東京オリンピックの最中にチュウゴクは核実験を実施したアル
今は騒ぎすぎ、週刊新潮が衝撃の特集記事
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/2231525/
日本中が東京五輪で夢中の時
現在より一万倍の放射能汚染!
やっぱりオリンピックを招致したいですね。この東日本大震災から見事に立ち直った日本を、世界の国々に感謝を込めて「ありがとう、ほら、こんなに元気になりました」とお礼のメッセージを伝える意味でも…。忘れもしません、大東亜戦争に負けて廃墟と化した日本が、僅か19年後の昭和39年10月10日(1964年)、千駄ヶ谷の国立競技場で東京オリンピックを堂々と開催し、世界から祝福を受けたことを。
入場行進に使われた古関裕而氏の「東京オリンピック・マーチ」。当時、高校生だった私は、この見事な行進曲に感激し、以来、世界で行われたオリンピックのマーチを聞く度に「やはり日本の方が良かった」と再確認してきました。動画を貼りましたのでお時間があったら是非ご覧ください。お元気だった昭和天皇のお姿も二度ほど映像の中に登場されます。
映画「東京オリンピック」
開会式入場行進
音楽・古関裕而「東京オリンピック・マーチ」
さて、この東京オリンピックを日本中が歓喜の中で開催している最中に、支那中共はなんとウイグル地区で核実験を実施するという言語道断の暴挙に出たのです。そして昨日発売された週刊新潮は、この時に受けた東京の放射能は、大騒ぎになっている現在のそれと比較して「一万倍!」と伝えています。ご丁寧に当時の中野区のデータ(私の住居)が示されていますが、週刊誌に「あなた」といわれて、「なんだ、私の事じゃないか」と驚いたのははじめてです。
あれから47年、幸い私は元気に過ごしてきました。この記事の中にも札幌医科大学の高田純教授による支那中共の核実験に関するコメントが出てきます。要は、いま日本のみならず世界が日本の放射能汚染を懸念しているが、支那中共やアメリカ、ソ連が実施してきた核実験の汚染レベルと比較すると、問題にならない低レベルだとこの週刊新潮の特集は伝えています。騒ぎすぎだと。以下、その「一万倍!」のさわりの部分を抜粋して紹介します。
発売中の週刊新潮の表紙
あなたが子供だった時、東京の「放射能」は1万倍
放射能汚染の風評被害は抜き差しならない状況にある。野菜ばかリか福島の住人までが各地で受け入れを拒まれているが、拒絶している側も、かつてはかなりの量の放射能を浴ぴていたのだ。冷戦激しかリし頃、東京にも今の1万倍もの放射能が降っていたので……。
(前略)「中国や韓国、あるいはアメリカでも、日本からの輸入食品はすべて放射線で汚染されているかのように受け取られ、“何マイクロシーベルト以下でないと買わない”という一方的なボイコット運動が起ころうとしています」と、金沢大学の山本政儀教授(環境放射能学)は憂えて、こう続ける。
「食品ばかりではありません。私が住んでいる石川県の工業製品も、今回の事故とは地域的にも何ら関係ないにもかかわらず、全製品について“放射線がレベル以下である”とい。う証明書を添付しないと、輸出ができなくなっています。次々と起こる風評が、これから日本に甚大な被害をもたらしそうで、心配です」
今、日本製品を忌避しようとしている国々は、かつて放射能とどう向き合っていたというのか。だが、それについて触れるのは後にしよう。まずは、福島を襲っている謂われなき風評の根を絶つ方途を考えなくてはなるまい。
週刊新潮は340円で全国で好評発売中です。(クリックでHPへ)
同様の願いから、あるレポートを書いたのは、神戸市立工業高専の一瀬昌嗣准教授(理論核物理学)で、「福島に支援物資が届かなかったり、ボランテイアが来なかったりという深刻な状況を聞き、心を痛めています。これでは原発を必要以上に怖がるあまり、被災者の命を脅かすことにすらなります。放射能は決して軽視すべきではありません。しかし、核実験の時代にも日本には放射性物質が降ってきており、それによる健康被害は疫学的に確認されていないことも、知っておくべきだと思います」
そう話す一瀬准教授による“レポート”とは、冷戦時代に米ソなどが繰り返した核実験によって日本に降下した放射性物質と、今回の事故による被曝とを比べたもの。要は、原爆を除いても、日本人が広範囲にわたり放射性物質による被曝を受けるのは、今回が初めてではないというのだ。
