とても面白い太田述正コラム
アメリカは建国の時に、フランスのお世話に
なっていたのか。だったら第二次世界大戦の時に、
アメリカがフランスをドイツから救ったのは、
恩返しってことになるかな。フランスは、ドイツと
戦うのを避けてあっさり降伏したので、
アメリカが出てこなかったら、きっと全世界が
ドイツに支配されていたかもしれないね。
ワシントンは変な人だったのかもしれないけど、
大きなことをする人って、周りから嫌がられるような
人なのかもね。ワシントンは、チュウゴク人みたい。
戦争に負けても勝ったことにするという、宣伝工作だけは
べらぼうに上手い。↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
太田述正コラム#4306(2010.10.10)
<ジョージ・ワシントン(その2)>(2011.1.24公開)
(2)ダメ人間だったが運は良かったワシントン
「・・・ワシントンの人格と彼の母親の彼に対する扱いとの関係ははっきりし
ている。
彼女は、冷たく、きわめて厳しく、かつ性急に判断を下しがちな人物であり、
彼は常に彼女を満足させることはできなかった。
彼女は、彼が何をなしとげても、それを褒めることはなかった。
彼女は、節約家で、要求水準が高く、やかましやで粗探しをする人物だった。
<その結果、>彼は、成長して批判を過度に気にする人物となり、生涯、人か
ら認められることを求め続けた。
しかも、彼は常に怒りを抑制するのに四苦八苦し続けた。・・・」(F)
「・・・ワシントンの人格と本能を最も良く叙述する形容詞は、まことに皮肉
なことに「イギリス人」だ。
彼は、色が白く簡単に日に焼けた。
彼は、自分の衣類その他大部分の商品をロンドンの商人達から購入した。
彼は、イエス・キリストの神性を肯定したことはついになかったが、自分の地
域の英国教会の諸教会を積極的に支援した。
彼は、マウント・ヴァーノン(Mount Vernon)・・一人のイギリス人提督の名
前をとったものだ・・<の自分の家>を古典的なイギリス的建築諸原理に従って
再建した。
彼は、冷淡(phlegmatic)であって、馴れ馴れしくされることを嫌った。
彼は、ヴァレー・フォージ(Valley Forge)<(注1)>の暗き日々に、何と
<イギリスの「国技」である>クリケットをした。
(注1)「独立戦争中の1777年から1778年にかけての冬、大陸軍が宿営地とし
たペンシルベニア州にある場所」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82
%A9%E3%83%BC%E3%82%B8
(太田)
チャーナウは、<そんな>ワシントンが英国と袂を分かったのは、英国当局が
ワシントンに英正規軍の軍人資格を与えるのを愚かにも拒否したためだ という。
チャーナウ氏は、「彼の母国への敵意は、<母国への>愛が阻害されたため
だ」と記す。
(彼は、それには貪欲さえからんでいたのではないかと示唆する。というの
は、英国は、1770年代央においてワシントンが儲けていたところの、 極めて危
ういオハイオでの土地投機を止めさせようとしていたからだ。)・・・
<独立戦争において、ワシントンは何度も敗北したが、>次にワシントンが敗
北したところの、ブランディーワイン(Brandywine)と ジャーマンタウン
(Germantown)<の戦い>では、米植民地人150人が殺され、520人が負傷し、
400人が捕虜になったが、これに対 して英軍側の損害は、70人の死亡、450人の
負傷、15人の捕虜<だけ>だった。
しかし、ワシントンは、どちらの戦いについても、大陸会議(Congress)に対
して<自分達が>勝利に近づいているかのように報告すること によって、彼の
栄誉を称える勲章を手にした。
<また、>マンモス・コート・ハウス(Monmouth Court House)の戦いは、戦
死者の数で言えば、せいぜい引き分けといったところだったし、英軍はその夜、
追撃されることなく撤退を行うことができた。
その次に行われた、ワシントンの最後の戦いは、ヨークタウン(Yorktown)に
おけるものだ。
彼は、そこに、ニューヨークを再奪取する誤った試みの後・・彼は、後に、そ
うしたのは敵をあざむくためだったと主張したが、チャーナウ氏はそれ を「ウ
ソ」であると断じている・・・、しかも、<フランスの>ド・グラッス(de
Grasse)提督の28隻の戦列艦(ships-of-the-line)<注2)> 及びフランスの
歩兵並びに砲兵が、半島先端に<英軍の>コーン ウォリス(Cornwallis)率い
る9000人もの英陸軍を封じ込めてからはるか後にそこに到着したのだ。
(注2)欧米で17世紀から19世紀中頃までの間に建造された戦艦。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ship_of_the_line (太田)
