とにかく、核兵器は使うなと世界中に言いたい | 日本のお姉さん

とにかく、核兵器は使うなと世界中に言いたい

広島の被爆者、武田靖彦さんの証言

武田靖彦さんは、1998年6月、原水禁緊急派遣団のひとりとしてインドとパキスタンの各地を訪問し、広島で被爆した体験を話して廻りました。
これは、武田さんが様々な場所で話す際に元にした文章です。

1)自己紹介
年齢65才、広島県原爆被爆者団体協議会所属、 肝硬変、血小板減少等治療中、
原爆による身近な被爆者について
私の姉(二女):爆心地より約1.7kmで被爆。嫁先の家が破壊、下敷きとなり、かろうじて這い出す。家屋・蔵共に焼失。去る6月10日胃がん手術。
〃 (四女):去る6月5日、膀胱がんで手術後死去。
〃 (五女):素子。当時女学生、専攻科、女子挺身隊、学徒報国隊。軍需工場へ向かう途中、爆心地から1.4kmで被爆。京橋川で一夜を過ごし、8月7日連れ帰り、8月9日死去。(16才)
私の妻の兄(二男):中学一年生。学徒動員中、被爆。似島で死去。
私の小学校の同級生で広島市の中学、女学校に進学した方:28名、被爆死。
私たち建物疎開作業に原爆投下前日まで従事し、8月6日当日、私たち一年生は休日となり、代わりに出勤したした2年生:183名、被爆死。
2)8月6日以前の日常
 1941年12月8日未明、日本海軍がアメリカのハワイ島にある真珠湾に奇襲攻撃をし、太平洋戦争が勃発した。私が小学校3年(9才)の時であった。
 戦局が厳しくなるに従い、学校の教科全てについて軍事色が濃くなり、殊に、国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した教育勅語が終戦まで強制されたことが特色であった。つまり、天皇を神と崇め、忠義を尽くし、国のため身命をささげることを徹底的に教えられ、死を恐れない人間として育成された(大和魂)。この軍事教育が学徒出陣(1943)となり、学生を戦場に送り、やがて、世界でも希な肉弾戦術を実行し、多くの若者が最後の勝利を信じて神風特攻隊として敵艦目指して散華して行った。
 私たち子どもや女性も、防火訓練、食料増産のための作業をし、また、本土決戦に備え、竹槍で闘う訓練をした。
 また、国民の暮らしは貧しく、著しい耐乏生活を強いられ、食料や衣料は配給制度、切符制度となり、「欲しがりません、勝つまでは」が合言葉となった。
 「鬼畜米英」、「七生報国」、「一億国民玉砕」等の標語が合言葉となり、私たちは粗食と空腹に堪えながら、敵機来襲の空襲警報の連続の中、夜も眠れぬ緊張の日々生活を送った。
 1945年3月、私の町の小学校から、県立の中学校に私と5人の同級生が受験したが、私一人が不合格となり、悔しくて泣いた。※(5人は原爆で亡くなる)
 やむなく私立の中学校に入学し、一年生として通学したが、授業は間もなく中止となり、毎日”学徒動員”として軍部の命令に従い、防空壕の開墾作業等に従事し、8月に入ってからは建物疎開作業に従事した。
 私たちたちは、原爆投下前日、広島市役所裏で作業したが、軍事教官のT先生から「明日はゆっくり休み給え。君たちの代わりに、2年生を動員する。」と言われ、私たちは大喜びで帰った。その当時の広島の街は、その時が見納めとなった。
3)8月6日当日及び後日

 8月6日の朝を迎え、今日は何をしようかと思ったところ、母から広島に嫁いだ姉(二女)のところに味噌を届けてくれと頼まれ、仕方なく家を出て駅に向かった。途中、青空を見上げ”今日も暑そうだな”と思った。警戒警報のサイレンが鳴ったので家に引き返したら叱られ、再び駅に行くと、汽車が出た後だった。
 次の汽車を待つべく改札の棚に腰をかけ、もうそろそろ汽車がくる頃だなと柱時計を見たのが、午前8時10分すぎだった。 突然、ピカッ!!と目を射るような昼なお明るい閃光が走り、
目が眩んだ。眼前はマグネシウムを炊いたように駅の構内の建物や線路が青白く見えた。

