昔のジャワの報告書 | 日本のお姉さん

昔のジャワの報告書

わたしには面白い記事だった。

武井裕氏による、
インドネシアのジャワの報告書。

スマランの華僑は、広東から

トコロテンが押し出されるようにインドネシアに

来た人たちで、繁栄していたそうだ。

奇岩の模様はチレボンなどのチュウゴク人が

大勢いたという地域のジャワ更紗の柄にも

なっている。華僑たちは、オランダ人が

華僑に税金をかけようとしたら、

ものすごいパワーで、大反対したそうだ。

チュウゴク人の自己主張は昔から恐ろしいな。

現地の土人は、300年オランダ人に支配されっぱなしで

政治的に成熟する気配も見えないと

嘆いている。

~~~~~~

新聞記事文庫 東南アジア諸国(6-012)
大阪毎日新聞 1923.4.5-1923.4.15(大正12)

我観南洋 (一~十)
瓜哇にて 武井裕

(一)
資源の涸渇、人口の過剰、国力の不足等に関する我国民の自覚は遅蒔ながら大分深甚になって来た。況して大戦の反動による不景気の対応策として、総ての産業が緊縮整理に着手せる結果、大失業者の出現は人口過剰の苦悩を一層繁からしめ、近年擡頭せる食糧問題と相俟って、我民族の対外発展は殆ど焦眉の急を示している。
然るに、西せんか亜細亜の大半を支うる支那に容れられない、東せんか加州はアノ通り玄関払を喰わせている。さりとて南米は我国と経済的関係の密邇を欠いているのであるから、現在の日本が朝鮮台湾を外壁として、僅に満蒙の一角に勢力を扶殖しただけでは到底安んずることが出来ない。何となれは満蒙は余りに北朔に偏して其富源も、さまで豊かでないからである。然らば海外発展の筒先を何処に向けて宜いか、地面を拡げて世界の隅々を探した揚句、我等は「南洋諸島」と答えるより他に処がない。

絶大なる抱擁力
一口に南洋と云えば、仏領印度支那、英領馬来乃至比律賓群島及蘭領東印度を指すのであるが、我国との歴史関係最も深く、且将来我民族の発展に至利至便を極めているのは、赤道を境として北緯五度、南緯十度に跨る蘭領東印度である。茲に所謂、南洋というは暫く狭義に解釈して、蘭領東印度を指示し彼のスマトラ、瓜哇ボルネオ、セレペスの大島とスマトラ沿岸及び、瓜哇の東端に碁布せる大小スンダ群島に制限して、南洋発展を提唱し度いと思う。
蘭領東印度の面積約七十六万平方哩の内、稍開拓されたものは瓜哇マヅラの二島約五万五百平方哩に過ぎない。而して和蘭三百年の植民事業は此両島のみに没頭した結果、十三万千五百八粁平方哩の地域に三千五百万の人口を扶植し、其密度は二百六十六人を算して世界第一となったが、残る諸島百七十八万三千九百十三粁平方哩の大広袤地域は千四百十四万三千八百四十三人の住民を擁するのみで、其密度の如きも実に八人弱という荒涼さを示している。

距離著しく接近
千古斧鉞を入れざる大深林と昿茫限界を覆う肥沃の大平原とは五十年来其侭我国民の嘯号に任している。殊に近年英仏の投資額が目立って偏加の傾向を示したので、和蘭官憲も外国資本の均一を図らんとする趣旨より、就中我国の投資を歓迎しつつあるは、明白なる事実である。然るに南洋の富源と、我国との脈絡は大阪商船、南洋郵船の両定期航路と、山下汽船の配船に俟つのみであって、海波三千浬の応酬には聊か方便の手薄きを感ぜしめていた。けれども海外発展の針路を南方に採るべしとの議論は、朝野を挙げての声となったのに鑑み、東洋汽船は昨年末から瓜哇航路を開設し、排水量九千噸の波斯丸を配して南洋往復の快速を実行するに至った。波斯丸がバタビヤ港に着いた時、瓜哇財界の覇王サイリンハ氏は甲板に八幡船長を訪い、日蘭の歴史的関係より益々両国提携して企業に当たるべきを説き、更に附言して曰く
