「聖戦の前途を汚す悪鬼である」とて、最も厳重な処分を要求して譲らなかった。
2006年05月21日
日本軍の強姦、韓国軍のレイプ、支那軍の洗城
所長は戦史家のはしくれであるのに最近まで日本軍に関し誤解していた。
朝日と毎日が我が大日本帝国陸海軍に侮辱の限りを尽くしていることに憤りを覚えている方は、一日一押人気ブログランキングをクリック願います。
藤本治毅(元陸軍憲兵大佐)著石原莞爾の101~102頁に満州事変時の強姦事件について次のように記述されている。
昭和七年九月十五日、日本は満州国の独立を正式に承認し「日満議定書」の調印をも了した。事変当初、軍司令官以下が奉天に乗り込んできたときである。奉天駐屯の歩兵第二十九連隊の一上等兵が、中国婦人を姦した一件が軍司令部に聞こえてきた。
連隊幹部はもとより、軍司令部内においてさえも、兵馬倥偬の間の出来事であるから、大目に見ようという意見があった。だが烈火の怒りを示したのは莞爾で、
「聖戦の前途を汚す悪鬼である」
とて、最も厳重な処分を要求して譲らなかった。平田連隊長もその正論に屈し、これを最大限の降等処分に付した。ために全軍将兵粛として声をのんだのである。
ところがこのことがはしなくも敵側に伝わり、後日馬占山がチチハルを捨てて退却するに際しては、
「日本軍がきたら、城門を開いておけ、そして各自平常の業務に服しておってよろしい。張海鵬の軍(関東軍の友軍)が来たら、城門を固く閉ざして各々自衛の処置をとり、強姦、略奪に対処せよ」
と、住民に布告して立ち去ったという。
満州事変のとき日本軍将兵が犯した強姦件数は一件だったという話は、我が国の敗戦を契機に軽度の反日的日本人に転向した石射猪太郎の「外交官の一生」にも出てくるので、おそらく強姦事件は殆どなかったのだろう。
ここで我々戦後世代が留意しなければいけないことは、日本軍の強姦の定義である。山本七平氏の「私の中の日本軍」88ページによれば、日本軍には和姦という概念が存在せず、住民と情を通じて問題になれば、すべて強姦事件であって、軍の慰安所以外の性行為はすべて違法であったという。
大日本帝国陸軍第十軍法務部長を務めた小川関治郎は東京裁判に次のような宣誓供述書を提出した。
第十軍は杭州湾上陸直後、中支那方面軍の指揮下に入った。松井司令官は、軍紀風紀の厳守は勿論出るが、支那良民の保護と外国権益の擁護のため、厳格に法を適用せよ、と達せられた。
自分は南京に着くまでの間に、約二十件くらいの軍紀犯および風紀犯を処罰した。風紀犯の処罰について困難を感じたのは和姦であるか、強姦であるか、が不分明なことであった。
その理由は、支那婦人のある者は、日本兵に対して自ら進んで挑発的態度をとることが珍しくなく、和合した結果を良人または他人に発見されると、婦人の態度は一変して大袈裟に強姦を主張したからである。
しかし、自分は強姦和姦を問わず、起訴された者は事実の軽減により、法に照らして処罰した。 いやしくも脅迫の手段を用いた者は厳罰に処した(「南京大虐殺」はこうして作られた―東京裁判の欺瞞217ページ)。
つまり信用できる日本側の戦史資料の中で日本の軍人が語る日本軍将兵の犯した「強姦事件」には、将兵が戦地や占領地の女性と恋に落ち情を通じて性交に及んで問題になった場合を含むのである。
前述の「石原莞爾」の巻末に収録されている辰巳栄一の回想録によると、ロンドンを訪れた石原が各国の武官に対して満州の復興状況を説明し、「近頃満州の娘さん達が日本軍の若い兵士にラブするものが多くて、部隊長は閉口している」と結び、会場の人々を大いに笑わせたそうだが、部隊長は軍紀上ほんとうに困っていたのだろう。
