太田述正コラムは、おもしろいな。外交がヘタだと潰されるってことだ! | 日本のお姉さん

太田述正コラムは、おもしろいな。外交がヘタだと潰されるってことだ!

太田述正コラム#4769(2011.5.26)
<皆さんとディスカッション(続x1214)>
<太田>(ツイッターより)
 シュワちゃんの「側室」の好みは徳川家康とちょっと似てるね。
 だけど、数が違う。(シュワ=1名、家康=15名。)
http://bit.ly/ioXudT
 もっとも、手を付けた女性の数はどっちが多いかわからんが・・。
 それにしても、太田コラム、間口が広いだろ。

<ΕΤΤΕ>(「たった一人の反乱」より)
 【コラム】10万ドルの大使ポスト
http://www.chosunonline.com/news/20110525000064

 『朝鮮日報、恐るべし。』ということなんでしょうか?
 アメリカは不思議の国のようです。

<太田>

 朝鮮日報が報道するまでもなく、米国の大使ポストの多くが、米大統領へのその大統領候補時代の寄付金の額に応じてど素人とに配分されている、と いうことは周知の事実だ。
 また、だからといって、米国は不思議の国なんかじゃー全くないよ。
 「「ワシントンの外交関係者は「外交経験のない公館長の問題は、米国のシステムでカバーされる」と語った。」などと上記記事には出てくるけど、 米国のようにトップダウンで動く組織において、「経験のない」トップが、「システム」・・部下達ってことですな・・で「カバーされる」わけがな い。
 米国の外交なんてあってなきがごとしであり・・だって(キャリア外交官を含む)指導層だって国際音痴ばっかしなんだから・・、在外公館のトップ がど素人であろうとキャリア外交官であろうと、五十歩百歩だからなんだよ。


 それでは、記事の紹介です。

 こりゃ困ったねえ。↓

 「原発反対、日独中韓で増 日本は初めて多数に 世論調査・・・」
http://www.asahi.com/national/update/0525/TKY201105250637.html


 現在、「『東京に暮す』を読む」シリーズで、改めて日本人の人間主義性について考察していますが、渋谷駅前のスクランブル交差点の驚異について 書いたこの記事、実に面白い。↓

 ・・・the Scramble in the Shibuya district of Tokyo・・・
 <人がぶつかんないのが信じられんとさ。↓>
 ・・・the passing bodies seem less chaotic than in, say, Beijing or
New York, moving with the cool predictability of a stopwatch. Despite so
much humanity inhabiting such a confined space, there's rarely a
collision, sharp elbow, shoulder-brush or unkind word.・・・
 <今どきの日本の若者は・・という言い方がされるが、どっこい、礼儀、譲り合いの精神が生きているとよ。↓>
 ・・・the Scramble captures the contradiction of modern Japan:
Although so many young people seek to stand out in the crowd with the
latest, zaniest fashion, their upbringing still demands civility: They
may look counterculture, but they're still bound to step back and offer
a stranger the right of way.・・・
 <日本人は自分のいる場とその場における他者の存在を常に意識しているからだって。↓>
 "Foreigners are amazed by the smaller scale of things here," said
William Bodiford, a UCLA professor of Asian languages and culture.
"Natives get used to negotiating tighter spaces. They're raised to be
very aware of one another, notice their surroundings."
 <外国人には、ちょっとやそっとじゃマネできないってさ。↓>
 Such spatial negotiation doesn't come easily. "It took me a long time
to realize why I felt so clumsy in Japan and not nearly so in America,"
Bodiford said. "The desks and ceilings are lower, the spaces cramped.
It's so much easier to bump into things."・・・
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-japan-intersection
-20110523,0,1109622,full.story