チャーナウ氏は、「ヨークタウンでの勝利は、海上での優位によって支援され
たフランス軍の巧みな包囲によるものだ」と記す。
だから、コーンウォリスが、1781年10月19日に降伏した時、自分の剣がワシン
トンにではなく、フランス軍に渡されるように命じたのは少し も驚くべきこと
ではない。
一方、ワシントンは、捕虜になった王党派<(=英軍側で戦った植民地人達
(太田)>がニューヨークに船で送り返されることは認めたが、再捕獲さ れた
奴隷達・・その中には、彼自身が所有していた300人の奴隷のうちの2人が含ま
れていた・・は、それぞれのプランテーションに送り返され た。・・・」(B)
「・・・考えられないほどのフランスによる援助なかりせば、米国の歴史は異
なっていたかもしれない。・・・」(E)
「・・・ワシントンは、頭の回転の速い方でも飲み込みの早い方でもなく、自
発性の才を欠き、臨機応変にうまい方法を考え出すことが不得手だっ た」と彼
は記す。
彼は、せいぜい、「独創性というよりは鋭い判断力」を持っていただけだ
と。・・・」(B)
「・・・ワシントンは余り教育を受けていなかった。
彼は哲学者ではなかった。
そして、「立派な(sterling)機知の時代であったというのに、ワシントンが
ユーモアで知られたということは全くなかった」 と。・・・」(A)
「・・・<しかし、ワシントンの>同時代人達は、彼に深いうらみをもってい
たライバル達でさえ、彼が神の摂理によって、あるいは単に運によって 嘉され
ているように見えたという見解だった。
さもなくば、かくも多数の弾丸が彼の周りを飛び交ったというのに、どうして
ただの一つも彼の身体にあたらなかったのかを説明することができない
し、<彼の蒙った>フレンチ・インディアン戦争と独立戦争で破滅的な軍事的大
災厄の連鎖の中から、彼の評判が地に堕ちるどころか、むしろ評判が高 まって
立ち現れたことだって説明できない、というわけだ。・・・」(E)
(続く)
<ジョージ・ワシントン(その2)>(2011.1.24公開)
(2)ダメ人間だったが運は良かったワシントン
「・・・ワシントンの人格と彼の母親の彼に対する扱いとの関係ははっきりし
ている。
彼女は、冷たく、きわめて厳しく、かつ性急に判断を下しがちな人物であり、
彼は常に彼女を満足させることはできなかった。
彼女は、彼が何をなしとげても、それを褒めることはなかった。
彼女は、節約家で、要求水準が高く、やかましやで粗探しをする人物だった。
<その結果、>彼は、成長して批判を過度に気にする人物となり、生涯、人か
ら認められることを求め続けた。
しかも、彼は常に怒りを抑制するのに四苦八苦し続けた。・・・」(F)
「・・・ワシントンの人格と本能を最も良く叙述する形容詞は、まことに皮肉
なことに「イギリス人」だ。
彼は、色が白く簡単に日に焼けた。
彼は、自分の衣類その他大部分の商品をロンドンの商人達から購入した。
彼は、イエス・キリストの神性を肯定したことはついになかったが、自分の地
域の英国教会の諸教会を積極的に支援した。
彼は、マウント・ヴァーノン(Mount Vernon)・・一人のイギリス人提督の名
前をとったものだ・・<の自分の家>を古典的なイギリス的建築諸原理に従って
再建した。
彼は、冷淡(phlegmatic)であって、馴れ馴れしくされることを嫌った。
彼は、ヴァレー・フォージ(Valley Forge)<(注1)>の暗き日々に、何と
<イギリスの「国技」である>クリケットをした。
(注1)「独立戦争中の1777年から1778年にかけての冬、大陸軍が宿営地とし
たペンシルベニア州にある場所」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82
%A9%E3%83%BC%E3%82%B8
(太田)
チャーナウは、<そんな>ワシントンが英国と袂を分かったのは、英国当局が
ワシントンに英正規軍の軍人資格を与えるのを愚かにも拒否したためだ という。
チャーナウ氏は、「彼の母国への敵意は、<母国への>愛が阻害されたため
だ」と記す。
(彼は、それには貪欲さえからんでいたのではないかと示唆する。というの
は、英国は、1770年代央においてワシントンが儲けていたところの、 極めて危
ういオハイオでの土地投機を止めさせようとしていたからだ。)・・・
<独立戦争において、ワシントンは何度も敗北したが、>次にワシントンが敗
北したところの、ブランディーワイン(Brandywine)と ジャーマンタウン
(Germantown)<の戦い>では、米植民地人150人が殺され、520人が負傷し、
400人が捕虜になったが、これに対 して英軍側の損害は、70人の死亡、450人の
負傷、15人の捕虜<だけ>だった。
しかし、ワシントンは、どちらの戦いについても、大陸会議(Congress)に対
して<自分達が>勝利に近づいているかのように報告すること によって、彼の
栄誉を称える勲章を手にした。
