希望が持てそうなシナリオ | 日本のお姉さん

希望が持てそうなシナリオ

聖書の預言は、わたしにとっては絶対です。

子どもの頃に親から聞いた話が頭に残っている。

父親の英語の先生のアメリカ人が父親に

新聞を見せながら

「イスラエルが建国した!僕は分かってたよ!

聖書の預言が実現したんだ!」と言っていたのだとか。

その時は、父親は、子どもで英語を習っていただけで

まだクリスチャンでもなかったので、

「へ~。」と思っただけだったらしい。

でも、800年もの間、住んでいた土地を追われて

世界中に散らばっていた民族が、国土を持つなど、

誰が信じられただろう。クリスチャンたちは、聖書の預言を

知っているし、信じていたけれども、

普通の人には信じられないことだと思う。

あるユダヤ人の有名人は、イスラエル建国は

パレスチナでは無理なのでアフリカでもいいと思っていたとか。

普通なら国を追われたら、その民族はお終いだ。

800年もたてば、自分が元どこの国の人だったのかも

分からなくなっているのが普通だ。

日本人なら、日本を離れたら2代目で日本語が

怪しくなって、3代目で日本人ではなくなるだろう。

イスラエル人にとっては、カナンの地(パレスチナ)は

神さまから与えられた約束の地です。イスラエル人は、

最初からそこにいたわけではなく、イスラエルの最初の人

であるアブラハムという人が神さまに呼ばれて、

テラという都会から出て天幕生活をしながら、カナンに

住んだのが最初です。テラは、すでに発掘されている古代都市で、

下水道も上水道も完備されていたらしい。

昔は、島などではなく、大陸だったそうです。


アブラハムは、カナンの地で家族と親戚たちと一緒に

ソドム・ゴモラの近くで住んでいたが、山の中にいた

アブラハムと違って親戚は町の中に住んでいた。

ソドム・ゴモラは、大都会だったけれども、相当、治安が悪い

男色の町でソドミーの語源にもなっている。そこに

神さまの使いが二人現れて、アブラハムにソドム・ゴモラが

硫黄の火で焼かれると知らせる。アブラハムは焦って

親戚にそれを伝えて脱出させることができたが、親戚の妻は

残してきた荷物を気にして立ち止まったので、塩の柱になった。

親戚はなんとか、ソドム・ゴモラの大災害から脱出できたが、

その後、親戚はアブラハムと離れて別の民族になってしまった。

アブラハムとサラの間には子どもがいなかったので

神さまの使いから、いつか子どもが与えられるという約束を

もらっていたのに、サラは自分の女奴隷のハガルを

アブラハムに与えてしまう。それで生まれたのがイシマエル。

その後、サラに待望の息子、イサクが生まれたが、

ハガルの態度が悪くて、イシマエルと一緒にイサクを苛めていたらしい。

それで、彼らは砂漠に追いやられてアラブ人の先祖になった。


アブラハムの子どものイサクの子どもたちの内、

弟のヤコブは、神さまを信じていたが、兄はどうも

信じているような感じではなかった。神さまの約束より、

野山で狩りをするのが好きで

お腹が減ったので、ヤコブの豆料理と交換に長男が

神さまに祝福されるという権利を弟に売ってしまった。

ヤコブは、目の悪い父親を騙して祝福を受け、

その後怖くなって遠くに逃げ、親戚の娘さんと結婚しようと

したが、親戚に騙されて結婚した次の朝に目をさましたら

横にいたのは、好きだった妹ではなく、

目がよわよわしいお姉ちゃんの方だった。その後、

好きな妹と結婚するために、また親戚の家でタダ働きをするはめになる。

どうしても、好きな女性との子どもを大事にしがちなのは

仕方が無い事で、一番下の子と下から二番目の子は

だいじにされたので、怒った姉の子らが

下から二番目の子、ヨセフをエジプトに売り飛ばした。

ヨセフは大人になって、エジプトの宰相になっていたので

父親と兄弟全員をエジプトに呼び、飢饉の時期を

過ごさせる。その後、ヨセフのことを知らないエジプト人が

長年の間、イスラエル人を奴隷扱いした。


そこで、モーセが神さまに呼ばれて、

イスラエル人を約束の地、パレスチナにつれて行く役目を果たす。


ダビデや、ソロモンなどの立派な王さまがいる時代には、

エチオピアの女王が会いに来るなどしていたが、

ローマ時代に聖書の預言の救い主が

聖書の預言の場所で、聖書の預言の家系から出てきた。

救い主は、イスラエルの建国のためにこの世界に来られたのではなく、

人類の罪の身代わりに神さまから罰を受けて死に、

三日目によみがえることになっていたが、

弟子たちの中で、それを理解しているものは