 米英の確執、チャーチルのアホさかげんが書かれている。↓

 <ナチスドイツに勝利したのはいいが、ローズベルトによって大英帝国は瓦解させられたと。ジョーシキ!↓>
 ・・・for Churchill, the origins of the historic alliance resided in a
historic failure: The cost of success in one area -- defeating Nazism --
was matched by the scale of his defeat in another: protecting the
British Empire, the great love of his life, from Roosevelt's predations.
 <それこそ、先の大戦における米国の第二の、しかし極めて重要な目的だったって。
 米国は、英国抜きの米ソ2大強国体制を構築しようとしたというわけ。チャーチルに輪をかけてアホだったローズベルト。↓>
 Sweeping the British Empire from the world's stage, and thus
diminishing Britain's geopolitical clout, was a secondary, but still
important, American war aim from the outset. Roosevelt's post-war vision
had room for two great powers -- the United States and the Soviet Union
-- but not for three. Britain would be both victor and vanquished, left
glorious but bankrupt by World War II.
 <ドゴールの方がチャーチルよりよっぽど以上のことが分かってて、1944年11月に新たな英仏同盟を提案したけれど、チャーチルは米国に取り 入って後ろから米国に影響力を行使しようとして、この提案を断ったという。ホントにアホだねー。↓>
 Such are the harsh and ironic realities of power politics. Charles de
Gaulle was ultimately more attuned to them than Churchill. In November
1944, he proposed a new alliance between Britain and France. "Should
England and France agree to act together ... they will wield enough
power to prevent anything being done which they themselves have not
accepted or decided. Our two countries will follow us. America and
Russia, hampered by their rivalry, will be unable to counter it."
Churchill disagreed, hoping instead to influence the Americans from
inside their shared English-speaking tent. ・・・
 <だから、米英の特殊関係なんてのは、ソ連とは組めないと気付いた米国がしょうがないから英国と組んだことに起因する、ごく最近の現象だって さ。↓>
 All this is to say that the specialness of the relationship between
Britain and the United States is both a more recent phenomenon than is
generally appreciated and a product of the belated American realization
that Stalin was not a man with whom it was possible to do business. ・・・
http://www.foreignpolicy.com/articles/2011/05/25/abusive_relationship?page=full

 全くもってその通りだ。↑
 米英の日本との戦争を反省するところまで、後一声なんだけどなあ。

 2月14日、議事堂において緊急閣議が開かれ、対露交渉に入ることが決定された。
日本側提案の主旨は、・・・日本は、ロシアに武器を供給す る・・・、そして見返りに、満蒙におけるロシアの譲歩、とりわけハルピン以東の東支鉄道の日本への売却を求める。・・・

 条約[第4回日露協約]は最終的に、7月3日、ペトログラードにおいて調印された。協定の公開部分は、極東における領土的権利及び特殊権益の維 持に向けて協力し合う、とした簡単な文書に過ぎない。付属の秘密協定が、了解の中心部分をなしており、そこでは、一方が第三国との戦争状態に入っ た場合、他方は、要請に基づき、支援を行う。また、双方は、事前協議によらずして単独講和を行わない、とされていた。更に、長春・ハルピン間の鉄 道売却問題を、地域委員会を設けて処理する旨、合意された。」(116~118)

 「<この>日露同盟は、・・・山県と長州閥(寺内もこの中に含まれる)によって、より正しい判断に基づく外務省の反対を押し切って進められた。
外務省内の加藤や後に石井が属したグループは、日本の安全保障は地理的に離れたイギリスとの同盟で十分と見ていたが、

どの内閣にとっても、元老の 主張をくつがえすことは実際不可能であり、大隈内閣も例外ではなかった。

・・・不思議なのは、山県ほど鋭敏で、世故にも長けた慎重な人物が、な ぜ、ロシアのように不安定な国
(1916年1月、すでにペトログラードではストライキが起こっていた)との提携を主張したのかという点であ る。

<この>日露同盟は、地殻変動的な革命の波に瞬く間に飲み込まれ、日本に何の利益ももたらさなかった。・・・
 石井は、おそらく、同盟・・・締結に熱心ではなかったし、問題性を知りながら意に反して交渉にあたらされたと思われる。石井には、加藤のような 強い個性も権力基盤となる政党の背景もなかった。」(119)

