つづき
――「やめないでください」というメールに紳助さんはなんて答えたのですか。
島田: 「やめないで下さい」と電話で言ってくれましたけども、「最後は自分のわがままを通させてほしい」と、僕は僕らしく。いかんことして辞めるから、めっちゃめちゃかっこ悪い話ですわ。めちゃめちゃ無様な芸能界の終わり方ですわ。最低の終わり方です。でもその中で、「ほんの少しだけ自分の美学を通させて下さい」とお願いしました。
――紳助さん、日曜日の会社と話し合いで、(今回の話を)頂いてから即答で引退という決断になったのでしょうか。少し考える時間があったのでしょうか。
島田: いや、日曜日にお話したのですけど、すぐには受けてはいただけなかったんですけど、「気持ちはわかりました」と、「預からせてもらいます」と言われたんですけども、私は今日まで全く気持ちは揺れることなく、逆に言ったら「引退したほうがいいよね」と誰も言ってくれず、いろんな人が聞いて、そうやって思いと留まらそうと思って、非常に真剣に怒ってくれた人もいましたし。「本当にそれだけはやめろ」と、この人、こんなに熱く言ってくれるんだと、そういうのに今ちょっと感動して、思い出して涙を流してしまったから。別にこれは引退に対して自分がブレたり、後悔して泣いているんじゃなくて、その優しさを思い出して涙を流しているだけで、僕の気持ちのなかで3日間まったくブレませんでした。
逆に言ったら「引退したほうがよいよね」とは誰も言ってくれず、皆が、いろんな人が聞いて、そうやってバランスを取ろうと思って。やっぱり真剣に怒ってくれる人もいましたし。「本当にそれだけはやめろ」と。この人はこんなに熱く言ってくれるなと感動して涙を流してしまったから、別にこれ(涙)は引退に対してブレたり後悔して泣いているのではなくて、その優しさを思い出して涙を流しているだけで。僕の気持ちのなかで3日間まったくブレませんでした。
――日曜の夜から月曜日、そして今にいたるまでですけども、奥様、ご家族、身近な方はなんておっしゃってましたか?
島田: 嫁は「自分のやりたいようにやったらいいよ」「自分の思うように生きてください」と。長女は「本当に後悔しないのか。でもあなたは強運の持ち主やから、またなにかを考えるよね」と、そういう風に言ってくれました。
■上岡龍太郎さんと「同い年で引退というのに運命を感じます」
――長い芸能生活を振り返っていま、紳助さんにとっての芸能界、芸能生活はどういうものだったのでしょうか。
島田: やっぱり素晴らしい人にいっぱい巡りあえたし、素晴らしい人ばっかりでした。そして自分が、勝手にですけども「心の師」と仰いでいる上岡龍太郎さんが引退されたのが55歳なんですよね。だから今自分が55歳で、「絶対、君は引退したらあかんぞ」「どんなことがあっても引退したらあかんぞ」と上岡さんに何年も前から言われてたんですけども、なんかこういう結果になって、同い年で引退というのになんか運命を感じます。そして、僕がこの地位に上がれるまで力を貸してくださった和田アキ子さんにも、メールでなく電話で報告しようと思ったんですけども、電話にお出にならなかったので報告はできませんでした。
――今まで芸能界で長い活動があっていろいろ思い出があると思うんですけども、今一番思い出されるもの、思い出されるシーンなどはございますでしょうか。
島田: やっぱり6年くらい前にトラブルを起こして、自分でもうダメだろうなと思ったときに、皆に暖かく迎え入れていただいて、そして、もういっぺんなくなった命だから、やりたいことをやろうとやらせていただいたときに「ヘキサゴン」という番組があたって、子供たちのような人たちがたくさんスターになっていってくれて。それがうれしいです。昨日も上地雄輔がうちに来て泣いてたんですよ。「父ちゃん、父ちゃん」って言いながらね。みんな僕の子供たちですから。「父ちゃんが引退しても、子供たちの成長はこれからも見守るから」と。そんな話でした。
――みなさん涙なみだの時間だったわけですか。
島田: そうですね。でも奴らはしっかりしてますよね。上地は昔から言うとるんですけども「一生お父ちゃんを守るからね」と。
――この長い芸能生活のなかで、本当にこの世界で一番良かったと思われることはなんでしょうか。
島田: やっぱりいろんな方とお会いできたことが、自分のなかで一番の財産ですね。普通の人やったら会えなかった人とたくさん会えましたし。本当に。例えば孫(正義)さんと食事をさせてもらったときなんかは、本当に歴史上の偉人と食事をしているような時間でしたし。帰って感動しましたし。なんかいろんなことを教えられましたわ。自分が成長できました。孫さんと食事して、2時間の予定が4時間になって。わかってるかわかってへんかわからん僕に、一生懸命しゃべってくれてるときは、本当に幕末の偉人としゃべっているようでした。
そして次の日、お礼のメールを送ろうと思いましたが、僕の携帯はドコモだったんで「これはいかんな」と思ってソフトバンク(の端末を)買いに行って、「ありがとうございました」と1回だけ打って、また契約解除してドコモの新しいのにしました。そんなときに「ソフトバンクから送らなあかんな」と思わせることも、孫さんでしたし、そんな偉い方とたくさんお会いできたのが僕にとって一番の財産だと思います。
