「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘
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地球史探訪: ビルマ独立の志士と日本人(上)
ビルマ独立を目指す志士たちに、日本は支援を約束した。
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■1.ミャンマーの急速な中国離れ、米国接近
ミャンマーでは昨年3月の軍政終了と民主政府の誕生に伴い、中国離れと米国への接近が顕著になってきている。
9月には北部カチン州で中国と共同建設していた水力発電用大型ダムの開発中止を表明した。ミャンマーの軍事政権時代に中国政府と契約を結んだもので、中国国有企業の投資総額は36億ドル(約2760億円)に上る。中国政府からミャンマー軍政幹部への賄賂が噂されていた。
このダム建設を、テイン・セイン大統領は「自然景観を破壊し、地域住民の暮らしを破壊する」として、軍政府の決定を覆した。[1]
11月30日には、米国のクリントン国務長官がミャンマーを訪れ、両国の急接近を見せつけた。
ミャンマーが米国側につけば、中国はインド洋に覇権を及ぼすための足場を失うことになる。米国の中国封じ込め政策の大きな一歩である。中国のある新聞は社報で「米国は中国のアジアの仲間を一人ずつさらっていこうとする」と口惜しさをにじませた。[2]
クリントン国務長官は、民主化運動の指導者アウンサン・スー・チー女史とも会談した。スー・チー女史は軍政時代に合計15年近くも自宅軟禁生活を続けていたのだが、こうした会談は、「3ヶ月前には考えられなかった」と述べた。
■2.「独立めざし 遠い日本で」
アウンサン・スー・チー女史が民主化運動の指導者となっているのは、本人の一徹ぶりとともに、「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘であることも大きい。(ビルマは1989年に「ミャンマー」に国名変更した)
アウンサンは、英国からの独立を目指していた1947年7月19日、テロリストによって暗殺されたのだが、毎年この「殉難者の日」が近づくと、ビルマ国営放送から次のような歌が流されてきた。[3,p2]
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独立めざし 遠い日本で 祖国の軍をつくるため
命を的に苦難に耐えて はかりごとをめぐらした
勇気あふれるアウンサンよ 英雄たちよ
・・・
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「遠い日本で」とは、アウンサンが英国からの独立のために日本軍から教育と軍事訓練を受けた事を指す。今回は、アウンサンら志士たちが、日本軍の支援を受けて、祖国独立のために戦った過程を辿ってみたい。
■3.日本は希望の象徴だった
ビルマは、1824年以降、イギリスと三度戦い、その都度、領土を侵食され、1886年にはイギリス領インドの一州に併合されて、独立を失った。この年は日本では明治19年、欧米によるアジア侵略はこの頃に至っても着々と進んでいたのである。
その後、20世紀初頭の日露戦争は、有色人種が白色人種を近代戦争で打ち破った最初の戦いとして、ビルマ人に大きな感動を与えた。後に、日本軍とともに英国と戦い、1943年8月にはビルマ国独立を宣言して国家元首についたバーモウは著書『ビルマの夜明け』の中で、こう書いている。
__________
私は今でも日露戦争で日本が勝った時の感動を思い起こすことができる。私は当時、小学校に通う幼い少年に過ぎなかったが、その感動はあまりにも広く行きわたっていたので、幼い者をもとりこにした。
たとえばその頃流行した戦争ごっこで、幼い我々は日本側になろうとして争ったりしたものだ。こんなことは日本が勝つまで想像できぬことだった。
ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジア一国民の偉大さについて聞いたのである。それは我々に新しい誇りを与えてくれた。[4,p269]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
独立を目指すビルマ人にとって、日本は希望の象徴だった。
■4.アウンサンと鈴木敬司大佐
ビルマ人は独立を求めて、何度も立ち上がった。1930年の医師・サヤー・ヤンがリーダーとなった反乱では、山刀や棍棒しか持たない農民たちが、近代的な装備を持った植民地軍に対して、1年以上も戦ったが、結局、死傷者約3千人、逮捕者8300人、サヤー・ヤンを含む78人が処刑、という結果に終わった。
1937年から翌年にかけては、ビルマ各地で労働者のストライキや農民の反乱、都市での暴動が発生した。イギリス植民地政府は強硬に弾圧し、整然とデモ行進する群衆に対しても発砲して、死傷者を出した。
「国の独立は穏やかな請願によって達成されるものではなく、武器をとって行動するしか道はない」と、独立運動の指導者たちは確信し、そのために外国の軍事援助を求めることを決定した。
おりしも、まだ20代半ばの若者だったアウンサンは各地を飛び回って反英演説をしていたために、植民地政府からお尋ね者として全国に指名手配されていたので、国外に脱出させ、支援してくれる国を探させようという事になった。
1940年8月、アウンサンは中国のアモイに渡り、外国との接触を試みたが、うまく行かず、そのうちに資金も底をつき始めた。
そんなアウンサンを見出したのが、陸軍参謀本部所属の鈴木敬司大佐だった。鈴木大佐は読売新聞記者・南益世を装って、ヤンゴンに潜入し、独立運動家たちと接触した。その過程で、リーダーの一人、アウンサンがアモイにいることをつかみ、部下を派遣して東京に迎えたのである。
■5.「南機関」の誕生