<また、>マンモス・コート・ハウス(Monmouth Court House)の戦いは、戦
死者の数で言えば、せいぜい引き分けといったところだったし、英軍はその夜、
追撃されることなく撤退を行うことができた。
その次に行われた、ワシントンの最後の戦いは、ヨークタウン(Yorktown)に
おけるものだ。
彼は、そこに、ニューヨークを再奪取する誤った試みの後・・彼は、後に、そ
うしたのは敵をあざむくためだったと主張したが、チャーナウ氏はそれ を「ウ
ソ」であると断じている・・・、しかも、<フランスの>ド・グラッス(de
Grasse)提督の28隻の戦列艦(ships-of-the-line)<注2)> 及びフランスの
歩兵並びに砲兵が、半島先端に<英軍の>コーン ウォリス(Cornwallis)率い
る9000人もの英陸軍を封じ込めてからはるか後にそこに到着したのだ。
(注2)欧米で17世紀から19世紀中頃までの間に建造された戦艦。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ship_of_the_line (太田)
チャーナウ氏は、「ヨークタウンでの勝利は、海上での優位によって支援され
たフランス軍の巧みな包囲によるものだ」と記す。
だから、コーンウォリスが、1781年10月19日に降伏した時、自分の剣がワシン
トンにではなく、フランス軍に渡されるように命じたのは少し も驚くべきこと
ではない。
一方、ワシントンは、捕虜になった王党派<(=英軍側で戦った植民地人達
(太田)>がニューヨークに船で送り返されることは認めたが、再捕獲さ れた
奴隷達・・その中には、彼自身が所有していた300人の奴隷のうちの2人が含ま
れていた・・は、それぞれのプランテーションに送り返され た。・・・」(B)
「・・・考えられないほどのフランスによる援助なかりせば、米国の歴史は異
なっていたかもしれない。・・・」(E)
「・・・ワシントンは、頭の回転の速い方でも飲み込みの早い方でもなく、自
発性の才を欠き、臨機応変にうまい方法を考え出すことが不得手だっ た」と彼
は記す。
彼は、せいぜい、「独創性というよりは鋭い判断力」を持っていただけだ
と。・・・」(B)
「・・・ワシントンは余り教育を受けていなかった。
彼は哲学者ではなかった。
そして、「立派な(sterling)機知の時代であったというのに、ワシントンが
ユーモアで知られたということは全くなかった」 と。・・・」(A)
「・・・<しかし、ワシントンの>同時代人達は、彼に深いうらみをもってい
たライバル達でさえ、彼が神の摂理によって、あるいは単に運によって 嘉され
ているように見えたという見解だった。
さもなくば、かくも多数の弾丸が彼の周りを飛び交ったというのに、どうして
ただの一つも彼の身体にあたらなかったのかを説明することができない
し、<彼の蒙った>フレンチ・インディアン戦争と独立戦争で破滅的な軍事的大
災厄の連鎖の中から、彼の評判が地に堕ちるどころか、むしろ評判が高 まって
立ち現れたことだって説明できない、というわけだ。・・・」(E)
(続く)
~~~~~~~~~
<Tetsu>さんの質問はいいね。
太田さんの答えもいいね。↓
~~~~~~~~~
~~~~~~~~~
太田述正コラム#4515(2011.1.23)
<皆さんとディスカッション(続x1084)>
<Tetsu>
戦後の日本で軍部の評判が悪いのは五・一五事件や二・二六事件のせいじゃな
いですか。
<太田>
昨日のオフ会の3次会の席上での上記ご質問にお答えしなかったので、きちん
としたお答えではなく、とりあえずのお答えをしておきたいと思いま す。
まず、念頭に置いていただきたいのは以下の事柄です。
維新の元勲達が死ぬか老いた状況下で、当時の日本には、英国の、1923年にで
きた(3)参謀長会議(the Chiefs of Staff Committee。3軍目の英空軍が
1918年にできていた)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ministry_of_Defence_(United_Kingdom )
に相当する、陸海軍の調整機関も、1927年にできた国防大学(Royal Defence
College)
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_College_of_Defence_Studies
に相当する、将官相当直前の陸海軍軍人と外交官等の間に共通認識と友情を醸成
する機関もありませんでした。
また、世界恐慌という非常時において、英国は1931年に既に挙国一致内閣に
なっていましたが、世界恐慌に加えて、世界恐慌に伴う経済ブロック 化の動き
と、1931年の満州事変に象徴される支那情勢の悪化(=赤露の脅威の増大)、更
には日本と英米の離間、という、英国よりもはるかに深刻 な非常時に突入して
