物質的にも精神的にも満たされている人でも、いやもしかすると、だからこそテロに走る | 日本のお姉さん

物質的にも精神的にも満たされている人でも、いやもしかすると、だからこそテロに走る

 今回のテーマは「オウムと私」です。
 1995年のスタートは、私にとっては1月17日でした。その年のその日までの事なんか、なんの記憶もありません。この日に起きた阪神大震災を境に、関西民放各局は長い特番体制に入ることになります。CMなしで、来る日も来る日も生放送の特別番組です。
 その後、今年の東日本大震災も同様ですが、まずCM枠が、やがてCMそのものが復活し始め、プライムタイムと呼ばれる夜の時間帯から通常番組がぼちぼち始まり出したタイミングで起きたのが、3月20日の地下鉄サリン事件だったんです。私が大阪読売テレビではなく、日本テレビの番組をレギュラーで担当することになったのは、この事件が契機でした。当時毎月一回のペースで日本テレビ報道局が制作していた「報道特捜プロジェクト」の司会をすることになったんですね。
 で、私が司会を担当した初回の放送中、ジャイアント馬場ですら身分証明書を持っていないからという理由で社への立ち入りを阻止した麹町日本テレビの警備線を強引に突破して、あの「ああ言えば上祐」がスタジオに殴りこんできたんです。3月20日に地下鉄サリン事件が起こって、2日後にオウムの各施設が強制捜査を受けたものの、オウム犯行説に上祐らが徹底的に反論していた時期に、番組は「オウム犯行説」を断定的に放送していたんです。逆に言うと、あの頃オウム犯行説を否定する文化人や学者、あるいはテレビ番組などもまだたくさん存在した時期でした。
 生放送中のスタジオ内に、誰かが発した「上祐が来た!」という怒鳴り声が響き渡った瞬間、スタジオにいた出演者全員が椅子から立ち上がりました。瞬時に何人かは、スタジオ入り口とは反対側にある、一階上のサブコントロールルームに通じる階段を駆け上がって逃げて行きました。その時その場にいた全員が戦慄したのは、「サリンを撒かれる」という恐怖だったんです。私も正直逃げ出したかったんですが、何せ、生の全国放送の司会ですから、そういう訳にもいかず番組を続行するしかありません。
 今となっては、「そのまま生で上祐を出したら面白かったじゃん」て自分でも思いますが、当時はとてもそんなことを考える余裕はありません。結局、上祐一団をスタジオ入り口で阻止して、そのまま報道局の応接に運び、そこでオウムの主張をインタビュー取材してお引き取りいただいたんですが、今でもあのシーンを思い出すと慄然とします。
 その後私は、大勢のマスコミが生中継のカメラを建物の外に集結させていた、オウム真理教南青山総本部に入って、刺殺直前の村井と上祐に長時間話を聞くことになります。また、麻原彰晃も逮捕されて、一連の事件の全容がほぼ明らかになった後で、それでもマインドコントロールの解けない信者と一晩中語り合うなんて取材もしましたし、国松孝次警察庁長官銃撃事件の犯人だと自ら名乗り出た(後に逮捕されるが、不起訴)警察官にも直接話を聞く機会もありました。私が日本テレビの報道特捜プロジェクトにかかわったのは、アメリカに行く1997年までの2年間でしたが、ほぼこの2年の間、番組はオウム関連のニュース一色だったんです。
 そんなわけで、オウム関連の主要人物には大方直接会って話を聞いていますし、事件についても、少なくとも大阪に拠点を置いていたマスコミ人の中では私が一番詳しいだろうと自負しています。
 でもね、分からないんです。何が彼らを、こんな犯罪に走らせたのか。ほら、9.11のテロの後で、「テロの背景にあるのは、国際的な格差だ。イスラムの貧困をなくさない限りテロは無くならない」なんてことがまことしやかに言われた時期がありました。しかし、オウムのテロリストたちの多くは、貧困や格差なんて言葉からいちばん遠い人たちだったんです。テロの原因になるのは、決して貧困や格差じゃないんですね。
 また、「物質的な貧困ではなく、精神の貧困こそがテロの原因だ」なんてことを言う人もいますが、オウムの信者や、イスラム原理主義の人なんて、おそらく精神的には最も「充実」している人たちでしょう。物質的にも精神的にも満たされている人でも、いやもしかすると、だからこそテロに走る、この現実をとにかく我々は見据えなくちゃあいけないと思います。
 それにしても思い出すのは、外見は綺麗だった南青山総本部の内部が猛烈に臭かったことです。あいつら風呂に入ってなかったんですね……なんて話はまたそのうちに。
辛坊 治郎
読売テレビアナウンサー、理事・報道局解説委員長を経てフリージャーナリストに。大阪綜合研究所代表も務める。
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