余は去年観光団を率いて貴国の土を踏むに至り、一層日蘭両国提携の可能と必要とを感じた。然るに貴会社が往航十七日復航十四日を以て、両国を結付けるに至ったことは余の理想を一歩進めた訳である。余は日本観光の答礼として日本実業団の来光を欲し、既に招待状を発したから、今夏波斯丸は日本実業団を満載して来島する筈であるが、余等の知る如く波斯丸は世界の汽船中電灯を点けた最初の船である。冀くは両国共合産業の上にも亦電灯を点ずる事を忘るる勿れ
斯うした感激の詞を残して彼は船を降りたということである。

(二)
バレンバンの勇者
南洋の現在を物語る前に其沿革就中日本との歴史的関係を明かにして置く必要がある。西班牙、葡萄牙の汽船が東洋に現れる前までは今の蘭領東印度は、当時自らバンカ海峡の覇者と名乗って近隣を懼伏したバレンバン王国の天下であった。バレンバンの勇者は寔に標悍無比、長槍を揮って今の新嘉坡島を略取し、更に馬来半島に亘ってペラ、カラン両河畔の新天地を拓き、農牧に携わる傍ら一管の長槍を以て能くバレンバンの社稜を護った。されば瓜哇やセレベスの豪族等が幾度か兵船鼓譟して攻寄せたけれども其都度鎧袖一触の威風を示したものであった。然し「敵あらば来れ、ムシ河の流れの一掬をも与うまじ」と傲語したバレンバン王国の栄華も科学の力には抗し兼ねて遂には履えるべき運命が到来した。ソレは葡萄牙の冒険児パスコダガマが喜望峰を迂回してベンガル湾頭に現れ、其後陸続探検家を齎し東漸して勿ち馬来半島に迄押寄せたからである。之と同じ頃西班牙のマゼランは南米の南端を迂回して太平洋横断の大壮図に成功し、比律賓群島を発見して西班牙の国旗を高く掲揚した。斯てマラッカ地方の武陵桃源の夢はやぶれ、インドネシアン人種の大恐慌時代は現出され、果てはバレンバンの勇者の槍さえ脆くも折れて到る処南洋諸島の朝風には西葡両国の旗のみが翻るようになった。ソレが丁度日本の元亀大正の時代に当っている。

和蘭の横槍植民
東方印度諸島が葡西両国の支配下に立って、香料その他の特産品を欧洲に供給した時代は比較的短かった。コハ葡西両国がその隷属地を完全に統一し保続して行くには、国力が余りに貧弱であったらである。ソシテ屡々起る土人の征伏や、英仏和の競争に脅かされて、千六百年前後には本国の疲弊もある旁殆ど植民統治の実を失うに至った。茲に於て和蘭船隊は千五百九十五年四月テツセル港を解纜して瓜哇バンタムの港に上陸した。処が葡人土人の反抗を買って散々に打破られ、四隻二百四十八人の同勢は、僅に数名を乗する三隻の船となり、這々の態で遁げ還った。けれども屈せざるは船乗国民の常である。和蘭は更に千五百九十八年五月再び帆船八隻を飛ばしてバンタムに上陸し、葡人土人の紛乱渦中に投じて瓜哇人に与し、見事に葡萄牙人を駆逐してしまった。事終るに莅み、バンダム港外に屯した八隻の和蘭船は一斉に祝砲を轟かしたが、此祝砲こそ瓜哇を蘭領也と登記せる偉大なる宣言であった。

風雲児ラッフル
英国の東方侵略は聊か遅れ馳せの観があった。英領東印度会社にはクラークやヘスチンダ等の豪の者が相踵いで、大印度の統括に尽したとは謂え、奈翁が欧洲を暴れ廻った時代には彼のマラッカさへ捨てねばならなぬ窮境にあったのである。当時小船長の倅と生まれて東印度会社の書記を勤めていたラッフルは、総督ミント伯に献策して大英帝国将来のためにマラッカ抛策を思い留まらしめたものだ。彼が甲谷陀の総督秘書官となるや、和蘭を滅せる仏軍が長躯万里東方瓜哇に駐屯しているのを見て一撃の下に粉砕すべき事を力説した。ソシテ命ぜられて副将軍となり、忽ちバンタムを屠って瓜哇の総督となったが維也納会議の結果瓜哇を再び和蘭に返還することとなったので、彼はスマトラに渡って新たに英領の開拓を志したが、港湾に乏しきを棄てて新嘉坡に走り以て今日の要港を築き上げたのである。