当時、日本は中国大陸の奥地に蒋介石政権を追い詰めていたが、米英がビルマから支援物資を送り込んでいたために、屈服させることができなかった。この「ビルマ・ロード」を封鎖するために、ビルマの独立活動家たちと手を組もう、というのが、鈴木大佐の考えだった。
アウンサンは、ビルマが独立すれば、ビルマ・ロードは自然に閉鎖に追い込むことができる、そのためには自分たちの独立闘争を援助してもらいたい、と訴えた。
アウンサンの主張を鈴木大佐は受け入れて、軍部や政界の上層部に説明し、その結果、昭和16(1941)年2月1日、「南機関」が誕生した。「南」は鈴木大佐の変名「南益世」からとり、また「南方」を意味した。
その任務は、ビルマの青年活動家たちに軍事訓練を施し、さらに武器・弾薬を支給して、独立闘争を支援することであった。
■6.日本へ
南機関の発足と同時に、アウンサンは南機関員・杉井満とともに、日本の貨物船に潜り込んで、ビルマに戻った。この時期には、日本との戦争に備えて、イギリス植民地政府の独立活動に対する弾圧・規制はかつてないほど厳しいものになっていた。
姿を消していたアウンサンについても、全国で草の根をかきわけるような捜索が続けられていた。アウンサンは、入れ歯を含んで出っ歯で黒メガネの中国人に扮して、仲間のもとに戻った。そして独立運動の指導者たちに、日本との合意内容を報告し、行動計画を取り決めた。
それは、各団体を大同団結させたうえで、イギリス植民地政府に対し反乱活動を起こせるよう、全国各地にゲリラ・グループを配置すること、そして、その指導者として青年たちを日本に送り込んで、軍事訓練を受けさせることだった。
1941年3月10日、アウンサン自身が率いる第一次グループ5名が、日本に戻る貨物船に乗り込んだ。その後、数次に分かれて、合計27人の青年が日本に向かった。
日本では、東京、京都、大阪など、各地を見学した後、海南島での軍事訓練を前に、箱根でしばし休養をとった。そこで世話をしてくれた女性の一人に、アウンサンは淡い恋心を抱く。杉井氏に手助けしてもらって、こんなラブレターを書いた。
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エイコサマ エ
ワタシハ トオイクニカラ ニッポンエ マイリマシタ アナタネ(原文のまま)コトガ ワスレラレマセン ドウカ オマチクダサイ オモタモンジ
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オモタモンジ(面田紋次)とは、アウンサンの日本名である。しかし、結局、彼はこのラブレターを渡すことはできなかった。20代半ばで、女性とのつきあいには不慣れだったし、何よりも心中には片時も忘れられない祖国独立への思いを抱いていたのである。
■7.「根性、勇気、それになによりも忍耐心」
その後、27名の青年たちは、海南島にわたり、軍事訓練を受けた。ビルマ人にとって、銃などの近代兵器を手にするのは初めてだった。イギリス植民地政府はビルマ人の独立運動を警戒して、植民地軍のほとんどは、少数民族のみを採用していたからである。民族間の対立を巧みに利用して、植民地を支配するのが、英国流のやり方であった。
軍事訓練の最初に、教官の中尉が、和英辞書を引きながら、英語でつっかえつっかえ訓示を行った。しかし、教官の言いたいことは、志士たちにはよく伝わった。
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諸君が長旅をものともせずこの訓練所にやって来たのは、祖国独立のたたかいに加わるためである、みずからをなげうって祖国のために捧げようとする諸君の精神を、私は心から賞賛する。[3,p68]
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教官は続けて、独立の戦いに役立つのは、精神力、勇気、それに軍事的な技術と知識だとして、気力、勇気をも増進させることができるよう指導していく、と述べた。これを聞いた志士の一人は、こう思った。
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教官は体格がよく、押し出しも堂々としていたし、声はよく通り、しかも私たちの愛国心をかきたてるような訓示であった。私たち一同は、心に火をつけられたかのように体中鳥肌が立つほどの興奮を覚えた。そして、独立闘争のために命を捧げる決意を新たにしたのであった。[3,p69]
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しかし、訓練の最初は、演習場の石ころやゴミ拾いばかりをさせられた。ようやく近代兵器を手に取れると思っていた志士たちはがっくりした。その様子を見たアウンサンは、兵舎の外に皆を呼び集めて、こう話しかけた。
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われわれの支配者イギリス人たちは、自分たちの帝国は日が沈むことはないと豪語しているんだ。その大帝国を倒すのがわれわれの仕事だ。根性、勇気、それになによりも忍耐心がなければできないことじゃないか。
今日の訓練は、われわれの根性と忍耐心を試したんだ。われわれビルマ人は、もともと根性のある民族じゃないか。こうして外国に来てもビルマ人のすばらしさを見せてやろうじゃないか。これぐらいのことでくじけるなよ。[1,p72]
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「そうだ、自分たちは根性を見せなければならないのだ」、そんな思いが志士たちの顔つきを変えた。
■8.ビルマ独立義勇軍の誕生
1946年12月27日、軍事教練を終えたアウンサンらは、バンコクのビルマ人歯科医の家に集まった。タイ在住のビルマ人が200人ほども集まって、アウンサン一行を待ち構えた。すでに12月8日の日本軍の真珠湾攻撃によって、大東亜戦争が始まっていた。
アウンサンは立ち上がって、聴衆に語りかけた。今までの反英独立闘争が失敗したのは近代的な軍事技術や武器がなかったこと、それを日本政府の援助で、手中にしたことを述べた。
