つづき(二回目の掲載です。)
「WILL 11月号 平成18年度」
Q:「日韓併合条約は日本帝国主義の一方的な圧力によって締結された。
大韓帝国皇帝の印璽がなかったから無効だ」
A:たとえ「平等合邦」ではないなど双方に賛否両論あったとしても、
万国が承認したことなのです。
反対すべきだった清、ロシアでさえ承認しましたし、抗議声明もなかった。
皇帝の印璽については、皇帝は名目的存在なので行政権限はありませんでし た。当時の行政権は韓国の内閣首相にあったのですから、皇帝の印璽は必要のないものでした。
Q:「皇民化教育は民族の伝統や文化を無視し、ときには破壊した民族浄化政策だ」 A:皇民化はリンカーンの功績以上の階級・奴隷解放運動です。
半島にはカースト制度があったといっても過言ではない。
賎民の奴隷、芸人、巫医、巫女、白丁などの階級支配からの解放だったのです。
皇民化政策は「国民化政策」と同義です。
近代国民国家の国民化、近代化運動と見るべきです。
黒田勝弘 産経新聞論説委員 「韓国人の歴史観」 文芸春秋
・この国書問題がこじれ、日本においてはいわゆる「征韓論」に発展する。
その後の日韓関係の途中を省けば、韓国は1910年、日本によって併合されてしまう。つまり「皇」をめぐるこじれがきっかけとなり、ついには韓国は日本によって「征韓」されてしまうのである。
富山 泰 国際ジャーナリスト 諸君 平成15年11月号
・1904~1905年の日本による大韓帝国の保護国化、その発展型としての1910年の日韓併合は、弱肉強食の当時の世界では別に咎められる行為ではなかった。それより先、1868年の明治維新により国家の近代化を早急に進めた日本は、朝鮮を日本のように近代化させ、清に従属する『華夷秩序』から独立させなければ、朝鮮は欧米列強、とりわけ南下するロシアの支配下に入り、日本の安全が脅かされると信じていた。
しかし、当時の王朝国家「朝鮮(李氏朝鮮)」と後身の大韓帝国は、自ら近代化を実行して民族の独立を確保する能力を欠いていた。
そのため、いったん外国の保護下に入り、そこで近代化して力をつけ、独立へ向うしか現実的にはとりえる道はなかった(呉善花『韓国併合への道』)。
日清戦争の勝利で李氏朝鮮を清への従属的立場から離脱させ、日露戦争でロシアの影響力を朝鮮半島から排除した日本は、近代化できない大韓帝国を当然のように支配下においた。
・日本による大韓帝国の保護国化と併合は、欧米列強の容認の下で行われた。
英国を中心とする欧米列強は、ロシアの南下政策を警戒することで、日本と戦略的利害を共有していた。
そのために、日本の朝鮮支配は、英国のインド支配、米国のフィリピン支配を相互に承認し合う形で容認された。
そうした時代背景を無視して、日本による「殖民地支配」の正義、不正義を論じても、意味がない。
ましてや、日韓併合条約の締結から百年近く経った今になっても、日本の朝鮮統治を非難するのは論外である。
・日本が朝鮮半島で、欧米列強のアジア・アフリカ支配以上に過酷な殖民地統治をしたという事実もない。
欧米列強は、殖民地を原料の供給元及び工業製品の市場としか考えなかったため、殖民地の資源を収奪し住民を搾取して、自主的な産業が育たないようにした。
そればかりか、アフリカ大陸から一千万人からの黒人をはるか太平洋を隔ててアメリカ大陸に奴隷として送った。
このうち三百万人は英国の船で送られた。
・日本は朝鮮を単なる殖民地でなく、拡大された日本の一部と考えていたので、朝鮮への莫大な投資を惜しまなかった。
投入された資金は、農業の生産性を上げ、教育制度を充実させ、工業施設を建設し、道路・鉄道・港湾・電力などインフラを整備するために使われた。
朝鮮は日本の統治によって、初めて文明開化と産業革命が可能となった側面が強いのは否定できない事実だろう(キムワンソプ『親日派のための弁明』)。
だからこそ、収奪と搾取が殖民地支配の不可欠の要素であるとすれば、日本の朝鮮統治を殖民地支配と呼べるのかどうかすら疑問である。