そんな方々には本当に感謝していますし、そして僕みたいにわがままなので本当に少ししかいないんですけども、そんな方々から手紙とかをいただいて、「人生が変わった」とかいろんな熱い手紙をいただいたことが僕にとって、「人の役に立てることもあるんだ」と思いまして。人気者でもなんでもない僕に対してそういう手紙をいただいたりすることが、「やっててよかったなぁ」とほんまに思いました。
先日、なんのギャグもない偉そうな『紳助の100の教え』みたいな本を出させていただいて。あの本が僕の芸能生活のなかで一番売れた本になったときに僕は一番嬉しかったです。お笑いだけやなくて、こんなことも求めてくれる方がいるんだなぁと思いまして。本当に申しわけなかったです。だから『100の教え』を買ってくれた30万人の方に心から感謝をするのと同時に、今日は101個目(の教え)ですわ。アホなことのようですけども、毅然とした態度で、自分で一番重い処分を与えなさい。
――10数年前にトラブルの解決を暴力団の方に頼んだことが、今回のきっかけになったかと思うのですけども、暴力団の方にAさんを介して頼んだことについて、いま後悔はしてないのでしょうか。
島田: 僕がAさんに暴力団の方を頼んだのではなくて、Aさんが話を聞いて電話してこられるわけですよ。「どうしたんだ」とおっしゃった。そのときAさんはまったくの堅気の方ですから、「こういう問題なんだ」と。心配して電話してきた方には、その方だけじゃなく何人かにしゃべりました。そしたら「そうなんや」と言って、僕が知らないあいだにAさんがその方にお願いして解決してくださったんです。
――ただBさんという暴力団の方に「こういうかたちで解決してもらったんだよ」と聞いて、ご自身はどう思われたのでしょうか。
島田: はい。僕はそれを聞いて本当に(芸能界を)やめるつもりでおりましたから、解決できるということに一番ホッとしました。ただBさんに解決してもらって、「これはあんまりよくないことが起こったな」というのは認識がありました。だから「どうしよう」と。この世界の方とその世界の方が接してはいけないと思いました。
で、僕は(Bさんに)会いに行きました。そしてそのことを伝えました。「僕たちの世界の人間は、そういう方に接することはできない」と伝えました。するとその方は「会う必要もないし、TVでがんばればいいんだ」と。「それが一番の恩返しとちがうか」と。僕は「接触することは良くないから」と教わりましたし、「君が僕に恩を一切感じる、そういう必要もない」と。「僕はAに頼まれて、これは不条理だなと思って解決しただけだから、君は何も思う必要はない」とおっしゃられて。
それでも僕はなんか違和感があったので、はっきり言うて「お金かなんか渡さなあかんのかな」と正直思いました。(すると)「馬鹿なことを言うな」と。「そんなことはあり得ない」と。「君が(感謝しているという)そういう思いを持っているのなら、僕もそういう思いでいる」「本当に心と心でつながったら会う必要もない。いつか俺が死んだら手を合わせてくれ。遠くから」とおっしゃったんです。そのとき自分が一番困ってるから、ヤンキーあがりの僕には一番その言葉が響きました。だから僕は心のなかではそういう思いで、そのときは退出しました。だからさっきも言ったみたいに、直接メールすることもなかった。
■「問題ないんだという認識でいたのが、一番大きな問題」
島田: 「問題ないんだ」という認識でいたのが一番の大きな問題で、本日に至ってます。だからと言って、正直言って後悔はしていません。「あの人と付き合わなければよかった」とか、「心のなかでそんな風に思わなければよかった」とか、もし僕が思ったら、僕は僕を嫌いになっちゃいます。だから、心の中でそう思い続けました。それは芸能界としてはズレていたことだったと思います。だから僕は今後、付き合いませんし、もちろんメールもしません。言葉にもしません。でも僕の心のなかでは感謝はずっと持っていたいと思います。それは芸能人関係なく、人としての感情なんです。
――2つ、うかがいたいのですが、まずは芸能界でやり残した、未練のあることを教えてください。
島田: まったく未練はないんですけども。本当にこのあいだも生放送で言ったんですが、テレビで武田鉄也さんが語っていた言葉が重いなと思いました。「山はてっぺんまで上ったら、ゆっくりうまく降りなければならない。それで初めて登山成功だ」と。「上で終わったらそれは遭難だぞ」とテレビでおっしゃっていまして。鉄也さんにも若い頃かわいがってもらって。その言葉を胸に下山しようと思ったんですけども、あまりにも山のてっぺんから向こうが崖で、転げ落ちてしまいましたけども。それも僕らしいかなと思っています。
だからはっきり言いまして、一回は、一瞬てっぺんに、半年くらい立ったんで悔いはありません。僕がてっぺんに乗った半年間を、親友の(明石家)さんまが確認してくれましたんで。そのときも。だから自分のなかで一瞬てっぺんに立ったという自覚だけは持っています。
――あともう1つは、今まで数々のトラブルで引退を考えられることがあったと思いますが、今回は引退を決めたのはどういう思いからですか?
