つづき2
「朝鮮が独立国として強力になること」、
これこそ明治の日本が朝鮮に対して終始切望してやまなかった、“見果てぬ夢”だったのである。
朝鮮が毅然たる独立国でさえあってくれたなら、日本は日清・日露の二度の対外戦争までして、多くの犠牲を払う必要は少しもなかった。
そうではなかったところにこそ、明治日本の苦悩も葛藤もあったのだ。
隣国を近代独立国家たらしめるべく、日本はほとんどあらゆる手を尽したと言っていい。
日本はまず、朝鮮国内の開花派(独立党)に肩入れし、朝鮮の自主独立運動に期待したが、清国は朝鮮との宗属関係をますます強化し、この運動は失敗に終わった。
そこで日本は、朝鮮独立の最大の障害となっていた、清国との宗属関係を断ち切ろうとした。
清の方では当然それを阻もうとする。
両者の対立は避け難い。
こうして起こったのが日清戦争である。
いわば日清戦争とは、日本から見れば朝鮮独立支援戦争に他ならなかった。
その証拠に、下関講和条約冒頭の第一条には、
「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。依って右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃すべし」と明記されている。
これによって、千年以上もの間、宗主国たる中国歴代王朝の属国たる地位に甘んじていた朝鮮にも、初めて民族独立の燭光は射したのである。
日清戦争なくんば、朝鮮が清国から独立できた可能性はゼロだった。
決して恩を着せるつもりでいうのではないが、こういう歴史的事実を、韓国の教科書も日本の教科書も教えなさ過ぎる。
しかし、朝鮮は、この千載一遇のチャンスをみすみすふいにした。
三国干渉で日本の実力を見くびった朝鮮は、今度はロシアの保護を求め、ロシアの属国のようになってしまう。
国王高宗がロシア大使館に逃げ込んだのもこのころのこと(1896年)である。
ここにおいて朝鮮は、すでに亡国一歩手前の状態にあった。
「凡そ国家は自ら独立するの要素なくして
単に他国にのみ椅りて立ち得るものに非ず」
「今日の如くにして進捗せば韓国は最早自滅の外なし」とは、
日露戦争後に初代韓国統監として赴任した伊藤博文が、
韓国政府閣僚に与えた警告である
(朝鮮総督府編『朝鮮の保護及び併合』)。
伊藤は明治天皇の意を体し、韓国を将来独立させるべく粉骨砕身したが、その伊藤も最後は安重根の凶弾に倒れた。
韓国を亡国へと追いやったのは、誰あろう韓国自身だったのである。
韓国併合は、国際法から見て、果たして「合法」なのか「違法」なのか。
この問題に関し、極めて興味深い国際会議が2001年(平成13)年11月16・17日に開催されている。
米ハーバード大学の協力により、マサチューセッツ州ケンブリッジ市で開催された、この「韓国併合再検討国際会議」は、報道によれば、「韓国政府傘下の国際交流財団が財政的に支援し、韓国の学者の主導で準備され」たもので、「これまでハワイと東京で二回討論会を開き、今回は韓日米のほか英独の学者も加えいわば結論を出す総合学術会議だった」が、「第三者の英国の学者などから合法論が強く出され、国際舞台で不法論を確定させようとした韓国側のもくろみは失敗に終わった」という(平成13年11月27日付け産経新聞)。
会議に実際に参加した研究者の報告によれば、この会議の背景にあったのは、「日本と朝鮮民主主義人民共和国との間の国交正常化交渉の場を利用して、事実上、韓国学者が北朝鮮をサポートする形で、自らが曖昧にしか処理できなかった『過去』の問題に対して、日本にその責任を認めさせようとする韓国側の思惑であり、その意味で本会議は当初から強い政治的意図を帯びたものであった」という(木村幹「第三回韓国併合再検討国際会議ー『合法・違法』を越えて」、『日本植民地研究』第14号、2002年6月)。