「さあ、みなさん。祖国独立のために命を捧げる、この崇高なたたかいに加わろうではありませんか」とアウンサンが呼びかけると、「たたかうぞ!」「軍隊に入るぞ!」といった叫び声が会場を埋め尽くした。
100人以上の人々が、ビルマ独立義勇軍の志願者名簿に名前を連ねた。それ以外の人々も、志願者募集、財務、留守家族保護などの仕事を手伝うことを約束した。その後、アウンサンは、厳かに宣言した。
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今日ただいまより、われわれは身命をなげうって、おそれずまた退かず、祖国独立のたたかいに加わることを誓う。
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全員が、アウンサンの誓いの言葉を唱和した。こうしてビルマ独立義勇軍が誕生した。
(続く、文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(193) インドネシアの夜明け
インドネシア独立を担った人々が語る日本人との心の交流。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog193.html
b. JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)~ シンガポールへ
誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog508.html
c.JOG(509) インド独立に賭けた男たち(下)~ デリーへ
チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog509.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 産経新聞、H23.10.04、「中国式投資 途上国「NO」 ミャンマー、ダム開発中止を表明」
2. 産経新聞、H23.11.30、「米国務長官、ミャンマー訪問 中国『アジアの仲間をさらっていく』」
3. ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』★★、中公新書、H2
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121009800/japanontheg01-22/
4. ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』★★★、展転社、S63
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886560458/japanontheg01-22/
■編集長・伊勢雅臣より
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成23(2011)年10月4日(火曜日)
通巻第3439号 <10月3日発行>
(読者の声2)貴誌投書欄にでた、以下のご意見に感想です。
「(引用開始)日本軍の進駐については、ヨーロッパの支配から解放を得るため軍事援助という形でミャンマー人たちが呼んできたことをポイントに教えている、という教師。南機関の鈴木大佐は英雄扱い、日本で訓練を受けた30人の青年たちも独立の志士として写真入りで教えられる。ミャンマー教育省の副局長、「日本の戦争目的がアジア解放だったことは明らかで、今や世界の常識であり、学校でもそう教えています」と語る。日本の軍事訓練を受け戦ったミャンマー人、「歴史は本当のことを教えるべきで、真実は独立のため日本と組んで英国と戦い、その後、英国と同じように支配しようとした日本を本当の独立のために追い出す戦争をしたことだ」と客観的に見ている。最後にヤンゴンの街並みを映しながら、「ミャンマー人の一番あこがれの国はイギリス、それは街を整備し、国の基礎を作ったから」とナレーション。台湾の親日と通じるものがありますが、中国人・インド人を支配の道具に使うのがイギリスのしたたかさ」
(引用止め)
感想です。
日本がビルマを英国のように支配しようとした、というのは、正しくありません。
第一の目的は、日本のアジアの解放戦争は、日本、アジア共同の敵である白人勢力の駆逐でした。
当時、日本は世界最後の有色人種の独立国でした。
タイは列強の緩衝地帯で独立を許されていました。
第二に日本の占領政策の違い:白人宗主国が厳禁して来たことを実施しました。
(1)指導者の育成、
(2)軍隊の設置、
(3)民族主義の振興、
(4)行政官の養成。
第三にビルマ事情ですが、日本がインパール作戦で敗退すると、英国がビルマ側に工作し、日本を追い出したら、独立させると提案しました。
そこで日本の敗北を必至と見たビルマ人の一部はその手に乗りました。
このため一部のビルマ人が英米側に寝返ったのです。
アジア解放から見ると裏切りでした。
ビルマ人も後ろ暗いところがあることを知っています。
第四に第三次世界大戦にかんしてですが、第二次大戦が終わると、白人宗主国はアジアに舞い戻り戦前の植民地の復活を始めました。
米英の植民地独立を約束した大西洋憲章は嘘でした。
そこで各地で日本軍に育成された独立勢力が立ち上がり、激戦の結果独立を勝ち取ったのです。
この民族独立線を、インドネシアのスカルノは「第三次世界大戦」と呼んでいます。
インドネシアの戦死者は80万人と言います。
ものすごい犠牲者です。
この中には千人以上の日本軍人がおり、インドネシア国軍墓地に英霊として眠っています。戦後の日本ではこの部分の歴史が隠蔽されています。
ですから日本はアジアに迷惑などかけていません。
日本政府のおわびは白人植民地宗主国に対する迎合であり、日本人英霊とアジア各国に対する侮辱です。
(東海子)
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