島田: 数々のトラブル? 無いと思うんですけど、そんなに・・・。
(会場から笑いが起こる)。
――失礼しました。
島田: そんなにありましたかね?
――まあ数回。
島田: 数回・・・えー、若いときに、お客さんをどついたことがありました。そして6年前に、あの、まあこれ裁判をまだされてるんで、あんまり言えないんですけど、まあ本当は「どうやねん」という自分の思いもあるんですけども、その中でも僕が本当に髪の毛持ってツバかけたことも事実ですから、まあいかんこと。だから、はなから、いかんことって分かってやってましたから、ハッキリ言って「引退」という言葉は思わなかったです。やっぱり言われる、吉本興業に言われる、罪を、弁明せずに受け止めたらいいんだと思ってました。
ただ今回が違うのは、僕の中では、さっき言ったみたいに、付き合ってないじゃないか。週刊誌にいろんなことをいっぱい書かれる、でも本当に、事実無根ばかりでした。本当に、僕カジノなんか、生まれて一回も、そんな不法なカジノとか行ったことがありませんし、本当に。もうそのときは一回、BさんからAさんを介して連絡ありました。「そんなとこ行ってんのか?』と言われまして。僕、命をかけて行ったこともありませんし、行ったけども払わんかったという、そんな曖昧なこともないと、そんなとこ行くような馬鹿な僕じゃないですと、いうメールというか、電話をAさんに返したこともあります。
だからそんなことは絶対ないし、競売物件を暴力団と組んで入札したなんて書かれたこともありますけど、そんなこと命をかけてありません。もしそんなことがあったら、皆さんの前で、腹切ります。はい。だから、今回は、セーフだと思ってたことが大きな問題です。さっき言ったみたいに、後輩たちも、セーフだと思ってたらアウトがある。だから今回は、完全に僕のミスです。僕が間違ってました。
――社長に伺いたい。8月中旬に外部から情報を入手してから、吉本としては具体的にどのような調査をされたんでしょうか」
水谷社長: 8月中旬に情報を外部の方から入手いたしまして、まあわれわれの方といたしましては、8月21日にその情報に基づきまして、島田紳助にヒアリングを行いました。その後、本日にいたるまで2日間ではありますが、社内の調整と調査を行いまして、本日に至っております。
■「十分に反省した結果、ブレることなく引退します」
――最初に、水谷社長の説明と紳助さんの説明にすこし矛盾があるようでしたので確認したいんですけど、社長は「長年来の友人が、残念ながら暴力団の関係のところに行ってしまった』という風に話されたかと思うんですけども、それは紳助さんの説明にあるAさんとBさんのどちらにあたるのか。
島田: Aさんです。Bさんは元々ですよ。Aさんは、僕が若いときから一般の方の友達だったんです。そして、まあ、社長とか、これも今なんか曖昧な感じで、その方が、いま組織の方と認識する方と、そうじゃないんだと認識する方がいるんです。どこが事実か分からないので、僕は、そのいつからなられたのかも知りませんでした。そのことを僕は本人に、「そういう噂がありますけど、そうなんですか」と何度か聞いたことがあります。「そうじゃないんだ」と。「僕は、一般のカタギの人間だけど、そんな風に言われるんだ」とおっしゃったら、僕は「そうですか」と言わなくてはいけなかったし、そのことも、何回も聞きました。
その方が、もしそうだったら、僕はわざわざAさんを介してBさんにメールを送り、伝言を頼む必要はないわけです。だから僕は、Aさんはそうじゃないという認識で、Aさんに「伝えといてください」というメールを送ったのであって、だから、そこに矛盾点は無いんですよ。
だから水谷社長は、その方が途中から、そういう組織の人になったという認識なんですけども。どうなんですかと確認をしたら「そうじゃない。そう言われるだけだ」と。「週刊誌はいろんなことを、嘘ばっかりを書きよんねや」と言われると、僕のなかでも本当(いろんなことを)いっぱい書かれてきたんで、「そうなんだ」という認識でおりました。だから一見、聞くと認識の違いで矛盾があるようですけども、実はまったく認識の違いはない。僕は3回くらい確認しています。その方に。
――島田紳助さんにおうかがいしたいんですけども、昨今の週刊誌で、メールの件は今回出ましたけども、暴力団関係の方に手紙を送ったとか、写真に写ってたとか(書かれています)。そういった事実は?