いたにもかかわらず、五・一五事件の時点では日本はまだ挙国一致内閣になって
いませんでした。
(英国防大学に類した内閣総力戦研究所が日本にできたのは1940年9月(コラ
ム#4193)、英参謀長会議に相当する(平時の)大本営が設置 されたのは1937年11月
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6
、と英国に比べて大幅に遅れました。)
その上で、まず、五・一五事件を見てみましょう。
「・・・<1932年5月15日の五・一五事件は、>大日本帝国海軍の青年将校を
中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に 乱入
し、・・・犬養毅首相を暗殺した。・・・
犯人のうち軍人は軍服を着用して事件に臨んだものの、・・・武器は民間から
調達され、また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないの で、・・・
同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙っ
て軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強<い の>に対して本事
件は暗殺テロの色彩が強い。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%
8B%E4%BB%B6
※
「・・・五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者・・・藤井斉<(1904
年生~32年2月5日戦死)>・・・は・・・王帥会を組織<した とこ
ろ、>・・・<同>会は政党政治を非難し、国家の改造を目的としたものであっ
た。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%96%89
→「政党政治を非難し」を「挙国一致内閣を求め」と読み替えれば、このテロリ
スト達の要求はおかしくはないのであり、実際、五・一五事件の後、日 本は挙
国一致内閣時代に入るわけで、テロリスト達は目的を達したと言えるわけです。
なお、もう一つ興味深いのは、事件実行者達が、基本的に海軍将校と陸士学生
から成っていた(※)ことであり、トップダウンで何もやらない政府に 代わって
ボトムアップで陸海軍軍人間において共通認識と友情を醸成する試みが行われて
いたかに見えることです。(太田)
「<犬養は、>宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国か
ら亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ ボース
らをかくまったこともあった。・・・
犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパ
イプを使って外交交渉で解決しようとした。犬養の解決案は、満州国の 形式的
領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に
置くというものだった。かねて支援していた元記者の萱野長知を 上海に送っ
て、国民党幹部と非公式の折衝に当たらせた。しかし・・・対中国強硬派の森恪
が内閣書記官長の職に居た。・・・。森は犬養の推進する対 中融和路線には不
満で、辞表を提出して犬養を困らせていた。犬養は秘密裡に交渉を進めていた
が、交渉が煮詰まった段階で森の知るところとなり、森 が萱野からの電報を握
りつぶしてしまった。中国が最終的に犬養案を飲んだかという疑問は残るが、成
功の可能性のあった交渉は挫折してしまっ た。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
→赤露の手先たる中国国民党政権との宥和政策など成り立つわけがないのであり、それを追求した犬養を指弾した、テロリスト達は、(テロは非難され るべきことは当然ですが、)必ずしも間違っていたとは言えません。(太田)
では、次に二・二六事件を見てみましょう。
「・・・<1936年2月15日から29日にかけての二・二六事件の>蹶起趣意書で
は、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶 で、<1930年の>ロンドン
<海軍軍縮>条約と<1935年7月の真崎>教育総監更迭における統帥権干
犯、<1930年の>三月事件の不 逞、<1935年2月の>天皇機関説<事件に見ら
れる天皇機関説>一派の学匪、共匪、<1935年12月の>大本教<事件>などの陰
謀の事例をあ げ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止し
ているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭
す、と述 べている。・・・
大蔵大臣(元総理)高橋是清は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨み
を買っており、襲撃の対象となる。
積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が
出始め、緊縮政策に取りかか<ったものだ>。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%
8B%E4%BB%B6
→日本帝国及びその勢力圏においては経済高度成長軌道に乗っていたけれど、四
囲の国際情勢は悪化の一途を辿っていた中で、クーデター実行者たる陸 軍青年
将校達は、世論を踏まえた、国防機構の一元化、軍事費非削減/軍事費増大を求
めたものと解すれば、(クーデターが非難去るべきことは当然で すが、)この
要求は必ずしも間違っていたとは言えません。
残念ながら、1936年中に、(ナチスドイツの勃興を踏まえて)英国は国防調整
相(Minister for Coordination of Defence)ポストを設け
http://en.wikipedia.org/wiki/Minister_for_Coordination_of_Defence
(、更に、第二次世界大戦が始まってから1940年には国防相(Minister of
Defence)ポストを設けチャーチル首相が国防相を兼務し)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ministry_of_Defence_(United_Kingdom )
たけれど、戦前の日本は、ついにそれに類するポストないし役所をつくることは
ありませんでした。
そして、そのような偏波な体制の下、1936年末には、関東軍が内蒙工作を決行して失敗し、翌1937年には日支戦争が始まってしまい、 1940年における対英のみ開戦の千載一遇の機会を逃したまま、太平洋戦争へとなだれ込んで行くわけです。(太田)
さて、ここからは、私の日本型政治経済体制論をある程度分かっておられる方
でないと、理解するのがむつかしいと思いますが、分散型にしてボトム アップ
型、かつ情報共有型である日本型政治経済体制への先祖返りが進展していたとこ
ろの、どんどん軍事に向かない社会へと変容しつつあった当時の 日本において、なおかつ、質量共に充実した軍事力を持たないと日本帝国が滅びる、という認識を持っていたと思われる、当時の陸海軍の青年将校、ない しはその卵達が抱いていた危機意識、焦燥感がどれほどのものだったか、を忖度していただきたいのです。
<皆さんとディスカッション(続x1084)>
<Tetsu>
戦後の日本で軍部の評判が悪いのは五・一五事件や二・二六事件のせいじゃな
いですか。
<太田>
昨日のオフ会の3次会の席上での上記ご質問にお答えしなかったので、きちん
としたお答えではなく、とりあえずのお答えをしておきたいと思いま す。
まず、念頭に置いていただきたいのは以下の事柄です。
維新の元勲達が死ぬか老いた状況下で、当時の日本には、英国の、1923年にで
きた(3)参謀長会議(the Chiefs of Staff Committee。3軍目の英空軍が
1918年にできていた)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ministry_of_Defence_(United_Kingdom )
に相当する、陸海軍の調整機関も、1927年にできた国防大学(Royal Defence
College)
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_College_of_Defence_Studies
に相当する、将官相当直前の陸海軍軍人と外交官等の間に共通認識と友情を醸成
する機関もありませんでした。
また、世界恐慌という非常時において、英国は1931年に既に挙国一致内閣に
なっていましたが、世界恐慌に加えて、世界恐慌に伴う経済ブロック 化の動き
と、1931年の満州事変に象徴される支那情勢の悪化(=赤露の脅威の増大)、更
には日本と英米の離間、という、英国よりもはるかに深刻 な非常時に突入して
いたにもかかわらず、五・一五事件の時点では日本はまだ挙国一致内閣になって
いませんでした。
(英国防大学に類した内閣総力戦研究所が日本にできたのは1940年9月(コラ
ム#4193)、英参謀長会議に相当する(平時の)大本営が設置 されたのは1937年11月
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6
、と英国に比べて大幅に遅れました。)
その上で、まず、五・一五事件を見てみましょう。
「・・・<1932年5月15日の五・一五事件は、>大日本帝国海軍の青年将校を
