「言うなら行動する」そんな日本を世界は期待しているはずです。
アジアの街角からメルマガより。
☆ 日本人の甘え hideおじさん
先日「私が感じる中国」ということで意見を述べさせて戴きましたが、いろいろなご意見を頂戴し大変ありがたいと思っております。
何度も言うようですが、私個人としては中国という「国」が嫌いであることには変わりありません。観光以外ではあまり関わりたくないというのが正直な気持でもあります。
ただ、それはあくまで個人の感情であって、ビジネスや外交という立場で考えた場合、それを持ち出してもプラスになることはありません。当然みなさんも同じ考えでありましょう。
心情的に中国批判は判りますが、そもそも中国のマイナス面は今に始まったことではないはずです。以前より、程度の差こそあれチャイナリスクや政治的な問題は言われ続けてきたし、異文化国家での企業の苦労は嫌というほど聞かされてきたはずです。
中国が経済発展とともに強欲になって、その程度が酷くなってきていることは強く感じますが、なのに未だに中国を「ああだこうだ」言って判断することには、ちょっと違和感があります。
何故なら、今でも毎週のように週刊誌・雑誌などでも政治・ビジネスにおける「チャイナリスク」などの記事を見ない日はありません。反日デモ、尖閣問題を出すまでもなく、彼らの理不尽さも今に始まったことではないでしょう。
にも関わらず、それに対応する日本の姿勢というのが、どこか旧態然としているのではないかと思うのです。===そこに「日本流」が通じるという私たちの甘さが見え隠れしているように思えてなりません。
勿論、日本はチャイナリスクに対して何もしてこなかったとは言いません。
企業の努力は涙ぐましいものがあったし、その経験からたくさんの学習をして今に至っていることも事実です。つい数年前までは、欧米や韓国は日本の経験から教えを乞うこともしばしばでした。
しかし今はどうかというと、「誰も」といっていいほど日本の情報を頼ろうという国は無くなったと言います。
これは、何時の時点からか日本の中国に対する考え方がストップしてしまって彼らの変化についていけなくなっているということを意味しているように思えてならないのです。
その原因を辿ると、中国のマイナス面を捉えて自分たちの努力不足・甘さから目を背け続けた結果ではないでしょうか。
中国となったら、ちょっとでも肯定的な意見を述べると、これらマイナス面を持ち出してそれを打ち消そうとするような主張が少なくありません。
中国には、たくさんのマイナス面があるのは事実です。
ですからどうしてもそちらに目がいくのは当然ですけど、だからといってプラス・マイナスを天秤に掛けて、マイナスが多いからと、中国という国を昔と同様に「マイナス」と簡単に判断してしまうのは危険ではないでしょうか。
まして、マイナス面が多いことで「まだまだ遅れている」と納得したり、だから日本の常識が通じないのだと考えて良いとは思えないのです。
そうやって「中国は」と言いながら、一方でどっぷり中国経済に浸かっているのも日本の現実です。あれだけチャイナリスクや異文化のことを言っておきながら、中国に頼らないと立ちいかないところまでのめり込んでいる日本には、全く責任がないのでしょうか?
中国に頼り切っている現状がありながら、一方で中国の後進性をもって「騙した、騙された」と言うのは、どこか天に唾するような感じに見えなくもありま
せん。
レアアースの問題にしても、中国依存の体質を積極的に改めようとしなかった日本側の落ち度もあるのではないでしょうか。
尖閣問題での実質輸出停止があった際に、「やはり中国って汚い国だ」という声が出ておりますが、果たして中国だけの責任なのでしょうか?ーーーこれは日本だけでなくEUにも言えることですが、
結局、我々の認識が甘かったと捉えるべきことも多いと思うのです。
中国のことを批判するならちゃんとリスクヘッジができていますか?というとそうでもない。言っていることとやっていることが矛盾しています。
結局、目先の利益に囚われて、しなければならなかったことを怠った結果、といわれても仕方ないように思います。それでいて自分の思い通りにいかないと「中国は」という言葉で現実を隠してしまっているように思えてならないのです。
一方で、国も企業も、現地駐在員がどれほど苦労しているのか理解しているのでしょうか?