 間髪入れず、ドーン!!という物凄い炸裂・轟音が耳をつんざき、四囲の建物や地面をゆさぶり、窓ガラスが吹き飛び、尾テイ骨を強く打ち、腹の皮が裂け腸が飛び出るかと思った。
 そして、頬が熱くなり、思わず手を当てた。広島の空を見ると、米粒ほどのキラキラ光る白い物体が黄色、赤色を帯びながら、見る間に物凄く巨大な火の玉となり、私の方に覆い被さるように迫ってきた。
 私は息が詰まるほど恐怖と戦慄をおぼえ、逃げようとしたが、逃げられないと観念し、足下の長椅子のもぐりこんだ。
 ザ、ザ、ザという音に、私は敵機の機銃掃射ではないかと思い、生きた気がしなかった。
 静かになったので恐る恐る這い出してみると、物凄く巨大(直径約200m位といわれている)で真っ赤な火の玉は、ますます膨張しながら空高く昇っていく(10、000mを超えたといわれている)。
 そして地上から、すさまじい勢いで火柱が吹き上がるように立ち昇り、火の玉の中心部が時折り空洞となり、中では煮えたぎるように燃え、紅蓮の炎が荒れ狂い、吹き出していた。
 その光景は言い表しようもないほど恐ろしかった。ホームに立って、双眼鏡で見ていた陸軍の将校は、兵器使用の弾薬庫がやられたと言っていた。
 あの巨大な火の玉の下にある広島市街一円が、ただ一発の爆弾で一瞬に火の海となり、凄絶・悲惨を極めたこの世の生き地獄と化しているとは全く思わなかった。
 (原子爆弾は、爆心地上空約9、000mのところで投下し、地上約600mのところで炸裂し、表面温度は6、000度、放射能と強烈な爆風を四方に放ち、人々・動物・建物を焼き、破壊した)
 間もなく、私たちの町の小学校が仮の救護所となり、被災者が列をなして避難してこられ、教室が病室となった。
 被災者は、頭髪は焼けちじみ、顔は赤黒く火脹れし、皮膚は垂れ下がり、衣服は焼け焦げ、血にまみれ、半裸の人も多く、まるで幽霊のようで、戸板に横たわり手の間から内臓が垂れ、うめいている者、家族を呼ぶ者、”水をください”と求める者が、箱車や担架などで運ばれていく。口では言えぬ悲惨な光景であった。
 国防婦人会の方が励ますだけで、治療する薬品もなく、うめき声がなくなれば息絶えていた。死者が続出し、火葬場の周囲に幾つもの穴を掘り、松葉を添え、油をかけて火葬する。
 朝早くから夜遅くまで、煙と異臭が街を覆ったのは幾日であったろうか。
 二女の姉は、爆心地から約1.7kmのところに住んでいたが、家の中で下敷きとなり、無我夢中で這い出し我が家に逃げ帰ってきた。
 すぐ上の姉(五女)素さんは、女学生で女子挺身隊、学徒報国隊として市内の軍需工場に通っていた。
 爆心地から約1.4kmの橋上で被爆し、友人4人と母校の女学校へ戻ろうとしたが、火の海だったので、広島駅に向かったが力尽きて京橋川のほとりに横たわり動けなくなり、そこで一夜を過ごした。姉の周りには、足を踏み入れる余地もないほど死体と瀕死の重傷者でぎっしり埋まっていたとのことであった。
 被爆者は次々と水を求めて川に入り、そのまま川下に流れていった。その数は累々としていた。
 夜は更けてゆく。広島の空はまるで夕映えのように赤々としていた。私は昼間の興奮で疲れ、いつのまにか眠っていた。真夜中に目がさめると、母は縁側で広島の空を見上げ、まんじりとせず座っていた。
 私は「お母さん、早よう、寝んさいや」と言ったが、母は何も答えなかった。
 私は自分の子や孫が出来、親が子を思う心を知り、母がその時どんな気持ちで我が子の帰りを待ちわびていたであろうかと思い、また傷ついた姉はどんなに救いを求め、死体に埋もれて心細い思いで待ちわびたであろうかと思う。
 一夜が明け、見知らぬ男性が、連絡を頼まれたと言って朝早く来られ、義兄、三女の姉、従兄が箱車を引いて広島に向かった。そして夜遅く、戸板の上に素さんを乗せて帰ってきた。
 素さんは母に「お母さん、心配かけたね。すみません」と言った。
 母は「よかった、痛かったろう、恐ろしかったろう」と言った。
 頭髪はジリジリに焦げ、セーラー服・モンペの黒い部分が焼け焦げ、皮膚はズルズルに火傷していた。足は素足となり、ザックと足袋は裂け砂をかんでいた。
 夜中に、親類のおじさんが隣の町から山を越えて、手に入らないごま油1升(1.8㍑)びんを持って見舞ってくれた。
 それをつけるため服を脱がそうとしたが、皮膚と服がくっついて脱がす事が出来ず、痛がる姉に、がまんしてねと言いながら、ハサミで皮膚と服を切り離し、やっと油を塗りたくった。
 8月8日夜、素さんは「お母さん、助けて」を繰り返し、哀願し、翌9日正午、16才の短い生涯でこの世を去った。
 小さいときから私を連れて遊んでくれた素さん、何のためにこの世に生まれてきたのか。 50過ぎた今も、あの日の姿で私の胸に生きている。
 私は、原爆投下後の2日目に、同級生3人で朝早く広島にある中学校へ報告のために家を出た。
