戦前の日英関係の軌跡(その2)
太田述正コラム#4388(2010.11.20)
<戦前の日英関係の軌跡(その2)>(2011.3.2公開)
「第一次大戦終結までは、アジアにおける英国の権益は、究極的には日英同盟
によって保護されていた。しかし、1919年の帝国防衛体制の総合的 再点検の
際、英国海軍が日本を仮想敵国と見なすようになると、その場合英国にとっては
近代式主力艦を収容できる基地がないという、アジアにおける 戦略の弱点が浮
かび上がったのである。1921年6月日英同盟の将来に陰りが見え、海軍とオース
トラリア自治領からの圧力が増大するにつれ、シン ガポールを英国の軍艦基地
として開発していくことが閣議で決定された。・・・
このシンガポール基地計画が日本を対象としたものであったことは、いかなる
公式の逃げ口上も隠しおおせるものではなかった。・・・
最初の労働党政府<は、>軍縮政策を推進するその一環として、シンガポール
基地建設の一時停止を決定した<が、>・・・1924年10月末の総 選挙で保守党
が勝利し、新政府が基地建設計画を再開する様子を見せた時、エリオットは新外
相オースティン・チェンバレンに宛てて、移民法をめぐる 日米間の対立が日本
国内に排他的感情を急増させていること、今日本は外国の動向に異常に敏感に
なっていることを説明して警告した。・・・
<しかし、こ>のエリオットの思いはかなえられなかった。もっとも、建設工
事は当時大蔵大臣であったウィンストン・チャーチルの激しい攻撃に会 い、そ
の後にようやく再開されたのであった。」(324~325頁)
→せっかくつくったシンガポール軍港、太平洋戦争開戦直後に日本軍によってシ
ンガポールもろとも陥落してしまい、チャーチルを歯がみさせるのです から、
日本において反英感情を煽っただけで、結局、何の役にも立たなかったわけで
す。(太田)
「エリオットは引退直前に、「東洋に関して言えば、私は個人的にはアメリカ
よりも日本と組む方が我々の利害には合っていると思うのであるが、ど うやら
世界の政策上の思惑は逆向きに進んでいるようである」との考えを表明した
が、・・・<英>外務省・・・極東部長であったヴィクター・ウェル ズ
リー・・・は、全く逆の考えであった。・・・
エリオットは中国問題に関して日英双方の意見の歩み寄りを図ろうと試みた
が、英国はアメリカへの接近の度を強めていった。
外務大臣オースティン・チェンバレンがエリオットを外交職から退けようと決
心したのには、エリオットと外務省高官達との意見の食い違いが大きく 影響し
ていた。」(325~326頁)
→英国は、日本を切り捨て、仇敵米国にすり寄ることで、米国にいいようにしてやられ、英帝国の没落を早めてしまった、ということになります。
エリオットが正しく、英本国の外務省が間違っていた、ということです。(太田)
「日本と日本文化に対し深くて真摯な敬意を抱いていた彼は、当時彼の世代の人々が一般にもっていた日本人に対する人種偏見の傾向を軽蔑していた。・・・こうしてやむなく退職させられたエリオット・・・<だったが、彼>の日本への愛着は、彼が・・・1926年2月<に>・・・外交官生活 を引退した後、日本に留まる決心をし、晩年を日本の仏教に関する研究と著作に費やしたと
いうことに、その深さを知ることができる。」(316、 326頁)
→アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow。1843~1929年)(公使)、マ
クドナルド(公使/大使)、エリオットと、3代、日本の魅力に取り憑かれ、日
本学者となった英国公使/大 使が続いたわけです。エリオットはサトウ同様、独
身を通したことでも共通です。(ただし、サトウは、公使時代に内縁の日本女性
との間に3人の子供 をなしている。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%
88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6
(太田)
「<エリオット>の意見の影響が、1926年10月の帝国会議におけるオースティ
ン・チェンバレンの演説に明瞭に表れている。すなわち、日 本・・・について
話し合った時、チェンバレンはエリオットと同じ論法を用いただけでなく、エリ
オットの<彼宛の>私信にある言葉をそのまま使った のである。」(327頁)
→後に首相となった(オースティンの)異母弟のネヴィル・チェンバレンの対日
宥和政策にはエリオットの影響があった可能性がありますね。(太田)
「<彼は、>病気が悪化し、・・・帰国を決意し、英国に向けて出航したので
あるが、1931年3月16日、<その途中>息絶えたのであった。未 完成のままで
あった彼の『日本仏教』(Japanese Buddhism)は、<ジョージ・>サンソムが
