原発のメルトダウンをくいとめに行きたいけど専門家じゃないから
地震でひどい被害にあっておられる日本人がいるのに、
大阪に住む私は、普通に生活できている。阪神大震災の時の
東京の人もこんな気分だったのだろう。
申し訳ないような気分。でも、普通に家に帰れるし、
普通に家の電話にいろんな勧誘の電話がかかってくる。不思議な気分だ。
仕方が無いから普通に生活します。
原発のメルトダウンをくいとめに行きたいけど専門家じゃないから
何もできない。日本政府はさっさと動いてほしい。
火事になっているのに、なぜ長い間、消し止められないのかも不思議。
ドイツは、どうして、ユダヤ人にあんなに酷い事ができたのか
ずっと不思議だったけど、その前にアフリカのナンビアで
原住民を殺していたのですね!!
最初の兆候があったのですね。
そのジェノサイドのレポートをイギリスが隠したそうです。
そんなことをするから、ドイツがつけあがったのだ!!
ドイツがユダヤ人を気軽に殺したのは、イギリスにも責任があるよ。
悪い事をしている相手に、非難をしなかったという罪です。
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2011年03月10日
ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その1)
太田述正コラム#4416(2010.12.4)
<ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その1)>(2011.3.10公開)
1 始めに
日本の植民地統治は、欧米諸国の植民地統治に比べて、格段に文明的というか人道的なものであった、ということは、かねてより私が訴えてきたところです。
(オランダ、ベルギー、フランスについてはコラム#149。英米については略す。)
デイヴィッド・オルソガ(David Olusoga)・キャスパー・W・エリクセン(Casper
W Erichsen)著 'The Kaiser's Holocaust: Germany's Forgotten Genocide and the
Colonial Roots of Nazism' の書評に拠って、ドイツの南西アフリカ統治をおさらいをすることで、このことを改めて検証するとともに、欧米諸国及び日本による植民地統治に係る一般論、ナチス論、米国論にも触れたいと思います。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2010/dec/04/kaisers-holocaust-olugosa-erichsen-review
(12月4日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/7940763/The-Kaisers-Holocaust-by-David-Olusoga-and-Casper-W-Erichsen-review.html
C:http://iuhuru.com/2010/07/1904-german-holocaust-namibia/
D:http://www.ft.com/cms/s/2/981b675c-b169-11df-b899-00144feabdc0.html#axzz1783DgF8q
E:http://www.dailymail.co.uk/news/article-1314399/Hitlers-Holocaust-blueprint-Africa-concentration-camps-used-advance-racial-theories.html
F:http://www.express.co.uk/entertainment/view/195713/The-Kaiser-s-Holocaust
なお、オルソガは、イギリス系ナイジェリア人たるBBCプロデューサーであり、エリクセンは、デンマーク生まれの歴史家でナミビアでNGOを運営している人物です。(F)
2 ドイツの南西アフリカ統治をめぐって
(1)序
「2004年8月、ドイツのハイデマリー・ヴィースゾレク=ツォイル(Heidemarie
Wieczorek-Zeul)開発援助相は、ナミビアに赴き、その100年前に犯されたところのジェノサイド的虐殺について、ドイツ政府を代表して謝罪した。・・・」(C)
