こころの拠り所がないから、暗い考え方をするクセができているからだと思う。
人口当たり自殺者、日本が最悪=90年代後半から増加―OECD
6月30日10時25分配信 時事通信
【パリ時事】経済協力開発機構(OECD)が29日公表した統計で、2008年の日本の自殺者(70歳未満)が人口10万人当たり475人と、比較が可能な加盟国中、最悪だったことが明らかになった。
日本の自殺者は、OECD発足前の1960年には10万人当たり623人だったが、91年には同275人にまで減少。しかし、90年代後半から増加傾向をたどり、08年は61年以降で最悪となった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100630-00000050-jij-int
ウツ病になる人は、
ウツ病になるような考え方を
普段からしているような気がする。
何でもものごとを悪く受け止めて、
甘えん坊で、他人に執着して
自分と他人を比べたりして、イジケている人は、
ウツ病になりやすい考え方を直した方がいいと
思います。
眠らないといけないのに、眠れない人は、
すでに、頭と心と体が分離してしまっている状態で
その状態が続けば病気になるという考え方もあります。
医者にもらった薬を上手に使って
うまく、精神を安定させて、とにかく
寝るのが大事だと聞いたことがあります。
自分が本当に好きなことは何か、自分がリラックスできる
ことは何なのか見つけて、少しでも楽しい時間を持って
過ごしてほしいなと思います。
(もちろん、その本当にしたいことは、犯罪でないこと!)
以下の記事は、ネットで見つけてきたもの。↓
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本当に役立つ情報をありがとうございました!
K・S 様(41歳)
下園先生はじめまして、DVDを拝見しました。
うつ病の捉え方がわかりやすく解説されていました。
現代社会ではわかりずらい「ひきこもり」の捉え方は、原始社会では
「回復のための休息」に相当するんですね。ここは特にわかりやすく
擬えられているように感じた点です。他の購入者とは違い私はうつでは
ありません。しかし「うつ」というものを理解したいために購入しました。
わたしの妹はもちろん女性(笑)なんですが、面倒見がよいので精神的に弱い友人が
よく相談メールや電話を寄こします。妹はすでに結婚し仕事は忙しいのですぐに そういう相談には
反応してあげられないのですが、そんなのお構いなしで、うつっぽい友人は昼だろうが深夜だろうが連絡を寄こすそうです。
といっても、うつの方が全員そうだとは思いませんが、わたしが聞いた事例の2人はそうでした。
話を聞くと、2人は男性と女性でした。 お互いには知らないようでしたが、共通点があったようです。
ある事象についてある見方しかできないようなのです。
つまり、全てあるいはほとんどのことを「否定的か消極的」にしか見れないようでした。
たとえば妹が電話・メールに出られないと短い間に次々と連絡を寄こし
「嫌いになったのか」「こっちが苦しんでるのに何してるんだ」みたいなことを平気で寄こすのだそうです。
また妹が結婚を決めた時、「あんたはいいな、将来があって」
「わたし(オレ)のことなんかどうでもいいんでしょ」みたいな反応をしたそうです。
わたしもその反応を逐一聞いていましたので、 「腹立つな。そんなヤツら連絡やめちまえ!」と
怒ったものでした。
それは今思えば、「うつは治療が必要」という認識が私にはなかったから、だとも言えます。
他人に思いやりを持てないのは余裕がなかったからなんだと、このDVDを見ると合点がいきます。過去の発言を撤回したい気持ちでいっぱいです。
また「うつは治療が必要」という認識は、もっと幅広くてもっと身近な教育も必要なのだと
思いました。本当に役立つ情報をありがとうございました。
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「眠れない」とはどういうことか?――人は毎日生きて、毎日死ぬ
――自分が本当は何がしたいのかわからない。
「なかなか寝つけない」「寝ても眠りが浅くて、疲れがとれない」