→ニッシュが、ここで正しくも、組織による外交ではないところの、元老による外交の危険性を指摘しています。日英同盟の基盤の上での日露「同盟」 であったとはいえ、価値観を共有しない「同盟」など、よほどのことがない限り結ぶべきではないのです。

いわんや、明治維新以前からの仇敵たるロシアとの「同盟」においてをや。

もっとも、幸か不幸か、この「同盟」は、ロシア革命の勃発によって、瞬時にして瓦解してしまうわけです。

 なお、石井についても、内外世論から超然としていたという感がありますが、これは加藤がいかに例外的な存在であったかを示すものです。(太田)

 「1917年4月、アメリカが対独参戦し、日米は期せずして同盟国となる。

中国における戦時中の日本の行動にワシントン<は>反対の態度を明ら かにしていた・・・。
もしワシントンが、自国の戦時生産のために必要という理由で、鋼鉄・銑鉄等々の輸出を断ち切れば、日本の戦時産業化の弱点が さらけ出されるに至ろう。
更に、アメリカが軍備拡充計画に乗り出し、戦争を連合国側の有利に導けば、世界は来るべき講和会議の場で、疲弊した欧州 諸国よりもアメリカの言動に一層耳を傾けがちになろう。」(123)

 「<そこで、>1917年6月に、石井を団長とするワシントンへの戦時使節団が
編成された・・・。・・・

 日本は、中国における立場に関し、正に、イギリス、フランス、ロシアの是認を得た、と思っていたが、実際その通りだった。

そして今や、戦時使節 派遣の機を利用して、アメリカの容認を得ようと努めた<わけだ>。・・・

 <そして、>11月2日<に米国務長官のランシング(注6)との間で、>」交換公文<(石井・ランシング協定)(コラム#4500、4518、4528)>・・・<が>取り交わされた・・・。」(125、126~127)

 「<もっとも、米国務長官の>ランシングに関する限り、1915年のブライアン・ノート<(注7)>で既に認めた以上のものは手放していない、 との思いがあった。・・・

 アメリカ側の見方では、・・・<そもそも>これは・・・アメリカ海軍が大西洋に展開している間、東アジアの現状維持を図ろうとしたものに過ぎな かった<のだ>。」(126)

 (注6)ランシング(Robert Lansing。1864~1928年)はブライアン(下掲)
の後任の米国務長官。1920年、独断専行により、ウィルソン大統領に解任される。
・・・4月末、石井がワシントン に信任状を差し出したとき、日米関係は沈滞した憂うべき状態にあった。

日本はボルシェビズムの拡大を阻止すべくシベリアへの大軍派遣を期している のでは、と疑うランシングとウィルソンに対し、石井は、それが杞憂である旨を説いた。

ワシントンで表立った反対が広がらずに済み、日米両国軍隊の シベリア派遣を決めた口頭了解の成立へと至ったのは、石井の才覚と東京の指導層の慎重さによるところが大きかった。」(126~127)

 「<しかし、>石井は、・・・ワシントンにあって、終始心中穏やかでなかった。

アメリカ側は、日本に敵対的であり、新聞に、戦争初期に醸成され た不信間を捨て去る気配は見えなかった。

・・・関係を悪化させた要因は中国問題であり、事態を破局寸前までもっていったのは、阪谷事件であった。

1918年夏以来、日本政府は、阪谷芳郎男爵(1863年~1941年)を日本人としては最初の財政顧問として中国に送り込むことを目論んでい た。

阪谷は、蔵相経験(1906年~08年)もあり、1917年、パリで開かれた連合国経済会議に日本代表として出席するなど、群を抜く適任者と 言えた。加えて、彼には、海外に多くの友人があった。・・・<しかし、>アメリカ側は、事前に同意を与えた覚えなど一切ないと否定し、さらに促さ れると、対中国国際借款団の刷新に向けた1919年の提案によって、状況は一変しており、借款団提案がまとまるまで、日本は、中国へ
の財政顧問派 遣を行うべきでない、との声明を発表した。