島田: 「悔しい」と言ったのは、それなんですよ。そういう手紙を送ったとか。一緒の写真があるだとか。最近もありましたが、前も書いているんですよ。写真があるとか。それは僕の耳にも入るんですよ。僕はAさんにも「僕とBさんの写真を一生懸命探してるらしいですよ」というメールをしたことがあります。探しているから困ったという話ではなくて、やっぱり本人の耳にも入りますから。僕の知ってるところ、関係者のところに行って探しまわったんでしょうね。あるわけないですから。それも数年前ですわね。「探しまわってるらしいですわ」というメールを送りました。
――今回、紳助さんほどのタレントの方が暴力団との関係でおやめになるということで、芸能界と暴力団の関係というのがあるんじゃないかと、世間的にも見られてしまう可能性あるかと思うのですが。この辺についてどうお考えですか。
島田: だからね、はっきり言いまして。軽い言い方で申しわけないですけども、僕のなかでは「この程度」なんです。(暴力団関係者と)頻繁に密着しているわけではないと。だから「この程度」で引退しなければいけないんです。芸能人の方々は、十分注意してこのようなことが二度とないようにしていただきたいと思います。だから本当、ちょっとは信用してください。引退しようと思っている人間が、今さら言い訳しようとか、自分をよく思われようなどというような気持ちは本当にないです。
それよりも、「なんでこんなことばっかり書かれるのかな」と。本当それで(芸能界を)やめたいなという気持ちもありました。なんでこんな嘘ばっかり書かれるのかなと。でもタレントである以上、そこで告訴するとまたそれをネタに書かれる。だから我慢しなさいみたいな風潮がありますから。これで明日から一般人ですから、(訴訟を)できるのかなって思ったりしています。
だから明日からは、すいませんが一般人なんで、静かに暮らさせたってください。恩返しでなんか、若い人たちの役に立つような人になっていきたいと思いますし、若い人たちが夢を見られるようなことを、これから協力していきたいなと思います。皆にもっと夢を与えていきたいなと思います。一緒に汗を流して。
司会: では最後になりますが、改めて弊社社長・水谷のほうよりご挨拶をさせていただきたいと思います。
水谷社長: 本日はお忙しいところ・・・。
――あの、今後「何かをやりたい」という風にいま聞こえたんですが、どういうことをやりたいと今、考えてらっしゃるのでしょうか。
島田: 今日現在、おととい引退すると決めて、今日まで引退すると決めてたので、何にも考えてません。残念ながら55歳なので、まだまだ生きるなと。だから自分のなかで、自分をこういう立場にさせてもらった人に感謝の気持ちもありますから、自分なりにやっぱり何か役に立てることをしたいなと。これは最近思っただけじゃなく、ずっと思っていますから。自分なりにもそうやってしてきたつもりですし。
沖縄のサンゴがなくなったからなんとかしようと、そんなことも一緒に協力させてもらったり、そんな活動もしていましたから。何か役に立てたらいいなと思いますんで。そういう気持ちを持ち続けていきたいと思います。
司会: ありがとうございました。それでは改めまして弊社社長・水谷のほうよりご挨拶申し上げます。
水谷社長: 本日は夜分にも関わらずお集まりを賜りまして誠にありがとうございました。本日引退します島田紳助は、当社にとりまして多大なる功労者であります。そして、多くの若手のタレントを育て、本当に後輩の育成にも力を注がれた方でした。類まれなる才能に恵まれた人材をこういうかたちで失うのは大変に残念なことでありますが、皆様ご理解を賜りまして何卒よろしくお願いしたいと思います。本日はどうも、ありがとうございました。
島田: 皆さんこんな時間にお集まりいただきまして、島田紳助の最後の「切腹の介錯」をしていただきまして、本当にありがとうございました。悔いはありません。多くの方に出会えて、感謝の気持ちでいっぱいです。そして自分の認識の甘さ。この3日間、十分に反省した結果、ブレることなく引退します。どうもありがとうございました。
司会: 以上を持ちまして本日の会見を終了させていただきます。本日はお忙しいところおいでいただきまして、ありがとうございました。
(亀松太郎、橋爪雅治、土井大輔、松井尚哉、丹羽一臣、写真・小川裕夫)
島田: 「やめないで下さい」と電話で言ってくれましたけども、「最後は自分のわがままを通させてほしい」と、僕は僕らしく。いかんことして辞めるから、めっちゃめちゃかっこ悪い話ですわ。めちゃめちゃ無様な芸能界の終わり方ですわ。最低の終わり方です。でもその中で、「ほんの少しだけ自分の美学を通させて下さい」とお願いしました。
――紳助さん、日曜日の会社と話し合いで、(今回の話を)頂いてから即答で引退という決断になったのでしょうか。少し考える時間があったのでしょうか。
