太田さんが面白いとメルマガに書いていたので読んでみたら、本当に面白い!!
日本人と英語
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
今の地球は英米の世の中であります。だから、我が国には開国が必要です。
我が国の第一回目の開国は、明治維新の時でありました。
これにより、我が国民は外国との往来が可能になりました。
第二の開国は、敗戦後でありました。
我が国民は、社会の枠組みである従来の序列制度に疑念を抱くようになりました。
だが、我が国には、さらに第三の開国が必要であります。
今回の開国は、アングロ・サクソンの考え方を理解するとともに、日本人の考え方のつたなさを自覚することであります。
さすれば我が国は、国際社会において蚊帳の外に立つこともなく、世界を指導する国にもなれます。
(1) 考えることは、文章を作ることである。
文章を作らなければ、考えはまとめられません。
考えがまとまらないときにはどうしたらよいのかわからず、閉塞感におそわれます。
それで、我が国全体が閉塞感に覆われています。
閉塞感は気分・雰囲気の問題でありますが、その原因は気分・雰囲気を扱っていても解決しません。
「理屈っぽい」などといって、原因究明を投げ出しても、問題解決には至りません。
文章を作るときに使用する言語の特徴 (文法・語法) は、私たちの考える内容に大きな影響を与えています。
夢と幻の内容は対応する構文がないのでいくら考えても辻褄の合うものとはならないです。
日本人は過去のことと、未来のことは真面目には考えられません。
時制がないので、地獄も極楽もまともには考えられていない。
日本語で考える刹那は永遠のごとく見えていますので、我らは次元の異なる世界に飛び移るとはとても考えることができなのでしょう。
過去の事実を過去の出来事として語ることはできない。
「出た出た月が」といったように、過去の事実をあたかも目の前の出来事のように語らなくてはならない。
歴史的に見れば侵略戦争は世界中で行われていたのですが、そうした過去の事実を現在とは次元の違う過去のものと考えることは、日本人にとって非常に難しいようです。
今も昔も、日本人はナウな感じのする今様の人間です。
このような精神状態では、温故知新もままならないです。
日本人は、フィクション (虚構) とノンフィクション (記録) の区別にも親しみがないようです。
事実と虚構の区別をつけないで文章を書くと、歴史小説や週刊誌の記事のような内容になります。
もしも週刊誌の記事に他人の名誉を汚す内容が書かれていたとしたら、そのようなことは歴史小説にあっても当然行われていることであります。
事実と虚構の区別をつけないで考える人には、現実直視も難しく、また哲学を考えることも難しい。
それで、無哲学・能天気の人となる。
負け戦も勝ち戦に見えてくる。「、、、、だろう。 、、、、だろう」と絶えず推測の上に推測を重ねて、確かな内容がまとまらない。
こうした情況から抜け出せないでいるわが身を「だって、本当にそう思っていたのだから、仕方がないだろう」と言い訳する。
そして、何事も起こらない。ああ空しい。
日本語を話す日本人にとって天皇制の廃止は容易ではないでしょうね。
それは、日本人が序列社会に住む序列人間だからです。
移民した日本人は、天皇制を廃止した日本人と考えることもできます。
日本人の力は、外国では日本人特有の真価を発揮しづらいですね。
私は、天皇制の廃止を願うものではありません。
それは、我が国にもう一つ世界文化遺産が存在するようなものだと考えております。
日本人の迷いを天皇制に帰すのは、考えの拙さから来るものと考えられます。
日本語には人称 (person) がなく、日本人には自己 (第一人称) がありません。
日本人の自己 (self) は「わたくし」、「わたし」、「わし」などとあくまでも情況次第 (situational) で変化します。
全ての日本人は、天皇陛下の前では「わし」ではなくて「わたくし」である。
天皇は、我が国においての人間序列の最高位です。
日本語の文章がまとまらなければ、日本人の考えはまとまらない。
自己に関する階称を含む文章が出来なければ、自己の考えは成り立たない。
それで、つかみ所のない人間となる。
日本語には、階称 (言葉遣い) がある。
階称を使えば自己の呼び名も相対的に定まる。
だが、階称を使うためには、序列づくりが必要となる。
