西安事件の謎
西安事件の謎↓
謎と言うより、蒋介石が共産党に拉致されて
何か脅されて共産党と組んで
日本と戦うようになったという事件。
蒋介石は、一般の日本人を通州と上海で大量に虐殺した。
怒った日本が南京に攻めて行った。
ちゃんと、国際法にもとずいて戦闘を行ったことを、
知らせるため大勢の西洋の記者を引き連れていったのに
チュウゴク人は、ウソつきなので
ありえない数字をこしらえて日本軍が
蛮行を行ったと、宣伝した。
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1936年10月、国民政府主席蒋介石は、紅軍(共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。
この攻撃に参加していた張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党との国共内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。
蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。
西安に来た蒋介石に対し、7日張学良は面会し内戦を停止するように説いたが、蒋介石はこれを拒絶した。
このことを切っ掛けに蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。
8項目の要求
南京政府の改組、諸党派共同の救国
内戦の停止
抗日七君子の釈放
政治犯の釈放
民衆愛国運動の解禁
人民の政治的自由の保証
孫文遺嘱の遵守
救国会議の即時開催
国共合作 [編集]
国民政府は、当初、張学良を討伐するために西安に対し爆撃を開始し、事態は緊迫したものとなった。
しかし共産党の周恩来、秦邦憲、葉剣英が西安に入り話し合いが行われ、国民政府側の蒋介石、宋子文、宋美齢との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放された。
翌1937年2月の三中全会では西安事件をきっかけに国民政府の態度が硬化し[1]、中国共産党の完全掃滅を決議し[2]、その後も妥協を行わず中共を追詰めたが[3][4]、日中戦争が勃発し、国民政府は中共掃滅を放棄し[5]、第二次国共合作が成立する。
蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害計画を検討したが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなった。
これは陳立夫のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続する事が、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いたという。
なお、事件の首謀者である張学良は、事件を起こした責任をとるとして、自ら進んで国民政府の軍法会議にかけられることになった。
後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。
この会談で具体的に何が話し合われたのか、なぜそれまで頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度が変わったのか、については、関係者が全て鬼籍に入った今となっては、歴史上の謎となってしまった。
日本への影響
この事件により中国全土の抗日気運は高まり、日中の対立は避けられないものとなった。
また当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測。
対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関昭和研究会へ参加することとなる。
以後日本の中枢情報が全てソ連に筒抜けになるとともに、日本の対支那政策がソ連に都合よく操られることとなる。
脚注
^ 小倉 1937 pp.15-16
^ 『東京朝日新聞』昭和12年2月22日付朝刊 2面
^ 『東京朝日新聞』1937年3月6日朝刊 2面
^ 『東京朝日新聞』1937年3月7日夕刊 1面
^ スノー 1964 著者序言pp.10-11