どうやらいなかったようです。

そのころには、ローマは、ユダヤ地方だけは、ユダヤ人に

支配させていた。属国として総督を置いていたが、

税金をとるだけだった。

その代わり、ユダヤ人には、ユダヤ教しか認めていなかった。

ユダヤ人は旧約聖書の教えを勝手にまげて

変な宗教を作ってしまっていた。そこにイエス・キリストが

現れて、聖書の正しい教えを説いて大勢のファンを作り、

奇跡を起こして大衆がイエス・キリストを救い主だと

認めたので、頭にきた宗教家たちは、陰謀を企て、

ローマの総督を脅して、罪もないイエス・キリストを捕えて

十字架刑にさせ、その代わり、強盗に恩赦を与えさせた。

それで、預言が完全に成就して、罪のない神さまのひとり子が

人類の罪の身代わりに十字架にかかって死ぬことになった。

その後、弟子と大勢のユダヤ人がイエス・キリストが

三日目によみがえった救い主だと大々的に伝えだしたので、

ユダヤ人のサウロなどの宗教家が迫害したが、逆に

サウロはイエス・キリストは聖書の預言の救い主だと

神さまに知らされて、パウロと名を変えて大々的にローマの

各都市で福音を伝えだした。

ローマは、クリスチャンを迫害して、コロセウムで残虐な方法で

殺したが、逆に、クリスチャンたちは死に物狂いで

福音を伝えだした。福音とは、神さまが救い主を送って

くださったというよい知らせのこと。

人類は、神さまから離れて罪の奴隷になっていて、そのままでは

死後、天国に行けず、地獄に行って裁きを受けることが

定まってしまっているが、神さまが自分のひとり子の神を

人間の世界に送り、人類の罪の罰を身代わりに受けさせたので

罰は終わっているということ。

それを信じるだけで、罪が赦され、罪のないものとして

天国に行けるということ。

ローマは、その後ユダヤ人を激しく迫害したらしく、ユダヤ人も

抵抗したので、ついにユダヤの地から追い出されてバラバラに

なってしまった。その代わり、福音が世界中に伝わることになった。

その跡地に、住み着いた人々がパレスチナ人と呼ばれています。

もともとは、カナン人が住んでいましたが、

神さまに呼ばれたイスラエル人が住むようになり、、、、

そして、聖書の預言どおり、「また戻ってきた」わけです。

イスラエル人が戻る前は雨も降らず、砂漠地帯だったところが、

イスラエル人が戻ってから雨が降るようになったそうです。

パレスチナには、もともと産業も工業も何もなくて、

パレスチナ人が羊を飼っていた場所です。

国連でイスラエル建国が認められる前は、ユダヤ人は

パレスチナ人から、土地を購入して住んでいたのです。

イスラエル人は、国が無かったから迫害されたと思っているので

命がけで国を守っています。パレスチナ人は、

テロでイスラエル人を喫茶店やバスの中で大量に殺してきたため

イスラエル人は、塀で囲った自治区にパレスチナ人に

住んでもらい、水や電気やガソリンや食料を援助しています。

元々、産業も何もないので、パレスチナ人は仕事のために

検問を受けてイスラエル側に入り、またパレスチナ側に

戻ります。塀のおかげでテロは、減ったそうです。

日本人は、左翼がほとんどなので、左翼系のニュース

ばかり見せられているので、ユダヤ人に厳しく

パレスチナ人に同情的な人が多いのですが、

パレスチナ人も、「おじいさんが住んでいた土地をとり返すまで

テロで戦う」と言っているし、自治区から常に、イスラエルを

砲撃している。

エチオピアには、ソロモン王の子孫がいたという話もあり、

顔の黒いユダヤ人が住んでいて、彼らがイスラエルに

入ってくると生活保護でお金がかかるので、イスラエルは

困惑している状態。スーダンにも、ユダヤ人の

部族がいて、前の大統領が助けてイスラエルに運んだのが

バレて、スーダンでの人気が一気に落ちてしまった。

その後、今の独裁者が軍事クーデターを起こして

以後、ずっとスーダンをしきっている。西に住んでいる

キリスト教徒が多いダルフールの民族を30万人虐殺したらしい。

独裁政権になってから、かれこれ120万人殺している。

南のデンカ族もキリスト教徒が多いので、ずっと内戦状態だったが

独立できるかも。

そのイスラエルにやや優しいのがエジプトですが、

それでも、トンネルからパレスチナに武器を送っている。

イスラム原理主義の政権ができたら、イスラエルの立場は

もっと辛くなる。いろいろ大変な地域ですが、

聖書の預言では、イスラエルは、聖書に約束された場所を

全部、獲得します。その前に苦しい時代がありますが、

そういう時代の前に、ヨーロッパが10カ国連合になって

