つづきー意思のないところに打開策はない。 | 日本のお姉さん

つづきー意思のないところに打開策はない。

つづき
現在の日本国憲法では、権利なるものについて以下のごとく書かれています。

第十一条【基本的人権の享有と性質】  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。/ 第十二条【自由・
権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任】  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。/ 第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】/ すべて国民
は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

これを読んだある日本人は、

『基本的人権は、侵すことのできない永久の権利』という根拠などどこにもない事が言われているだけでなく『自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。』など何を言っているのかよく分からないくだりもあります。また、ここでは国民は『個人』として尊重され、「集団あっての個体」という生物の自然の摂理に反した事も堂々と書かれています。

と発言していた。参考までに同じくだりを英文で掲げますと、

Article 11. The people shall not be prevented from enjoying any of the
fundamental human rights. These fundamental human rights guaranteed to the
people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and
future generations as eternal and inviolate rights. / Article 12. The
freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be
maintained by the constant endeavor of the people, who shall refrain from
any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for
utilizing them for the public welfare. / Article 13. All of the people shall
be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit
of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public
welfare, be the supreme consideration in legislation and in other
governmental affairs.
となります。

日本文の方は、現実構文 (現在構文) ですから、その内容は現実のことになります。
日本人にとっては、「世の中は、、、、」の形式に従って実況放送・現状報告の内容であるかのごとく書かれた嘘のようなものでしょう。

だがしかし、英文の方は、’shall’ 未来構文の内容ですね。その内容は、非現実的なことですね。
頭の中にのみ存在 する努力目標です。
この設定された努力目標に向かって国民が心を合わせようとするのが憲法の内容です。

現実と非現実が同一のものと考えられている我が国の状態は、極めて危険なことですね。

現在の地球は、英米の世の中です。
同床異夢は人間不信を呼び起こすので危険です。

「世界にあって、世界に属さず」などという我が国の状態を、一日も早く解消する必要があると考えます。

目先・手先の事柄にのみ注意を集中して、細工物を作ることを得意とした。
その結果、我が国は技術大国を通して経済大国になった。

だが、「あるべき姿」の内容を持たないために、ただただ時流に流される国となっています。

天国の有様を考えるのでもなければ、自国の青写真を用意するのでもない。

交歓会、話し合い、談合は広く行われているが、主題に「あるべき姿」の内容が欠落している。
「上と見るか、下と見るか」の主題はあっても「よいか悪いか」の主題はないのであるから、孔子の教えのようなものである。
「よいと悪いは、誰にでもわかる」と考える英米人の陪審員制度を「よいと悪いの判断は難しい」と感じている日本人の社会に導入することは、たとえ猿真似であっても難しい。

(5) その結果、日本の産業界は「ガラパゴス産業界(世界標準から孤立した産業界)」と呼ばれ、国際競争力を失ってしまったのです。(GDP/人=世界18位) 
学歴あって教養のない本質的には馬鹿な官僚が1~10まで産業界を指導しているのです。

それを官僚にさせているのが、とりもなおさず、我が国の政治家であり有権者です。

この人たちは、自分自身の考えのない人たちです。

ただ事実だけを語る人は子供のようであり、事実と考えを混乱させて語る人は知的な人にはなれません。

我が国の恩人・ダクラス・マッカーサの「日本人12歳説」は、もう忘れられてしまったのでしょうか。

いずれにしても、日本語脳の持ち主は切って揃えられたような、「世の中は、、、、」の発言ばかりを繰り返している。
つかみ所の無い無哲学・能天気の人間になっています。
我々は、意義ある発言をしなければならないでしょう。

意義ある発言とは、自分自身の考えた「今ある姿」と「あるべき姿」の関係を述べることです。
この内容には議論の余地があり、その結論は現実の改革に役立つはずです。

インド人は瞑想を通してインド哲学を築きます。
英米人は五感を通して経験哲学を構築します。
日本人は座禅を通して空理空論 (禅問答) を会得します。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダ ヤ人と日本人>の中で禅問答について以下のように述べています。

、、、、 昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。
彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。
そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はいない」と。老人が何と言ったと思う。
あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くしていった「もちろん居ない」と。
今度は宣教師が驚いてたずねた。
「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。
老人は彼を見すえていった。

「塵を払って仏を見る、如何」と。

失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。
一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。その時の宣教師もそうであった。

するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。
この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。
これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたに全くわからないということは理解できよう。 、、、、、、(引用終わり)

現実 (塵) と非現実 (仏) の間に次元の違いによる区別をおかないで語れば、話は上記のようになる。


これは日本人の考え方であり、現実と考えの内容を混同した空理空論である。


日本語脳の持ち主であれば、こうしたやりとりに時間を浪費することは仕方のないことである。
だがしかし、英語脳の人が日本語を使っても空理空論にはならない。
だから、我々の空理空論は日本語そのものの性質というよりも、日本語の使い方の問題であると考えることも出来る。
だが、正しい考え方を習得するために日本語を利用することは得策ではないことは確かなようだ。
英米人は、日本人がなぜ空理空論を語るのかを理解していない。
だから、英米人の受け売りを得意としている我が国のインテリからも、その機序を知らされることはない。