中には肝臓を壊してまで現地の人と付き合って信頼関係を作っているヤツもいる。自腹を切ってまで付き合う人も多いです。
製品が売れないから、案件が決まらなかったからといって、「駐在員はなにをやっている!」と批判する企業トップも少なくありません。けど、彼ら駐在員の意見を真面目に汲み取っている企業がどれほどあるのでしょう。
現地駐在員に満足な決定権も与えず、意思決定が遅い日本企業を信頼する人がいるのでしょうか。「あなたは何も決められないのだから、決定権を持っている人が来て下さい」などと言われたことのある出張者や駐在員の気持を考えたことがあるのでしょうか。
本社の意向に沿うような意見しか言わない駐在員も多いですけど、みんなで責任逃れをしているとしか思えません。それでいて二言目には「中国って国は」と言っている人もいます。
ホットな情報を有効利用すればまた別な視点も生まれるのに、どうしても「日本の常識」というフィルターを通して中国を見てしまう。はたしてそれでいいのでしょうか?
私たちは、中国とは距離が近いということからか、日本人の気持ちのどこかに「同じモノサシ」が使えると甘えている部分があるように思えます。
だからその日本人の気持が裏切られると「騙された」とか「道徳のない国だ」
と批判する。
「ああ言えばこう言う」、「こう言えばああ言う」と、まずもって口の減らない国民性ですが、彼らは騙しているという気持はないでしょう。言うなれば日本人が独り相撲で独りでコケたようなものではないでしょうか。
「腹を割って話せば判る」という人もいますが、政治やビジネスにおいて「腹を割って」全てが上手くいくのでしょうか。表面的にはそうであっても、裏では丁々発止の工作があって当然でしょう。
日本人には、そういう工作が見え隠れしてしまうと途端に気が引けてしまうような感じがします。日本人と同じ感覚が中国人にも同じように通じると思ってはいないでしょうか?
それも「甘え」のような気がしてなりません。
我々の中に、日本の技術は世界トップなのだから「売れて当然」という気持があると思います。
しかし、技術的に高いからと言ってそれだけで売れる訳ではありません。日本製品の丈夫で且つ細やかな心使いは感嘆するものがありますが、それが外国でも受けるかというと必ずしもそうではありません。
日本人には便利でも、それが海外でも便利かどうかは別問題でしょう。
海外での商売が上手くいかないことを「その国は、まだまだだから」と言っていていいはずはありません。
中国における韓国のビジネスマンを見ていると、田舎の電器屋にも足を運び、そこのオヤジといろいろ話し合い、現地のニーズを聞いて回っている姿を見かけます。
田舎のオヤジのアイデアも熱心にメモし、彼らに製品の売り方までレクチャーもしています。ーーーそこまでやっている日本企業があるだろうか?
気が付いてみれば、日本企業が昔やっていたことを韓国のビジネスマンがいま中国や外国でやっています。
そうはいっても日本の製品が世界で売れているのは事実ですが、でもそれは、「今は」という言葉がついていると私は思っています。
家電製品ひとつとっても、年々世界シェアが落ちていることは、技術が高ければ売れるとかいう時代ではないことを示しているように思います。
中国の人が「日本の製品が素晴らしいのは判るが、外国市場のニーズの把握、意思決定のスピード、現地人の使い方など工夫しては」と言っていると聞いたことがありますが、彼らの話に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか?