新しい通貨もできるんじゃないかな。そして新ユーロの

独裁者はローマから出るという預言があります。

しばらくは平和な時代が来たように見えますが、実は

この独裁者が恐ろしい人で、イスラエルは苦しむことになる。

クリスチャンは、その前に、空中まで迎えに来てくれた

イエス・キリストによって、生きたまま天に引き上げられるので

一気にクリスチャンは地上からいなくなります。

地上からクリスチャンのいなくなった世界は「地獄」らしいよ。

クリスチャンにとっては、楽しみな預言ですが、

ノン・クリスチャンにとっては地獄の7年が始まるという嫌な預言かも。

人類の3分の2は死んでしまうらしい。だから、神さまを信じるなら

今のうちにお願いします。たぶん、その7年間の艱難時代には

イエス・キリストを信じたら、食品も手に入らないから。

独裁者が額のコードとコンピューターで管理するので、

神さまを信じる人は殺される。独裁者には絶対服従しなければ

店も入れない。

そういう時に、イスラエルの味方をする民族は、後で神さまに

祝福されますが、そうでなかった民族は、、、、。

その時は、わたしはいませんが、できれば日本は

イスラエルに優しくしていてほしいなと思います。

(たぶん、日本人はイスラエル人の遠い親戚なので。)


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ディアスポラ後のユダヤ人

http://www.zion-jpn.or.jp/israel_history02.html
ローマは反乱の制圧後も、ユダヤ人たちがイスラエルの地に住むことを認めていましたが、2世紀にユダヤ人たちは再びバル・コクバの乱を起こし、再び失敗します。そこで、ついにローマはイスラエルの地からユダヤ人を追放。エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤと呼ばれていたイスラエルの土地を「パレスチナ」と改称しました。
そして離散を余儀なくされたユダヤ人は、ヨーロッパや中東、北アフリカなど地中海周辺各地に移住して行きました。

タルムードの成立
離散の地で、ユダヤ人の生活・信仰の規範となる法典「ミシュナ」(紀元2世紀ごろ)、さらにその注解である「エルサレムタルムード」(紀元4世紀末)と「バビロニアタルムード」(紀元5世紀末)が編纂されました。ユダヤ教はかつての神殿祭祀ではなく、ラビの指導による聖書やミシュナ及びタルムードの研究解釈と言うシステムを確立して行きました。また各地に祈りの場としてのシナゴグを建設し、ユダヤ教の信仰と民族のアイデンティティを守り続けました。

特にユダヤ教の定めである「安息日を守る、割礼を行う、食事規定」といった厳密な戒律は、他宗教との軋轢を生みましたが、ユダヤ人が他民族と同化して消えてしまうことを防ぐ役割も果たしました。

キリスト教とイスラム教
313年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝によってキリスト教が公認され、以後パレスチナは4世紀からキリスト教国家ビサンチン帝国の統治下に入ります。キリスト教が公認されると、ユダヤ人たちは「キリストを殺した犯人」と言う名目のもと、殺害、暴行、略奪、職業の制限などの迫害を受けはじめました。

7世紀半ばから13世紀まで、西アジアから北アフリカ、南ヨーロッパ一帯を、イスラム教帝国が支配しました。またムハンマドがエルサレムで昇天したとされたことから、エルサレムはイスラム教の第3の聖地となり、エルサレムの神殿跡にはイスラム教の寺院が建てられました。これが現在の「黄金のドーム」です。

こうして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれも神から与えられた約束の継承者が自分たちだと主張する図式が出来上がりました。しかし、イスラム教は当時、ユダヤ人に比較的寛容な政策を取っていたため、イスラエルの地には多くのユダヤ人が住むようになりました。

十字軍
11世紀になると、キリスト教徒たちは「異教徒からの聖地奪還」を目指した十字軍を始めました。異教徒とは、直接的には当時パレスチナを支配していたイスラム教徒を指していましたが、それにはユダヤ人も含まれていました。ですからキリスト教徒たちは、聖地に行く途中で、多くのユダヤ人を殺害しました。

1099年に、十字軍本隊は聖地エルサレムに到着しますが、エルサレム及び周辺の街々でもイスラム教徒と共にユダヤ人は虐殺され、当時パレスチナに住んでいたユダヤ共同体は、消滅したと言われています。