「・・・<ビスマルクは、ドイツは植民地を持たないこととしていたけれど、>1884年に、彼は、国家的威信と経済的メリットという根拠で南西アフリカにおいて保護国を樹立すべく、その考えを変えた。・・・」(A)
「・・・<当時の>ドイツ人の思い込みとは真逆だったが、<南西アフリカの>原住民たるヘレロ(Herero)とナマ(Nama)は野蛮人(savage)ではなかった。
ヘレロは洗練された文化を持っていて、彼らの先祖からの土地を数世紀にわたって占拠してきていたし、初期のオランダ人入植者の混血種たる子孫のナマは、恐るべき戦士であるとともにキリスト教徒だった。・・・」(E)
「・・・この植民地の北半分を占拠していた半遊牧民(pastoral people)たるヘレロと、南部に住んでいたナマは、レーベンスラウム(Lebensraum=生存圏)を求めたドイツ人入植者にとって障害だった。・・・」(F)
(2)原住民の抵抗
「・・・ヘレロとナマの人々は、数的にはそれぞれ80,000人と20,000人だったが、頑強な、しかし組織化されていない抵抗を行った。
ナマの指導者のヘンドリック・ウィトブーイ(Hendrik Witbooi<。1830?~1905年。コイコイ族(Khoikhoi)の支族たるナマ=ナマカ(Namaqua)の王
http://en.wikipedia.org/wiki/Hendrik_Witbooi_(Namaqua_chief
) (太田)
>)は、希に見る有能なゲリラ隊長であり、ドイツ軍部隊を何度も屈辱的な目にあわせた。
しかし、彼の戦士達は、火砲が、とりわけ彼らの女性達や子供達に対して使用された場合に、それに対抗するすべはなかった。
そこで、ヘレロは、更には同様にナマも、彼らをドイツの「保護」の下に置く条約に調印することを余儀なくされた。
しかしこれは、ウィトブーイが臍をかんだように、謳われていた「保護」とは完全に正反対の代物だった。
その直後の1896年に、破滅的な牛疫(rinderpest)伝染病が、原住民の人々が依存していたところの、牛のほとんどを殺してしまったため、ドイツ人入植者達は最も良い牧草地を購入することができたし、それ以上の<原住民の>反対を押しつぶすことができるようになった。
主人たる<ドイツ>人種は、黒人に対しては厳しい仕打ちをすることが一番であると考えており、世紀が変わると、<原住民に対する>殴打、強姦、窃盗、殺害がうなぎ登りに増えた。
鉄道の到来すると、それが引き金になって叛乱が起こり、約150人の白人が殺された。
セポイの反乱の後に英国がそうしたように、ドイツは復讐を声高に叫んだ。・・・」(A)
「・・・ベルギー君主による<コンゴの>略奪行為<(コラム#149)>は、その20年後に<ドイツの>ヴィルヘルム2世皇帝によって、あたかも鏡に映したかのように南西アフリカで繰り返されることになる。
1904年から1909年の間に、<ドイツの>帝国的支配者とその下っ端軍人行政官達(subaltern)は、今日のナミビアの原住民たるヘレロとナマの人々を粛清したのだ。・・・」(B)
(3)初期の弾圧
「・・・当時ドイツ南西アフリカと呼ばれていた地における植民地支配に抗う1904年のヘレロの叛乱の後、・・・ヴィルヘルム皇帝は、ロタール・フォン・トロータ(Lothar von Trotha<。1848~1920年
http://en.wikipedia.org/wiki/Lothar_von_Trotha
(太田)
>)将軍を<南西アフリカの>軍事司令官<に>・・・任命した・・・<(注1)>
(注1)それまでに、彼は、普墺戦争、普仏戦争、南西アフリカ、義和団の乱で活躍していた。(ウィペディア上掲)
1904年に彼の軍は何万人ものヘレロ達をヴァーテルベルグ(Waterberg)で包囲し・・・オマヘケ(Omaheke)砂漠(注2)に・・・追いやった。・・・
(注2)正確にはオマヘケ・ステップ。カラハリ(Kalahari)砂漠の西端。(ウィキペディア上掲)
その数ヶ月後、もう1つの原住民たるナマが同じような運命を辿った。・・・
その地で大部分が渇きと飢餓で死に、幾ばくかは蠍を食べて命をつないだ。・・・」(A、C)
(続く)
太田述正コラム#4418(2010.12.5)
<ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その2)>(2011.3.11公開)
「・・・<当時、>トロータは、・・・彼の日誌に<ヘロロは>人間ではない(Unmenschen)、と記している。・・・