外務省ならびに小泉純一郎首相が現在“ご執心”の日朝国交正常化交渉に違法・無効説の立場から影響を与えるための「政治的意図を帯びた」国際会議だったというのだから、驚かざるを得ないが、韓国側の主張は、「欧米の研究者、就中、国際法を専門とする欧米の研究者によって、全く受け入れられなかった」(同左)のは、何はともあれ幸いであった。
会議で強く合法論を主張したのは、英ケンブリッジ大のJ・クロフォード教授である。
同教授は、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦以降のもので当時としては問題になるものではない」と述べたという(前掲、産経新聞)。
また、同じく国際法を専攻する坂元茂樹・関西大学教授(本国際会議には欠席)によれば、「第二次日韓条約が締結された1905年に、慣習国際法上、条約の無効原因として承認されていたのは国の代表者に対する強制のみ」で、「強国が弱国に対して行なう武力による威嚇叉は武力の行使による条約の強制は必ずしも条約の無効原因とはみなされていなかった」(『世界』1998年9月号)。
従って韓国併合が「合法」か「違法」かという問題の論点は、「国の代表者」即ち高宗皇帝「個人」に対する「強制」があったかないかという点に絞られる。
しかし、李泰鎮教授をはじめとする韓国側は、「実際に皇帝に対する強制が存在したことは直接的に証明することはできなかった」(木村、前掲報告)ばかりか、朝鮮近代史が専門の原田環・広島女子大学教授の発表ならびに最新の論文によれば、高宗皇帝は、「第二次日韓協約の締結に際しては、日本の協約案を修正して調印する方向に韓国政府の大臣達を動かして」いたのである。
御前会議で大臣全員が協約案拒否を奉上したにも拘らず、高宗はそれを却下して条約締結に持ち込んでいた事実も判明している(原田環「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」、『青丘学術論集』第24集、2004年4月)。
高宗皇帝自身は、条約締結を日本側に「強制」されるどころか、「締結推進のリーダーシップを発揮」(同左)していたのである。
また、韓国の教科書は高宗が「最終的に署名を拒否したので非合法」とするが、条約正本に国家元首の署名がないのは普通のことで、「非合法」とすることはできない(海野福寿『韓国併合』岩波新書)。
韓国併合は、合法以外の何物でもないのである。
産経新聞 平成16年10月2日(土曜日)
今日の日本では、韓国併合・朝鮮統合を、「韓国の植民地化」「植民地支配」と意図的に“混同”する議論が横行している。
韓国併合を専門とする研究者も、「日韓併合は日本による朝鮮の植民地化であり、日本の侵略の帰結である」、「日本の朝鮮支配は国際的に承認された植民地である」と、併合を「植民地化」と同一視することに何のためらいも見せていない。
現行教科書も同様で、まず例外なく「韓国併合」と「韓国の植民地化」を併記し、両者を同じ意味に用いている。
だが、おかしいではないか。
日本は韓国を併合(Annex)して一つの国とはしたが、欧米流の「植民地(Colony)にしたのではない。
両者には天と地ほどの差がある。
朝鮮総督府司計課長・財務局長を歴任した水田直昌は、「併合は・・・・いわゆる植民地視する意向の下に行なわれたものでないのみならず、積極的には・・・新旧同胞を同一レベルに到達させることを究極の目的とした」(『総督府時代の財政』)、「少なくとも私達総督府官吏としてその統治に関与してきたものは・・・『朝鮮は日本に従属する殖民地』であったなどとは全く考えていなかった」(『統監府時代の財政』)と証言しているし、戦前の日韓関係史研究の第一人者であった田保橋潔も、「朝鮮は日本の植民地ではありません」(『朝鮮統治史論原稿)と断言している。
なぜ今時の研究者や教科書執筆者たちは、「併合」を「殖民地化」と、わざわざ言い換えなければ気がすまないのか。
「支配」と「搾取」を連想させる「植民地」という言葉を使うことで、朝鮮統合をマイナスに評価しょうとする底意gだそこには明確にあるように、筆者には思われてならないのである。