彼の傑出せる点は限界躍大にして、規模後世に繋げる事である、彼は東方発展の完成には日本と提携する要あるを力説した。ソシテ今日彼の予言わ現実となっている。彼はマラッカを抛棄するべからずと主張し、新嘉坡こそ東洋第一の港湾たるべきを確信した。而してソレは少しも誤たなかった。
サラワク王国を援けてクーチン城を護り、狂暴なるダイヤク族を蹴散らして、英国の勢力を扶植したブルークスと共に、彼は英国東漸史中の二風雲児であった。コレも彼か英国に生れたお蔭ではある、若夫れ彼をして当年我日本の領土に生れしめんか、彼は山田仁左衛門長政と挙を同じくして、そして線香花火の如くに終ったであろう。国是を背負うて奮闘するにあらずんば、勇者の偉勲は永続性を保つことが出来ない。当局の三省すべき所以である。

(三)
鎖国偸安の痴夢
西欧諸国の冒険児が、斯くの如き奮闘を続けたる結果、バレンバンの勇士は弾丸雨飛の裏に斃れ、クーチンの豪族も硝煙に咽んで滅びた。英は英、蘭は蘭、仏、西、葡亦各其根拠を固めて更に北進するに及び、漸く我国との交渉が開けたのである。然しながら耶蘇教に懲りて戸を堅く閉じた日本の政策は南方に植民策を樹立すべし等の考えは微塵もなく、種子ケ島の鉄砲を実現したが図南の鵬翼は堅く縮めて動かさない。彼の秀吉までが透通る硝子の壺を贈られて喜ぶだけであった。況して慶長元和の野武士輩に海外の大策が読めよう筈がなく、大阪城中所謂「太閤名題のギヤマン風呂」を頂戴してキャッキャッと賑ったに過ぎないという有様である。去れば金米糖やカルメロの甘い処を喜び、蘭法の新医術を称讃する位で、挙国偸安の夢まこと三百年に続いたのだから勿体ない。

邦人の海外脱出
此間鎖国の禁を破って海外に飛出した者も少なくはない。即ち徳川の政治を喜ばざる豊臣の残党乃至切支丹バテレンの信徒、若くは蘭人の妻妾となったものであった。只暹羅に渡って六昆を叩潰した山田二左衛門長政のみが、海国男子の本領を発揮したに過ぎない。元和寛永に掛けて日本武士の漂悍は暹羅安南に鳴響き、長政の死後ヒタ押しに押寄せた瓜哇の大軍も鎧兜を着けた替玉土兵の姿を見て遁還った程であった。一方豊臣の残党は、台南を根拠として遠く瓜哇海まで荒れ廻り、日本甲螺の名は南蛮の天地を震撼した。此外紀元千六百五年長崎の耶蘇信者ミチエール・ティ惣兵衛が瓜哇に遁れ、今尚バタビヤに留愛の碑を遺せるが如き隠遁者流もあり、メナド。マカッサに貽る無縁の墓主の如く、波のまにまに渡来した船夫の一派もある、スマランの支那人街に安吉と刻んだ墓碑があるのは矢張り此種の渡来者だと云い伝えている。

新ジャガタラ文
日本甲螺狂暴の報櫛の歯を牽くように伝わるのと、天主教徒に手古摺った徳川幕府は慶長十八年全く耶蘇教を厳禁し、必ず仏教中の一宗旨を信ずべき事を強制すると共に、一時に外人を追放し、混血児まで国内に留まるを許さなかった。当時骨肉別離の惨状は言語に絶し、婦女子の国を捨てて走る者が少くなかった。斯くして千里の外から親恋し友恋しの涙の文字を送れるもの、之をジャガタラ文と称して後世史家の涙を唆ったものであった。茲に「浮世の有様」中より最後の文を抄録する事とした。
一筆染め参らせ候、わもぶし長崎出航致しいつとのう永々しく漸くとジャガタラへ着き申候、とと様はは様御無事にお暮らしなされ候やそれのみ朝夕思出し参らせ候、わもぶしも愛子を儲け候う、茲許は人の姿皆変り、ほんに途方に暮れ申候。(中略)何うした過去の因果やら外国へ縁付致し因果の身の上悲しく存じ参らせ候、又あなた様方の事思出し候時は鏡に向い我身の姿を映し母様のお顔を拝し候うと思い(中略)誠に我国に変らぬものは天道様お月様の出入の外は木竹鳥類貝類迄も見なれぬ姿に御座候、お日様の方を長崎と思い、とと様かか様に拝し参らせ候(中略)
