高杉晋作の上海見聞 | 日本のお姉さん

高杉晋作の上海見聞

高杉晋作の上海見聞
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平井 修一

日本を近代化へ向けてリセットした明治維新(1868年)。

スタートを切ったものの当時は弱肉強食の帝国主義の時代だから、大東亜戦争の敗戦(1945年)までの77年間は戦争に継ぐ戦争、試練の連続という激動期だった。

敗戦で我が国は再びリセットされ、復興と経済大国への道を歩むが、2011年3.11大震災までの66年間も我が父母を含めてがむしゃらに突っ走ってきたから激動期と言えば激動期である。ここ15年ほどは低成長経済だが、基本的に国民は鉄砲の代わりにソロバンやスコップを持ってモーレツに働いたのだった。

3.11大震災は、国民が一番大事にすべきは「生命・財産」だということを思い知らせたのではないか。


生命・財産があってこそ生活があり、「生活第一」というのは虚言・妄言である。

「安心・安全」は努力しなければ得られない。


中朝露という敵性国家に囲まれた日本は自らの「安心・安全」、外交・安保を米国に頼っているから従属国のようである。

独立国、主権国家と自信と誇りをもって言えるのか。

そんなみっともないことを60年も続けてきたことに対して3.11大震災は警鐘を鳴らしたのではないか。

幕末の長州藩は幕府への恭順派と倒幕派でふらふらしていたが、高杉晋作らの武装反乱(馬関挙兵)で倒幕方針が確定した。

「倒幕により国家を改造しなければならぬ」と高杉が腹をくくった背景には支那視察が大きく影響したことはよく知られている。

「県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要第3号」に横山宏章氏が「文久二年幕府派遣『千歳丸』随員の中国観」という興味深い論文を載せている。

それによればこれは幕府の公式視察で、日本人が中国を正式に見聞するのは2世紀ぶりであった。

派遣された日本人は役人、従者、医師、唐通事、阿蘭通詞、長崎商人、炊夫、水手など51名。使節団は約2カ月間、上海に逗留した。

派遣された人々のなかで見聞録を残しているのは高杉晋作(長州藩)の「遊清五録」の他、現在確認できるものとしては7人である(注)。

「遊清五録」は「航海日録」「上海掩留日録」「続航海日録」「長崎澄留雑録」「内情探索録」「外情探索録」等からなる。他に著名人としては、実業家として活躍した薩摩藩の五代友厚(才介)が水夫として参加しているが、記録は残していないようである。

高杉の記述はほとんど漢文だが、小生の拙訳を以下記す。

「五月六日(旧暦)、早朝に蒸気船が来て本船を曳航し、川を上る。

両岸の民家は我が国の景色と変わりはないが、右岸には米国の商館が見える・・・午前にようやく上海港に着いた。

支那第一の港で、ヨーロッパ諸国の商船、軍艦が数千艘も停泊しており、マストはまるで森林のようにそびえている。

陸には各国の商館が並び、
まるで城郭のようで、その広大さは筆舌に尽くしがたいほどだ。

夜になると両岸の灯りが川面に映り、昼のようである」

「上海を散策するに、地元民や町並みは我が国と大同小異だが、糞尿で恐ろしいほどの臭気である。

上海はかつては英国に奪われた地で、港は賑わってはいても外国商船が多いためで、町も外国商館が多いために繁栄している。

支那人の暮らしているところを見ると多くが貧者で、不潔で歩くにも難儀する。

船に住む者もいる。

富める者は外国商館に雇われているものだ」

<糞尿以上に多くの日本人を困らせた問題は飲用水であった。

困らせたどころか、命を落とす大問題であった。

上海の水は最悪であった。

それを飲まざるを得なく、下痢やコレラにかかり、合計3人が帰らぬ人となった。

上海には上水道が無く、井戸も少なく、ほとんどが汚濁された黄浦江の濁水を使用するからである>(横山氏)

「川は濁っており、英国人が言うには、数千の停泊船も支那人もこの濁水を飲んでおり、病気は免れない」

「支那人は外国人からの仕事に頼っており、英国人やフランス人が歩いてくると支那人は道を譲るのだ。

上海は支那の領土なのに英仏の属地のよう。

支那のこの状況は他人事ではない。

日本人も心すべきである」

<1862年の中国は天下大動乱のまっただ中であった。

すなわち太平天国の革命運動が清朝の天下を根本から揺るがしていた。

太平天国側は1862年1月から6月にかけて第2次上海進攻を試みた。

この危機にあって清朝はみずから上海を防衛する力を喪失し、上海の防衛を新しい支配者であるイギリスやフランスの軍隊に任せた。

それは上海の軍事的防衛を外国軍に任せるという、いわば国家主権を喪失した異
常事態を意味していた
>(横山氏)

「孔子廟は太平天国の乱以来、英国軍の陣営となり、(日本では儒学を講ずる聖堂であるのに)廟堂の中では銃を枕に兵卒が寝ている。

慨嘆するほかない」

「支那が衰微したのは外国からの圧迫を防ぐ道を知らず、万里の波頭に耐える軍艦や敵を数十里の外で食い止める大砲なども造らず、支那の志士が訳した海国図誌なども絶版し、いたずらに固陋、因循にむなしく歳月を送ったからである。

平和ボケを改めて軍艦、大砲を製造し、敵を敵地に防ぐという大策がないから衰微に至った。

わが日本もこの轍を踏む兆しがあるから、速やかに蒸気船などを造って海防策を講ずるべきである

<黒船来航から始まった日本の危機意識が強い高杉晋作等は、まさに開国日本の行く末を見極めるため、先に開国された中国の視察を買って出たのである。

そこで目のあたりにした現状は、西欧列強の闊歩であり、清朝の衰退であり、植民地化されていく危機であった。


まさしくそれは日本にとっても反面教師となるものであった。


日本が尊皇攘夷から開国倒幕へ転換するなかで、上海訪間は一定の意義をもたらした>(横山氏)

中露、北朝鮮は虎視眈々と日本を狙っている。

侵されたくないのなら国防意識を高め軍備を充実させ、米印豪、アジア諸国との同盟を強化しなければならない。

3.11の教訓は「万全の上にも万全の備えを」ではないのか。

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注:中牟田倉之助(佐賀藩)「中牟田倉之助伝」、納富介次郎 (佐賀藩)「上海雑記」、日比野輝寛(高須藩)「贅就録」「没鼻筆語」、峰潔(源蔵)(大村藩)「船中日録」「清国上海見聞録」、名倉予何人(浜松藩)「海外日録」「支那見聞録」、松田屋伴吉(長崎商人) 「唐国渡海日記」「唐国渡海日録」、岩瀬弥四郎(阿蘭小通詞並)「文久酉戊上海記録」