司馬遼太郎 作家 司馬遼太郎対話選集 5 <二つの国>
司馬:韓国は独立国だったのを支配してしまった。これは恨みになる。
梅棹:日本の台湾統治は非常に合理的で近代的植民地政策でしたが、朝鮮の場合は軍事支配です。
なぜ朝鮮が軍事支配になったかというと、背後にロシアがいたからですね。
⇒本当に軍事支配といえるのかどうか?師団数は?兵隊の数は?2~3万人くらいの軍人で軍事支配とはいえない。
黒坂 真 大阪経済大学助教授 正論8月号 平成16年
・現実には、朝鮮半島では植民地期に人口が急増し、人々の生活は確実に向上していた。
日本に協力した人々は朝鮮半島の経済発展のために尽力した人々である。
金日成は中国共産党の一員として満州で山賊行為をやっただけで、「朝鮮革命」などとは無縁であった。
金日成がやったことはせいぜい、「中国革命」への貢献でしかない。
伊藤博文暗殺事件 正論2月号 平成17年度
『暗殺 伊藤博文』(上垣外憲一著 ちくま新書)によれば、伊藤博文に随行して自身も被弾した貴族院議員の室田義文がいる。
室田は伊藤が撃たれたとき、儀仗兵の間から小さな男が大きなロシア兵の股の間をくぐるような格好をしながらピストルを突き出しているのを見た。
それが安重根であるが、つまり下から伊藤を狙ったのである。
処が伊藤は三発の銃弾を受けていたが、第一弾は肩から胸部乳下にとどまり第二弾は右腕関節を突き抜けてへその側を通って臍下に止まっており、この二つが致命傷となったのである。
室田は裁判のために、その見取図を提出しており、遺体処置を実見している。
伊藤を狙撃した者は右上から狙ったことになる。
室田は二階の食堂から狙撃した者が真犯人と考えている(室田義文譚)
室田によると安重根が狙撃に使ったのはブローニングの七発の拳銃であったが、伊藤に命中した銃弾はフランス騎馬銃のものだったというのである。
裁判記録は銃弾の問題に一切触れない。
遺体の処置をした小山医師は、体内に残したと新聞で語っている。
これは奇妙ではないか?
室田は、小山によって行なわれた長春での遺体の処置に立ち会ったのであり、そこで銃弾の問題を知ったと、上垣外憲一は考える。
室田によれば、ロシア側の責任者になるココーフツォフは、事件の発生に驚愕したが、前の晩に騎馬銃を持った怪しげな朝鮮人が徘徊しているという情報を得て、厳重な警戒をしていたところだという。
室田は、安重根のほかに真犯人がいることを訴えようとしたが、海軍大臣の山本権兵衛にことを荒たてるとロシアとの外交問題になると言われ断念したという。
今日安重根以外の犯人説を立証することは極めて難しい。
頭書の本を読んで判断されることを切望してやみません(林三夫氏 元教員 名古屋市)。
韓昇助 高麗大学名誉教授 正論4月号 平成17年度
「日韓併合を再評価せよ」
≪親日派断罪の背景に政治的背景≫
親日派問題に対する四つの見方と立場とはどのようなものか。
一つ目は、親日協力行為を磐民族行為として厳しく断罪しょうとする共産主義者の立場。
二つ目は、基本的な見方は同じだが親日行為や処罰対象者の範囲を多少狭め緩和しょうという立場である。
この二つの立場は親日派問題に対する積極的な左派の見方である。
三つ目は、親日協力行為を反民族行為としつつも、それが日本の強圧的な雰囲気の中での不可避は行為であったため、仕方なくとられた親日行為に対する処罰は道理にかなっていないとし、更に日帝の植民統治が終息して長い年月が過ぎたため真相究明も事後処理も困難であり、そのような法案は破棄せねばならないという立場だ。
最後の四つ目の立場は、日帝統治下の親日協力行為はそのときの状況から必ずしも反民族行為ではなく、韓国人あるいは国民に悪いことをしたということだけでなく有益な面も少なくない。
従って今頃になって精算云々する必要はない、という考えだ。
「ト鉅一氏(作家)月刊朝鮮2004年10月号より」
「親日行為と親日派を処罰しょうという主張は、少なくとも次の四つの仮定の上に成り立つのだが、それが正しい判断による仮定といえるのだろうか?