我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。
一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。
つまり、子供が大人になるための教育はない。

大人には考える教育が必要です。
だがしかし、日本語脳には、事実 (現実) と考え (非現実) の内容を分けて保持する能力がない。

現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。
だから、日本の知識人には価値がない。

せっかく教育制度を作っても、高等教育の部分には教える内容がない。
大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
またイザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中の<プールサイダー>で、言葉
(ロゴス) につ いて以下のように語っています。

、、、、、 日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。 (引用終り)

イザヤ・ベンダサンは、同著の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活
動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

我が国に生きているのは、実学 (技術) の教育ばかりである。
だから、英米流の高等教育が機能しなくても、我が国の職人は世界一優秀である。

このような事情により、我が国は精神年齢12歳の大人の住む国となる。

感性あって理性なし。

我が国は、一億総歌詠みの国となっている。

英米人の博士は、一般に哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) です。
我が国の医学博士や工学博士といった現実の匂いのする実学 (技術) 博士のような称号ではありません。
職業教育は、ただ知っているだけでよいのですが、知識人になるには、理解が必要です。

高度な職業人を作るには、知識人に職業教育を施す必要があります。

そのためには、メディカル・スクール (medical school) とか、ロー・スクール (law school) といった大学院の教育の充実が必要です。

我が国では大学の教養を充実させられないので、大学院を本格的に医育機関に格上げすることもできない。

現実経験は誰にでもある。
その経験から異次元の内容である「あるべき姿」の世界を展開する考え方が必要です。

そのためには、英米流の高等教育が役に立ちます。

大人の教育の必要性が理解されないと、わが国の英語圏への留学も本格的なものとはならないでしょう



夏目漱石は、 <マードック先生の「日本歴史」> の中で、日本人の無力さ (無哲学・能天気) について以下のように表現していますね。

「丁度 葉裏 (はうら) に隠れる虫が、鳥の眼を晦 (くら) ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着 (とんじゃく) すべき所以 (いわれ) がない。黄変色するのが当たり前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。」つまり、夏目漱石のたとえによれば、「日本歴史」を著したマードック先生は研究する人であり、日本人は研究される虫ですね。

日本人は未来に関する不安を拭い去ることは出来ない。

それは、日本語には未来構文がなく、未来の内容が存在しないからであります。
未来の内容が無ければ、それを考えて語ることもできないし、それらを比較して自己の未来を選ぶことも、決めることも出来ません。
だから、日本人は、未来の内容に力を結集して努力を積み重ねることがむずかしい。
この国には何でもあるが、ただ夢と希望だけが見当たりません。

「そのうち何とかなるだろう」というその日暮しの有様が不安を呼び起こします。
未来に関する不安を持つ老人は多数いるが、政治指導者には確たる未来構想がない。

未来の話は誰からも相手にされない。

来年のことを話せば鬼も笑う。

その年寄りの金余りの資金を財力に見合った景気回復の起爆剤とすることも難しいです。

(6)
責任観念が欠落している民族においては、政治責任の所在も宙に浮いています。
意思 (will) は未来構文 (未来時制) の内容です。

だが、未来構文は日本語にはありません。
日本人には、英米人の意思に相当するものがない。

だから、日本人は意思薄弱に見える。

殺す意思があれば有罪。

殺意がなければ、たとえ人はその行為によって死に至るとも無罪です。

だから、死刑執行人に罪はない。

自己の意思の内容を明確に示すことができなければ、責任感も罪悪感も意識できません。

我が国には、自己の意思を明らかにする指導者がいない。

神の意思を告げる指導者もいない。

政治指導者に意思の内容を求める有権者もいない。
意思の観念がない社会では、国がひっくり返っても責任者は出なかった。

とかく、この世は無責任ということか。

意思を鮮明にする必要のない当番・お役目気風の官僚に国の政治がゆだねられています。

選出された政治家には意思がないであるから、何事についても「良きに計らえ」ということになります。既成事実の追認ばかりが仕事になる。
いったん問題が起これば、受身の姿勢をとることになり、「英知をもって対処した」にはならず、「苦しい立場に立たされた」になります。
いくら実況放送・現状報告の内容を知っていても、意思がなければ現在の閉塞状態を打開する方策は見つかりません。


内容を淡々と語れば、まるで他人事のようになる。

実況放送・現状報告の内容に感情を込めて語れば浪花節のようになるが、理性は表れてこない。
これが我が国に昔からある「世の中は、、、、」式発想法の限界です。あとは諦観あるのみです。

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎>
(The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。

本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。

この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。

日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。

、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)

意思のあるところに方法はある(Where there’s a will, there’s a way).ということです。
意思のないところに打開策はない。
意思のない人たちは、棚から牡丹餅の落ちてくるのを常に待ち望んでいる。神頼みじゃ。