 広島市街を目前にし唖然とした。市内一帯に煙が立ち込め、あちらこちらで残り火が燃え、異臭が鼻を突く。煙を通して時折見える建物は鉄筋コンクリート製のビル等、数えられるほどしか残っていなかった。全く信じられなかった。
 壊れかけた橋を渡り、瓦礫の山の間を残り火を避け、黙々と中学校に向かって歩いた。行き交う身近な人を探す人、応援に来た人、皆、形相が変わっていた。時折、死体をつんだ軍隊のトラックが通って行く。途中、土塀の下敷きになった死体、黒焦げの死体、半焼の死体に目を背け、心ながら手を合わせる思いで歩く。橋を渡る時、死体が満潮に乗ってか川下に幾体も浮いていた。また石橋の欄干は吹っ飛んで、川に落ちていた。
 中学校に到着してみると、爆心地から約2.4kmのところにも関わらず、2階建ての校舎は坐っていた。
 私の妻の兄は、私の同級生で中学1年生で、建物疎開に従事していたが、被爆後4kmの沖合いに浮かぶ小さな島に送られ、父・母の名前を呼びながら8月8日息絶えた。
 また、小学校同級生が28人被爆死。この中には、無傷で逃げかえった者、ガラスの破片が刺さった者も数日後に死亡。私の幼友達は校舎の下敷きになり、大ケガをして逃げ帰ってきたが、終戦後、B29の音を聞き「B29が憎い」と言い残して亡くなった。
 そして、私たちの身代わりとなった2年生183名が、建物疎開の現場で被爆死。若し、私たちに休日が与えられてなかったらと思うとぞっとする。
 広島の街は、幾日燃え続けたであろうか。死んだのは人間だけではなかった。多くの馬や犬、猫、鶏や多くの動物が犠牲になったのだ。
 広島の街は雨に洗われ、静かな廃虚となり、まるで死の街であった。
 橋の欄干は飛び、30cm位のコンクリートの歩道は爆風圧でめくれあがり、電車のレールは飴のように曲がり、鉄橋は焼け焦げ傾き、石段に人影を残し、ガスタンクにはくっきりとバルブの影をつけていた。
 市中、至るところに、原爆の威力の物凄さを実証する姿が無数に点在していた。
4)原爆被害
 広島の上空で人類史上、初めて原爆が炸裂し、強烈な爆風と熱線と放射能により、その年の末までに約14万人が被爆死、建物約76、000戸の中、約92%(約70、000戸)が壊滅的に破壊、焼失した。
 そして被爆して生き残った方、家族を探すため、あるいは救援等のため入市した方が放射能による二次障害である後遺症障害の発症で死者は増え続け、昨年8月6日現在で、平和公園の慰霊碑の死没者名簿に搭載されたのは、202、118名となっている。実際の死者はもっと多いだろうと思われる。
 しかも、50年過ぎた今もなお、被爆者は心身に傷を負い、苦しい生活や病気に堪え、しかもいつ発症するかも知れない後遺症障害(つまり時間の経過により、肝臓、胃、肺、甲状腺、乳、その他のガンや白血病等の発症)におびえ、死と向き合って苦しみながら生きている被爆者が多い。
 通常兵器と違って、一発の核兵器によって数十万人の生命を一瞬にして奪うことが出来るし、核兵器の特徴であり恐ろしいのは、放射能がもたらす後遺症で、口や鼻から体内に入り、時間の経過により諸がん等が発症し、生命を奪うこともある。
 殊に、核実験場や原子力発電の爆発事故現場付近や風下の子供たちが、甲状腺がんや白血病の発症により苦しみ、死亡が増大しているといわれている。
 皆様もご承知の通り、今日まで、世界中で約2、000回を超える核実験が実施されている。そのため地球環境は破壊が広がり、大気・水・海洋・土壌汚染が増大している。そしてその他CO2、ダイオキシン等の汚染も深刻化し、人類や動物の生命に影響をもたらしつつある。
 今後も核実験が世界各地で行われるとしたら、生命をおびやかす放射性物質、つまり「死の灰」は、ますます地球環境を汚染し、人類の生存を危うくするだろう。まして、戦争で核兵器をつくって応酬したならば、単に当事者国だけにとどまらず、全地球上の国々へも危機をもたらすのでは・・・と懸念致します。
 私は核兵器は人類を滅ぼすことは出来ても、真の平和を造ることはできないと思う。そしてまた、一国だけの平和は有り得ないと思う。地球が病みつつある今、必要なことは、世界中の人々が”平和の心”を一つとし、一体となって世界平和実現を目指して努力することだと思う。そのためには、核保有国はすみやかに核の全廃に取り組み実行して頂きたいし、核兵器を完全に地球上から消すことだと思う。
 印度・パキスタン両国がお互いに怨念を超え理解を深め合い、仲良く手を握り、世界平和実現にご協力して頂くことを切に願ってやみません。
 私は、子や孫たちに残してやりたいものは、戦争のない、核兵器のない、真に平和な世界を21世紀に残してやりたい。それが大人として、親としての責務であると共に、多くの戦争犠牲に報いることになると思うのです。