自分自身が序列人間であることは、必要なことである。
日本人には理性がないので、議論が出来ない。
それで序列順位により物事を決する。
理不尽であると指摘を受けたときには、序列の存在を使って正しい判断をしたとの説明になったものとする。
納得いかない。だが、諦めるより仕方がないということか。
それで、何事にも天の声が大切である。
わが国の敗戦も天の声で決まった。
だから、自己の恣意を相手に容認させるために、日本人には序列を定めるための争い
(競争) が必要になる。
試験地獄のようなものである。序列争いがなくては、日本人の励みが出ない。
礼儀正しい日本人も、序列なきところでは礼儀なし(無礼講)である。
そして、肝心の文章の内容自体の論理構成は時流に流され疎かになる。
歌は世につれ、世は歌につれでしょうか。
自己の名乗りには選択の自由は少なく、環境の序列に正確に合わせなくてはならない固苦しい社会なのです。
自分が大きくなったり、小さくなったりしなければならない。
日本人は、まず最初に、周囲の空気を読む必要があります。
そして、自分自身が雰囲気に呑まれる。
これは気分・雰囲気の問題であって、物事の本質ではない。
いろいろな気配りするので、日本人の考えは難しくなる。
だから、日本語を使うのは難しい。
考え (内省的な哲学) の内容が無いので、いきおい外面に神経が集中します。
感性ばかりが強調されて、理性がありません。
日本人が見栄と外聞にこだわるのは、こうした事情があるからです。
序列 (hierarchy) の中に自己の位置を見出すことにより自分の名乗り方が定まり、日本人の考え (文章) は内容が確定します。
文章が確定すると、序列による協力が可能になります。
どこの馬の骨かわからない人間になることを避けるために、日本人は自ら序列を求め、上下の間に自分の身をさしはさむ努力をします。
修身の授業では「君に忠、親に孝」「身を立て、名を上げ、やよ励め」を教えた。序列思考が日本人であるための大きな精神的な支えとなっている。
それで、天皇制という一種の家元制度の中での臣民・皇民といった序列人間になることに強い愛着を持ち、お互いに見えない序列の鎖で繋がれてこの国の中で安心しているようです。
その序列の頂点には、絶えず天皇が見えている。
日本人はリーズナブルな現実対応ができない。
現実構文のみを有する日本語では現実対応の方策が語れない。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。
この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。
だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最
終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。
これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
官僚や会社人間は序列を作って相互に利益を守りあいます。
だが、消費者としては序列作りが出来ないので自己利益を守ることが難しいのでしょう。
日本人は、世界観 (非現実) というものを持っていないので、理想の国を作る考えもなく、その国を守る考えもないようです。
日本人は、個人的に海外に雄飛することにも消極的であります。
外国に出るときは、軍隊とか、企業戦士とかいった、序列社会の一員として外国に派遣され、序列に基づいた協力に力を発揮します。
異民族政府の下では、日本人の序列社会作りは成功しません。
日系移民が能力を発揮できない現象は、本国の人たちからは序列社会を離れた不心得者のように考えられているのかもしれません。
一旗あげて母国に帰国することも難しい。
序列を離れた海外の日本人の子孫はその国で実権を握ることもなく、単純労働者として母国に収容されているようです。
しかし、序列作りが出来なければ、何処の国に行っても大きな力を発揮することはできないでしょう。
序列社会における個人の向上心と序列による協力は、セットになって大きな効果を上げているのかもしれません。
(3)「政府」とは諸外国では「省庁」迄ですが、日本では「基幹産業企業」迄含まれるのです。
日本の「基幹産業企業」の経営担当役員に官僚の意向を無視して自由な経営戦略策定が可能だと思いますか?