島田: いや、日曜日にお話したのですけど、すぐには受けてはいただけなかったんですけど、「気持ちはわかりました」と、「預からせてもらいます」と言われたんですけども、私は今日まで全く気持ちは揺れることなく、逆に言ったら「引退したほうがいいよね」と誰も言ってくれず、いろんな人が聞いて、そうやって思いと留まらそうと思って、非常に真剣に怒ってくれた人もいましたし。「本当にそれだけはやめろ」と、この人、こんなに熱く言ってくれるんだと、そういうのに今ちょっと感動して、思い出して涙を流してしまったから。別にこれは引退に対して自分がブレたり、後悔して泣いているんじゃなくて、その優しさを思い出して涙を流しているだけで、僕の気持ちのなかで3日間まったくブレませんでした。
逆に言ったら「引退したほうがよいよね」とは誰も言ってくれず、皆が、いろんな人が聞いて、そうやってバランスを取ろうと思って。やっぱり真剣に怒ってくれる人もいましたし。「本当にそれだけはやめろ」と。この人はこんなに熱く言ってくれるなと感動して涙を流してしまったから、別にこれ(涙)は引退に対してブレたり後悔して泣いているのではなくて、その優しさを思い出して涙を流しているだけで。僕の気持ちのなかで3日間まったくブレませんでした。
――日曜の夜から月曜日、そして今にいたるまでですけども、奥様、ご家族、身近な方はなんておっしゃってましたか?
島田: 嫁は「自分のやりたいようにやったらいいよ」「自分の思うように生きてください」と。長女は「本当に後悔しないのか。でもあなたは強運の持ち主やから、またなにかを考えるよね」と、そういう風に言ってくれました。
■上岡龍太郎さんと「同い年で引退というのに運命を感じます」
――長い芸能生活を振り返っていま、紳助さんにとっての芸能界、芸能生活はどういうものだったのでしょうか。
島田: やっぱり素晴らしい人にいっぱい巡りあえたし、素晴らしい人ばっかりでした。そして自分が、勝手にですけども「心の師」と仰いでいる上岡龍太郎さんが引退されたのが55歳なんですよね。だから今自分が55歳で、「絶対、君は引退したらあかんぞ」「どんなことがあっても引退したらあかんぞ」と上岡さんに何年も前から言われてたんですけども、なんかこういう結果になって、同い年で引退というのになんか運命を感じます。そして、僕がこの地位に上がれるまで力を貸してくださった和田アキ子さんにも、メールでなく電話で報告しようと思ったんですけども、電話にお出にならなかったので報告はできませんでした。
――今まで芸能界で長い活動があっていろいろ思い出があると思うんですけども、今一番思い出されるもの、思い出されるシーンなどはございますでしょうか。
島田: やっぱり6年くらい前にトラブルを起こして、自分でもうダメだろうなと思ったときに、皆に暖かく迎え入れていただいて、そして、もういっぺんなくなった命だから、やりたいことをやろうとやらせていただいたときに「ヘキサゴン」という番組があたって、子供たちのような人たちがたくさんスターになっていってくれて。それがうれしいです。昨日も上地雄輔がうちに来て泣いてたんですよ。「父ちゃん、父ちゃん」って言いながらね。みんな僕の子供たちですから。「父ちゃんが引退しても、子供たちの成長はこれからも見守るから」と。そんな話でした。
――みなさん涙なみだの時間だったわけですか。
島田: そうですね。でも奴らはしっかりしてますよね。上地は昔から言うとるんですけども「一生お父ちゃんを守るからね」と。
――この長い芸能生活のなかで、本当にこの世界で一番良かったと思われることはなんでしょうか。
島田: やっぱりいろんな方とお会いできたことが、自分のなかで一番の財産ですね。普通の人やったら会えなかった人とたくさん会えましたし。本当に。例えば孫(正義)さんと食事をさせてもらったときなんかは、本当に歴史上の偉人と食事をしているような時間でしたし。帰って感動しましたし。なんかいろんなことを教えられましたわ。自分が成長できました。孫さんと食事して、2時間の予定が4時間になって。わかってるかわかってへんかわからん僕に、一生懸命しゃべってくれてるときは、本当に幕末の偉人としゃべっているようでした。
そして次の日、お礼のメールを送ろうと思いましたが、僕の携帯はドコモだったんで「これはいかんな」と思ってソフトバンク(の端末を)買いに行って、「ありがとうございました」と1回だけ打って、また契約解除してドコモの新しいのにしました。そんなときに「ソフトバンクから送らなあかんな」と思わせることも、孫さんでしたし、そんな偉い方とたくさんお会いできたのが僕にとって一番の財産だと思います。
そんな方々には本当に感謝していますし、そして僕みたいにわがままなので本当に少ししかいないんですけども、そんな方々から手紙とかをいただいて、「人生が変わった」とかいろんな熱い手紙をいただいたことが僕にとって、「人の役に立てることもあるんだ」と思いまして。人気者でもなんでもない僕に対してそういう手紙をいただいたりすることが、「やっててよかったなぁ」とほんまに思いました。
