつわる疑惑で法廷に立ち、批判が多い点まで共通している。しかし、地元を大災害が襲ったときにとった行動は対照的だった。


◇≪福島・南相馬市の農業 西岡正さん(56)≫
 □「言いたいことだけを言う、やりたいことだけをやる議員には、もうウンザリ」
 地元の声を聞いても、それを国政に生かしきれない。頭の中にあるのは次の選挙のことばかり。

そんな政治家が多くなったのはなぜか。

指摘されている多くの原因の一つに、選挙制度がある。
 現行の小選挙区比例代表並立制は、政策は置き去りにされ、地元への利益誘導ばかりが盛んだった中選挙区制当時の状況を打開するのが目的で導入された。

政権交代を可能にし、政治に緊張感を持たせるのが狙いだった。


 結果、政権交代は実現したものの、政治家と地元の関係は皮相的になった。

その一方で、期待されたほど政策論争は盛んになったとはいえない。


 今、大阪市の橋下徹市長を筆頭に勢いのある自治体トップが続出、国政全体をものみ込もうかという一大ブームを巻き起こしている。

賛否はともかく、この現象が国政への失望の裏返しなのは間違いない。

そして、自治体の首長は、地域の問題を切実にとらえ、その声を拾いあげることで、有権者の支持を得なければならないのである。
 被災地でボランティア活動に励む一方で、永田町では政局三昧。

この1年間、与野党問わずに見せた国会議員の二つの顔が、そのまま被災地と永田町の間に横たわる大きなギャップとして表れた。

(船津寛、加納宏幸、楠城泰介)