遅れている彼らの言葉を無視してよいと思えません。
私たちビジネスマンには「社会常識」というものがあります。
外交辞令をまともに受け取ることはないし、美辞麗句の裏には政治目的やシビアな計算があることも知っています。
嫌なヤツ(国)とも、長期的に考えて協力しあうこともあるでしょう。
言いたいことを全部言うのではなく、我慢すべき時は我慢する。しかし言うべきときは、遠慮なく言う。
経済大国と言われても、技術大国と言われても、それは永遠ではなく、努力を怠れば世界から取り残されてしまうことも知っています。
私たちは、これらのことを理屈では良く理解しています。理解しているけれど協力関係でも裏に計算が働いているとシラケるというか、誠実でないと感じてしまい相手から目を逸らしてしまうことがあるように思います。
しかし、計算があるのは社会人の一般常識から言えば、当たり前のことです。
中国の常識で動いている彼らを一方的に批判できないことも、これも常識の部類でしょう。でも日本人には、メンタルな感情からか、そんな彼らを敬遠してしまう風潮も感じます。
日本がいうところの日中友好とか戦略的互恵関係というのは、どうも中国に日本のモノサシを使ってもらいたいという感情が含まれているように思えてなりません。
「仲良くなれば」と考える日本、これも日本人の甘えの現れでしょう。
その点中国は「世界は非情である」ということを良く理解して行動しているように思えます。一見強欲で独善的ではありますが、一歩引いて見てみれば、彼らの計算があっての行動だということが分かります。
それも、国家の発展と安全保障の観点からいえば当然のことをしているまでです。日本がしてないからといって中国を批判する理由にはならないでしょう。
例えば、経済的依存関係がどれだけ高まったとしても、軍事的衝突はこれと関わりなく起こってきたという歴史的事実があります。
戦前の日本とアメリカの経済依存関係を見れば、アメリカの一方的な貿易黒字日本のアメリカに対する100%に近い経済依存は、今以上のものがあったでしょう。しかし、それでも戦争は起こっています。
これは経済的に仲がよければ平和で戦いはないということではありません。
しかし私たちは、これだけの敗戦経験をしていながらも「戦略的互恵関係」とか「日中友好」という言葉で相互依存が深まれば、未来永劫平和な交流が続いていくと信じきっているのではないでしょうか。
信じきっているからこそ、中国の態度が気に食わなくなるし、批判もする。
不満のぶつけ先がなくなれば「所詮中国という国は常識の通じない国だ」と、自己暗示を掛けて納得している。でも中国依存の姿勢は変らない。
===ある意味日本は中国に甘えてはいないでしょうか。
友好という名の下に波風立てずに現状維持を計る社会が良いのか、自分の努力と意思でさらにステップアップを計ろうとする社会が良いのか、このような両極端にある日中関係を考えた場合、単に中国を批判していても日本の将来は明るいとは言えないでしょう。
誰かに甘えて、自分の殻に閉じこもって文句を言う時代ではありません。
「言うなら行動する」そんな日本を世界は期待しているはずです。
= この稿おわり =
先日「私が感じる中国」ということで意見を述べさせて戴きましたが、いろいろなご意見を頂戴し大変ありがたいと思っております。
何度も言うようですが、私個人としては中国という「国」が嫌いであることには変わりありません。観光以外ではあまり関わりたくないというのが正直な気持でもあります。
ただ、それはあくまで個人の感情であって、ビジネスや外交という立場で考えた場合、それを持ち出してもプラスになることはありません。当然みなさんも同じ考えでありましょう。
心情的に中国批判は判りますが、そもそも中国のマイナス面は今に始まったことではないはずです。以前より、程度の差こそあれチャイナリスクや政治的な問題は言われ続けてきたし、異文化国家での企業の苦労は嫌というほど聞かされてきたはずです。
中国が経済発展とともに強欲になって、その程度が酷くなってきていることは強く感じますが、なのに未だに中国を「ああだこうだ」言って判断することには、ちょっと違和感があります。
何故なら、今でも毎週のように週刊誌・雑誌などでも政治・ビジネスにおける「チャイナリスク」などの記事を見ない日はありません。反日デモ、尖閣問題を出すまでもなく、彼らの理不尽さも今に始まったことではないでしょう。
にも関わらず、それに対応する日本の姿勢というのが、どこか旧態然としているのではないかと思うのです。===そこに「日本流」が通じるという私たちの甘さが見え隠れしているように思えてなりません。
勿論、日本はチャイナリスクに対して何もしてこなかったとは言いません。
企業の努力は涙ぐましいものがあったし、その経験からたくさんの学習をして今に至っていることも事実です。つい数年前までは、欧米や韓国は日本の経験から教えを乞うこともしばしばでした。
しかし今はどうかというと、「誰も」といっていいほど日本の情報を頼ろうという国は無くなったと言います。
これは、何時の時点からか日本の中国に対する考え方がストップしてしまって彼らの変化についていけなくなっているということを意味しているように思えてならないのです。
その原因を辿ると、中国のマイナス面を捉えて自分たちの努力不足・甘さから目を背け続けた結果ではないでしょうか。
中国となったら、ちょっとでも肯定的な意見を述べると、これらマイナス面を持ち出してそれを打ち消そうとするような主張が少なくありません。
中国には、たくさんのマイナス面があるのは事実です。
ですからどうしてもそちらに目がいくのは当然ですけど、だからといってプラス・マイナスを天秤に掛けて、マイナスが多いからと、中国という国を昔と同様に「マイナス」と簡単に判断してしまうのは危険ではないでしょうか。
まして、マイナス面が多いことで「まだまだ遅れている」と納得したり、だから日本の常識が通じないのだと考えて良いとは思えないのです。
そうやって「中国は」と言いながら、一方でどっぷり中国経済に浸かっているのも日本の現実です。あれだけチャイナリスクや異文化のことを言っておきながら、中国に頼らないと立ちいかないところまでのめり込んでいる日本には、全く責任がないのでしょうか?