先日、なんのギャグもない偉そうな『紳助の100の教え』みたいな本を出させていただいて。あの本が僕の芸能生活のなかで一番売れた本になったときに僕は一番嬉しかったです。お笑いだけやなくて、こんなことも求めてくれる方がいるんだなぁと思いまして。本当に申しわけなかったです。だから『100の教え』を買ってくれた30万人の方に心から感謝をするのと同時に、今日は101個目(の教え)ですわ。アホなことのようですけども、毅然とした態度で、自分で一番重い処分を与えなさい。
――10数年前にトラブルの解決を暴力団の方に頼んだことが、今回のきっかけになったかと思うのですけども、暴力団の方にAさんを介して頼んだことについて、いま後悔はしてないのでしょうか。
島田: 僕がAさんに暴力団の方を頼んだのではなくて、Aさんが話を聞いて電話してこられるわけですよ。「どうしたんだ」とおっしゃった。そのときAさんはまったくの堅気の方ですから、「こういう問題なんだ」と。心配して電話してきた方には、その方だけじゃなく何人かにしゃべりました。そしたら「そうなんや」と言って、僕が知らないあいだにAさんがその方にお願いして解決してくださったんです。
――ただBさんという暴力団の方に「こういうかたちで解決してもらったんだよ」と聞いて、ご自身はどう思われたのでしょうか。
島田: はい。僕はそれを聞いて本当に(芸能界を)やめるつもりでおりましたから、解決できるということに一番ホッとしました。ただBさんに解決してもらって、「これはあんまりよくないことが起こったな」というのは認識がありました。だから「どうしよう」と。この世界の方とその世界の方が接してはいけないと思いました。
で、僕は(Bさんに)会いに行きました。そしてそのことを伝えました。「僕たちの世界の人間は、そういう方に接することはできない」と伝えました。するとその方は「会う必要もないし、TVでがんばればいいんだ」と。「それが一番の恩返しとちがうか」と。僕は「接触することは良くないから」と教わりましたし、「君が僕に恩を一切感じる、そういう必要もない」と。「僕はAに頼まれて、これは不条理だなと思って解決しただけだから、君は何も思う必要はない」とおっしゃられて。
それでも僕はなんか違和感があったので、はっきり言うて「お金かなんか渡さなあかんのかな」と正直思いました。(すると)「馬鹿なことを言うな」と。「そんなことはあり得ない」と。「君が(感謝しているという)そういう思いを持っているのなら、僕もそういう思いでいる」「本当に心と心でつながったら会う必要もない。いつか俺が死んだら手を合わせてくれ。遠くから」とおっしゃったんです。そのとき自分が一番困ってるから、ヤンキーあがりの僕には一番その言葉が響きました。だから僕は心のなかではそういう思いで、そのときは退出しました。だからさっきも言ったみたいに、直接メールすることもなかった。
■「問題ないんだという認識でいたのが、一番大きな問題」
島田: 「問題ないんだ」という認識でいたのが一番の大きな問題で、本日に至ってます。だからと言って、正直言って後悔はしていません。「あの人と付き合わなければよかった」とか、「心のなかでそんな風に思わなければよかった」とか、もし僕が思ったら、僕は僕を嫌いになっちゃいます。だから、心の中でそう思い続けました。それは芸能界としてはズレていたことだったと思います。だから僕は今後、付き合いませんし、もちろんメールもしません。言葉にもしません。でも僕の心のなかでは感謝はずっと持っていたいと思います。それは芸能人関係なく、人としての感情なんです。
――2つ、うかがいたいのですが、まずは芸能界でやり残した、未練のあることを教えてください。
島田: まったく未練はないんですけども。本当にこのあいだも生放送で言ったんですが、テレビで武田鉄也さんが語っていた言葉が重いなと思いました。「山はてっぺんまで上ったら、ゆっくりうまく降りなければならない。それで初めて登山成功だ」と。「上で終わったらそれは遭難だぞ」とテレビでおっしゃっていまして。鉄也さんにも若い頃かわいがってもらって。その言葉を胸に下山しようと思ったんですけども、あまりにも山のてっぺんから向こうが崖で、転げ落ちてしまいましたけども。それも僕らしいかなと思っています。
だからはっきり言いまして、一回は、一瞬てっぺんに、半年くらい立ったんで悔いはありません。僕がてっぺんに乗った半年間を、親友の(明石家)さんまが確認してくれましたんで。そのときも。だから自分のなかで一瞬てっぺんに立ったという自覚だけは持っています。
――あともう1つは、今まで数々のトラブルで引退を考えられることがあったと思いますが、今回は引退を決めたのはどういう思いからですか?