①親日行為ははっきりと定義できるのか?
②親日行為を一人一人確認できるのか?
③現在生きている者が親日行為と親日派に対して罪過を問い判決を下せるだけの道徳的な権威をもっているとみるのか?
④そのような判決はわれわれの社会の改善と発展のために必須であり少しでもためになると見ているのか?
日本の植民統治時期にどのような行為が親日行為であり、何がそうでないのかの判断は難しく、そのうえ断罪することは実際に考えるほど簡単なことではない。
断罪派は、親日派を断罪しなかったため民族の精気が奮い立たなかった。
▽民族精気が立たなかったためわが社会は混濁し全く発展しなかった
▽従って今でも断罪してこそ民族精気が奮い立ち、われわれの社会はより明るく発展するだろう!と主張する。
しかし親日行為と親日派への断罪がわれわれの社会の発展に不可欠なのか?
少しでも助けになると見るのか?そうではない。その反対だ。」
親日派を断罪し、民族精気が奮い立つ社会は北朝鮮であり、そうできずに混濁し発展できない社会が韓国である、と共産主義者や左派は日常的に主張してきた。
だが、そうならば北朝鮮が結果的に韓国よりも大きく成長、発展しているはずではないか。
しかし結果が正反対なのだから、彼らの主張がどれほどいい加減で、でたらめな基本前提に基づいているのかを証明しているということだ。
結論的に「親日派精算」の主張は重大な歴史歪曲であり、無理な主張だということになる。
あるいは、韓国社会が親日派問題にろくに対処しなかったと彼らは主張するが、わが社会は半世紀に公式的に事を処理し、あるいは適切に問題に対処したとト氏は次のように主張する。
「1948年に制定された憲法第101条で国会は1945年8月15日以前の悪質な反民族行為を処罰する特別法を制定できると規定した。
この規定に従って1948年9月22日に反民族行為法が公布され、わが社会は正式な裁判手続を通して処理した。
したがって今回の法律を成立させた国会は半世紀前に自らが行なったことの正当性を部分的に否定したものだ」
≪心の中でしか親日を弁明できない常識派≫
日帝統治下での親日協力行為は必ずしも反民族行為であったとはいえないとする見方だ。
こうした見方は常識ある数多くの人々の心の中に秘められていることであり、解放後の韓国社会の雰囲気のせいで公に出せなかった。(中略)
多くの人々が心の中でそう思いつつも表立って言えない理由は、おそらく悪意と憎悪に満ちた共産主義者とその追従者らの直接的な攻撃に自らを曝け出すのは嫌だという心理のためであろう。
親日行為者を無条件に全て反民族行為者だとする左派の論理は当時の歴史的、時代的、国際政治的な状況を全く考慮しない一方的な歴史認識だ。
このような無理な主張は彼ら特有の政治的な邪心からでたものであり、警戒せねばならない。
≪韓国にとって幸いだった日韓併合≫
この世は、よいことだけでも悪いことだけでもない。
不幸中の幸いがあり、幸運の中に不幸がついてくることもある。
だから、韓国の国権喪失による日韓併合は民族的な不幸ではあっても不幸中の幸いであったのか。
それとも不幸そのものであったのかをよく見極めねばならない。
当時の国際情勢と列国との関係がよく理解できれば、韓国が当時のロシアに占拠・併呑されなかったことはむしろ幸いであったことが分る。
万一、ロシアに呑みこまれていたなら、いかなる結果が待ち受け、どうなっていたかを考えてみるがよい。
1917年にロシア革命によって韓国が共産化を免れることは難しかったであろう。
スターリンが政権の座に就き、1930年代に大規模な民族移動政策を強行し、韓国民をシベリアや中央アジアの奥地に移住させ、むりやり分散収容しただろう。
これに先んじてスターリンは、ロシアで農業集団化を強行し、数千万人のロシア農民を虐殺した。
こうした統治形態で見えてくるのは、韓国民の抵抗を踏み潰すためにはいくらでも多くの人々(ともすれば一千万人以上?)を虐殺することが可能だったということだ。