http://www.gensuikin.org/data/taketa.html  

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被爆体験記
幼くして父母を亡くして
藤井 房子

プロフィール
[ふじい ふさこ]
1941年広島市白島西中町に生まれる。4歳の誕生日を前に爆心地から1.6キロの白島西中町にて被爆。現在、被爆者を支援するボランティア活動に携わっている。  

4歳直前で被爆
私の家族は当時、爆心地から1・6キロほど離れた白島西中町に住んでおり、父は広島一中の教頭でした。私は13歳上の兄を頭に、男4人女4人計8人の末っ子で、ほんの3歳でした。

亡き母から聞いた8月6日
原爆が落ちた時、自宅の居間にはすぐ上の兄2人姉2人が、次兄は2階に、そして母と私は縁側にいました。鋭い閃光と同時に一瞬のうちに庭に放り出された母と私は、崩れ落ち瓦礫と化した家の下敷きになりながらもどうにか這い出しました。兄2人姉2人は家の中にいましたが、2階に居たはずの次兄が見当たりません。次兄を探す間もなく火の手が上がる前にと、私とすぐ上の姉は乳母車に乗せられ、私たち皆は山陽線の方に逃げて行きました。途中、鉄道線路で、血をだらだら流しながら次兄がよろよろと現れてきました。次兄は自宅から線路方面に吹き飛ばされていたのです。火の手を逃れて太田川の河川敷の長寿園に行く途中、黒い雨がザーザーと降り、白い服は黒い斑点だらけに変りました。6日の夜は避難した大勢の人たちの阿鼻叫喚の中、長寿園の河川敷で夜明けを待ちました。母が水を飲みたがりましたが、「水を飲ましちゃぁいけんよー!飲んだ人が死によってじゃけ、ほいじゃけ、飲ましんさんな」と皆が言っていたので次兄は水を飲ませませんでした。水を飲んだ人がバタバタと亡くなっていく中で一夜を明かし、翌朝、兄たち3人ですぐ傍らの工兵隊(北練兵場)に母を抱えて行き、そこで応急手当をしてもらいました。その後、直ぐ側の工兵橋を渡り火の手が回っていない牛田まで逃げ、7日の夜は兄の友人宅に泊まらせてもらいました。翌8日に、戸坂の農家の知人が牛車で助けに来てくれました。動けない母と私たちは、牛車で牛田南の借家に移りました。

