魏志倭人伝を読む | 日本のお姉さん

魏志倭人伝を読む

たぶん縄起さんの記事。↓

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今回は、魏志倭人伝がどのような位置づけを先ず見てみようと思います。

魏志倭人伝は「三国志」の「魏志」の最後の巻「烏丸鮮卑東夷伝三十」の一番最後に収録されています。

この巻は、先ず「《書》載“蛮夷猾夏”・・・」と書き始め、秦漢の北方対策の情況を記載しています。その後、「烏丸」と「鮮卑」についての記載があります。



そして、行を改めて「《書》称:東{さんずい+斬}于海,西被于流沙。其九服之制,可得而言也。」で始まる朝鮮半島及びその周辺についての総論が記載されています。その文章が下記のものです。
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《書》称:東漸于海、西被于流沙。其九服之制,可得而言也。然荒域之外,重澤、而至,非足迹車軌所及,未有知其国俗殊方者也。自虞{上既+下旦}周,西戎有白杯之献,東夷有粛慎之貢,皆{日+広}世而至,其遐遠也如此。及漢氏遣張賽使西域,究河源,経歴諸園,遂置都護以総領之,然后西域之事具存,故漢宮得詳掲載焉。魏興,西域{口+虫}不能尽至,其大国亀茲、于真、康居、烏孫、疏勒、月氏、{善+}善、車師之属。无歳不奉朝貢,略如漢氏故事。而公孫渊仍父祖三世有遼東,天子為其絶域,委以海外之事,遂隔断東夷,不得通于諸々夏。景初中,大興師旅,洙渊,又潜軍浮海,收楽浪、帯方之郡,而后海表{+}然,東夷屈服。其后高句背叛,又遣偏師至討致,究追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,践粛慎之庭,東臨大海。長老説有異面之人,近日之所出,遂周観諸国,采其法俗,小大区別,各有名号,可得詳紀。{口+虫}夷狄之邦,而俎豆之象存。中国失礼,求之四夷,犹信。故撰次其国,列其同異,以接前史之所未備。
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これを私流に翻訳すれば┏--------

「漢書には、東に行けば海に至り、西に行けば砂漠につくと書いている。その九服の制は得べきと言えり。しかし、荒域の外であり、何度も通訳を重ねてたどり着くのは、足跡も轍もない、まだ知られていないその国の風俗は異なったものである。眺め渡せば、西戎は白環を献じ、東夷は粛慎を貢ぎ、どちらも稀な事であり、その遠いことも事実である。漢は張騫を西域に遣わし、河の源を究め、諸国を遍歴し、遂には都護を置いて支配した。その後西域の事情は知られるようになり漢書に詳しく記載された。魏が興り、総てを知り尽くした訳ではないが、その大国である、于・、康居、、疏勒、月氏、善、は漢に属していた。朝貢しない年がなかったのも、漢の時代の事である。そして公孫淵から三世代が遼東にあり、天子はそのために滅び、海外の事を任せたので、遂に東夷とは断絶し、諸国と通じることが出来なくなった。景初年間に、軍隊を派遣して、公孫淵を誅し、また軍を潜ませ海に浮かび、楽浪・帯方郡を収め、その後安定したので東夷は屈服した。その後高句麗が背反したのでまた軍を派遣してこれを討ち、はるか遠くまで追及し、烏丸、骨都、沃沮を過ぎ粛慎の庭を踏破し、東に大
海を臨んだ。長老は異面の人ありと言う。最近そこに出かけ、諸国を巡視して、その法と俗、大小の区別、各々の名称を採取し、紀に詳細を記録する事が出来た。夷荻の国ではあるが、俎豆(祭器)の象が残っている。中国は礼を失い、四夷に信を求めるのと同じ。故にその国を撰し、その同異を並べ、前史の不備を補う。
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その後、各国についての記述がある。その書き出しだけを抜き出すと。
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1ー夫余在城之北,去玄菟千里。南与高句,与,西与卑接,北有弱水,
方可二千里。(扶余は長城の北に在り、玄菟郡から千里。高句麗と南、と東、鮮卑と西に接し、北に弱水あり、方は二千里ばかり。
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2ー高句麗在遼東之東千里。南与朝鮮、()貊,東与沃沮,北与夫余接。都于丸
都之下,方可二千里,戸三万。(高句麗は遼東の東千里にあり。南は朝鮮の()貊と、東は沃沮と、北は扶余と接する。都は丸都で、方は二千里ばかり。戸は三万)
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3ー東沃沮在高句麗盖馬大山之東,浜大海而居。其地形北狭,西南長,可千里,北与{把の右が}類、夫余,南与()貊接。(沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り、浜辺に住む。その地形は東北に狭く、西南に長く、千里ほど。北は、夫余と、南は()貊と接する。)
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4ー{把の右が}類在夫余北千余里,浜大海。南与北沃沮接,未知其北所。(は扶余の東北千里ばかりにあり、浜辺にある。南は北沃沮と接し、その北は未知である。)
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5ー()南与辰韓,北与高句麗、沃沮接,東究大海,今朝鮮之東皆其地也。戸二万。(()は南に辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は海である。今朝鮮の東は皆この土地である。戸二万)

