ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。 | 日本のお姉さん

ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言った事は確かです。
操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸い付く磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。
理性を持って考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば、彼らが言うごとく自殺者とでも言いましょうか。精神の国、日本においてのみ見られることだと思います。
一器械である吾人は何も言う権利もありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。」
(「きけわたつみのこえ」p.19、上原良司の所感より)

戦時中の日本人は、けっして「天皇万歳」や「大東亜共栄圏」の熱狂に身を沈めていたのではない。このようなきわめて合理的な考えを持ち合わせた個人がいたのもまた、事実である。
余談だが、かの9・11テロを見たニューヨーカーたちは、口々に「カミカゼの再来」を口にした。カミカゼの恐怖は、いまだアメリカ人の脳裏に焼きついているのであろうか。
ポツダム宣言
1945年に入った時点で、日本はすでに戦闘を継続する力を喪失していたため、元老格の近衛文麿元首相や東郷重徳外務大臣はソ連を介した連合軍との講和を探るようになった。
これに対して、苦戦の責任を取らされたものの軍部に影響力をもち続けた東条英機元首相らは日本本土での徹底抗戦を主張し、両者の議論は平行線をたどるばかりだった。
終戦派抗戦派
近衛文麿、東郷重徳
宮内省・外務省など東条英機ら
軍部(大本営・陸軍)

昭和天皇裕仁の勅命により穏健派の鈴木貫太郎元侍従長が首相に就任すると、ようやく日本は講和へ動き出した。
7月、日本への対応を協議するため米・英・ソ連の首脳がドイツ・ポツダムに集まり、この場で日本に対する無条件降伏勧告、いわゆるポツダム宣言が発せられた。

この直前に、アメリカではソ連と親しかったルーズベルト大統領が死去し、アメリカの指導者の地位はソ連の拡大に危機感を持っていたトルーマン副大統領のものとなっていた。トルーマンは、ポーランドの民主政府を握りつぶしたソ連のスターリンに嫌悪感を抱いており、アメリカ主導による日本の降伏を望んでいた。ポツダム宣言はソ連をはずして米・英・中の三国の名で発表されたが、日本政府は連合国側の真意を測りかねてこれを黙殺した。


総力戦の果てに見たものは
ポツダム宣言が発せられた時点で、アメリカは原子爆弾開発計画、いわゆるマンハッタン計画を完成させていた。
日本政府がポツダム宣言を黙殺した直後の8月、広島市(6日早朝)と長崎市(9日昼)に原子爆弾が投下され、両市は一瞬にして壊滅、それぞれ20万、15万の人々が犠牲にあった。
トルーマンはソ連参戦前に日本を降伏させたかったため、原子爆弾の使用を急いだといわれている。

しかばねにウジがわき、いきているものにもウジがわき、ひろしまの街は、ウワーンといううなり声の、黒いハエの群れが飛びかっておりました。しかばねのにおいは風にのって流れ、うっと、息をつめては歩いたのです。
(丸木俊「いまようやくここにたって」『にんげん中学生』(新訂3版)より)
同じころにソ連が、日本がポツダム宣言を黙殺したことを口実に日本に宣戦布告、布告の1時間後(8月8日)には満州に進出、70万を数えるといわれた日本軍(関東軍)は総崩れになり、満州に取り残された人々からソ連邦抑留(抑留された兵士は30万と言われる)、中国残留孤児などの新たな悲劇が生まれた。
ソ連に近衛を派遣して講和を仲介してもらおうと考えていた日本政府首脳はソ連参戦にショックを受け、もはや戦争維持は不可能と悟ってついに無条件降伏(1945年8月)、9月には降伏文書に調印した。

こうして、第二次世界大戦はついに終結した。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6063/dainiji3.htm