三・一独立運動(1919年)の際に多くの人が死んだという記録がある。
しかし、その数は千万単位ではなく、千人を大きく上回らなかったようだ。
警察や憲兵に逮捕され、獄中での苦しみを味わった人々は少なくなかったが、それでもそんなに多く死ななかったことは幸いであると理解すべきである。
また、韓国の農民を満州に移住するよう奨励したといっても、ソ連のような強制性はなかった。
こうした歴史的な事実を見れば、朝鮮半島がロシアによって占領されず日本に併合されたことがどれほど幸いだったことか。
むしろ近代化が促進され、失ったものに劣らず得たものがより多いことを認めねばならないようだ。
筆者が日本の植民地統治を受け入れたのは不幸中の幸いだと考える理由のひとつに、韓日両国の人種的、もしくは文化的なルーツが同じであることがある。
これにより、韓国の民族文化が日帝植民統治の期間を通してより成長、発展、強化された。
韓国の歴史や語学、文学など韓国学研究の基礎を打ち立ててくれたのは、むしろ日本人学者と彼らの弟子である韓国人だったのではないか。
こうした意見に対してはまた興奮する人々もいようが、事実は事実をして受け入れる客観性を重視することが学問の正しい姿勢である。
日帝が学校でハングル教育を廃止し、朝鮮語の研究と使用を禁止したといっても、それは1937年からであり、1945年に太平洋戦争が終わった後、韓国語文学が大きな損失を被ることはなかった。
もし、朝鮮半島が日本ではなくロシアや米英などの西方国家に支配されていたならば、その文化的ルーツがあまりにも異なっているため民族文化の成長や深化には別に寄与しなかっただろう。
それだけではなく、英語にSibling Rivalry (幼い姉妹の間の競争意識)ということばがあるように、韓国人は日本人に対しては無条件に負けまいとする競争意識を持っている。
このため日本の植民地支配が韓国人の成長・発展の意欲を大きく刺激し、韓国人の文明化に大きく貢献したのである。
日本支配は結果的に韓国という国の早期成長と発展を促進させる刺激剤の役割を果たしたことを認めねばならない。
以上のような点を考えた場合、日本の韓国に対する植民地支配はむしろ非常に幸いであり、恨むよりもむしろ祝福すべきことであり、日本人に感謝しなければならないだろう。
日本統治35年の間、日本に抵抗せず協力するなど親日行為をしたといって叱ったり糾弾したり、罪人扱いをせねばならない理由はない。
過去の歴史の究明努力もこうしたマクロな客観的な次元で、より明るい未来のために肯定的な見方で真相を究明すべきではないだろうか。
---------------------------------------------
韓 昇助 高麗大学名誉教授 正論4月号 平成17年度
≪立派な国民≫
立派な人はうまくいかないことの責任を他人に転嫁しない。
立派な人は何かうまくいかなくても、その主な原因が自分にあるとし、反省して再発を防止する。
しかし、ダメな人はその原因と責任が自分ではなくて他人にあるとし、その責任を転嫁しょうと頑張る。
ダメな人は厳しくなじり、その原因や責任の所在の9割が他人にあって自分には1割しかないというが、立派な国民は自らの足りない点や過ちを、はるかにより深刻に受け止め、その原因を取り除くのに力を注ぐ。
共産主義者や左派勢力の人々の特徴は、常習的に責任を他人や制度のせいにすることだ。
立派な人はよいことであれ悪いことであれ、過去に執着しない。
ひたすら今日やらねばならぬこと、片付けねばならぬ宿題、そして将来のことを考え準備するのに全力投球する。
賢く高尚な人々や「立派な国民」は良いことについても悪いことについても、過去にはあまり執着しない。
立派な国民、国の特徴は際立った開放性と包容力、そして世界性にある。
≪ダメな国民≫
ダメな人々は9割以上が自分の責任であったとしても、自らの足りない点や過ちを隠したり知らないふりをしたりし、他人の責任をしつこく追及する。