中国に頼り切っている現状がありながら、一方で中国の後進性をもって「騙した、騙された」と言うのは、どこか天に唾するような感じに見えなくもありま
せん。
レアアースの問題にしても、中国依存の体質を積極的に改めようとしなかった日本側の落ち度もあるのではないでしょうか。
尖閣問題での実質輸出停止があった際に、「やはり中国って汚い国だ」という声が出ておりますが、果たして中国だけの責任なのでしょうか?ーーーこれは日本だけでなくEUにも言えることですが、
結局、我々の認識が甘かったと捉えるべきことも多いと思うのです。
中国のことを批判するならちゃんとリスクヘッジができていますか?というとそうでもない。言っていることとやっていることが矛盾しています。
結局、目先の利益に囚われて、しなければならなかったことを怠った結果、といわれても仕方ないように思います。それでいて自分の思い通りにいかないと「中国は」という言葉で現実を隠してしまっているように思えてならないのです。
一方で、国も企業も、現地駐在員がどれほど苦労しているのか理解しているのでしょうか?
中には肝臓を壊してまで現地の人と付き合って信頼関係を作っているヤツもいる。自腹を切ってまで付き合う人も多いです。
製品が売れないから、案件が決まらなかったからといって、「駐在員はなにをやっている!」と批判する企業トップも少なくありません。けど、彼ら駐在員の意見を真面目に汲み取っている企業がどれほどあるのでしょう。
現地駐在員に満足な決定権も与えず、意思決定が遅い日本企業を信頼する人がいるのでしょうか。「あなたは何も決められないのだから、決定権を持っている人が来て下さい」などと言われたことのある出張者や駐在員の気持を考えたことがあるのでしょうか。
本社の意向に沿うような意見しか言わない駐在員も多いですけど、みんなで責任逃れをしているとしか思えません。それでいて二言目には「中国って国は」と言っている人もいます。
ホットな情報を有効利用すればまた別な視点も生まれるのに、どうしても「日本の常識」というフィルターを通して中国を見てしまう。はたしてそれでいいのでしょうか?
私たちは、中国とは距離が近いということからか、日本人の気持ちのどこかに「同じモノサシ」が使えると甘えている部分があるように思えます。
だからその日本人の気持が裏切られると「騙された」とか「道徳のない国だ」
と批判する。
「ああ言えばこう言う」、「こう言えばああ言う」と、まずもって口の減らない国民性ですが、彼らは騙しているという気持はないでしょう。言うなれば日本人が独り相撲で独りでコケたようなものではないでしょうか。
「腹を割って話せば判る」という人もいますが、政治やビジネスにおいて「腹を割って」全てが上手くいくのでしょうか。表面的にはそうであっても、裏では丁々発止の工作があって当然でしょう。
日本人には、そういう工作が見え隠れしてしまうと途端に気が引けてしまうような感じがします。日本人と同じ感覚が中国人にも同じように通じると思ってはいないでしょうか?
