卑弥呼のはなし 三種の神器の草薙の剣の本物は、尾張氏が、熱田神宮で長い間、保管してきた
なかなか素晴らしい分析ですが、神武東征は、民族大移動とは全く違うだろう?
神武天皇(イワレヒコ)の曽祖父のニニギの兄のアメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)が、大和で勢力で拡大して、主君だった出雲王権を打倒したのが、およそ紀元元年前後のことだった。
それから数十年後の紀元1世紀後半、大和王家で内紛が起こって、そこへ日向で分家していたニニギの曾孫のイワレヒコが東征した。
これが神武東征。
だからこそ、三種の神器の草薙の剣の本物は、アメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)の嫡流である尾張氏が、熱田神宮で長い間、保管してきたんだろう? ニニギの子孫である天皇家の保管している草薙の剣は、あくまでもレプリカだからね。
これは、アメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)の子孫で傍流の海部氏の子孫がそれを第二次世界大戦後、明かしてから、古代の天皇家の歴史の謎が解き明かされつつある。
もともと、紀元前1世紀に出雲王権が最初の日本全国規模の王権を作ったが、それから間もなく、出雲→北九州→大和へ派遣されていたアメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)が大和で革命を起こして出雲王権を倒して政権を奪取した。
しかし、それから数十年後、大和のアメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)の曾孫の間で内紛が起こり、アメノホアカリの弟で日向に派遣されていたニニギの曾孫のイワレヒコが東征する。この時、イワレヒコを受け入れたのは、アメノホアカリの曾孫で傍流だったヤマトスクネで、彼は兄の大和国王を裏切って、遠い親戚のイワレヒコと共闘した。
結局、祭祀の部分はアメノホアカリの嫡流である尾張氏の先祖が受け継ぎ、実際の政治はニニギの子孫であるイワレヒコが受け継ぐことになった。つまり、権威はアメノホアカリの後胤、権力はニニギの後胤が握った。
しかし、それから数代がたつにしたがって、アメノホアカリの子孫は尾張氏・海部氏も含めて弱体化していき、ニニギの子孫が徐々に権威・権力の両方を握って真の大和国王になっていった。このへんが欠史八代といわれるところだろう。
で、ニニギの子孫は、孝麗天皇の代の時に、彼の娘のヤマトトトヒモモソヒメを巫女として祭祀も完全に掌握した。これが西暦200年前後であり、彼女は、孝麗、孝元、開化、崇神の4代の天皇の祭祀の長として250年ごろまで活躍した。ヤマトトトヒモモソヒメはこの間、中国の魏王朝とも外交するなど大活躍し、特に死の直前(247年ころ)に起こった武埴安彦(開化天皇の庶兄であり、ヤマトトトヒモモソヒメの甥であり、時の崇神天皇の伯父にあたる)の謀反では、彼女の占いが力を発揮し、この乱の様子は魏志倭人伝にも卑弥呼(邪馬台国女王)と卑弥弓呼(狗奴国男王)の戦いとして記されている。
Posted by ひみこ at 2007年7月25日 22:04
古墳時代は、所謂古墳寒冷期と呼ばれる寒冷期ですから、それが所謂「神武東征」を含めた日本列島における諸戦争の根本原因になったと私は考えています。
最近、気候が寒冷になると戦争が起きやすくなることを実証した論文が発表されました。1000年から1911年までの中国における899の戦争を分析した結果得られた結論ですが、同じ傾向は、日本にもあったと推測してよいでしょう。
“We explore the association between climate change and warfare in eastern
China over the past millennium from a macro-historic perspective.
High-resolution palaeo-temperature reconstructions and the complete record
of warfare incidence in eastern China were compared. Results show that
warfare frequency in eastern China (its southern portion in particular)
significantly correlated with the Northern Hemisphere temperature
oscillations. Almost all peaks of warfare frequency and dynastic changes
occurred in cooling phases. We suggest that in historic China, the reduction
of thermal energy during cooling phases significantly shrank agricultural
production. Such ecological stress interacted with population pressure and
China’s unique historic and geographic setting to bring about the high
frequencies of warfare over the last millennium. We recommend scholars take
climate change into account as they consider the anthropology of warfare in
the historic past. ”
D.D. Zhang, J. Zhang, H.F. Lee, Y. He (2007) Climate Change and War
Frequency in Eastern China over the Last Millennium, Human Ecology, Volume
35, Issue 4, p.403
Posted by Nagai Tosiya at 2007年7月26日 09:48
私も、気候変動と戦争の関係については、永井さんと同じような考えであり、基本的に賛成です。このサイトでの永井さんの論説は、気候変動と戦争との関係がメインなので、その大枠については賛成なので敢えて反論はするつもりはなかったのですが...