「寝よう寝ようと思うと、よけい眠れなくなってしまう」
このような不眠症状は、「うつ」状態においてはもちろんのこと、
精神的なバランスが乱れた場合に生じてくる、かなりポピュラーなものです。
通常の治療では、「うつ」などの原疾患に対する治療薬とともに、その不眠の性質に応じて睡眠導入剤が処方される対症療法が行なわれます。
しかしながら、不眠がかなり深刻になってくると、強力な睡眠剤を複数組み合わせて用いても「眠れる時には眠れるけれど、やっぱり眠れない時には薬を飲んでも眠れない」という状態に陥るケースも珍しくありません。
何が何でも眠れるようにとさらに薬を増強していくと、強い眠気や脱力が長時間持ち越されてしまい、翌日が使い物にならなくなってしまったりします。
今回は、このように通常行なわれている薬物療法で見落とされがちなポイントについて、つまり、不眠という状態をどう捉えるべきなのか、不眠という症状からどんなメッセージが受け取れるのかといったことを考えてみたいと思います。
「眠れない」とは?まずは、「眠れない」ということについて、よく吟味してみましょう。
「眠れない」とは、「眠りたいのに眠れない」「眠るべきなのに眠れない」ということを省略した言い方であろうと思われます。
ここで、前連載でもしばしば用いた人間の仕組みの図(図1)を用いて考えてみることにしましょう。
図1 前連載の第1回でも触れましたが、「頭」は本来「~すべき」、つまりmustやshouldの系列の言葉を用いる場所です。一方の「心」は「~したい」、つまりwanttoの系列の言葉を発します。 図のように「心」と「身体」は矛盾なく一心同体につながっていますが、理性や意志の場である「頭」は、「心」(=「身体」)に対してコントロールをかけたがる性質があって、「心」との通路を閉ざして一方的な独裁体制を敷きがちです。
それは「頭」が「心」との間の蓋を閉めてしまった状態
(図2)で、人間は「頭」vs.「心」(=「身体」)と分断されてしまい、両者は対立の様相を呈することになります。
図2 さて、この仕組みから考えますと、「眠るべき(頭)なのに眠れない(身体)」は蓋が閉まっている状態として理解できますが、「眠りたい(心)のに眠れない(身体)」ということはあり得ないことになります。さてこれは、どういうことなのでしょうか。
眠りは「心」=「身体」のもの―「頭」に命令されてたまるか!これは、「頭」による偽装工作の結果だと考えると、簡単に説明がつきます(前連載第9回参照)。
つまり、「眠るべき」を「頭」が「眠りたい」に偽装したということです。この種の偽装は「頭」がしばしば行なうもので、「学校に行くべき」を「学校に行きたい」にすり替えたり、「会社に行くべき」を「会社に行きたい」にすり替えたりするのです。 偽装というのは大げさに響くかも知れませんが、別の表現で言うならば、「心」(=「身体」)の声を無視して「頭」の意志が一方的に作り出した「~したい」であったということです。
少々回り道をしましたが、ここで整理しておきますと、「眠りたいのに眠れない」という言い方も、実はその正体は「眠るべきなのに眠れない」だったということなのです。
つまり「眠れない」という状態は、「眠れ!」と高圧的に指令する「頭」と、「意地でも眠るものか!」と反発する「心」(=「身体」)の対立の構図で理解できるということです。
なぜ「心」(=「身体」)は、「眠るまい」と反発するのか? 「眠るまい」と「心」(=「身体」)が反発するのには、いくつかの理由が考えられます。
1つは、そもそも眠りは「心」(=「身体」)の側が自然に行なうはずのものであって、「頭」によって指示される筋合いのものではないということです。
「頭」に相当する部分を持たず「心」(=「身体」)だけでできている自然界の動物においては、睡眠は自然な欲求であり、葛藤なく実現されています。
ですから、「心」(=「身体」)にしてみれば、「頭」が睡眠に口を差し挟んでくることは越権行為であり、それに反発を覚えるのも当然のことでしょう。
現代人の生活は、案外歴史の浅い、時計仕掛けの硬直化した時間によって毎日の生活が規制されています。 季節が変わっても、天候がどうであれ、体調や気分がどんなでも、決まった時間に起床し出勤しなければなりません。