「政官業癒着」と言うシステムを介して「官」の意向が「業」に「上意下達」されているのです。
日本人にとっては何事につけ「上と見るか、下と見るか」の判断が大切です。
「みんな、仲良く」と口ではいうが、実際には、序列なきところに礼儀なしとなっています。
それというのも、日本人の礼儀は、序列作法だからであります。
「下におれ、下におれ」と相手に号令を掛けるのが好きなようです。
階称ありで人称なしの日本語は日本人気質の根源となっているのかもしれません。
気分・雰囲気しだいで、態度が大きくなったり小さくなったりしています。
日本人の序列は階称 (言葉遣い) により作られて、日本人の間で序列に関する状況証拠により強固に保たれています。
だが、英語には階称はありません。
未来構文の主語が第一人称である場合に、本人の意思を表します。
意思 (will) は、未来構文 (未来時制) の内容です。
だがしかし、日本語には時制 (tense) がないので、未来構文はありません。
人称がないので、第一人称の主語もありません。
意思の内容に関する文章を作らない日本人は、優柔不断・意思薄弱にみられます。
以心伝心を旨とするアニマルに近いものを伝達に利用しています。
丸山真男は、<現代政治の思想と行動> の中で、現実肯定主義の傾向を示す我が国の権力者たちの実体を下のように記しています。
、、、、、日本の最高権力の掌握者たちが実は彼等の下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やゴロツキにひきまわされて 、、、、、 柳条溝や蘆溝橋の一発はとめどもなく拡大して行き、”無法者”の陰謀は次々とヒエラルヒーの上級者によって既成事実として追認されて最高国策にまで上昇して行ったのである。(引用終り)
日本人には、意思はないのですが、恣意 (self-will) があります。
恣意は、私意・我儘・身勝手などと呼ばれ、理性のないアニマルや子供に見られるものです。
アニマルの場合は調教により是正され、日本人の場合には滅私奉公により鍛えられてきました。
滅私を禁止すると、自由意思の代わりに (自由) 恣意が顔を出してくる。
これを自由の履き違えといいます。
こうした事情が自由を享受する資格のない日本人の問題点です。
責任 (responsibility) とは、日本語では自分の引き受けてなすべき任務と考えられています。
リスポンシビリティは、応答可能 (responsible) なことであり、意思のある人間にその解決方法を求めています。
意思がない世界における責任は、アニマルのように与えられた役割をただただ為し終えることとなります。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。
遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。
島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。
これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。
この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。
鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。
16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。
遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。
(引用終り)
意思の無いところに自由意思 (voluntary) は考えられなく、真の自由 (liberty) も想像できません。
意思の内容が見当たらないのであれば、ボランティア (自由意思に基づく人の) 活動の重要性なども理解できません。
無哲学・能天気の人は何も考えない。
このような日本人に対して行動を起こさせるときは掛け声をかけ気合を入れる。
自己の意思決定もなく、行動は単なる拍子ものとして開始される。
気合・掛け声と共に行動に踏み切ることのできない個人は、文弱ということになり、仲間内の間で面目を失うことになろう。
英米の真似事としてのボランティア活動の奨励は、意思そのもののない人たちには半強制的な勤労奉仕と変わるところがありません。
だから、個人主義も成り立ちません。その意味で我が国は「偽りの自由主義国家」です。
(4) かの有名なW.チャーチルの <第二次世界大戦回顧録> の中には、以下のような日本人の描写が記されています。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。
笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。
しかし、これでは困る。
反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。
すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。
無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。
ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。
日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
日本人は外交を知らない。(引用終わり)
「今ある姿」の世界の指導者となる人は、「あるべき姿」の内容を提示して、その現実対応策を説明する必要があります。
「あるべき姿」の内容を未来構文で表現し、「今ある姿」を現在構文の内容として考え、両者を比較した上で現実対応の方策を割り出すことの出来る人は、物事を理解しているといえます。
物事を理解している人の答えは、リーズナブル (reasonable) になります。
各人がリーズン (理性・理由・適当) のある答えを持ち寄って比較すれば、建設的な議論が可能です。
リーズナブルな答えには、相手を説得する力があります。
これが、アングロ・サクソン流の知的な生きる力となります。
日本人には、「今ある姿」があって「あるべき姿」がない。感性ばかりで、理性がない。
感想ばかりで、理想を語らない。「理屈っぽい」といって議論をする人を避ける。
だから、日本人の発言は歌詠みのようなものになります。
語り部、浪曲師も似たようなものです。
「あるべき姿」と「今ある姿」の両者の比較検討ができなければ、ただ物事を知っているというだけのことになります。
このような人は、議論が出来ません。どんぶり勘定で結論を出すことになる。
あえて議論を試みると、不毛の議論となります。
キリスト教やマルクス主義 (反キリスト教) は、「あるべき姿」という非現実の内容であります。この内容から導きだされる現実対応の方策は現実オンリーの考えしかない日本人にとっては、対応不能となります。
つまり、話にならない。だから、これらの主義・主張は日本人にとっての危険思想ということができます。
仏教はインド人の哲学で、現世・前世・来世の内容がある。
人が死ぬと、その人はまた生まれ変わるので、インドでは墓は要らないのだそうです。
以前は、死体は川に流したといわれています。
前世と来世の内容は、非現実の内容です。ヒンズー語の時制あるこのような考え方を日本人が学ぶのは、非常に難しい。
現実離れしているからです。
だが、時制のない中国語に一度翻訳もらって学ぶのであれば、より身近なものになる。
この時点で、時制のある考えは、時制のない考え方に変身する。
中国語には時制がないので、中国人の考えは日本人と同じく、現実オンリーの内容です。
仏教は中国人の手を経て彼等の祖先崇拝と結びつたので、わが国の仏教は葬式仏教となった。
中国の聖人である孔子は、奇怪なこと、勇力のこと、乱倫のこと、神秘なことを口にのせて主張することがなかったといわれている。
彼は前世と来世の非現実に関する内容を語らなかった。
この点で、日本人には、理解しやすい教えであった。
強い意思 (will) は、‘shall’ を使った未来時制で言い表されます。
例を挙げれば、マッカーサは日本軍に攻め込まれてフィリピンからオーストラリアに脱出したときに ‘I came through and I shall return’. (わたくしは [脱出に] 成功し
た、わたくしは返る) といった。ジョーン・バエズは、反戦歌で ’We shall overcome’. (勝利を我らに) と歌った。
神は十戒の中で ‘You shall not kill’. (汝、殺すなかれ) といった。
日本語で考えれば、どれもこれも大したことではない。
それというのもその場の気分・雰囲気を読んで勝手に解釈され日本語に置き換えられるからである。
英語で考えればこれらは努力目標の設定であり、聞く人に希望を与える。 ‘I shall return’. (わたくしは返る) は「未来において、わたくしは返る」ということであり、’We shall overcome’. (勝利を我らに) は「未来において、我々は克服する」ということであり、 ‘You shall not kill’. (汝、殺すなかれ) は「未来において、貴方は人を殺さない」ということである。
我が国の神様は、出雲に集まって談合はするが意思決定は行わないようだ。
実況放送・現状報告の内容に花を咲かせていることでしょう。
究極の理想世界を見据えて日夜努力する指導者のような人はいない。
現実の他人と見比べて自分はどうであるかということが、問題の全てである従者のような人ばかりだ。
英米人の意思や強い意思の内容が、日本人に感動を与えないのは、日本語脳では、その解釈を飽くまで現実においているので「そんなことを言ってもだめだぞ。現実はそのようにはなっていない」と反論する構えである。
このように現実以外には考えるものが何もないと確信すると、その人は閉塞感に襲われる。
「今ある姿」の世界に入り浸っている日本人には、この閉塞タイプが多い。
英語は日本語と対応していない。
これが、英文和訳による文化輸入の限界である。
全てを訳し尽くしても何かがおかしい。
かっこいい意訳は自分勝手な解釈となり、異訳・違訳に繋がる危険が多い。
「日本語に英語に対応する言葉があるということは、日本人が英語の意味を理解しているからである」という人がいる。
だが、この内容は本当でないようだ。
「適当にやれ」は、「不適当でもかまわない」と理解されたりもするからである。
リーズン (理性・理由・適当) の概念がないということは、リーズナブルな (理性ある・理由になる・適当な) 判断ができないということである。