帰らぬ父・兄・姉を待って
私たちは、6日の朝に学徒動員に出た長兄と長姉、それに爆心地から800メートルほど離れた広島一中から帰らない父に家族の避難先を知らせる立て札を白島の焼け跡に立てて彼らの帰りを待ちました。幸いなことに立て札を見て9日には父、長兄、長姉が私たちのもとに辿り着き家族が揃いました。父は外傷がないにも関わらず下痢・紫斑・嘔吐・発熱を繰り返し、家族の顔を見て安心したのか、手当ての甲斐もなくあっけなく8月29日に天に召されてしまいました。当時は葬式もできず、家族だけで牛田公園に行き、兄たちが集めた薪で荼毘に付しました。この時の事は今でも牛田公園に行くたび思い出します。後になって聞いたことですが、父は職員会議中で大きな机の下にもぐり込み怪我を免れ、生徒を助けるために川まで何度も往復したそうです。
当時、家族等に消息を知らせる伝言板が至るところに立てられていた(林重男氏撮影)


短かった母との生活
重傷で動けぬ母と私たち兄弟姉妹8人は配給の乾パンだけが頼りの生活でした。しばらくして白島の廃墟にバラックを建てて移りました。焼け跡に薩摩芋やカボチャ、小麦などできそうなものはなんでも作りました。それでも食料は足りなくて、雑草、海藻を食べ飢えをしのぎました。勿論作っていた薩摩芋のつるは大御馳走でした。そんな生活の中、母が崇徳高校に仕事を見つけて少しはまともな生活ができるようになった昭和26年のことです。母が大量の出血をしました。末期の子宮癌でした。もう先がない命だと悟った母は、その年の夏休みに最初で最後の家族旅行に熊本県の父の実家に連れて行ってくれました。私は、母と一緒の旅行が嬉しくて徒歩で山を越えなければならない旅行も苦になりませんでした。旅行の後、再び日赤病院に入院した母の所に毎日のように姉と行きました。家に帰りたくなくて、時には母のベッドに足元から入って姉と病院に泊まりました。そしてその年の12月29日に母は短くて苦難に満ちた生涯を閉じたのです。私が小学校4年生の正月直前のことです。

子供たちだけになった私たちは、九州や神戸の親戚にバラバラに預けられ、家庭は崩壊してしまいました。

核廃絶に向けて
戦争が3歳の子に与えるものは「決して癒されることのない心の傷」です。兄たちが今も被爆のことを話したがらないのは、恐らく未だに「心の傷」が癒えてないからです。

私はオバマ大統領のプラハ演説などが核廃絶に向けて大きく弾みをつけてくれ、戦争のない平和な世界が実現することを心から願い被爆者支援に関わっています。それが亡き父母への供養になると信じています。
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/hpcf/heiwabunka/pcj174/Japanese/04J.html

第3部 県内被爆者<40> 広島(下) 過去誰にも言えず2005年8月14日
 軍需工場に出勤しようと、自宅2階で身支度をしている最中だった。広島県水主町(当時、現広島市中区)にいた田原富子(79)=浦添市=は原爆投下で崩れ落ちた自宅の下敷きになった。
 自宅には姉と祖母がいた。田原と姉はがれきの山から自力ではい出たが、1階にいた祖母は倒れた柱の下敷きに。「姉と助けようとするが、女2人では助けることもできない」。周囲の木造住宅から引火し、祖母は猛火に包まれ、焼け死んだ。