島田: 数々のトラブル? 無いと思うんですけど、そんなに・・・。
(会場から笑いが起こる)。
――失礼しました。
島田: そんなにありましたかね?
――まあ数回。
島田: 数回・・・えー、若いときに、お客さんをどついたことがありました。そして6年前に、あの、まあこれ裁判をまだされてるんで、あんまり言えないんですけど、まあ本当は「どうやねん」という自分の思いもあるんですけども、その中でも僕が本当に髪の毛持ってツバかけたことも事実ですから、まあいかんこと。だから、はなから、いかんことって分かってやってましたから、ハッキリ言って「引退」という言葉は思わなかったです。やっぱり言われる、吉本興業に言われる、罪を、弁明せずに受け止めたらいいんだと思ってました。
ただ今回が違うのは、僕の中では、さっき言ったみたいに、付き合ってないじゃないか。週刊誌にいろんなことをいっぱい書かれる、でも本当に、事実無根ばかりでした。本当に、僕カジノなんか、生まれて一回も、そんな不法なカジノとか行ったことがありませんし、本当に。もうそのときは一回、BさんからAさんを介して連絡ありました。「そんなとこ行ってんのか?』と言われまして。僕、命をかけて行ったこともありませんし、行ったけども払わんかったという、そんな曖昧なこともないと、そんなとこ行くような馬鹿な僕じゃないですと、いうメールというか、電話をAさんに返したこともあります。
だからそんなことは絶対ないし、競売物件を暴力団と組んで入札したなんて書かれたこともありますけど、そんなこと命をかけてありません。もしそんなことがあったら、皆さんの前で、腹切ります。はい。だから、今回は、セーフだと思ってたことが大きな問題です。さっき言ったみたいに、後輩たちも、セーフだと思ってたらアウトがある。だから今回は、完全に僕のミスです。僕が間違ってました。
――社長に伺いたい。8月中旬に外部から情報を入手してから、吉本としては具体的にどのような調査をされたんでしょうか」
水谷社長: 8月中旬に情報を外部の方から入手いたしまして、まあわれわれの方といたしましては、8月21日にその情報に基づきまして、島田紳助にヒアリングを行いました。その後、本日にいたるまで2日間ではありますが、社内の調整と調査を行いまして、本日に至っております。
■「十分に反省した結果、ブレることなく引退します」
――最初に、水谷社長の説明と紳助さんの説明にすこし矛盾があるようでしたので確認したいんですけど、社長は「長年来の友人が、残念ながら暴力団の関係のところに行ってしまった』という風に話されたかと思うんですけども、それは紳助さんの説明にあるAさんとBさんのどちらにあたるのか。
島田: Aさんです。Bさんは元々ですよ。Aさんは、僕が若いときから一般の方の友達だったんです。そして、まあ、社長とか、これも今なんか曖昧な感じで、その方が、いま組織の方と認識する方と、そうじゃないんだと認識する方がいるんです。どこが事実か分からないので、僕は、そのいつからなられたのかも知りませんでした。そのことを僕は本人に、「そういう噂がありますけど、そうなんですか」と何度か聞いたことがあります。「そうじゃないんだ」と。「僕は、一般のカタギの人間だけど、そんな風に言われるんだ」とおっしゃったら、僕は「そうですか」と言わなくてはいけなかったし、そのことも、何回も聞きました。
その方が、もしそうだったら、僕はわざわざAさんを介してBさんにメールを送り、伝言を頼む必要はないわけです。だから僕は、Aさんはそうじゃないという認識で、Aさんに「伝えといてください」というメールを送ったのであって、だから、そこに矛盾点は無いんですよ。
だから水谷社長は、その方が途中から、そういう組織の人になったという認識なんですけども。どうなんですかと確認をしたら「そうじゃない。そう言われるだけだ」と。「週刊誌はいろんなことを、嘘ばっかりを書きよんねや」と言われると、僕のなかでも本当(いろんなことを)いっぱい書かれてきたんで、「そうなんだ」という認識でおりました。だから一見、聞くと認識の違いで矛盾があるようですけども、実はまったく認識の違いはない。僕は3回くらい確認しています。その方に。
――島田紳助さんにおうかがいしたいんですけども、昨今の週刊誌で、メールの件は今回出ましたけども、暴力団関係の方に手紙を送ったとか、写真に写ってたとか(書かれています)。そういった事実は?