この後、ユダヤ教徒とキリスト教徒の交際が禁止され、ユダヤ人に対する公職追放令が出されるなど、ユダヤ人の職業選択の自由が制限されていきました。わずかに選ぶことのできた職業の一つが、汚れた職業である金融業でしたが、それは後に、ユダヤ人は「金に汚い高利貸し」と見られる原因になったのです。

ユダヤ人迫害の歴史
13世紀になると、ユダヤ人たちはさらに自由を制限され、スペインなどでは、改宗するか他国に移住するかの選択を強要されました。やむなくキリスト教徒となったユダヤ人もいましたが、彼らはマラノ(スペイン語で豚の意)と呼ばれ、改宗後も侮蔑と差別の対象となり続けていました。また、カトリックは異端審問制度を確立させ、ユダヤ人が少しでもユダヤ的な風習を守ったり、ユダヤ教で禁止されている豚を食べなかったりするだけで、拷問や火刑など残虐な刑罰が科せられました。この制度は1801年まで続いたのです。

13世紀後半からは、ユダヤ人を追放しなかった国々でも、ユダヤ人隔離の政策を取るようになり、各地で後に「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人の隔離住居区が作られました。

ユダヤ人の解放と反動
しかし、1789年のフランス革命の後、フランス議会でユダヤ人にも平等の権利が認められます。その後ゲットーが解放され、その流れはヨーロッパ各地へと広がって行きました。各地のゲットーは解体され、職業選択も規制を解かれ、各界にユダヤ人が進出し、ユダヤの社会構成も激変していきました。これを啓蒙運動「ハスカラ」と言います。

しかしながら、現実的にはユダヤ人への差別は解消されず、反ユダヤ主義と民族主義のもと、かえってひどいユダヤ人迫害が各地で起こりました。

ロシアでは、1881年からポグロムと呼ばれるユダヤ人大虐殺が何度も起り、犠牲者は数十万人に及んでいます。また1894年、フランスのユダヤ人士官アルフレッド・ドレフュスが、スパイ容疑で逮捕される「ドレフュス事件」が起こります。これは彼がユダヤ人であったため、犯人にでっちあげられた冤罪事件でした。

シオニズム運動の誕生
このような背景を受けて、ユダヤ人の中から、ユダヤ人の国家建設を目指す運動が起こってきます。この運動は「シオンの丘に帰ろう」と言う言葉をスローガンにしたことから、シオニズム運動と呼ばれています。

1897年には、テオドール・ヘルツェルの呼びかけで、第1回世界シオニスト会議が開かれ、パレスチナにユダヤ人国家を建設することが決議されました。その後19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポグロムを逃れたユダヤ人やヨーロッパからの移民が、パレスチナの地に住み始めました。

第一次大戦後、パレスチナはそれまで続いたオスマントルコ(イスラム教)の支配からイギリスの委任統治領となります。荒れ果てていたイスラエルには、多くの人々が集まり、活況を呈してきました。

イギリスは1917年、ユダヤ人の国家再建を約束する「バルフォア宣言」を行います。しかしイギリスは、バルフォア宣言以前にも、アラブ側に同じような取り決め(サイクス・ピコ書簡)を行っていました。当時の二枚舌政策が、今日に及ぶパレスチナ紛争の火種の一つとなっていきます。

ホロコースト
このような中、第2次世界大戦において、ドイツで政権を掌握したナチスがユダヤ人を滅亡させるため組織的、計画的にユダヤ人を虐殺(ホロコースト)しました。死の収容所と呼ばれる施設で、数百万人を殺害し、死体を炉で焼くという、前代未聞の計画が実施されたことは、よく知られています。

にわかには信じがたいこの事件の背景には、キリスト教が長年の間に積み上げてきたユダヤ人への差別感情があります。当時のヨーロッパには、ユダヤ人は動物と同等の存在だという空気があったのです。

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イスラエルの建国
ナチスのユダヤ人迫害を生き延びた多くのユダヤ人たちは「自分たちの国を持つしか無い」と考え、パレスチナの地を目指すようになりました。そして、当時イギリスの管理下だったパレスチナでは、ユダヤ人とアラブ人の争いが激化してきました。

こうした状況に対処するため、1947年に国連でパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、国連関連管理地区の3つに分ける分割案が採択されました。その決定をユダヤ側は受け入れたのですが、アラブ側は拒否しました。翌1948年5月14日、イギリスによる委任統治期間が終了後、テルアビブで初代首相ベングリオンによる独立宣言が行われます。