所長が思うに、日本軍の強姦の定義は広く厳しいが、これは、加害者である将兵には「合意があった」という言い逃れを許さず、被害者である女性には「合意はなかった」ことを証明する義務を課さず、合意の有無を調査する煩雑な手間を省いて軍法会議を迅速に進め軍紀を維持するためには、まことに適切であった。
もしサンフランシスコ講和条約の発効と同時に、政府と議会がGHQの占領基本法の一つである占領憲法を廃棄し、徴兵制度を復活させていれば、大東亜戦争に参戦して生き抜いた軍人から戦後世代の多くの一般国民へ、軍隊や戦争の本当の話が伝わり、朝日新聞や日教組は、容易には反日デマを国民に信じ込ませることはできなかったろうに…。
戦前世代が消えていく今後、我々歴史学徒が相当がんばらないと、戦後世代は1945年9月2日以前の日本を理解できなくなり、朝日ら左翼勢力は国民の無知に付け込み、彼らの赤い邪悪な政治目的のために、現在よりも大々的に大東亜戦争史を悪用してくるかもしれない…。
盧溝橋事件から敗戦に至るまで支那戦線で日本軍将兵が犯した強姦事件の総数を調査する能力と意思は、所長にはない。
ただ中華民国の軍事代表として満州をソ連から接収するために苦労した董彦平中将が、ソ連軍の掠奪暴行を目の当たりにして大いに憤激し、回顧録「ソ連軍の満州進駐」に、
「いやしくも社会主義を標榜するほどの国家が帝国主義に圧迫され続けて今ようやく解放の日を迎えたばかりの同盟国の人民に対し、残酷かつ非人道的な凌辱、掠奪をやってのける軍隊の行動を容認するということが凡そ想像されることだろうか。
日本帝国主義は東北同胞を奴隷のごとくコキ使ったが、彼等の軍隊(註、日本軍)は掠奪をしたり、婦女を強姦したりするような事例は、そうざらにはなかった」
と書き記している。
これは南京大虐殺が虚構である証拠の一つであろう。
1931年から1945年まで数百万の日本軍が外地に展開したにもかかわらず、ベトナム戦争に参戦した韓国軍とは違い、強姦混血児という国際問題を戦後に残さなかったのだから、おそらく日本軍将兵が犯した純然たる狭義の強姦事件は、極めて少なかったのだろう。
韓国はベトナム戦争に参戦した際、韓国軍兵士による現地ベトナム人女性への買春やレイプなどの暴力行為を適正に統制しなかったために、多くの混血児が生まれた。その人数は現在1万人以上存在しているという。
現時点では、韓国政府から被害者や混血児に対する謝罪や補償は、行われていない。そしてネット界の韓国ウオッチャーは知っているように、現在の韓国も世界的に悪名高い強姦大国である。
日本のマスゴミが韓国に肩入れするのは厚顔無恥な同類を憐れんでいるのか。
かつて支那人は洗城(城内レイプ略奪し放題)、屠城(城内みな殺し)という風習を持っていた。そして現在の共産中国も、チベット族やウイグル族を大虐殺している人道に対する犯罪大国である。
韓国人と中国人が語る日本軍の残虐行為とは彼ら自身の素性と歴史を語っていると、我々は考えるべきである。
日本は中韓とは相容れない異文異種である。
我々はこのことを肝に銘じ、日本の女性を守るために、何としても東アジア共同体なる愚劣な構想を潰し、新脱亜論を実現しなければなるまい。
今上陛下が皇太子として昭和五十年二月にネパール国王の戴冠式に参列された際、イギリス首席随員のマウント・バッテン元帥から、