続きを完成させ<たが、>・・・出版の運びとなったのは、著者の死後4年を経
てからのことであっ た。」(327頁)
→サンソム、また登場したでしょう。(太田)
4 サー・フランシス・テイラー・ピゴット(Sir Francis Taylor Piggott。
1852~1925年)(B)
ピゴットについては、既にシリーズ(コラム#4270、4272。完結していないこ
とを忘れていた)で取り上げていますが、改めて、こちらの典 拠に基づいて補
足してみましょう。
「<このピゴットの父親の>F・T・ピゴットは、明治政府が1868年から1912年
までの44年間に雇い入れた約3000人のお雇い外国人、 通称「ヤトイ」の一人で
あった。・・・
<彼は、>英国法に関して、将来の日本国憲法の参考になる点を日本の首相に
解説し助言する・・・英国人法律家<として>来日<した。>・・・
お雇い外国人の約半数は英国人であり、また、全体の4分の3が最初の15年の
間に雇われている。これだけ多くの外国人専門家を採用し、その費用 の支払い
をすべて直接受け持った明治政府にとって、その財政的負担はおびただしいもの
であった。彼らに支払われた給料は通常、日本人の高官や陸・ 海軍の大将より
高額であり、さらに首相の給料の2倍以上の高給を支払われていた例が2人も
あった。」(204~205頁)
「憲法の草案作成には、実は、外国人の参画が一切許されていなかったことを、F・T・ピゴットは最後の最後まで知らなかった。憲法は結局、日本 人自身によって完成された。・・・フランスから<の>ボアソナード・・・、ドイツか
ら<の>ヘルマン・レースラー<ら>・・・他の外国人顧問同 様、F・T・ピ
ゴットも、日本の役割はいわゆる生き字引としての域を出ることはなかっ
た。」(206頁)
→お雇い外国人に大枚をはずんだり、英国人を中心に集めたり、彼らをあくまで
生き字引的に使ったり、明治政府は大したものですね。
日本「独立」の暁には、軍事や諜報の分野を中心に、再度お雇い外国人達を招聘する必要があるでしょうね。今回は、英加豪と米国から半数ずつって 感じか
な。(太田)
「<さて、肝腎の息子の方のピゴットは、>1922年から26年までと1936年から
39年まで、大使館付き武官として来日した。」(212 頁)
(続く)
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<戦前の日英関係の軌跡(その2)>(2011.3.2公開)
「第一次大戦終結までは、アジアにおける英国の権益は、究極的には日英同盟
によって保護されていた。しかし、1919年の帝国防衛体制の総合的 再点検の
際、英国海軍が日本を仮想敵国と見なすようになると、その場合英国にとっては
近代式主力艦を収容できる基地がないという、アジアにおける 戦略の弱点が浮
かび上がったのである。1921年6月日英同盟の将来に陰りが見え、海軍とオース
トラリア自治領からの圧力が増大するにつれ、シン ガポールを英国の軍艦基地
として開発していくことが閣議で決定された。・・・
このシンガポール基地計画が日本を対象としたものであったことは、いかなる
公式の逃げ口上も隠しおおせるものではなかった。・・・
最初の労働党政府<は、>軍縮政策を推進するその一環として、シンガポール
基地建設の一時停止を決定した<が、>・・・1924年10月末の総 選挙で保守党
が勝利し、新政府が基地建設計画を再開する様子を見せた時、エリオットは新外
相オースティン・チェンバレンに宛てて、移民法をめぐる 日米間の対立が日本
国内に排他的感情を急増させていること、今日本は外国の動向に異常に敏感に
なっていることを説明して警告した。・・・
<しかし、こ>のエリオットの思いはかなえられなかった。もっとも、建設工
事は当時大蔵大臣であったウィンストン・チャーチルの激しい攻撃に会 い、そ
の後にようやく再開されたのであった。」(324~325頁)
→せっかくつくったシンガポール軍港、太平洋戦争開戦直後に日本軍によってシ
ンガポールもろとも陥落してしまい、チャーチルを歯がみさせるのです から、
日本において反英感情を煽っただけで、結局、何の役にも立たなかったわけで
す。(太田)
「エリオットは引退直前に、「東洋に関して言えば、私は個人的にはアメリカ
よりも日本と組む方が我々の利害には合っていると思うのであるが、ど うやら
世界の政策上の思惑は逆向きに進んでいるようである」との考えを表明した
が、・・・<英>外務省・・・極東部長であったヴィクター・ウェル ズ
リー・・・は、全く逆の考えであった。・・・
エリオットは中国問題に関して日英双方の意見の歩み寄りを図ろうと試みた
が、英国はアメリカへの接近の度を強めていった。
外務大臣オースティン・チェンバレンがエリオットを外交職から退けようと決