その後、トロータは、・・・絶滅(Extermination)指令(Order)を発し、ドイツ領域内のヘロロを見つけ次第撃ち殺せと宣言 し・・・いわゆる浄化哨戒隊(Cleansing Patrol)群を100,000平方マイルに及ぶ領域全体に送り出し
た。」(A、F)
(4)強制収容所への収容
「・・・<しかし、>この指令はすぐに撤回された。
ベルギーによる<コンゴでの>残虐行為が国際的非難を引き起こしている時にあって、これはドイツの評判を傷つけるものであ・・・る、と本国の役 人達が皇帝に圧力をかけたからだ。
1905年に、ウィトブーイが致命傷を負ったことでナマがバラバラになってしまっていたところ、当局は、<さっそく、ナマを>絶滅させる他の手 段を見つけ出した。・・・
<溺れる者がつかむ>最後の藁を、皇帝に、アフリカ人の土地を強制収用する勅令(imperial decree)を発せしめることで差し入れたのだ。・・・
宣教師達は、<このように>自暴自棄になっていたアフリカ人達に対し、悪いようにはしないから、と藪の中から出てくるように説得した。・・・
<ヘロロを中心とする>大部分のアフリカ人は<この説得に従い、>降伏し<た>・・・。・・・
彼らは、それから・・・浄化哨戒隊の手で・・・強制収容所(Konzentrationslager=concentration camp)群に・・・牛用トラックでもって・・・駆り立てられ、奴隷労働者として使われた。・・・
ナマが蜂起すると、彼らも強制収容所群に運ばれ<、やはり奴隷労働者として使われ>た。・・・
<彼らは、>この植民地の鉄道建設に従事させられたのだ。・・・
これは過酷極まりない作業であり、男達は、しょっちゅう叩かれたし女達は組織的に強姦された。
線路のある区間では、18ヶ月のうちに囚人達の3分の2が死亡した。
ベルリンの十分なる了解の下における意図的な政策行動として、その多くが飢えさせられ、鞭打たれ、死ぬまでこき使われた<ということ だ>。・・・
死亡率は40から60%に達した。・・・
しかし、<それでも足りぬといわんばかりに、>ドイツ南西アフリカの総督達の悪しき心の中で不吉な新しい観念が形成されつつあった。
ある「人類学者」がこの囚人達を調査するよう委嘱されたところ、彼は、ドイツの植民地計画が成功するために「死活的に重要」なことは、「労働に 不適」であると見なされる諸人種は消滅させられるべきである、という報告書をまとめた。
「我々の生存のための闘争」はそのことにかかっている、と彼は警告したのだ。・・・
<これを受けて、「労働に不適」とみなされたところの、ナマ用の>最もひどい収容所が、現在のナミビアの沿岸・・・のルデリッツ (Luderitz)の町の外港の湾内の岩でできた・・・シャーク(Shark)島に<つくられた。>・・・
<この収容所では、>食べ物が・・・非常に乏しく、配給が行われる時には、「囚人達は、分け前を確保するために、野生動物のように闘い、互いに 殺し合った」。・・・
死ぬべく放置されなかった者は、大きな石を島を横切って運び、湾の凍えるような水面に引きずり入れるように強いられた。
・・・恐ろしく寒い刑務所において、ろくな衣料も身につけていない状態で、掘っ立て小屋のような所に収容されていた<ナマの>囚人達・・・は、 氷のように冷たい海の中に膝頭までつかって立っているように強いられ、それから引き揚げられ、両足にマッサージが施されて生きた心地にさせられ た。
2年後、この収容所は強制的に閉鎖されたが、その居住者の70%は亡くなって
おり、まだ生きていたうちの3分の1は重い病気に罹っており、収容 所長は「彼らはまもなく死ぬだろう」と信じていた。・・・
この収容所の医師のボフィンゲル(Bofinger)は、囚人達を医学研究に使用した。
この医院に入院した者は誰一人快復することはなかった。・・・
・・・生きている囚人達を使って様々な実験が行われた。
<例えば、>栄養不良によって罹る病である壊血病に伝染性があるかどうかを見極めるという眉唾物の触れ込みで、ボフィンゲルは、囚人達にヒ素と アヘン
を注射した。 そして、彼らが死んでからその屍体を解剖したのだ。
(ドイツ人達が、その後罪の証拠となるような資料を焼き捨てたために、この強制収容政策によって、一体)何名が死んだかを正確に計算することは 不可能だが、<原住民の>粛清が極めて効率的に遂行されたことにより、1908年には、皇帝の政府は、全部で4,600万ヘクタールの土地をアフ リカ人達からもぎ取るに至っていた。