茲まで書いて、次にジャガタラの単語の註釈を加え、更に土人蘭人の風俗などを叙した上
今一度長崎へ帰り□神様仏様を朝夕□り参らせ候、併し子も早三つになり夫のトユコス殿も随分労わりなされ候故いろう憂きことものう(中略)もはや長崎へ帰る事も無之と思い候まま日々に涙を流し合い、又此度はよき船に御座候故とと様かか様のお姿を絵に描かせ外に朝顔の種御送り可被下候、和蘭国の妙薬テワノトリ、シムテウテカヒトン、サフランたん切に此品送り参らせ候、此後便り致候ことも難計と思い申上度事海山多く候え共硯に向い涙に暮れあとや先あらあらにて候、ただなつかしきはとと様かか様に御座候、めでたくかしこ。
ジャガタラにて 鶴より
ととさま
かかさま
鶴女は大阪平野町御□前餅屋に奉公した女で、後長崎丸山へ売られ、蘭人に伴われて瓜哇へ渡った者である。ジャガタラは今のバタビヤ旧港で、慶長以来此種紅涙の筆の跡は少くない。本文は天保七年酉三月に送ったもので、其後間もなく井伊大老の開国断行となったから、ジャガダラ文は殆ど之が最終のものであろう。新字を冠する理由もここにある。夫のトユコス殿っがきつう労わって呉れても彼女の心の裏は哀れにも痛わしく書かれてあるではないか。

(四)
酬いられた先覚者
海波万里、東方侵略の根柢を築き上げた是等の先覚者は、孰れも栄えある勲功に輝いている。ラッフルが新嘉坡に渡ったころは七八十人の漁師が住む一小孤島に過ぎなかった。然るに今は人口四十万に垂んとし、小船巨舶連檣して世界大道の大玄関となっている、ソシテ未だ開かざる馬来半島の宝庫を忠実に護っているのである。彼は瓜哇古代の文明を世界に紹介した功績をも併せて、新嘉坡の埠頭に颯爽たる英姿を貽している。マルコポーロ亦然り。彼は広東の羅漢寺に洋服を纏い、マントを着け帽を戴いた姿で五百羅漢の首席を占めてしまった。名も善注尊者と仰がれて聊か迷惑ながらニコヤカに己れの勲しを誇っているのである。バスコダガマも同様で、彼は澳門の青草萌ゆる広々した園の中に、航海日誌から案出されたらしい彫璧を持つ台の上へ坐っている。風●頗る凛、「慶長十八年、お前達の先祖は葡萄牙人の父を、妻子慟哭の裏に叩出したではないか、澳門はそうした人々の寄合場所であった、日本の植民地は此辺にあるかい」と言わぬ許りである。呪うべきは量見の狭い鎖国政策であった。誠に以て千載の憾みである。

邦人の遺跡を弔う
西欧健児の華やかなる勲功が、年毎に其光栄を増すに反し我等の祖先の遺跡は到る処弔うて涙の種ならぬはない。就中哀れなるはスマランの町の横町、支那人家屋の壁の中に塗り込まれた安吉翁の墓石である。彼は二百年前櫓櫂を操って、瓜哇に上陸した剛強の一人であったと伝えられている。彼の碑は縦一本に「南無阿弥陀仏」と刻み下に「安吉」と二字を割ってある。其表面は壁と平行しているが故に運良く碑名だけは表われたが、支那人の壁に塗込まれて、危く湮滅されんとしている。此屈辱的な存在は彼の雄魂長えに眠る能わざるものであろう。前領事はバタビヤの一寺から留愛碑を公使館に運んで来たが、我をして云わしむれば惣兵衛の如きは耶蘇で固まった一商人、ミチエール・ティの夷名を貰って瓜哇に走り、蘭人に貢献多かりしとあって蘭人から表頌された人物である。換言すれば教義のために国を捨てた男である。若し夫れ祖先の墓所の湮滅を気遣うとならば、我等は寧ろ惣兵衛を捨てて安吉を選ぶべきであろうと思う。安吉の墓は泥濘深き薄汚い小路に面し、剰え支那人の壁に塗込まれて身動きならぬ有様ではないか。心ある者は当年の健男児安吉君のために哭け。メナドの墓地、マカッサの遺跡是亦数は少くなかった。けれども日本人の墓の残るは土人の鼻息を刺激する虞ありという考えから務めて湮滅を図るの方針だとの噂が本当なのか、空地になって口碑のみの遺跡がソチコチに散在している。土人中には日本人の血を引いた者も多少はあるらしく、「我等は日本人の血を享けている」ということを誇りとし、私かに日本人の勇気を私淑している者も少くないことは事実である、が蘭領東印度の諸島を踏むに及び西欧諸先輩の功輝き、我等の祖先の遺跡の余りに果敢なきを悲しまずにはいられないのであった。