ロシアの新聞ジュルナル・ド・サン・ぺテルスブール紙は、韓国併合調印直後の1910年8月26日付で、次のような論評を掲げている。
「フランスがアルザス=ロレーヌを失って以来、またとりわけボスニアとヘルツェゴビナがパプスブルグ王国に組み込まれて以来、『併合』という言葉はおぞましい意味を持ち、国家間の強盗と同義語になった。
だが、朝鮮を日本が掌握することにはこのような意味あいを持たせることはできず、むしろアルジェリアのフランスへの併合やイギリスによるエジプトの占領、カフカスあるいはヒヴァ汗国のロシアへの主権移行などがもたらした恩恵の記憶を喚起するものだ」
「朝鮮は日本の保護統治下に入って以来、夢のような変化の道を歩んでいる。見る見るうちに、広大は鉄道網や電信電話網が敷かれた。公共建築物や工場が立ち並び、日増しに増え続けている子供達は学校に通っている。農業も盛んになっている。輸出は5年で三倍になった。財政は、輝かんばかりの状態にある。港は活気にみちている。司法制度が改革され、裁判の手続もヨーロッパの裁判所に決して引けを取らない。
・・・この観点に立てば、朝鮮の日本への併合は極東の繁栄を発展の新たな要素となるであろう」(國際ニュース事典『外国新聞に見る日本』第四巻)。
他国を「取る」ことが“善”とされた時代もある、と筆者は先に論じたが、右の論評は、他国の「併合」が「恩恵の記録」(善のイメージ)から「国家間の強盗」(悪のイメージ)へと、次第にうつろいつつあった時代の雰囲気をうまくとらえていると思う。
韓国併合は、そうした行為がなをお“善”とみなされていた恐らく最後の時代に、韓国の主権者であった高宗皇帝をも含む、全世界の承認の下になされたものである。
「併合」という過酷な現実に、当初は抵抗もあり弾圧もあったが、その根底に流れていた「日韓合邦」の理想は、“一視同仁”と謳われた日本の統治を、「侵略」や「植民地」といった今風の概念では決して包摂し得ぬものにした。
やがてはそれが韓国近代化の地ならしをし、韓国民の幸福にも繋がっていくのだが、そういう事実を現代人は忘れてしまっている。
崔基鎬著(元ソウル中央大学教授 歴史学者)『日韓併合の真実』より 《日本は李氏朝鮮に似かよってきていないか?》
「わが国の人々の多くは、日本統治が犯罪行為であったごとく力説するが、それは事実を知らぬ妄説にすぎないと私は信ずる。
あの時代を理性的に振り返ってみれば、いかに日本統治がわが国にとってプラスになったか、いかに日本が真摯に朝鮮半島の近代化に努力したかを、読み取ることができるだろう。(中略)
中国の腐りきった文化こそ、朝鮮民族を救い難いまで毒してきたのだった。
李氏朝鮮はそのような中国を宗主国として崇めてきたのだった。(小略)
私にとって、今日の日本の政界や経済界や知識層の中に“親中派”が多くいるのは不思議なことだ。(小略)
李氏朝鮮は五世紀にもわたって、中国文化という汚濁しきって腐臭を発するカメの中に漬けられていた。
アジアでは中国が闇であり、日本が光であってきた。
いずれにせよ、国が尚武の心と独立の精神を失うと、人々が公益を忘れて私利だけを追求するようになり、社会が乱れて国が亡びることになる。
私は、今日の日本が、李氏朝鮮に急速に似るようになっていることを憂いている。
日本では、アメリカあるいは中国という大国に対する事大主義が蔓延るようになっている。
自らの手で自国の歴史を改竄して恥じないかたわら、これらの大国に阿っている。(中略)
日本はかって明治以後、アジアの光であったのに、すっかり曇るようになった
。国家の消長は結局のところ、国民精神によるものである」。
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《志願や勧奨だった「創氏改名」》
日韓併合時代の真っ真中、1923年に生まれた私は、当時から現在にいたるまで、韓国の国民が必ずしも「反日」ではないことを知っている。