その過程で相手の弱点や短所を最大限に膨らまし、過大に言いふらして敵討ちや補償請求に力を注ぐようになる。
左派思想が人間の不幸と苦痛の原因を統治階級や社会制度のような外部のせいにするイデオロギーであることは周知の通りである。
左派勢力は恩恵的な点は全く認めず、害を受けたことや怨みに関する部分だけを探し出す。
言い分はこうだ。
「朝鮮王朝が滅亡したのは日本の侵略主義が原因であり、韓国の支配階級が彼等を手助けしてきた」
「韓国人の不幸の全ては日本の侵略のせいであり、日本がすべての責任を負わなければならない」
「日本が与えた恩恵的なことは親日協力者だけに限られたものだ」
ダメな人は過ぎたことに未練や悔いがあるため、過去のことを処理するのに時間と精力を浪費する。
そのため今日の問題をなおざりにしたり、おろそかにしたりするようになり、韓国はいまだに自立した自主国家になれずにいる。
過去に執着すると、個人や国の未来の問題に十分な準備ができず、国の重要な問題を誤って悪い結果に導く。
そして結局、また他国の援助や保護に依存する世の中になるだろう。
これではどうして自主独立国家を口にできるのか。
過去のことに夢中になり、世の中がどのようになっていくのかをわかっていない韓国民は、日帝時代や解放後の思想対立問題を持ち出しどれだけ日本からまきあげられるかを思っているようだ。
「ダメは国民」性は歴史歪曲だけでなく、排他的な民族主義を焚きつけてきた。
これは韓国国民がすべての国の人に対し閉鎖的で悪意に満ち、狭量な民主主義感情にとらわれたダメな国民、程度が低い国民であるということだ。
韓国人の中には中国から来た朝鮮族を無視して見下し、日本人に敵対的で、米国人に対しては傲慢不遜な傾向がみられる。
いずれも的外れな排他的民族主義の所産だ。
このように外国人を憎み排斥する人々を日常的に目のあたりにし、どうして「偉大な朝鮮民族」を語ることができようか。
米国と日本を敵対視することが漢民族の偉大さを示す唯一の手段だと考える若者たちがいる。
彼らは先進資本主義国家の国民たちさえたいしたものであるとは考えない。
さらには社会主義、共産主義が外部世界では滅びても、韓国で進む社会主義革命が未来世界の規範になり鏡になるという自負心さえ持つ若者たちもいる。
彼らの錯覚と無知識な意気込みには驚く。
こうした症状は無知で「ダメな国民」の局地であり、私は、このような文化が北朝鮮の主体思想の影響で生まれたことを嘆いてやまない。
勝岡寛次 明星大学戦後教育史研究センター
(産経新聞平成16年9月29日)
韓国の教科書を読んでいると、日本は明治維新の当初から、朝鮮「侵略」の腹黒い意図をもっていたように書かれていて、こちらの方がびっくりしてしまう。
韓国併合という最終目的に向って、日本は着々とその「侵略」政策を実行に移していったというのだ。
いや、韓国の教科書だけではない。
日本の教科書や歴史辞典などにも、同様な事例は散見される。
例えば、次のような記述がそうである。
「明治政府は早くから<征韓>すなわち朝鮮の植民地支配を対外政策の重要課題としたが、それが実現されていく過程は侵略と戦争が拡大していく歴史にほかならなかった。
明治政府が最初に目論んだことは、朝鮮が独立国として強力になることを阻むことであった」(『朝鮮を知る辞典』平凡社)
これはひどい。
実際の歴史とは、全く逆のことが書かれている。
韓国併合という“結果”から、日本の一貫した「侵略」政策にすべての“原因”を求めようというのだが、残念ながら歴史はさほどに単純ではない。
明治の初期に「征韓論」が沸騰したことは人も知る通りだが、当時の明治政府は「朝鮮の植民地支配」を「対外政策の重要課題」になんてしていない。
そんな証拠があったら見せてほしいものだ。
「明治政府が最初に目論んだことは、朝鮮が独立国として強力になることを阻むことであった」というに至っては、全く話があべこべで、開いた口が塞がらない。