先生方を責められるか? | 日本のお姉さん

先生方を責められるか?

津波が小学校にまで来ると分かっていたら、

先生方も、児童を迎えにきた保護者の対応なんか

していないで、さっさと裏山に逃げたと思う。

地域住民が避難してきても、先生方は子どもの

安全を考えて、先に子どもを裏山に逃がしただろう。

裏山に逃げるより、小学校にいた方が安全だと

誰もが思っていたに違いない。

生徒を死なせたい先生なんかいない。

今度、沿岸部で地震が起きて津波が来そうに

なったら、先生方は児童を迎えにきた保護者など無視して

近所の避難民も無視して

生徒を高台に移動させることだな。

その代わり、なんともなかった場合、

保護者や近所の住民に

「無視された!!」と言って後で怒られるでしょう。

今回は、誰も責めることはできないと思う。

小学校がもっと高台にあればよかったのだけど、、。

今回の災害では、

津波の高さは40mを越した場所もあったというし、

日本では、沿岸部の町では、津波が来た場合、

想定よりも、もっと高い波がくると考えて、

小学校の位置を高台にあげなければ

ならなかったのだ。

今、海の近くにある学校は、念のため

山の上に移動する方がいいです。

山に行っても、がけ崩れが怖いけど、

津波の方が怖い。


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<東日本大震災>児童68人死亡、不備認める 大川小説明会
毎日新聞 6月4日(土)21時47分配信

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説明会の会場に向かう保護者たち=宮城県石巻市の市立飯野川第一小学校で2011年6月4日、須藤唯哉撮影

 東日本大震災の津波で全校児童108人中68人が死亡、6人が行方不明となっている宮城県石巻市立大川小学校の保護者説明会が4日夜、同市内で開かれた。市教委側は、過去に津波が同小に到達したことはなく想定外だったとし、同小の避難場所が決まっていないなど避難のマニュアルに不備があったことを認めた。だが明確な謝罪はなく、出席した約70人の保護者からは「がっかりした」との声も出た。

 市教委は児童24人と教員らから聞き取り、経緯を調査。児童や教員が避難を始めたのは地震発生から約40分後の3月11日午後3時25分ごろで、津波到達はその約10分後だったことを明らかにした。

 市教委は、避難が遅れた理由を▽迎えに来た保護者への児童の引き渡し▽小学校に避難してきた地域住民への対応▽避難場所の選定--などに手間取ったためと説明。また、裏山へ避難しなかったのは「地震による倒木の恐れがある」との意見が出たためとした。お盆までをめどに、被災現場近くに慰霊碑を建立することも明らかにした。

 一方、市教委や保護者によると、多数の犠牲者が出たことに対して、出席した亀山紘市長や市教委側から「重く受け止める」などの言葉はあったものの、明確な謝罪はなかったという。

 保護者の思いはさまざまだ。長女の小晴さん(当時6年)が行方不明のままの平塚なおみさん(37)は「親身に受け止めてくれた感じがしなかった。保護者側の思いとかみ合わず、がっかりした」と残念がった。次女愛香さん(同6年)と長男悠登君(同2年)を亡くした加納美雄さん(36)は「これ以上やっても子供たちは帰ってこない。児童全員を助けようとした先生まで責めることにならないか」と複雑な胸中を語った。【須藤唯哉、津久井達、百武信幸】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110604-00000096-mai-soci

<福島第1原発>最前線の復旧作業員 多くは「被災者」
毎日新聞 6月5日(日)22時22分配信

福島第1原子力発電所1号機の原子炉建屋で、仮設の原子炉圧力計を設置する作業員=2011年6月3日、東京電力提供

 福島第1原発事故の復旧作業にあたる作業員の多くは地元・福島県浜通り地方の出身だ。大半は住み慣れた家を追われ、津波で肉親が行方不明のままの人もいる。「被災者」が過酷な「最前線」に立たされるという矛盾の中、作業員たちの抱える思いは複雑だ。【町田徳丈、袴田貴行】

【水素爆発につながった過程を詳しく】福島原発 図説集

 40代の作業員男性は自宅も勤務先の下請け会社も警戒区域内。避難所から仕事に出る時は子供たちに「悪いやつらを片付けてくっから」と声をかける。4歳の長男は「頑張って」と無邪気に答える。

 15年近く原発で働いてきたが、今回は想像以上に過酷だった。防護服の中を汗がとめどなく流れ、マスクはすぐ曇り、ゴムで締め付けられた頭がぎりぎり痛む。原子炉の隣、暗く湿ったタービン建屋内で余震に襲われ、恐怖で鼓動が高まった。

 妻や両親は猛反対した。「将来どんな症状が出るか分からない」。4月下旬、「辞めよう」と決意して上司に打ち明けた。上司は止めなかったが、話しているうちに、これまで自分についてきた若い部下の顔や、地元出身の東京電力社員が「何をやっていいのか分からない」と漏らしたことを思い出した。「仲間が死にものぐるいでやっている。誰かがやらないと」

 浪江町の作業員男性(34)は複雑な胸中を吐露する。「仕事がある分、救われていますよ。農家や商店の人は仕事まで失ってしまった」。警戒区域内の自宅に戻るあてはない。

 2次下請けの会社に勤め、避難指示が出た後、母や妻子と九州の親類宅に身を寄せた。新潟県の東電柏崎刈羽原発に仕事を得て4月上旬、柏崎市のアパートに妻(34)、長男(1)と移り、3週間ほど働いたところで福島第1に呼び戻された。

 高濃度汚染水の浄化設備を設置する作業。「事故を起こしておいて、自分たちは復旧作業で食っていける。皮肉ですよね」。とはいえ、いつまで続くのか、不安を感じる。

 同じ浪江町の作業員男性(40)は自宅を津波で流された。5カ所目の避難先となる東京都営アパートで南相馬市出身の妻(29)、長男(2)と3人で暮らしながら、第1原発との間を往復する。

 3月下旬の夕食後、妻が「せめて南相馬には戻りたい」とつぶやくのを聞き、迷っていた第1原発入りを決めた。「原発が収束しないと帰れない。廃炉まで付き合う覚悟はできています」

 原発から5キロほどの所に住んでいた大熊町の作業員男性(64)は4カ所目の避難先で電気ケーブル敷設作業に呼ばれた。40年ほど原発で働いてきたベテラン。妻(63)を避難所に残し、いわき市の旅館から現場に通う。「東電あっての大熊町。ずっと原発で飯を食ってきたから、肝心な時に何の役にも立たないわけにはいかない」

 3号機から時折上がる水蒸気を、間近で見る。「ぶわーっと、ものすごい量。あまり気持ちのいいもんじゃねえな」。人生で初めてヨウ素剤を服用した。妻は心配するが、「最初は怖かったけど、だんだん慣れてきた。ずっと緊張していたら体が持たないよ」と、あきらめ顔で笑う。ただし、「現場に不慣れな東電社員の面倒を見られるのは、自分たちだ」と自負している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110605-00000081-mai-soci