むしろ韓国人は、根本的には日本に好ましい感情を抱いていると言っていいだろう。盧政権やメディアが世論や国民感情を反日に焚きつけているだけだ。
実際、日韓併合時代は、私の生まれ故郷でも、韓国人と日本人が対立することなく、仲良く暮らしていた。
終戦時はお互いに別れを惜しんで、涙を流しながら手を取り合っていたほどだ。
また、現在の韓国の歴史教科書には「日帝は内鮮一体・日鮮同祖論・皇国臣民化などを掲げて・・・・姓氏と名前まで日本式に改めて使うことを強要した」などと書かれているが、これは事実ではない。
いわゆる「創氏改名」は強制ではなく、志願や勧奨によるものだった。
それが事実であることは、日本の陸軍士官学校を出て将校となり、日中戦争の勲功によって朝鮮出身者として初めて金鵄勲章を受賞された金錫源将軍が創氏改名をしていなかったという一例を挙げれば明らかだろう。
強制ならば、それを拒んだ者に勲章が与えられるわけがない。
ちなみに私たち大正生まれの世代も約二割は創氏改名をしなかったし、そのまま官庁や銀行などの要職に就いても差別を感じることはなかった。
にも拘らず、多くの者が日本式の氏名を名乗ったのは、日本や日本文化に対する好意を持っていたことの表れである。
そして、この傾向は今日でも変わっていない。
したがって、もし現在の韓国で政府が親日的な政策を取れば、国民のあいだに、文学や音楽からライフスタイルに至る迄、日本の文化が深く浸透することだろう。
しかし為政者は、それが韓国の自主独立を脅かし、国家に亀裂を生じさせると考える。
つまり政策としては、国民が反日感情を抱いているからではなく、むしろ親日的であるからこそ、逆に反日的な政策を取らざるを得ないわけだ。
韓国の日本大使館が分析したように、政権維持のための反日なのである。
《李氏朝鮮は中国の属国だった》
14世紀に前王朝の高麗を倒して成立した李氏朝鮮は、当初から「小中華」を自称する中国の属国だったのであり、その末期にあっても、近代国家としての自治能力をまったく持ち合わせていなかった。
そういう強いものに寄り従う事大主義が根底にあるからこそ、日露戦争当時の国王・高宗は、頼みの中国が日清戦争に敗れて力を失うと、次はロシアの保護下に入ろうと考え、一時はロシア公使館に逃げ込んで執務するという常軌を逸した行動を取ったのである。
頼る相手が日本ではなくロシアだったのは、国王が恣意的に振る舞える絶対的な権力を手放したくなかったからだ。
当時のロシアは朝鮮を被保護国とし、その利権を漁ることしか考えていなかった。
日本と違い、朝鮮の内政改革を求めていなかったので、ロシアの保護下に入れば、それまでと同じように国を私物化し、先制体制の甘い汁を吸い続けることができるーと高宗は考えたのである。
したがって、ロシアがアジアに勢力を伸ばすことを警戒していたイギリスやアメリカが、李氏朝鮮の独立維持を望まなかったのは当然だった。
だからこそイギリスは日露戦争の二年前に日英同盟を結んだわけで、もしあのとき日本が戦わなければ、朝鮮半島はロシアの支配下に置かれていただろう。
そうなれば内政の改革は行われず、近代化も始まらなかったに違いない。
そして国王はー李朝五百年間が常にそうだったようにー贅を尽くした美食と遊興で国費を浪費し、その一方で、国民の大多数を占める農民は支配階級の搾取によって更に窮乏し、塗炭の苦しみを味わい続けたはずだ。
その意味で、アジアの国家として初めて西洋との戦争に勝利し、ロシアのアジア進出を阻んだ日本は、それと同時に李朝の専横から朝鮮の民衆を救ったともいえるのである。
《竹島問題解決のための一つの提案》
日本で言えば室町時代から明治時代の初めまで続いた李氏朝鮮は、国としての体をなしていなかった。
現在の北朝鮮は李氏朝鮮のクローンのようなものだと言えば、それがどんな社会だったかは想像がつくだろう。
支配階級である「両班」(文官と武官からなる官僚層)の身分は実質的に世襲化していたため、階層の流動性が乏しく、そのため社会は活性化しない。