心したのには、エリオットと外務省高官達との意見の食い違いが大きく 影響し
ていた。」(325~326頁)
→英国は、日本を切り捨て、仇敵米国にすり寄ることで、米国にいいようにしてやられ、英帝国の没落を早めてしまった、ということになります。
エリオットが正しく、英本国の外務省が間違っていた、ということです。(太田)
「日本と日本文化に対し深くて真摯な敬意を抱いていた彼は、当時彼の世代の人々が一般にもっていた日本人に対する人種偏見の傾向を軽蔑していた。・・・こうしてやむなく退職させられたエリオット・・・<だったが、彼>の日本への愛着は、彼が・・・1926年2月<に>・・・外交官生活 を引退した後、日本に留まる決心をし、晩年を日本の仏教に関する研究と著作に費やしたと
いうことに、その深さを知ることができる。」(316、 326頁)
→アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow。1843~1929年)(公使)、マ
クドナルド(公使/大使)、エリオットと、3代、日本の魅力に取り憑かれ、日
本学者となった英国公使/大 使が続いたわけです。エリオットはサトウ同様、独
身を通したことでも共通です。(ただし、サトウは、公使時代に内縁の日本女性
との間に3人の子供 をなしている。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%
88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6
(太田)
「<エリオット>の意見の影響が、1926年10月の帝国会議におけるオースティ
ン・チェンバレンの演説に明瞭に表れている。すなわち、日 本・・・について
話し合った時、チェンバレンはエリオットと同じ論法を用いただけでなく、エリ
オットの<彼宛の>私信にある言葉をそのまま使った のである。」(327頁)
→後に首相となった(オースティンの)異母弟のネヴィル・チェンバレンの対日
宥和政策にはエリオットの影響があった可能性がありますね。(太田)
「<彼は、>病気が悪化し、・・・帰国を決意し、英国に向けて出航したので
あるが、1931年3月16日、<その途中>息絶えたのであった。未 完成のままで
あった彼の『日本仏教』(Japanese Buddhism)は、<ジョージ・>サンソムが
続きを完成させ<たが、>・・・出版の運びとなったのは、著者の死後4年を経
てからのことであっ た。」(327頁)
→サンソム、また登場したでしょう。(太田)
4 サー・フランシス・テイラー・ピゴット(Sir Francis Taylor Piggott。
1852~1925年)(B)
ピゴットについては、既にシリーズ(コラム#4270、4272。完結していないこ
とを忘れていた)で取り上げていますが、改めて、こちらの典 拠に基づいて補
足してみましょう。
「<このピゴットの父親の>F・T・ピゴットは、明治政府が1868年から1912年
までの44年間に雇い入れた約3000人のお雇い外国人、 通称「ヤトイ」の一人で
あった。・・・
<彼は、>英国法に関して、将来の日本国憲法の参考になる点を日本の首相に
解説し助言する・・・英国人法律家<として>来日<した。>・・・
お雇い外国人の約半数は英国人であり、また、全体の4分の3が最初の15年の
間に雇われている。これだけ多くの外国人専門家を採用し、その費用 の支払い
をすべて直接受け持った明治政府にとって、その財政的負担はおびただしいもの
であった。彼らに支払われた給料は通常、日本人の高官や陸・ 海軍の大将より
高額であり、さらに首相の給料の2倍以上の高給を支払われていた例が2人も
あった。」(204~205頁)
「憲法の草案作成には、実は、外国人の参画が一切許されていなかったことを、F・T・ピゴットは最後の最後まで知らなかった。憲法は結局、日本 人自身によって完成された。・・・フランスから<の>ボアソナード・・・、ドイツか
ら<の>ヘルマン・レースラー<ら>・・・他の外国人顧問同 様、F・T・ピ
ゴットも、日本の役割はいわゆる生き字引としての域を出ることはなかっ
た。」(206頁)
→お雇い外国人に大枚をはずんだり、英国人を中心に集めたり、彼らをあくまで
生き字引的に使ったり、明治政府は大したものですね。
日本「独立」の暁には、軍事や諜報の分野を中心に、再度お雇い外国人達を招聘する必要があるでしょうね。今回は、英加豪と米国から半数ずつって 感じか
な。(太田)
「<さて、肝腎の息子の方のピゴットは、>1922年から26年までと1936年から
39年まで、大使館付き武官として来日した。」(212 頁)
(続く)
◎防衛省OB太田述正メルマガ
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