仮設住宅から見える景色が最低。ガス電気水道代自腹。食料の援助なし。義援金もまだの人多し。 | 日本のお姉さん

仮設住宅から見える景色が最低。ガス電気水道代自腹。食料の援助なし。義援金もまだの人多し。

どんなトラブルがあったのか? 仮設住宅の建設に携わった人たち
2011年6月21日 08時00分http://www.excite.co.jp/News/economy_clm/20110621/Itmedia_makoto_20110621012.html


伊里前小学校から見下ろすと、津波にさらわれた町が広がる

 東日本大震災によって、いまだ多くの人が避難所での生活を強いられている。

避難している人は「早く仮設住宅に住みたい」と考えているだろうが、

工事は遅れている。

全国で必要とされている仮設住宅5万860戸に対し、6月末までに3万6181戸が完成する見通しだ。なぜ、これほど遅れているのか。

実際、仮設住宅の建設に携わったアキュラホームの担当者に、現場で直面したトラブルを聞いた。

●ここに人が住めるのか?

 「初めて現場を見たとき『ここに人が住めるのか?』

『ここに仮設住宅を建てることができるのか?』と思いましたね。

ある大工さんは『被災地を見ているだけで、耐えられない』とも言っていました」と

語るのは現場を統括していた志村慶充(しむら・よしみつ)さん。

 同社が仮設住宅を建てる場所は、宮城県南三陸町にある伊里前小学校、歌津中学校、入谷中学校の3カ所。

「できれば『1カ所で作業できれば』と思っていましたが、いざフタを開けてみると3カ所。私たちが一戸建てを建てるとき、通常75日ほどかかります。

しかし仮設住宅の工期は3週間ほどしかありませんでした。

工期を遅らせることはできませんが、当初予定していた人数では間に合いません。そこで急きょ、人を増やしました。

いわゆる“人海戦術”でしか、乗り切る術がなかったですね」

 仮設住宅を建てる場所は、地震や津波の被害をあまり受けていないところが多い。

しかし同社が建てることになった伊里前小学校は津波の被害を受けていた。校庭は津波で冠水、校舎の1階部分も浸水した。

高台の場所に位置する小学校から見下ろすと、津波でさらわれた町が広がっている。

 津波の傷跡が残る場所で、仮設住宅をどのようにして建てたのだろうか。

まず宿泊場所の確保が難しかった。近隣に宿泊施設は少なく、あったとしても既に満室。仕方なく現場から直線距離で60キロほど離れた大崎市の鳴子温泉で宿泊することにした。現場までの所要時間は、クルマで片道3時間ほど。

現場は朝8時スタートなので、作業員は5時には起きなければいけない。

また終業時間は18時だったので、宿に着くのは21時を回ることが多かったという。

 そんな生活が続いたため、「さすがに肉体的そして精神的に疲れましたね。

工期が短かったので、なかなか休みをとることができませんでした」という。また現場には駐車場がなかったので、近隣の家にある駐車場を借りて、そこにクルマを停めていた。…
「駐車場から現場まで歩いて10分ほどでしたが、坂の傾斜がきついところでした。1日の仕事が終わって疲れ切っているのに、さらに駐車場まで坂を昇らなければいけなかったのはつらかったですね」と振り返る。

●現場での混乱は続く

 現場での混乱は続いた。仮設住宅用の資材が届けられるが、その資材を置くスペースが十分とはいえなかった。グランドは地割れしているところもあり、「こんな場所に重い資材を置いていいのだろうか。雨が降れば崩れるのでは……と心配しましたね」。またグランドには滑り台や鉄棒といった遊具があったが、それを撤去することは禁止されていた。結局、現場から少し離れたところに資材を置くことにした。「通常の現場であれば資材は近いところに置いているので、職人さんは大変だったと思います」

 さらに“想定外”ともいえる事態に直面した。

仮設住宅の工期が短かったので、工事は急ピッチで行わなければいけない。

1日のロスも許されない状況であったが、仮設住宅を建てる伊里前小学校に天皇皇后両陛下が、被災者を見舞うため訪問されたのだ。

4月27日、両陛下は高台にある小学校の校庭から津波の被害を受けた町に向かって黙礼。また避難所になっている歌津中学校にもご訪問され、被災者に言葉をかけて回られらた。このニュースを記憶している読者も多いのではないだろうか。

 しかし現場では混乱した。

事前に両陛下が訪問されるという連絡は一切なかったからだ。

直前になって、関係者から「工事をストップしてくれ」と連絡があった。

最初は伊里前小学校だけだったが、次に歌津中学校、さらに入谷中学校の工事も中止せざるを得なくなり、結局、その日は仕事にならなかった。

●もう少し情報があれば

 仮設住宅の完成が近づいたある日、志村さんは被災者からこんな言葉をかけられた。

「みなさんはいいですよね。仮設住宅が完成すれば、帰れるのですから。帰れる場所があるって、いいことですよ」と。

この言葉を聞いたとき志村さんは、どういう顔をして、どのような言葉をかけていいのか、分からなかったという。

 現場監督を務めていた椛島哲也(かばしま・てつや)さんに、ある被災者はこうつぶやいた。「私たちにも仕事があればなあ……」と。

現場は混乱していると思い、現地入りする前に人員などすべての手配を済ませていた。「被災されている方に、お仕事を手伝ってもらえるような体制にすればよかった。もう少し情報があれば……」と椛島さんは悔しがる。…