やがて官職の売買が公然と行われるようになり、賄賂も横行した。
両班は体を動かして汗を流すことを忌み嫌うから、自らの生活のために、ひたすら民衆からの収奪に専念する。
つまり李氏朝鮮は、国王と両班のためにだけに存在する国だったのだ。
しかも驚くべきことに、十九世紀末の朝鮮は、人口の半分以上を両班が占めるという異常な状態になっていた。
勤労を蔑むものが半分を占め、残りの半分がその収奪を受けるような社会が、まともな国として成り立つわけがない。
当然、経済は疲弊する一方だったが、支配階級はそれを一顧だにせず権力闘争に明け暮れ、浪費に耽る。
なにしろ国家予算の半分が官邸費用だったくらいだから、産業に必要なインフラ整備も行われない。
李朝下の五百年間、朝鮮には人間が通れる安全な道路はまったくなかった。
ほとんどの河川には橋がなく、鎖国政策を取っていたため港湾施設も皆無に等しい。
盧大統領は秀吉の壬辰倭乱が産業基盤を破壊し、韓国の近代化を遅らせたと言うが、そもそも李氏朝鮮は近代産業国家に必要な準備を一切行っていなかったのだ。
同じように鎖国をしていたとはいえ、日本の徳川幕府とはそこが違う。
日本は三百年に及ぶ鎖国中も国内のインフラを整え、長崎の出島を通じて西欧の情報を取り入れていた。
だからこそ明治維新後に短期間で近代化を成し遂げることができたのである。
それに対して李氏朝鮮は外国からの情報を遮断し、近代化の必要を感じて行動を起こした開花派は守旧派に抹殺された。
このような国が自らの手で近代化を達成できたとは思えない。
日本がロシアに勝利し、朝鮮の内政改革に乗り出したからこそ、近代国家としてのスタートを切ることができたのだ。
こうした歴史に目をつぶり、過去に蓋をしているのは、盧大統領だけではない。
韓国の歴史教科書もまた、貪官汚吏が蔓延った李朝の実態を教えず、日韓併合がなければ立派な国家として独り立ちできたかのような書き方をしている。
だが、日韓併合によって全国民に教育が徹底され、近代的医療制度が確立し、インフラ整備によって工業国家としての基礎が築かれたことは、明白な事実だ。
当時の国民も、日本に併合されていることに屈辱感を抱いていたわけではない。
無謀な戦争を行い、それに敗れることがなければ、日韓両国は現在でも互いに協力しながらアジアのお手本のような存在として発展していただろう。
こうして歴史を正しく検証してみれば、日韓が敵対しても何ら益のないことは明らかである。竹島問題にしても、双方が譲歩することは考えにくいから、互いに領有権を主張しているだけでは永遠に決着しない。
むしろ日韓の共同開発によって観光地化するといった解決策を模索するほうが現実的かつ建設的だろう。
誤解を恐れずに言えば、現代版「日韓併合」が今こそ必要なのではないか。
それが日韓を一つにまとめ、ひいてはアジア全体を発展させる契機になるのではないかとさえ私は思う。争っていては、何も発展しない。
( SAPIO 6/14) 原田 武夫
国際戦略情報研究所代表 諸君 平成18年4月号
・ウイーン条約法条約の第51条には、条約締結交渉にあたって国家の代表個人に脅迫を加えて締結した条約は、当然に無効であるとある。
また第52条には、国際法上違法な武力の行使と威嚇を用いて締結された条約については無効とするともある。
これらのルールに照らして、韓国側は「李王朝とその臣下に日本軍が銃剣を突きつけながら締結されたのが日韓併合条約なのであるから、当然に無効だ」と主張する。 しかし、そもそもこの「ウイーン条約法条約」が成立したのは1969年であり、日韓併合条約が締結された1910年はその遥か昔である。
問題となる条約が依然として効力を有しているならまだしも、第二次世界大戦後における韓国の成立、そして日韓基本条約の締結などの事情に鑑みれば、日韓併合条約は当然に失効していると見るのが妥当である。