それも「甘え」のような気がしてなりません。
我々の中に、日本の技術は世界トップなのだから「売れて当然」という気持があると思います。
しかし、技術的に高いからと言ってそれだけで売れる訳ではありません。日本製品の丈夫で且つ細やかな心使いは感嘆するものがありますが、それが外国でも受けるかというと必ずしもそうではありません。
日本人には便利でも、それが海外でも便利かどうかは別問題でしょう。
海外での商売が上手くいかないことを「その国は、まだまだだから」と言っていていいはずはありません。
中国における韓国のビジネスマンを見ていると、田舎の電器屋にも足を運び、そこのオヤジといろいろ話し合い、現地のニーズを聞いて回っている姿を見かけます。
田舎のオヤジのアイデアも熱心にメモし、彼らに製品の売り方までレクチャーもしています。ーーーそこまでやっている日本企業があるだろうか?
気が付いてみれば、日本企業が昔やっていたことを韓国のビジネスマンがいま中国や外国でやっています。
そうはいっても日本の製品が世界で売れているのは事実ですが、でもそれは、「今は」という言葉がついていると私は思っています。
家電製品ひとつとっても、年々世界シェアが落ちていることは、技術が高ければ売れるとかいう時代ではないことを示しているように思います。
中国の人が「日本の製品が素晴らしいのは判るが、外国市場のニーズの把握、意思決定のスピード、現地人の使い方など工夫しては」と言っていると聞いたことがありますが、彼らの話に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか?
遅れている彼らの言葉を無視してよいと思えません。
私たちビジネスマンには「社会常識」というものがあります。
外交辞令をまともに受け取ることはないし、美辞麗句の裏には政治目的やシビアな計算があることも知っています。
嫌なヤツ(国)とも、長期的に考えて協力しあうこともあるでしょう。
言いたいことを全部言うのではなく、我慢すべき時は我慢する。しかし言うべきときは、遠慮なく言う。
経済大国と言われても、技術大国と言われても、それは永遠ではなく、努力を怠れば世界から取り残されてしまうことも知っています。
私たちは、これらのことを理屈では良く理解しています。理解しているけれど協力関係でも裏に計算が働いているとシラケるというか、誠実でないと感じてしまい相手から目を逸らしてしまうことがあるように思います。
しかし、計算があるのは社会人の一般常識から言えば、当たり前のことです。
中国の常識で動いている彼らを一方的に批判できないことも、これも常識の部類でしょう。でも日本人には、メンタルな感情からか、そんな彼らを敬遠してしまう風潮も感じます。
日本がいうところの日中友好とか戦略的互恵関係というのは、どうも中国に日本のモノサシを使ってもらいたいという感情が含まれているように思えてなりません。
「仲良くなれば」と考える日本、これも日本人の甘えの現れでしょう。
その点中国は「世界は非情である」ということを良く理解して行動しているように思えます。一見強欲で独善的ではありますが、一歩引いて見てみれば、彼らの計算があっての行動だということが分かります。
それも、国家の発展と安全保障の観点からいえば当然のことをしているまでです。日本がしてないからといって中国を批判する理由にはならないでしょう。
例えば、経済的依存関係がどれだけ高まったとしても、軍事的衝突はこれと関わりなく起こってきたという歴史的事実があります。
戦前の日本とアメリカの経済依存関係を見れば、アメリカの一方的な貿易黒字日本のアメリカに対する100%に近い経済依存は、今以上のものがあったでしょう。しかし、それでも戦争は起こっています。
これは経済的に仲がよければ平和で戦いはないということではありません。
しかし私たちは、これだけの敗戦経験をしていながらも「戦略的互恵関係」とか「日中友好」という言葉で相互依存が深まれば、未来永劫平和な交流が続いていくと信じきっているのではないでしょうか。
信じきっているからこそ、中国の態度が気に食わなくなるし、批判もする。
不満のぶつけ先がなくなれば「所詮中国という国は常識の通じない国だ」と、自己暗示を掛けて納得している。でも中国依存の姿勢は変らない。
===ある意味日本は中国に甘えてはいないでしょうか。
友好という名の下に波風立てずに現状維持を計る社会が良いのか、自分の努力と意思でさらにステップアップを計ろうとする社会が良いのか、このような両極端にある日中関係を考えた場合、単に中国を批判していても日本の将来は明るいとは言えないでしょう。
誰かに甘えて、自分の殻に閉じこもって文句を言う時代ではありません。
「言うなら行動する」そんな日本を世界は期待しているはずです。
= この稿おわり =