・・・石井は、その春、阪谷との「親しい関係」に照らし、・・・<駐米大使を>辞任するに至る。・・・ 石井は、7月、日本に戻った。」(133~134)

米国は、ロシアの赤露への変貌に対する危機感が希薄であったことから、シベリア出兵に及び腰であっただけでなく、その、名実ともに世界覇権国た らんとする野望と人種主義的帝国主義から、東アジアの地域的覇権国たる日本による支那安定化努力を執拗に妨害し続けた、ということです。(太田)

 石井の前半生は、単純であり、彼は、東大法学部を卒業こそしているけれど、
卒後、直接外務省に入省した純粋培養に近い人間です。

 確かに、彼は駐米大使を自ら辞すことで、それなりのインパクトを日米双方に
与えることはできたでしょう。
 (米国側に与えたインパクトが134で書かれています。)

 しかし、帰国してから、石井は、「思考が右方向へ傾斜していく様子を窺わせ・・・<単なる>自国の弁護人となった。・・・強い不安の漂う雰囲気 と、引退を控えた官吏を襲う貧困の予感は、しばしば人をこうした方向に駆り立てる」(135)とニッシュに揶揄されるようなことでは、石井は何も やらなかったに等しいと言わざるをえません。


 結局、外務省は、日米関係の改善に向けて、省を挙げて取り組むべきところ、
それを怠り、
その結果、日本は、第二次世界大戦で米国に酷い目に遭わ される
ことになるのです。

(続く)
◎防衛省OB太田述正メルマガ
のバックナンバーはこちら
http://archive.mag2.com/0000101909/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E8%8F%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
 そんな石井は、そつなく外交業務をこなす能吏ではあっても、日米関係の悪化
に危機意識を持って、積極的に、米国の世論に対して広報宣伝活動を展 開した
り、日本の世論に向けて啓発活動を行ったり、といったことをやった様子はうか
がえません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%
BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
 (注7)ブライアン(William Jennings Bryan。1860~1925年)は、米大統領
選挙における民主党の大統領候補者に3回選出された、当時の有力政治家。1913
年にウッドロー・ウィル ソン大統領により国務長官に任命されたが、第一次世
界大戦中の1915年に、ドイツ潜水艦による客船ルシタニア号撃沈の際の対独方針
について、大 統領と見解を異にしたため辞任している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%
A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%
BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3
 ブライアン・ノートは、日本が支那に対して権益を拡大しようとすることへの牽制。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%
B3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8D%94%E5%AE%9A

→同じ側に立って第一次世界大戦に参戦していた同士であるとは思えないような
緊張関係に日米両国はあったわけです。(太田)

 「1918年1月、駐米大使の椅子が空席になった際、政府は、前年の大きな功績
に鑑み、石井を後任に任命した。
太田述正コラム#4600(2011.3.6)
<戦前の日本の外相(その6)>(2011.5.27公開)

7 石井菊次郎(1866~1945年(空襲で死去、と考えられる)。外相:1915~16年)

 「石井の著作はいくつか英語に翻訳されており、そのため、おそらくどの日本人外交官よりも、海外でその名を知られるところとなっている。・・・ が、そこから、彼の人となりがはっきり浮かび上がってくるということはな
い。」(114~115)

→書かないよりは書いた方が良いに決まっており、数はそれほど多くないにしても、現在でも、日本の外交官で著書を残す人はいます。しかし、彼らの 著書が日本に影響を与えることはまずなく、いわんや外国に影響を与えたことなど皆無ではないでしょうか。
 何度も申し上げているように、法学部時代に学問的な論文を書く訓練を受けていないことが大きなハンデになっている、と思うのです。(太田)

 「1916年1月、皇帝ニコライ2世の代理として、伯父のゲオルギー・ミハイロビッチ大公が<日本を>・・・訪問したが、・・・代表団・・・ は、日本からの・・・軍需・・・物資供給拡大を目指して精力的に会談を行った。・・・