しかしその翌日、周辺のアラブ諸国がこれを認めず、武力攻撃を開始しました。周囲をアラブに囲まれ、イスラエルの小さな軍隊ではまったく勝ち目がないと思われていたのに、この戦争にイスラエルは勝利します。これ以後、イスラエル軍とアラブ軍との間で何度も戦争が行なわれています。

1948~49年 独立戦争(第一次中東戦争)
独立宣言直後に始まったこの戦争は、国連の停戦勧告を受けて終了しますが、結果はイスラエルが国連分割案より多くの領土を獲得し、エルサレムは旧市街地を含む東地区がヨルダン領に、西地区がイスラエル領になりました。またこのとき、戦争を逃れるために、65万人というパレスチナ難民が発生しました。この背景には「イスラエル攻撃の巻き添えにならないように、一時アラブ側に避難せよ」とアラブ諸国がパレスチナ住民に呼びかけたこともあります。
また、この戦争の後で、アラブ諸国から数十万人のユダヤ人が追放され、財産を奪われてイスラエルに逃れて来ました。イスラエルはユダヤ人の難民を全て国民として受け入れましたが、アラブ諸国はパレスチナ難民の同化を拒否しました。そして、現在に至るまで「難民」の地位のままにしているため、難民の人口は大幅に増加しており、中東問題の解決をますます難しくする要因となっています。

1956年 スエズ戦争(第二時中東戦争)
エジプトのナセル大統領のスエズ運河国営化宣言により、イギリスとフランスがイスラエルを巻き込んで、エジプトを攻撃しました。この戦争を契機にイギリス・フランスの中東への影響力は後退し、米・ソ両国が中東における主導権を強めてきました。

1964年5月にPLO(パレスチナ解放機構)が結成され、武装勢力ファタハによる対イスラエルゲリラ闘争が拡大しました。

1967年 六日間戦争(第三次中東戦争)
エジプト軍がシナイ半島に大軍を展開し、国連軍の撤退を求め、イスラエルに対してチラン海峡の封鎖を行ったのを受け、イスラエル軍はエジプト、シリア、ヨルダンなどのアラブ諸国の空軍を電撃攻撃しました。
イスラエル軍は、わずか6日間のうちにシナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原など広範囲を占領しました。またイスラエルはエルサレムの旧市街全域を制圧し、東エルサレムと西エルサレムとの再統一の宣言をしました。
この戦争は、記録的な勝利として知られています。イスラエル軍の教育課程では、様々な戦争について詳しく学ぶのですが、この戦争だけは題材としてほとんど取り上げません。それは「明らかな奇跡なので、学んでも仕方が無い」からだそうです。

しかし、この戦争の大勝利は、占領地の支配権という複雑な問題をも引き起こしました。
イスラエルはエルサレムなどの地域を自国領土として併合しましたが、それ以外の土地は管理しているだけだという立場を取っています。
当初、西岸地区はヨルダン領、ガザ地区はエジプト領だったのですが、後に両国がその領有権を放棄したため、現在は「誰のものでもない土地」という、国際法上の奇妙な扱いになっているのです。
また、西岸地区とガザ地区には、右派のユダヤ人たちが政府の支援を受けて入植地を建設するようになりました。これも、中東問題の解決を困難にする要因の一つです。

1973年 ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)
エジプトとシリア軍がイスラエル占領地に攻撃をしかけたのをきっかけに、戦争が始まりました。この日がユダヤ教徒にとってヨム・キプール(贖罪日)という一年の中でも最大の祭日であったため、イスラエル側ではヨム・キプール戦争とも呼ばれています。
この戦争によるイスラエル軍、アラブ軍の犠牲は大きく、またアラブ諸国が石油価格を武器に欧米などに圧力をかけてオイルショックを引き起こし、世界経済にも大きな影響を与えました。
戦争後、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相との間で、米国のキャンプデービッドで合意が成立します。しかしシナイ半島はエジプトに返還されたものの、パレスチナ問題やエルサレムについての明確な合意はなく、またサダト大統領は裏切り者としてアラブ過激派によって暗殺されてしまいました。

1987年 ガザ地区でイスラエル軍によってパレスチナ人が殺されたことを発端に、パレスチナ人の抵抗運動インティファーダが始ました。

1991年 湾岸戦争勃発
イラク軍のクウェート侵攻を機に、アメリカを中心とする西側諸国が多国籍軍を結成し、イラクに対して開戦しました。イスラエルは参戦していないにもかかわらず、イラクよりスカッドミサイルによる攻撃を受けます。