そこから逆算して、睡眠を○○時間とるべきだから何時には寝るべきである、と「頭」が計算し、きちんと実行できることが「規則正しい」ことだとして奨励されています。
日々刻々と変わる生き物としては、必要とする睡眠の長さが日によって違ったり、眠くなる時間が変動したりすることはごく自然なことなのですが、しかしこれも現代の常識からすれば、「不規則な睡眠」として異常視されてしまう状況なのです。
また、「うつ」状態においてよく見られる昼夜逆転の状態も、その意味が熟慮されずに、はなから病的なものと捉えられてしまう残念な傾向もあります(前連載第7回参照)。
フランスの啓蒙思想家ルソーは、代表作『エミール』の中で次のように述べています。
食事と睡眠の時間をあまり正確にきめておくと、一定の時間ののちにそれが必要になる。
やがては欲求がもはや必要から生じないで、習慣から生じることになる。
というより、自然の欲求のほかに習慣による新しい欲求が生じてくる。
そんなことにならないようにしなければいけない。
子供につけさせてもいいただ一つの習慣は、どんな習慣にもなじまないということだ。
(今野一雄訳、岩波文庫より)
1日を一生と捉えて毎日の死を迎える 「心」(=「身体」)が「眠るまい」とするもう1つの理由として、今日1日の幕を引く気になれないということが考えられます。
前連載の第21回でも触れましたが、メメント・モリ(memento mori「死を想え」「死を忘れるな」という意味)という古いラテン語の格言があります。
これは、「死」というものを想うことによって、ともすれば浪費されがちな「生」の有限性とはかなさを知らしめる警句です。
「よく死ぬ」ためには「よく生きなければ」なりません。ここで言う「よく生きる」とは、自分に生来与えられた固有の資質を存分に開花させ、自分らしい「生」を享受する生き方のことです。
これを1日の単位で考えてみても、同様のことが言えるのです。
1日を締めくくる眠りを、いわば「毎日の死」として捉えてみると、今日1日を「よく生きて」いなければ、「よく死ねない」。
つまり、「死ぬに死ねない」がゆえに不眠になってしまうわけです。
1日をどう締めくくるか もちろん、1日は限りある短い時間ですから、欲張ってあれもこれもすることはできません。
しかしながら、1日の中でたとえわずかでもその人らしい時間を持つことができたか否かは、その日の眠りを大きく左右します。
よく「身体を動かして疲れれば眠くなるものだ」と言われたりしますが、これは「身体を動かす」ことがその人らしい過ごし方である場合に限って有効なものであって、そうでないタイプの人がいくら身体を動かしても、「身体は疲れているのに、頭だけが冴えてしまって眠れない」ということになってしまいます。
静かに読書したり、音楽を聴いたり、日記をつけて自分との対話を行なったりすることがその人にとって大切な「自分らしい時間」であるならば、たとえ30分でもそんな時間を持つことによって、自分の奥底で何かが充足し納得するので、眠気も自然に訪れやすくなるでしょう。
どのように過ごすことが「自分らしい時間」になるのか、それは各人各様ですから、自分自身で試行錯誤しながら見つけていく必要があります。
おびただしい「すべきこと」に追い立てられ日々を過ごさざるを得ない私たちにとって、ここで述べたようなことを実行することは、なかなか容易ではないかも知れません。
しかし、何が自然で何が不自然なことなのか、日々の生活に何が欠けているのかということに無自覚であるよりは、せめて問題の所在に気づいているだけでも大きな違いなのです。
また、薬物療法を要するような不眠に苦しんでいる方であっても、社会化された「頭」が、内なる自然(「心」=「身体」)に向かって力ずくで睡眠剤という爆弾を投下し「あるべき睡眠」を強要するようなイメージではなく、時間に制約された状況に生きているがゆえに薬を使わざるを得ないことを、自分の「心」(=「身体」)に詫びつつ、「これで少しでもお休みください」とお願いするような気持ちで薬を使用することが大切だと思うのです。 次回は、現代人の安定志向の中に潜む落とし穴について考えてみたいと思います。
http://diamond.jp/articles/-/3322