大気や潮の流れを調べて
一瀬准教授が続ける。「米ソの大気圏内核実験からの放射性降下物は、1949年から日本にも届き始めました。63年に米英ソの間で部分的核実験禁止条約が締結されると、地下を除く核実験が禁止されましたが、中国やフランスはそれに加わらず、70年代にかけても両国の核実験から放射性物質が降りました。が、やはり凄かったのは60年代前半で、日本人の体内セシウム137の量が大幅に増えたことも確認されています。今回の福島の事故で、関東地方でも放射性物質が雨とともに降下しましたが、必要な警戒さえすれば、核実験の際と比べ、内部被曝も健康への影響がない範囲で抑えられると思います」
問題の特集記事、スキャン画像です。
具体的な数値には少しずつ触れるとして、実は、こうした研究は一瀬氏のオリジナルではない。基礎になるデータを収集していたのは、気象庁気象研究所で、「米ソの核実験が盛んになった1950年代から、塵や雨に混じって地表に落ちてくる放射性降下物を、2メートル×1・2メートルの水盤で採取し、その量をーカ月ごとに計測してきました。計測地は東京の高円寺、80年代からは茨城県つくば市で、観測してきた降下物はセシウム、ストロンチウム、そしてプルトニウム。観測記録は世界最長です」と、同企画室の広報担当者は胸を張る。
ちなみに今回、各所で多く検出されている放射性ヨウ素は、半減期が8日と短いため、月単位のデータ収集には馴染まないそうだ。話を続けると、「米ソが大気圏内の核実験を繰り返していた60年代までは、たしかに東京における放射性セシウムの降下量は、今回、福島の事故が起こる前までの1000倍以上の数値でした」
それどころか、たとえば63年8月に東京都中野区で計測されたセシウム137は、1平方メートル当たり548ペクレルだったが、90年代には50ミリペクレルに満たない月がある。ちなみに、ベクレルは放射性物質が1秒間に出す放射線の量。そこに“ミリ”が付くと数値は1000分の1になるので、両者の間には1万倍もの開きがある。つまり、高度経済成長真っ只中の東京であなたもまた、平時の1万倍にも上る放射能を浴びていたのである。
(後略、週刊新潮4月14日号、P24-P25から抜粋)
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/2231525/
日本中が東京五輪で夢中の時
現在より一万倍の放射能汚染!
やっぱりオリンピックを招致したいですね。この東日本大震災から見事に立ち直った日本を、世界の国々に感謝を込めて「ありがとう、ほら、こんなに元気になりました」とお礼のメッセージを伝える意味でも…。忘れもしません、大東亜戦争に負けて廃墟と化した日本が、僅か19年後の昭和39年10月10日(1964年)、千駄ヶ谷の国立競技場で東京オリンピックを堂々と開催し、世界から祝福を受けたことを。
入場行進に使われた古関裕而氏の「東京オリンピック・マーチ」。当時、高校生だった私は、この見事な行進曲に感激し、以来、世界で行われたオリンピックのマーチを聞く度に「やはり日本の方が良かった」と再確認してきました。動画を貼りましたのでお時間があったら是非ご覧ください。お元気だった昭和天皇のお姿も二度ほど映像の中に登場されます。
映画「東京オリンピック」
開会式入場行進
音楽・古関裕而「東京オリンピック・マーチ」
さて、この東京オリンピックを日本中が歓喜の中で開催している最中に、支那中共はなんとウイグル地区で核実験を実施するという言語道断の暴挙に出たのです。そして昨日発売された週刊新潮は、この時に受けた東京の放射能は、大騒ぎになっている現在のそれと比較して「一万倍!」と伝えています。ご丁寧に当時の中野区のデータ(私の住居)が示されていますが、週刊誌に「あなた」といわれて、「なんだ、私の事じゃないか」と驚いたのははじめてです。
あれから47年、幸い私は元気に過ごしてきました。この記事の中にも札幌医科大学の高田純教授による支那中共の核実験に関するコメントが出てきます。要は、いま日本のみならず世界が日本の放射能汚染を懸念しているが、支那中共やアメリカ、ソ連が実施してきた核実験の汚染レベルと比較すると、問題にならない低レベルだとこの週刊新潮の特集は伝えています。騒ぎすぎだと。以下、その「一万倍!」のさわりの部分を抜粋して紹介します。