ただ、なぞの古代史については、私は拘りがあり、それで、ここの論説のメインの話から外れますが、それについては反論しようと思ったのです。
だいたい、日本で戦国時代だった時代は、中国では明王朝による統一政権の時代だったし、必ずしも日本と中国は一致していませんし...
単純に、神武東征を環境変動と一致させて考えるのは間違っていると思ったものですから...
神武東征は、考古学(纏向遺跡の解明化)・文献(記紀の干支没年・旧事本紀・海部氏系図・新撰姓氏録・延喜式・中国史書など)などを総合的に判断して、西暦1世紀後半の出来事だと推測しており、卑弥呼の時代よりも150年以上前の話だと思う。
西暦107年の倭の面土(めた)国王の帥升については、神武とは直接的には関係なくて、面土が上古音・中古音から想像してメタと読み、おそらく、旧事本紀に記載されている、現在の佐賀県吉野ヶ里付近にあった筑志米多(めた)国だと思います。吉野ヶ里付近には、今でも目達原(めたちばる)とか、中世までは米多郷という地名も残っていました。
後漢書には、帥升は生口(戦争捕虜?)を160人(100年以上あとの卑弥呼ですら生口は30人)も連行したのに、中国の後漢から金印をもらったような記述がない。おそらく、佐賀平野の吉野ヶ里の米多(面土)国の帥升は、博多湾沿岸にあった奴国を侵略したのではないのか?だからこそ、奴国が57年にもらった金印は北端の志賀島に隠してあり、南の吉野ヶ里から逃げるように隠してあった。というのは、あの生口というのは面土国が奴国から奪った戦争捕虜かもしれません。だからこそ、後漢は帥升の侵略行為(後漢が金印をあたえた国を侵略・占領)を認めず、金印を与えなかったのでは?
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32720152.html
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34007829.html
ちなみに、最近の考古学の研究だと、吉野ヶ里の最盛期は西暦100年頃までで、その後、縮小の一途をたどり、卑弥呼が大活躍した3世紀には、完全に廃棄され衰退していたことが分かっています。
で、その帥升の乱については、基本的に、神武東征などとは直接的には関係のないところで動いた話だと思います。こういうことは、中世の戦国時代でもあった。おそらく、このへんの時代は、中央の大和王権のほうでも皇位継承争いでゴタゴタがあって、大和王権の地方への統制力が弱体化して、地方の豪族が勝手な行動に出れるような時代だったのでは?と思います。ちょうど、応仁の乱の前後と似たような状態だったのでは?
で、神武東征は西暦70~90年くらいのどこかであったのでは?と推測しています。しかし、ここで重要なのでは、いわゆる東征伝承は、神武天皇よりも前にもあって、アメノホアカリやニギハヤヒのものもあり、神武が日向からの東征なのに対して、アメノホアカリやニギハヤヒは北九州からの東征だという違いにも注目です。
アメノホアカリとは、海部氏系図では、ヒコホアカリとあり、おそらく本名はホアカリなんでしょう。彼の兄弟には、神武の曽祖父であるホノニニギがいて、ホアカリとホノニニギの父親は、アメノオシホミミです。私は、ミミがつく名前は、出雲系の官位の名称と関係があるのでは?と思っています。後の魏志に登場する5万余戸の大国である投馬(ツマ)国は、出雲(いつま)国のことであり、ここの官はミミ、副官はミミナリだったそうで、おそらく、アメノオシホミミは、オシホミミという出雲系の官だった可能性が高いと思います。
自分の推測では、西暦元年前後に、出雲王朝は、オシホミミという官の息子たちを北九州と南九州に派遣したのでは?と思っています。(降臨伝承)そのうち、兄のホアカリが北九州、弟のホノニニギのほうは南九州(日向)だったのでは?と思う。で、ホアカリのほうは、やがて息子と一緒に、畿内のほうへ転属になったように思う。これが、神武より前のアメノホアカリによる東征伝承であり、その大和で力をつけて、出雲に変わる最初の大和の王が、アメノホアカリだったように思う。一方、ホノニニギのほうは、曾孫のイワレヒコ(神武天皇)まで日向の知事として収まっていたように思う。
ちなみに、草薙の剣の本名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であり、三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。(天皇家が保持している草薙の剣のほうはレプリカであり、熱田神宮のほうが本物である。)熱田神宮の宮司は、初期の頃は尾張氏が勤めていた。
天叢雲剣・・・尾張氏の先祖には、天村雲命という剣と同じ名前の人物がいる。
天村雲命は、天火明命(アメノホアカリのミコト)の孫に当たる人物だ。
つまり、尾張氏は天火明命の後胤である。
《天火明命裔氏族綱要》 尾張氏・津守氏・海部氏などの系図