中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に 乱入
し、・・・犬養毅首相を暗殺した。・・・
犯人のうち軍人は軍服を着用して事件に臨んだものの、・・・武器は民間から
調達され、また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないの で、・・・
同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙っ
て軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強<い の>に対して本事
件は暗殺テロの色彩が強い。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%
8B%E4%BB%B6
※
「・・・五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者・・・藤井斉<(1904
年生~32年2月5日戦死)>・・・は・・・王帥会を組織<した とこ
ろ、>・・・<同>会は政党政治を非難し、国家の改造を目的としたものであっ
た。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%96%89
→「政党政治を非難し」を「挙国一致内閣を求め」と読み替えれば、このテロリ
スト達の要求はおかしくはないのであり、実際、五・一五事件の後、日 本は挙
国一致内閣時代に入るわけで、テロリスト達は目的を達したと言えるわけです。
なお、もう一つ興味深いのは、事件実行者達が、基本的に海軍将校と陸士学生
から成っていた(※)ことであり、トップダウンで何もやらない政府に 代わって
ボトムアップで陸海軍軍人間において共通認識と友情を醸成する試みが行われて
いたかに見えることです。(太田)
「<犬養は、>宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国か
ら亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ ボース
らをかくまったこともあった。・・・
犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパ
イプを使って外交交渉で解決しようとした。犬養の解決案は、満州国の 形式的
領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に
置くというものだった。かねて支援していた元記者の萱野長知を 上海に送っ
て、国民党幹部と非公式の折衝に当たらせた。しかし・・・対中国強硬派の森恪
が内閣書記官長の職に居た。・・・。森は犬養の推進する対 中融和路線には不
満で、辞表を提出して犬養を困らせていた。犬養は秘密裡に交渉を進めていた
が、交渉が煮詰まった段階で森の知るところとなり、森 が萱野からの電報を握
りつぶしてしまった。中国が最終的に犬養案を飲んだかという疑問は残るが、成
功の可能性のあった交渉は挫折してしまっ た。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
→赤露の手先たる中国国民党政権との宥和政策など成り立つわけがないのであり、それを追求した犬養を指弾した、テロリスト達は、(テロは非難され るべきことは当然ですが、)必ずしも間違っていたとは言えません。(太田)
では、次に二・二六事件を見てみましょう。
「・・・<1936年2月15日から29日にかけての二・二六事件の>蹶起趣意書で
は、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶 で、<1930年の>ロンドン
<海軍軍縮>条約と<1935年7月の真崎>教育総監更迭における統帥権干
犯、<1930年の>三月事件の不 逞、<1935年2月の>天皇機関説<事件に見ら
れる天皇機関説>一派の学匪、共匪、<1935年12月の>大本教<事件>などの陰
謀の事例をあ げ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止し
ているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭
す、と述 べている。・・・
大蔵大臣(元総理)高橋是清は陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨み
を買っており、襲撃の対象となる。
積極財政により不況からの脱出を図った高橋だが、その結果インフレの兆候が
出始め、緊縮政策に取りかか<ったものだ>。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%
8B%E4%BB%B6