発売中の週刊新潮の表紙
あなたが子供だった時、東京の「放射能」は1万倍
放射能汚染の風評被害は抜き差しならない状況にある。野菜ばかリか福島の住人までが各地で受け入れを拒まれているが、拒絶している側も、かつてはかなりの量の放射能を浴ぴていたのだ。冷戦激しかリし頃、東京にも今の1万倍もの放射能が降っていたので……。
(前略)「中国や韓国、あるいはアメリカでも、日本からの輸入食品はすべて放射線で汚染されているかのように受け取られ、“何マイクロシーベルト以下でないと買わない”という一方的なボイコット運動が起ころうとしています」と、金沢大学の山本政儀教授(環境放射能学)は憂えて、こう続ける。
「食品ばかりではありません。私が住んでいる石川県の工業製品も、今回の事故とは地域的にも何ら関係ないにもかかわらず、全製品について“放射線がレベル以下である”とい。う証明書を添付しないと、輸出ができなくなっています。次々と起こる風評が、これから日本に甚大な被害をもたらしそうで、心配です」
今、日本製品を忌避しようとしている国々は、かつて放射能とどう向き合っていたというのか。だが、それについて触れるのは後にしよう。まずは、福島を襲っている謂われなき風評の根を絶つ方途を考えなくてはなるまい。
週刊新潮は340円で全国で好評発売中です。(クリックでHPへ)
同様の願いから、あるレポートを書いたのは、神戸市立工業高専の一瀬昌嗣准教授(理論核物理学)で、「福島に支援物資が届かなかったり、ボランテイアが来なかったりという深刻な状況を聞き、心を痛めています。これでは原発を必要以上に怖がるあまり、被災者の命を脅かすことにすらなります。放射能は決して軽視すべきではありません。しかし、核実験の時代にも日本には放射性物質が降ってきており、それによる健康被害は疫学的に確認されていないことも、知っておくべきだと思います」
そう話す一瀬准教授による“レポート”とは、冷戦時代に米ソなどが繰り返した核実験によって日本に降下した放射性物質と、今回の事故による被曝とを比べたもの。要は、原爆を除いても、日本人が広範囲にわたり放射性物質による被曝を受けるのは、今回が初めてではないというのだ。
大気や潮の流れを調べて
一瀬准教授が続ける。「米ソの大気圏内核実験からの放射性降下物は、1949年から日本にも届き始めました。63年に米英ソの間で部分的核実験禁止条約が締結されると、地下を除く核実験が禁止されましたが、中国やフランスはそれに加わらず、70年代にかけても両国の核実験から放射性物質が降りました。が、やはり凄かったのは60年代前半で、日本人の体内セシウム137の量が大幅に増えたことも確認されています。今回の福島の事故で、関東地方でも放射性物質が雨とともに降下しましたが、必要な警戒さえすれば、核実験の際と比べ、内部被曝も健康への影響がない範囲で抑えられると思います」
問題の特集記事、スキャン画像です。
具体的な数値には少しずつ触れるとして、実は、こうした研究は一瀬氏のオリジナルではない。基礎になるデータを収集していたのは、気象庁気象研究所で、「米ソの核実験が盛んになった1950年代から、塵や雨に混じって地表に落ちてくる放射性降下物を、2メートル×1・2メートルの水盤で採取し、その量をーカ月ごとに計測してきました。計測地は東京の高円寺、80年代からは茨城県つくば市で、観測してきた降下物はセシウム、ストロンチウム、そしてプルトニウム。観測記録は世界最長です」と、同企画室の広報担当者は胸を張る。
ちなみに今回、各所で多く検出されている放射性ヨウ素は、半減期が8日と短いため、月単位のデータ収集には馴染まないそうだ。話を続けると、「米ソが大気圏内の核実験を繰り返していた60年代までは、たしかに東京における放射性セシウムの降下量は、今回、福島の事故が起こる前までの1000倍以上の数値でした」
それどころか、たとえば63年8月に東京都中野区で計測されたセシウム137は、1平方メートル当たり548ペクレルだったが、90年代には50ミリペクレルに満たない月がある。ちなみに、ベクレルは放射性物質が1秒間に出す放射線の量。そこに“ミリ”が付くと数値は1000分の1になるので、両者の間には1万倍もの開きがある。つまり、高度経済成長真っ只中の東京であなたもまた、平時の1万倍にも上る放射能を浴びていたのである。
(後略、週刊新潮4月14日号、P24-P25から抜粋)