全部で75,000人の男女が死んだ<ともされている>が、歴史家の中には、<シャーク島の強制収容所で行われたことは、>20世紀最初のジェ ノサイドであったと考える者がいる。・・・
<この本の共著者達もそうだ。ここに収容された>ナマ<に関しては、>強制労働に従事させられたとは言っても、その主たる狙いは労働を通じた殺 害だったからだというのだ。・・・
これらの強制収容所群は、1907年に<すべて>閉鎖されることになる。
<しかし、それは遅きに失していた。>
1908年時点では、・・・<実に、>ヘレロは16,000人、ナマは10,000人しか生き残っていなかった。・・・」(A、B、C、E、 F)
(続く)
2011年03月12日
ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その3)
太田述正コラム#4420(2010.12.6)
<ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その3)>(2011.3.12公開)
(5)「解放」
「・・・1914年に第一次世界大戦が勃発し、その翌年、<英自治領たる>南アフリカの軍隊がこのような悪のためのるつぼと化していた<ドイツの南西>植民地を奪取した。
戦後、ドイツのアフリカ帝国は終焉を迎え、ナミビアは南アフリカの委任統治領となり、1990年に最終的に独立を達成した。・・・」(E)
「・・・オマヘケ(カラハリ砂漠)に逃げ込んだ何万人もの<南西アフリカ原住民の>人々が目指したのは、英領ベチュアナランド(Bechuanaland)だった。・・・」(F)
「・・・<南西アフリカでドイツがやったことに>憤慨した英将校が、ヘロロとナマのジェノサイドに対する痛烈な批判を書き、それが1919年に(英議会報告書たる)青書として出版されたが、これが、ヴェルサイユ平和会議において、ドイツの諸植民地をドイツに返還することを否定する根拠にされた。
しかし、その後、<国際連盟によって>ドイツ南西アフリカをその委任統治領にされた<自らが人種差別政策をとっていた>南アフリカ共和国にとっては、このジェノサイドの記録は隠す方が都合が良かった。
これは、帝国政策に罹るいくつかの理由から、英国の官僚機構の黙認の下で行われたものだ。
こうして、この青書のコピーは、1927年に<英国の>全図書館において廃棄されるとともに、それ以外のものは英外務省に返還され<て隠匿され>た。・・・」(F)
(6)南西アフリカ統治のナチスによる継受
「・・・この本のタイトルとサブタイトルが示しているように、共著者達は、<ドイツ>皇帝とヒットラーの継続性を強調するとともに、ナチズムは、長く忘れ去られていたところの、この植民地的悪たるルーツから生じたことを示唆している。・・・」(A)
「生存圏・・・<なる>諸観念は、1870年代に、・・・フリードリッヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel<。1844~1904年。ドイツの地理学者・民族誌学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Ratzel
(太田)
>)・・・<という、>ジャーナリスト・学者にして政治地理学(Politische
Geographie)を1897年に出版した<人物>・・・によって作り上げられた。・・・
ドイツ植民学会(German Colonial Society)の創建者の一人であったラッツェルは、・・・ダーウィンの進化論を歪め・・・た社会的ダーウィン主義の物の考え方にいかれ・・・、移民を行うことは、1つの種の長期的生存のために必須であると主張した。
この理論によれば、移民を行うのを止めることは、前進を止めることであり、生存により適した他の諸種によって追い越される危険性を冒すことなのだ。・・・
<彼に言わせれば、>「植民地の人々が消え去ったのは、彼らが迫害され、奴隷にされ、絶滅されたからだ。これは、植民者達、交易者達、そして兵士達によって行われた。そこには神秘的なことは全くない。」<のだ。>
彼(ラッツェル)は、アフリカ、アメリカ、そしてアジアの原住諸人種の内生的な文化的脆弱さが、彼らを受動的にしたために、<彼らは、>欧州人による攻撃に持ちこたえることができなかったのだろう、と主張することで自分の言に保険をかけた。