日本語は時制 (tense) がないので、考えと事実の内容を区別することが難しいです。


日本語の「私は行きます」は、英語の ‘I go’. (現在時制) の内容とも、’I will
go’. (未来時制) の内容とも解釈できます。前者は事実 (現実) であり、後者は考え
(非現実) であります。


日本語は、現在構文・過去構文・未来構文の区別がないので、現実構文ばかりの言語ということが出来ます。
「月が出た出た」と「月が出る出る」の違いは、前者が現実完了構文であるからです。


「出る」「出た」は過去のことでもなく、未来のことでもなく、目の前のことです。
日本人の考えでは、過去は幻となり、未来は夢となる。どちらも、取り留めの無い内容になる。

此の儘、馬鹿な官僚指導 (序列指導) の体制を続けていると、日本は座して死を待つことになりかねない。

今、日本に必要なのは「ガリ勉の人」ではなく「自由な発想をする考える人」なのです。

「自由な発想をする考える人」に活躍の場が与えられる社会が必要なのです。


だがしかし、自己の「あるべき姿」の表明は、周囲のものに無視されている。

日本語脳には、「あるべき姿」の内容を受け入れる余地がないからである。


英米人は、日本人の活躍ぶりを見て “Clever, yes; but can you really trust them?”
(かれ等は確かに利口だ。

だが、本当に信頼できるかね) という。


知識は、ただ物事を知っているだけでは表層の水準です。奇麗事ばかり行っていては現実対応に不具合が生じます。
歴史観を持たない原理主義の人のようになります。

言霊の世界に生きる人のようです。

理解してこそ深層の水準に達します。

時流に流されないためには、深層に達することのできる教養ある人間が必要です。
英米流の高等教育の成果を手に入れるには、英語だけでも考えることのできる日本人の育成が必要です。

そうすれば、理性判断 (rational judgment) が獲得できるので盲目の判断 (blind
judgment)を排除できます。

我が国の公文書の取り扱いについても、全ての英文に訳文の添付を義務付けるなど、英文を他の外国語並みの条件で取り扱う我が国の行政は時代遅れの感が否めません。


公文書を取り扱うほどの知識のある人は、英語は読めて当然でしょう。

かれ等は我が国の高等教育を受けている。


英語の書類にいちいち訳文の添付を要求するのは、公務員が英語を理解できなくても当然と考えられているからでしよう。

政府の時代遅れが目立ちます。


小中学校に英語の授業のあるのは、わが国民は英語がわかって当然という考えから出ているのでしょう。


たとえ、高等教育を受けなくても、一生、外国人と付き合うことがない日本人であっても。子供の英語教育が無駄な労作になりはしないか。

インテリが英語に無理解でありながら、単純労働者に英語の習得を義務付けている。これが社会のねじれ現象である。


どうしてこのような現象が放置されるのかといえば、日本語脳は、常に人間の同次元の序列を目指しているからであります。序列判断に目がくらんでいるのでしょうね。


だから、こと英語の能力に関しても、各人の職業にかかわらず、国民は同次元の序列の格付けをされて、取り扱いを受けることになる。
そして、日本人全体が切って揃えられたような能力の域を個人が脱することができないような没個性的な社会になっている。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。

それにもかかわらず、我が国においては英語教育を種にした序列争いばかりが激しい。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。

英語を実用の言語とすることが大切です。


たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。


英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。

なおその上、英米流の哲学にも優れた民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。


だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。

実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けます。
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「仕方が無い」なんて

言葉は使っちゃダメだね!

イエス・キリストの教えは、現実的であり、歴史的です。

イエス・キリストは、神さまの救いを信じないで死んだら死後に

燃える火の池である地獄に落ちて永遠に苦しむとはっきり教えている。

同時に、信じる者は救われるとも、はっきり教えている。

そして、この世界の未来のことも、預言者によって、

全て聖書に示されているし、イエス・キリストも弟子たちも同じことを預言している。

イエス・キリストはまた、この世に来るといわれた。

来ると言ったら本当に来るのです。

日本人は、それを「寝言」だと思って、「イワシの頭も信心から。」などと言っている。

何事にも、まともに聞く気がないし考えないのです。

そして、世界は、神さま無しに偶然に進化したと思っている。

神さまの存在すら信じないのだから、そりゃあ、毎日不安で

心もとなくて、せつな的になっちゃうよね。

そして、イワシのように誰の意思でそっちの方向に動いているのかも考えず、ただ一生懸命、みんなで同じ方向に泳いでいる。

あなたは、この国をどういう国にしたいのか。

日本は、どういう国になるべきなのか。

そんなことを考える人のことを「右翼」などと呼んで疎ましがる。

危機管理ゼロ。だから、津波が起こったら「政府と原発関係者の想定外」ってことで事故が起きちゃう。そして、日本の美しい土地がダメになった。

こういう日本では、いけないのだ。

2011年3月11日は、

日本人の弱点が悲しいほどに、はっきり見えた日。

助け合う個々の美しさも見えたけれど、、、。東北の人は毎日放射性物質を吸っているんだよ。

by日本のお姉さん

役に立たない事実を丸暗記して (rote memory) 受け売り (regurgitation) する人は必要ないのです。