「過ぐる戦争中、私が東南亜連合軍総司令官として、インド・ビルマ戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう」
と日本軍将兵を激賞する丁重な賛辞を捧呈された(世界から見た大東亜戦争)。
インパール作戦が終末を迎えんとしていた昭和十九年五月十一日、支那の雲南方面から、蒋介石の信任厚い衛立煌大将率いる中華民国軍の雲南遠征軍十九万六千人が怒江を渡り、文字通り雲霞のごとくビルマ東部国境付近に押し寄せ、六月二日に四万八千人の中国軍が拉孟城を包囲し、六月二十六日に四万九千人の中国軍が騰越城を重囲下に置いた。
これに対して雲南遠征軍を迎撃する我が軍は第五十六師団の一個師団約一万一千人のみ、拉孟守備隊は千二百八十人、騰越守備隊は二千二十五名に過ぎなかった。
だが両守備隊は、米軍式装備と巨大な物量を誇る中国軍に対して鬼神のごとく奮戦し、拉孟守備隊は九月七日まで、騰越守備隊は九月十四日まで、一歩も引かずに陣地を死守し敵軍のビルマ侵入を阻止した末に壮絶な玉砕を遂げた。
この間にビルマ東部の要衝ナンカンの築城を終えた我が第二師団が密かに東進し第五十六師団と合流、九月三日、約三十万人に膨れ上がった雲南遠征軍に対し総反撃の火蓋を切り、拉孟騰越の両城を救い出せなかったとはいえ、雲南遠征軍に戦死傷者約六万三千人の大損害を与え、中国軍のビルマ侵攻作戦を頓挫させたのである。
この「断作戦」における我が軍の損害は戦死傷者七千三百人、我が第二、五十六師団は十五倍の敵に挑み、我が軍の九倍の損害を敵に与えたのである。
蒋介石は日本軍の恐るべき戦闘力に驚嘆し、全軍に以下の特別布告を発し(菊と龍―祖国への栄光の戦い)、拉孟騰越を死守した日本軍人精神に「東洋民族の誇り」という最大級の賛辞を送ったのである。
「全軍将兵に与う。戦局の動向はわれに有利に展開しつつあり。勝利の栄光は前途に輝いているものの、その道に到達するまではまだなお遠しといえる。
各方面の戦績を見るに、予の期待にそむくもの多し。諸兵、ビルマの日本軍を範とせよ。拉孟において、騰越において、またミートキーナにおいて、日本軍が発揮した勇戦健闘ぶりを見よ。それに比し、わが軍の戦績の、いかに見劣りすることか。予は遺憾にたえざるものなり。
将兵一同、一層士気を昂揚し、訓練に励み、戦法を考案し、困難辛苦に耐え、強敵打倒の大目的を達成せんことを望むものである」
また東京裁判却下未提出弁護側資料集に収められた中国側の資料によれば、支那戦線の日本軍各部隊は作戦終了後には、必ず付近の敵味方の戦死体を回収し、中国軍に攻撃される危険を冒してまで両軍戦死者の丁重なる慰霊祭を行った上で根拠地に引き揚げており、これを知った蒋介石は、この高潔なる武士道精神こそ寡(少数)をもって中国軍の大軍を撃破する日本軍の戦闘力の根源なり、と賞賛し、味方の戦死者に対する慰霊祭すらも行わない中国軍将官を「汝らは日本軍を見て慙愧の念に耐えずや」と叱責したのである。
蒋介石にとって日本軍は中華民国軍の模範であった。だからこそ蒋介石は台湾に落ち延びた後、彼の敵であり又友でもあった元支那派遣軍総司令官の岡村寧次元大将に救援を求め、大将から派遣されてきた元日本軍将校から成る軍事顧問団「白団」の指導を受け、米軍式教育を改めて日本軍式教育をもって中華民国軍を再建したのである。
中国共産党および朝日と毎日が宣伝する日本軍の蛮行が事実なら、蒋介石がかつての敵であった日本軍将校の指導を仰ぐものか!
http://oncon.seesaa.net/article/18155695.html