 職場に向かっていた姉の夫は原爆ドーム近くの橋を渡る途中、被爆した。義兄を捜し歩いた爆心地近くは悲惨だった。広島市内は川が多く、飛び込んで死んだ者が風船のように膨らんでいた。すべてが焼け野原になり、駅から向こうがすべて見渡せた。田原は倒れている人をまたぎ、義兄を捜した。汽車など交通網が破壊される中、ひたすら歩いた。
 「兄を捜して3日目に江波の病院に収容されていることが分かった。背後から放射線を受け、背中全体がやけどしていた。病院は負傷者のうめき声が聞こえ、もう何も言えたもんじゃない」。ようやく義兄を田舎に連れて帰るが、1週間で命が尽きた。
 汽車の中で、原爆にやられた日本兵の団体を見かけた。「やけどで立つのもやっとなのに、『気を付け』と号令していた。見ていてかわいそうだと思った」。
 着の身着のまま放り出され、終戦直後は悲惨だった。食べ物がなく、着物と米を物々交換した。
 田原は1955年、結婚を機に沖縄に初めて渡る。10年前に広島で被爆した過去は、沖縄出身の夫にも言わなかった。「本土では被爆は感染するといわれ、みんな隠していた。(被爆者が少ない)広島県外に行くと何も言えなかった」と田原は語る。
 その後、沖縄県庁の職員が広島県出身だということを聞きつけ、被爆手帳の申請を促した。被爆者の集まりに初めて赴いた田原は「沖縄にこんなに被爆者がいたのか」と驚いた。
 古里の広島にはお盆のたびに帰る。「川を見ると、『ここにいっぱい人が浮かんでいたんだ』、寺を見ると『山ほどの遺体がガソリンをまかれ焼かれた』と思い出す」。60年前の被爆体験は脳裏から消えない。
(敬称略)
 (沖縄戦60年取材班)

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-5679-storytopic-1.html


被ばくした生き残りの人が描いた絵をネットでみたが、

ひどい。とにかくひどい。


よくも、アメリカは、こんなひどい仕打ちを日本にしたものだなと思う。

アメリカは、決して謝らないし、

原爆投下は、戦争犠牲者の数を結局は減らせたと、堂々と

言うけれど、そんなことは勝者の後付け。

ただのいいわけです。

アメリカ自身も、そんなに効果がある爆弾だとは

思ってなかったのかもしれないが、

自国の砂漠で十分に実験を重ねてきたので

ひどい被害が出るというのは、分かっていたはず。

日本人は、西洋人でもアメリカ人でもなく、当時は

白人たちが好き放題に植民地にしてきた

アジア人だものね。

アメリカは、ドイツには、原爆は投下できなかったのだと思う。


さすがに、朝鮮半島でも、ベトナムでも

原子爆弾は使わなかったことを見ると、アメリカも

使えない爆弾だと認識しているようだ。

今は、使える程度の兵器をイラクなどで使っているようです。


アメリカやロシア、インドやパキスタンにだけ

文句を言っている人は、チュウゴクのことを忘れてますよ。

チュウゴクは、自国内の東トルキスタン人を犠牲にして

広島、長崎に落ちた原爆よりも大きな原爆の実験を

行って、大勢の一般人を死に追いやっています。

チュウゴクは、漢人が、少数民族を支配する国なので、

少数民族が絶滅しても、彼らは全然平気。

チュウゴクが核をもったので、以前にチュウゴクに自国を

侵略されそうになったインドも危機感を感じて核を

持つようになりました。インドが核を持てば、

パキスタンも、インドが嫌いなので、核を持つことになりました。

核にやられた日本が

核の恐ろしさを世界に伝えていくのは、当然、やるべきことですが、

だからと言って、日本一国で

世界中の国々に核を捨てさせることができるのかと言えば

はっきり言って無理。

アメリカだって、日本を守るために、核を使うワケがない。

日本は、アメリカが核の傘で守ってくれるだろうという

不確かな情報で周辺国が日本に対して侵略戦争を

仕掛けないでいてくれることを期待して

あえて、アメリカの核の傘の中にいるってことに

しているのです。

だから、日本はアメリカ無しには、自国を守れない

独立しているのやらしていないのやら

よく分からない国なのです。

そして、外国は、日本のように甘くはないってことを

頭にきざみつけつつ、核を使うと、使われた人は

どんな目に会うかを世界に伝えていかねばならないのです。


自国の資源と自国の人間と、自国の島と領海を

きちんと守れていない、集団自衛権も放棄し、

まともな軍隊も無い国の人間が

アメリカの核の傘を使わないでいようなどとは

言えないのです。

まず、きちんと独立して普通の国にならないかぎり、

じわじわと周辺国に取り込まれて、中身の民族が

入れ替わっちゃう。それは日本民族と日本文化と

日本人が長年守ってきた日本の自然と動植物をつぶして

しまうことになります。

核兵器根絶や平和を叫んでいる内に、日本民族が絶滅したら

元も子もない。