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02116.htm
そして、天火明命─天香語山命─天村雲命 の三世代には、畿内の諸地域(河内・大和・丹波など)への降臨伝説がある。そして、面白いことに、この天村雲命には、再び畿内から日向へ降臨し、その子供である天忍人命と天忍男命は日向で産まれた伝承があるそうだ。世代的に考えたら、天火明命(アメノホアカリのミコト)の曾孫の天忍人命と天忍男命は、ホノニニギ(天火明命の兄弟)の曾孫の神武天皇(同じく日向産まれ)と同世代である。
出雲神族・海部氏と丹後
http://hw001.gate01.com/sangatu/tango.htm#sentou_tango
で、もし、これが事実なら、出雲に倒した大和の初代国王は、アメノホアカリ(天火明)であり、アメノホアカリは別名をアマテルという。日本全国には、男の太陽神・アマテルを祀る神社が多く存在し、このアマテルというのは、尾張氏・津守氏・海部氏の祖であるアメノホアカリのことである。
よく、天皇家が祀っていたアマテラスという女の太陽神は、もともとはアマテルという男の太陽神だったという説がよくあるが、これは半分正解・半分間違いで、アマテラスとアマテルは別物で、女神・アマテラス(本名はオオヒルメ?)の孫が男神アマテル(ホアカリ)である。実際に、纏向遺跡で有名な箸墓古墳の近くにも、男の太陽神・アマテル(ホアカリ)を祀る神社があり、大和朝廷は、昔はアマテル(ホアカリ)を大和の始祖として敬っていたのかもしれない。
それで、私もこの説から距離を置いてしまいました。その後、文献の原文を読み漁ったり、考古学の学術書(一万円以上するようなやつ)を読み漁ったり、海部氏系図や海部氏が保管していた鏡など、新しい知識を得ていき、ここにコメントした考えになりつつあります。
最近は、考古学の学会とか、中国の考古学会とか、西欧の大和王権を研究している学者さんなんかも、徐々に卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメだろうなという考えになりつつあるそうです。
以上、それだけは言っておいて、あとは永井さんのHPや連山のHPを楽しみにしておきます。私もどれか一つの思想に固まっているわけではなく、今後、いろいろ変わっていくかもしれません。私のようなもののコメントに返事していただいてありがとうございました。今後とも御活躍を応援しています。
とにかく、連山のHPは貴重なサイトです。フランス語になっても、なんとか翻訳ソフトを使ってでも読んでいきたいです。
Posted by ひみこ at 2007年7月31日 10:53
アマテラス=卑弥呼説に関するコメントは、ここではなくて、「天照大神とは誰か」あるいは「なぜ天皇は日本国民統合の象徴なのか」に投稿してください。
Posted by Nagai Tosiya at 2007年7月31日 14:37
永井さんのHPにコメントをしましたよ。続きは永井さんのHPで。
Posted by ひみこ at 2007年8月 5日 02:19
インドはともかく中東(イスラム)が入ると面白いんですが。
中国と欧州だけでは片手落ちかなと。
Posted by まく at 2008年8月 3日 15:24
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/nagai/roman_empire.html
「天皇の家系」よりも尾張氏の家系の方が目立ってくると困るから
古墳のことは、そっとしてあるのかな?by日本のお姉さん
しかし、ここで問題が生じるのだ。もし、男神アマテル(ホアカリ)が大和の始祖なら、古事記や日本書紀を編纂した天皇家にとっては非常に都合が悪いのだ。何故なら、天皇家の始祖は、男神アマテル(ホアカリ)の弟であるホノニニギのほうであり、天皇家は、男神アマテル(ホアカリ)の男系の子孫ではないのである。つまり、万世一系ではないのだ。そこで、先祖をさらに遡らせて神格化する必要が出てきたのでは?そこで、ホアカリとホノニニギの祖母であるオオヒルメを女神・アマテラスとして祀る必要が出てきたように思う。Posted by ひみこ at 2007年7月27日 23:18
“だいたい、日本で戦国時代だった時代は、中国では明王朝による統一政権の時代だったし、必ずしも日本と中国は一致していませんし...”
明王朝は、1449年の土木の変以降、北虜南倭で衰退し、室町政権は、1467年の応仁の乱以降、戦国の動乱で衰退します。どちらも、シュペーラー極小期からマウンダー極小期にかけての近代小氷期の最盛期に無秩序化しましたが、その後、17世紀の初頭に、日本では江戸幕府が、中国では清が再秩序化を行いました。
Posted by Nagai Tosiya at 2007年7月30日 17:16
なるほどね。確かに、明代は統一国家の時代でしたが、その内情は戦国時代そのものの混乱の時代でもありましたか...