6ー韓在帯方之南,西以海限,南与倭接。方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三日弁韓。辰韓者,古之辰国也。馬韓在西。(韓は帯方の南、東西は海であり、南は倭と接する。方は大方四千里。三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に辰弁。辰韓は、古の辰国なり。馬韓は西にある。)
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韓辰在馬韓之東,其耆老伝世,自言古之亡入避秦役国,割其界地与之。(辰韓は馬韓の東、言い伝えによれば、昔の亡国の民が秦の使役を逃れるために韓国へ来たので、馬韓は東の境界の土地を彼らに与えた。)
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やー倭人在帯方東南大海之中,依山国邑。(倭人は帯方の東南の海中にあり、山と島で国と村を作っている。)
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「烏丸鮮卑東夷伝三十」は、このように1~29巻と同じように列伝形式で書かれていますが、大きく違うところは、前巻までが魏の人物について来歴と故事であるのに対し、この巻は、北および東の諸国についての列伝であることです。そして、この巻が書かれた背景には、前文の翻訳文にもあるように、漢書の「西域伝」を意識して書いています。

そして、この巻三十は「烏丸・鮮卑伝」と「東夷伝」とから成っています。文章の配列から見ても、「倭人」を記載した部分はあくまでも「東夷伝」の一部であり、「倭人伝」として独立して書かれたものではありません。この前提で、今後「東夷伝」と『倭人』の項を読み進めようと思います。



1.先ず第一に「東夷伝」に列挙されている「国名」ですが、私が思うに、「高句麗」と「扶余」は当時国としての体裁を形作っていたが、その他はどうも国名と考えるには不自然なようです。先に「韓の項」を翻訳して載せましたが、馬韓には50国あったり、倭人にも多くの国が在ります。松本清張氏は「倭人」は国の概念であり「倭人国」のことだと書いていますが、私は、総て現在で言うところの「民族」的な分類だと考えています。その根拠として、法と風俗と言葉の違いが記載されているからです。


次に、倭と倭人の違いに注目したい。韓の項には「倭」と記載されており、最後には「倭人は」と記載されている。これも今後考えていく必要があります。



3. 三番目には、この各グループ(国。民族?)の住居している位置についての記載に注目しましょう。総ての記載が例えば「東与OO接」と記載されており、これは明らかに陸続きの場合のみである事です。海に接している場合は、例えば「東西大海限」とか「大海」「大海」とか記載されています。従って、「在方之南,西以海限,南与倭接」は明らかに、「南は倭と接している」であり、現在大方の学者が唱えている「南は北九州の倭と接している」ではありません。東夷伝の記載方法であればもし「「南は北九州の倭と接している」であれば当然「南大海限」と記載されていた筈です。このことは前回も書きました。従って、『倭』が朝鮮半島の南側に居た事は紛れもない事実と言えるでしょう。



4.次に距離についてですが、「千里」という距離が頻繁に出てきます。

①夫余去玄菟千里  ②高句在之千里  ③沃沮西南,可千里 ④在夫余北千余里 そして、倭人の項にも千里と言う距離が頻繁に出てきます。この「千里」は実際の距離ではなく「明らかに遠くにある」「非常に長い」の意味だと判ります。今後「倭人の項」を読むに当って注意しなければならない事の一つと言えるでしょう。

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