「しかしながら、彼は、彼らの破壊の手段が銃と牢獄であったことを明言している。これら全てのことが受容できるのは、欧州人が破壊している人々が、彼の言葉であるところの「劣等諸種族」だからだ。彼らの土地は、自然なこととして力で奪ったところの、より強い人種によって求められたのだ。」<というわけだ。>」(D、E、F)
「・・・<また、ラッツェルらの>疑似科学者達によれば、文明は、諸人種の調和的統合によってではなく、諸人種の分離によって成り立っているのだった。・・・」(B)
「・・・そこから、ナチスドイツにおけるアーリア人の人種的至上性の擁護まではほんの数歩だった。・・・
共著者達によれば、ナミビアの「キリングフィールド」は、ヒットラーのジェノサイド的狂気の前兆であっただけでなく、この独裁者の、ユダヤ人とスラブ人を「非人間」とみなしたところの、欧州東部に打ち立てられるであろう妄想上の帝国への霊感をもたらしたのだ。・・・
ヒットラーは、その帝国が「ドイツのカリフォルニア」になることを望んだ。・・・
同時に、ナチスは、(異種族混交を禁じ、混血たる庶子への市民権付与を否定し、また、彼らの断種について規定した)南西アフリカの人種諸法をドイツの法典の中に導入した。・・・南西アフリカにおける、死の収容所の設立、1904年の「絶滅指令」の発出、世界を人種の線によって分割することへの固執、そして人間の虐殺に対するイデオロギー的正当化・・こういったものすべてが、後に<ナチスドイツの下で>欧州が経験するところとなるものの身の毛のよだつ前兆だったのだ。・・・
だから、ナチズムは、人類の醜行の孤立した事象ではなく、帝国ドイツ領アフリカにまで遡る初期以来の<ドイツの一連の>ふるまいの一部を構成している、と言えるのだ。<(注3)>・・・」(B、D、F)
(注3)「<あのヘルマン・ゲーリング(Hermann Goring)の父親でドイツ南西アフリカの初代総督を勤めた>ゲーリング(Heinrich Ernst Goring)博士がヘロロとナマの部族の土地を強制収容
し始めてからそれほど経たない頃、ベルリン政府は、<南西アフリカにおける>強制収容所群の使用を認めている。」(B)
「<南西アフリカにおける>ジェノサイドの<下手人たる>帰還兵の一人がバヴァリアのフランツ・ザヴィエル・フォン・エップ(Franz Xavier von Epp<。1868~1946年。ナチス政権下で1933年
から45年までバイエルン州の総督(Reichsstatthalter)を勤めた。
http://de.wikipedia.org/wiki/Franz_Ritter_von_Epp
(太田)
>)と呼ばれた上級尉官だった。
彼は、その生涯を、ドイツの人々は「より低い諸人種」を犠牲にして領土を拡張する必要があるという観念を宣伝しつつ送った。
1922年には、既に将軍になっていた彼は、アドルフ・ヒットラーをミュンヘンの右翼の民兵組織に引き入れるとともに、この将来の<ナチスドイツ>総統を、やがてナチスをコントロールすることとなる選良達に紹介した。
この選良のうちの一人は、フォン・エップの副官であったエルンスト・レーム(Ernst
Rohm<。1887~1934年。ヒットラーによって処刑される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_R%C3%B6hm
(太田)
>)<(コラム#4288)>だった。
彼は、悪名高いナチスの<民兵たる>突撃隊(stormtroopers)の<共同>創建者となる。
アフリカの諸植民地のフォン・エップ等の古参兵とのコネを通じて、ヒットラーとロームは、植民地・保護部隊(Schutztruppe)<(注4)>の制服の余剰品を<ナチスの突撃隊用に>調達することができた。
(注4)19世紀末から1918年まで存続。本部はベルリンにあったが、陸軍や海軍には所属せず、志願兵のみによって校正された。大きな部隊は、ドイツ東アフリカ(タンガニーカ)、同南西アフリカ(ナミビア)、同西アフリカ(カメルーンとトーゴ)の3箇所にあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Schutztruppe
(太田)
<この制服は、>アフリカのサヴァンナの戦争のためにデザインされたものなので、シャツの色は黄金茶だった。
これを着たナチのならず者達<たる突撃隊>は、爾後、名高くも茶シャツ隊<(コラム#4288)>として知られることになった。・・・」(E)