ところで、永井さんは古代の日本や中国の気候による混乱期は、西暦で言うとどのあたりだと思っていますか?たしか、寒冷化のピークって240年くらいだったと見たように思うんですが...
ちなみに、纏向遺跡の年代は、180年~330年くらいと見方がされているようで、180年というのは倭国大乱の時期に近い。その期間を、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行の6代の天皇の時代だと踏み込んで言う人もいる。
九州の神社に残る天皇の伝承なんかでは、神武天皇の伝承は南九州や宇佐に残っているのですが、その後、空白期間があって、7代目の孝霊天皇まで出てこない。
都道府県別調査対象神社数及び伝承数一覧表
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1527/dennsyousuu.html
で、この孝霊天皇、後につけられたこの漢風の名前から考えても、かなり象徴的な天皇です。祭祀の統一と関係あるのでしょうか?結構、戦争をして死者を多く出した天皇なのか?
実際に、古事記で欠史八代といわれる部分の中では、この孝霊天皇の部分だけ記述があって、播磨から入って吉備を平定したとある。(日本書紀のほうでは、欠史八代の部分では、二代目の綏靖天皇が兄弟で皇位継承争いをしたという記述が詳しくある)
また、彼のお兄さん(大吉備諸進命)が吉備の国主になっていたらしく、また、彼の庶子(彦五十狭芹彦命=吉備津彦命)も吉備の国主になっている。で、中国地方には、孝霊天皇が平定軍を派遣してきた伝承も残っている。
そして何よりも、孝霊天皇は、ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼か?)の父親でもある。戦争と祭祀の統一には関係があるのか?
そして、世代的にはだいたい、この孝霊天皇~崇神天皇の時代(ヤマトトトヒモモソヒメが巫女として大活躍した時代か?)に、初代大和国王アマテル(ホアカリ)の嫡流である尾張氏が、大和国葛城郡高尾張邑から尾張へ転属になった(左遷された?)もようである。
そして、それから後に、250年ごろ、最初の本格的な前方後円墳である箸墓古墳(ヤマトトトヒモモソヒメの墓)が作られ、彼女の墓の建造の様子は日本書紀にも象徴的な出来事として記載されている。墓の建造の様子が詳しく記載されているのは、崇神天皇などの天皇ですら無いことであり、それだけヤマトトトヒモモソヒメの影響力の大きさが推測できる。さらにその後に、尾張を中心に前方後方墳(前方後円墳とは少し違う)が作られる。これは、ホアカリの嫡流である尾張氏のささやかな主張なのか?
Posted by ひみこ at 2007年7月31日 02:08
ここは、古代日本史を議論する場ではないので、深入りは避けますが、私は、卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソヒメではなくて、アマテラスに相当すると考えています。また神武東征は、西暦300年前後の出来事と考えています。これについては、9月以降、永井俊哉ドットコムで詳しく論じる予定ですので、それまでお待ちください。
Posted by Nagai Tosiya at 2007年7月31日 09:30
すいません。つい、本題からずれてしまいした。ただ、私もその古代史については興味を持って考えを持っているものですから。
で、最後に一回だけ、お話して終わります。あとは永井さんのHPのほうも楽しみにしています。むろん、連山の本題のほうも楽しみにしています。
で、永井さんのサイトを見てみました。なかなか、面白い説だと思います。安本氏のようなアマチュアの歴史愛好家とか、井沢氏のような歴史小説家とか、いわゆる在野の歴史愛好家が好きそうな説ですよね。私もちょっと昔までは支持していたと思います。
ただ、日食からアマテラス=卑弥呼説を掲げていますが、永井さんが示されている日食があった年代というのは、あれは市販の天文学系ソフトから算出された数字であって、誤差があり、正しくはないと思います。
あの天文学系ソフトの結果を高々に宣言されたのは、安本氏だったと思いますが、その後、天文学の専門家から、違うぞといわれていたと思います。インターネット上でも、天文学系の掲示板などで聞いてみたのですが、あれ(247年、248年に二回たて続け)は間違いだと断言されてしまいました。
日食があった場所についてはNASAのHPにも掲載されていて、日本では西暦248年にはあったみたいですが(西暦247年には観測されていない)、場所は北陸から北関東にかけた一部だけで、畿内でも九州でも観測されなかったみたいです。
↓
http://sunearth.gsfc.nasa.gov/eclipse/SEatlas/SEatlas1/SEatlas0241.GIF