世界に影響を与えた」医師 震災を振り返る | 日本のお姉さん

世界に影響を与えた」医師 震災を振り返る

世界に影響を与えた」医師 震災を振り返る
配信元:
2011/06/06 23:18更新
 病院のほとんどが津波にのまれながら患者を救助し、米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれた公立志津川病院(宮城県南三陸町)の元内科医、菅野(かんの)武さん(31)が産経新聞のインタビューに応じた。「経験したからこそ伝えられることがある」。被災地の医療のあり方や、地域医療の課題を広く訴えたいと考えている。(桜井紀雄)
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記事本文の続き  最後まで寄り添う
 「『死ぬのかな』と感じたからこそ、後悔せずに最後まで患者に寄り添っていたいと思った」
 海から約300メートルの町の中心に立つ志津川病院。3月11日に直撃した津波は、高さ約16メートル。波は5階建て病院の4階天井にまで達した。押し寄せる波を目にしたとき、「死を覚悟し、自分の身元が分かるように診療中ははずしている結婚指輪をはめた」。
 水が少し引いた瞬間、看護師らと膝まで泥水につかりながら5階から4階の病室に戻った。がれきの中、下敷きになったり、うずくまったりした患者がいた。
 「息をしている人を見つけては5階に搬送。脈がない人は置き去りにせざるを得なかった。いい知れない悔しさを味わった」
 107人の入院患者のうち救えたのは43人。カーテンで患者の体を包み、少しでも体を動かすように励ました。診療器具が限られる中、翌日に救助のヘリが来るまでに低体温症などでうち7人が息を引き取った。3日目に最後の一人としてヘリコプターに乗った。「涙がこみ上げてきた」
  研究生活スタート
 「針が振り切れたような状態になり、眠れない日が続いた」
 震災6日目に長男の怜(れい)君が生まれた。「こんな中でも元気に生まれてくるんだ」。生命の力強さに背中を押された。町の医療本部で同僚の西沢匡史(まさふみ)医師が奮闘していることを聞いたこともあり、妻が退院した翌日には現地に戻った。
 志津川病院へは2年間の派遣として勤務しており、4月から東北大学大学院博士課程での研修が決まっていた。現地にとどまろうかと悩んだが「力をつけて地域医療に還元することが大切だよ」と西沢医師から告げられた。後任が赴任したこともあり、5月から東北大での研究生活に入った。
 極限状態のなか同僚医師らとともに、患者を避難させながら診療を続けたというニュースが世界にも配信され、福島県南相馬市の桜井勝延市長とともに4月21日のタイム誌で「世界の100人」に選ばれた。
 「自分に影響力があったわけではない。被災者全体の努力が評価された」と受け止めた。今は注目されたことで「被災地から伝える役割を与えられた」と考えている。
  地域医療見直し好機
 研究のあいまに南三陸町と行き来し、得た状況を国内外のメディアや別の地域の医師に伝える橋渡しともなっている。
 「震災直後は、命をつなぐ医療が必要とされた。しかし、3カ月を前にした今、何を目標に生きていくかが被災地の人々には求められている」
 多くの医師や心理士が被災地に入って被災者の心のケアに取り組んでいるが、「取りつくろうだけでは限界がある。行政などと一緒になってあすを描けるビジョンを示す必要がある」。
 震災をきっかけに見えてきたものがある。当時の志津川病院の常勤医師は5人。震災後、被災地の医師不足が問題となっているが、「地方がもともと抱えていた問題が表出しただけ。注目されている今が、地域医療の問題を解決するチャンスなんです」。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/510974/
女川に住んでいる

中国人たちは

津波で亡くなった人のご遺体の指についている

金の指輪や時計を盗んでいった。

見た人たちが有名メルマガに告発していた。

指を切って持っていったって。

カードや免許証などが入っているサイフももちろん持っていくから

ご遺体が誰なのか

分からなくなったそうです。

高台に住んでいて

別に災害にあっていないのに

避難所に来て毛布やらなんやかんや

もらっていったって。ずうずうしいにもほどがある。

と、書いておられました。