島田: 「悔しい」と言ったのは、それなんですよ。そういう手紙を送ったとか。一緒の写真があるだとか。最近もありましたが、前も書いているんですよ。写真があるとか。それは僕の耳にも入るんですよ。僕はAさんにも「僕とBさんの写真を一生懸命探してるらしいですよ」というメールをしたことがあります。探しているから困ったという話ではなくて、やっぱり本人の耳にも入りますから。僕の知ってるところ、関係者のところに行って探しまわったんでしょうね。あるわけないですから。それも数年前ですわね。「探しまわってるらしいですわ」というメールを送りました。
――今回、紳助さんほどのタレントの方が暴力団との関係でおやめになるということで、芸能界と暴力団の関係というのがあるんじゃないかと、世間的にも見られてしまう可能性あるかと思うのですが。この辺についてどうお考えですか。
島田: だからね、はっきり言いまして。軽い言い方で申しわけないですけども、僕のなかでは「この程度」なんです。(暴力団関係者と)頻繁に密着しているわけではないと。だから「この程度」で引退しなければいけないんです。芸能人の方々は、十分注意してこのようなことが二度とないようにしていただきたいと思います。だから本当、ちょっとは信用してください。引退しようと思っている人間が、今さら言い訳しようとか、自分をよく思われようなどというような気持ちは本当にないです。
それよりも、「なんでこんなことばっかり書かれるのかな」と。本当それで(芸能界を)やめたいなという気持ちもありました。なんでこんな嘘ばっかり書かれるのかなと。でもタレントである以上、そこで告訴するとまたそれをネタに書かれる。だから我慢しなさいみたいな風潮がありますから。これで明日から一般人ですから、(訴訟を)できるのかなって思ったりしています。
だから明日からは、すいませんが一般人なんで、静かに暮らさせたってください。恩返しでなんか、若い人たちの役に立つような人になっていきたいと思いますし、若い人たちが夢を見られるようなことを、これから協力していきたいなと思います。皆にもっと夢を与えていきたいなと思います。一緒に汗を流して。
司会: では最後になりますが、改めて弊社社長・水谷のほうよりご挨拶をさせていただきたいと思います。
水谷社長: 本日はお忙しいところ・・・。
――あの、今後「何かをやりたい」という風にいま聞こえたんですが、どういうことをやりたいと今、考えてらっしゃるのでしょうか。
島田: 今日現在、おととい引退すると決めて、今日まで引退すると決めてたので、何にも考えてません。残念ながら55歳なので、まだまだ生きるなと。だから自分のなかで、自分をこういう立場にさせてもらった人に感謝の気持ちもありますから、自分なりにやっぱり何か役に立てることをしたいなと。これは最近思っただけじゃなく、ずっと思っていますから。自分なりにもそうやってしてきたつもりですし。
沖縄のサンゴがなくなったからなんとかしようと、そんなことも一緒に協力させてもらったり、そんな活動もしていましたから。何か役に立てたらいいなと思いますんで。そういう気持ちを持ち続けていきたいと思います。
司会: ありがとうございました。それでは改めまして弊社社長・水谷のほうよりご挨拶申し上げます。
水谷社長: 本日は夜分にも関わらずお集まりを賜りまして誠にありがとうございました。本日引退します島田紳助は、当社にとりまして多大なる功労者であります。そして、多くの若手のタレントを育て、本当に後輩の育成にも力を注がれた方でした。類まれなる才能に恵まれた人材をこういうかたちで失うのは大変に残念なことでありますが、皆様ご理解を賜りまして何卒よろしくお願いしたいと思います。本日はどうも、ありがとうございました。
島田: 皆さんこんな時間にお集まりいただきまして、島田紳助の最後の「切腹の介錯」をしていただきまして、本当にありがとうございました。悔いはありません。多くの方に出会えて、感謝の気持ちでいっぱいです。そして自分の認識の甘さ。この3日間、十分に反省した結果、ブレることなく引退します。どうもありがとうございました。
司会: 以上を持ちまして本日の会見を終了させていただきます。本日はお忙しいところおいでいただきまして、ありがとうございました。
(亀松太郎、橋爪雅治、土井大輔、松井尚哉、丹羽一臣、写真・小川裕夫)