したがって、問題は現代における効力云々ではなく、1910年当時の事情だけということになるが、その段階で「ウイーン条約法条約」は成立していない以上、その締結の合法性を巡る議論にこのルールを当てまめることはできない。
それでは当時のルールはどうだったのかというと、国際法の大家たちが等しく認めるとおり、「脅迫による条約は一般に有効なものとして、扱われてきた」(山本草二「国際法」有斐閣)という事実がある。
実際、日本以外の当時の「帝国主義列強」は世界各地で、現代でいえば、「脅迫」にあたる行為を伴いながら条約締結交渉を繰返しており、そのこと自体について「そもそも無効であった」とすると、それこそ大砲を積んだ黒船の来襲に怯えながら締結した幕末の日本と列強との不平等条約も全て「無効」だったということになる。
しかし、そうした主張が、主張するものの主観を満足させるものではあっても、客観的には史実を何ら変えるものではないことは明らかであろう。
・重要なのは、あくまでも韓国側における唯一正統な交渉当事者であった李朝とその臣下に対して「脅迫」が加えられていたかどうかである。
日韓併合条約の締結交渉を日本側で仕切ったのは寺内正毅朝鮮統監(兼陸相)であり、寺内統監は1910年7月23日にソウルに到着した。
しかし、到着より一気呵成に李朝側に条約締結を迫ったわけではない。
保養地から戻った内閣総理大臣・李完用が寺内統監と初めて会見したのが同30日であったが、その際、この条約について議論がなされたわけではない。
8月1日には、寺内統監の号令によって初めて李朝側との「内閣会議」が行われたが、そこでも儀礼的なやり取りに終始したことが知られている。
このようにいくら軍人寺内だからといって、就任早々、無理やり李朝側に併合条約の受諾を迫ったわけではないが、他方において寺内統監の着任直前より、韓国における治安について日本側が実態として仕切る立場を獲得していたことは事実である。
6月24日、日韓両国は警察事務委託に関する覚書を交わし、同30日には憲兵制度が開始された。
また、韓国軍隊はこれらに先立つ1907年8月1日に、第三次日韓協約の秘密取極に基づきつつも、表面上は李朝からの勅令により解散させられていた。
そうした中、李総理は8月16日、初めて正式に寺内統監を官邸に訪問し、日韓併合の交渉が開始されたのである。
その際、寺内統監は条約案を李総理に示した上で、「韓皇帝陛下は時運の趨勢に鑑み自ら進んでその統治権を我が天皇陛下に譲与せられ、その位を去って将来万全の位地に就かる」べきことを進言した。
これに対し、李総理からは「併合」後の国号と韓国皇帝の称号について異論が唱えられただけで、本質的な反論はなかった。
李総理は日本側提案を持ち帰り、内閣に諮ったが、その際、異論を唱えたのは朱子学上の「対面論」を主張して譲らない李容植学部大臣だけであった。
そこで李総理は、李学部相を外して閣議を纏めるために、韓国皇帝の許可をえて、「日本における洪水見舞いのため」、李学部相を日本に派遣した。
その結果、李朝及びその内閣には反論を唱えるものはいないこととなり、李総理は同20日、寺内統監に条約案への同意を内報した。
これを受けた寺内統監は、調印当日の即日公布を東京に要請し、その許可を得た後、同22日午後4時、李総理と共に日韓併合条約に調印したのである。
西岡 力 東京基督教大学教授
正論6月号 平成18年度
1.日本の統治は、当時、有効に締結された日韓併合条約に基づくものである。
言い換えると「合法的」なもので、賠償責任はないという、当時の国際法から見た評価だ。
この評価にたつから、日本政府は韓国との国交交渉で、統治期間に実施された戦時動員(官斡旋、徴用、徴兵)もすべて違法行為ではなく、賠償責任はないとい立場を堅持した。
日韓基本条約、諸協定に過去の謝罪、補償は一切盛り込まれていない。
2.当時は「法的に有効」、「合法的」な統治だったが、韓国が独立し日韓が国交を持つ現時点から過去を振り返ると「遺憾であって反省する」という道義的評価である。