→日本帝国及びその勢力圏においては経済高度成長軌道に乗っていたけれど、四
囲の国際情勢は悪化の一途を辿っていた中で、クーデター実行者たる陸 軍青年
将校達は、世論を踏まえた、国防機構の一元化、軍事費非削減/軍事費増大を求
めたものと解すれば、(クーデターが非難去るべきことは当然で すが、)この
要求は必ずしも間違っていたとは言えません。
残念ながら、1936年中に、(ナチスドイツの勃興を踏まえて)英国は国防調整
相(Minister for Coordination of Defence)ポストを設け
http://en.wikipedia.org/wiki/Minister_for_Coordination_of_Defence
(、更に、第二次世界大戦が始まってから1940年には国防相(Minister of
Defence)ポストを設けチャーチル首相が国防相を兼務し)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ministry_of_Defence_(United_Kingdom )
たけれど、戦前の日本は、ついにそれに類するポストないし役所をつくることは
ありませんでした。
そして、そのような偏波な体制の下、1936年末には、関東軍が内蒙工作を決行して失敗し、翌1937年には日支戦争が始まってしまい、 1940年における対英のみ開戦の千載一遇の機会を逃したまま、太平洋戦争へとなだれ込んで行くわけです。(太田)
さて、ここからは、私の日本型政治経済体制論をある程度分かっておられる方
でないと、理解するのがむつかしいと思いますが、分散型にしてボトム アップ
型、かつ情報共有型である日本型政治経済体制への先祖返りが進展していたとこ
ろの、どんどん軍事に向かない社会へと変容しつつあった当時の 日本において、なおかつ、質量共に充実した軍事力を持たないと日本帝国が滅びる、という認識を持っていたと思われる、当時の陸海軍の青年将校、ない しはその卵達が抱いていた危機意識、焦燥感がどれほどのものだったか、を忖度していただきたいのです。
そのことは、陸海軍、とりわけ陸軍の上層部も十分認識していたと思われるだ
けに、青年将校らのはねあがり行動に対する上層部の対応が甘くなりが ちだっ
たわけです。
ちなみに、(皆さんの頭が混乱しないことを祈りますが、)皮肉にも、青年将
校らのはねあがり行動とは、要するトップと情報を共有するに至ってい たボト
ムによるボトムアップ的行動(下克上)であり、それはまさに日本型政治経済体制化が陸海軍においても進展しつつあった症候でもあるんです ね。
それでは、記事の紹介です。
BBCが番組制作会社と共に謝罪したってさ。↓
http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-12260577
女性の政治家の方が地元に予算を持ってくる力も、立法能力も、男性政治家よ
りも上であることが分かった。
ただし、これは、女性差別の中で、少数の優秀な女性が頑張ってるからだろ
うってさ。↓
・・・The research is the first to compare the performance of male and
female politicians nationally, and it finds that female members of the
House rout their male counterparts in both pulling pork and shaping
policy. ・・・
the women themselves─specifically, their skills at "logrolling,
agenda-setting, coalition building, and other deal-making
activities"─that are responsible for the gender-performance divide.
So are women just innately better politicians? Probably not. More
likely・・・in order to overcome lingering bias against women in
leadership positions, those women must work that much harder to be seen
as equals.・・・
http://www.newsweek.com/2011/01/22/why-female-politicians-are-more -
effective.html
◎防衛省OB太田述正メルマガ
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⇒ http://archive.mag2.com/0000101909/index.html