統一なかりし馬来
馬来半島乃至附近の諸群島は昔から統一されたことのない島々である。コハ天産饒多にして土地広袤他郷を斬取って以て領土を拡張する必要が無かったからであろう。されば、起って之等を渾一せんとしたる一人の勇者泣く、三十有余の王国が人を代えて目白押をやっているに過ぎなかった。バレンバン王国乃至チエタの強国も暫し一方の勇者ではあったが、馬来半島の南部を攻略した位であって、大小群島の統一的事業には一指の染むる処がなかった。況んや他の群小弱国の如きは、熱帯の天産に飽きて、覇気も失せ、気も鈍り、睡るが、如くに生きていたのである。さればこそセレベスの腕白者が軽舸に只一本の長槍を乗せ、縦横無尽にスマトラの沿岸を小突き廻したのであった。星移り月変り、南洋千五百年の歴史は跡方もなく掻消され、馬来半島にジョホール王国の形骸を僅に存するのみで、半島の大半は海峡植民地として英国の掌中に収められてしまった。そしてボルネオ北部の英領を除くの外、総ての大小スンダ群島にはソノ隅々までも、三色旗の彩るところとなったのである。赤道を超えて南せんか、右はバンカの島を控えた大スマトラ、左は砿産裕かなるボルネオの巨島である。舟のバンカ海峡を過ぎる時、双眸一帯に収むる両岸の長汀曲浦こそ、其昔日本甲螺の強者が、碧浪を蹴って敵や来ると待伏せた名残の古戦場であった。滅びたる馬来諸王国の山河を眺め南下すれば、雲山万里波茫々、そぞろ遊子の感慨を唆るものがあった。

(五)
現代の蘭印土民
マタラム王朝の礎が弛んでからソロー。ジョクジャの武士の刀は錆びた。ススーナンの空名、サルタンの虚位、これを擁してマタラム王者の後裔は天下泰平の眠に耽っている。サロンを腰に巻き、折畳んだカインカバラを頭に載せ、椰子の葉影に午睡の夢を貪る蘭領東印度四千幾百万の土民には、政治的の向上心が全く無さそうに見える。明眸皓歯と自惚れて、常夏の夜の都に乱れ咲く私娼の大群衆や、□声奇音に耳を傾け、彼の有名な尻振ダンスに現を抜かしている瓜哇の青年輩を見る時に、成る程彼等は未来永劫永しえに亡国の民として続くべきを思わしめる。風土習慣を異にし、思想生活が全く懸絶した蘭印の土民は、到底文明を洋人と倶に味わうことは出来ないであろう。さればキップリング氏さえ絶望の声を発し「東は東、西は西、トテモ一つになるものじゃない」と匙を投げてしまっている。和蘭の施政三百年、必ずしも土人の教化に尽さない訳ではないが、四時姿を更めざる常夏の自然は、土人の頭を蒸し続けて、彼等の開化を前途遼遠ならしめている。

土人覚醒の曙光
土人の覚醒は望む能わざるものとなすキップリング氏一派の説は、我等も其感を同じうするものであるが、欧洲戦後世界を吹捲った思想の革命は、印度洋の波を越えて遥々瓜哇の島にまでも及んだ。殊に千九百十一年の支那革命は、土人三百年の夢を破り、攻学の徒が起って土人覚醒の急を提唱した。ソシて政治運動の第一歩を踏んだのが千九百七年ソローに生まれた中央サカリット・イスラムの一派である。各民族の共合は望むに由なきも、回数を奉ずる二百五十万の新運動者が、鞏固なる結社を作って、布哇自治の新運動に着手せることは、南方の経済発展を策する我等日本人の、決して看過すべからざる事象である。サカリット・イスラム党は中部瓜哇の晒布業者が結社して、支那商人に対抗する商業的の組合であったが、後化して政党となり、国民参議会に其代表を送るまでの発達を見るに至った。経典と剣を握って半月旗の赴くところ、風を臨んで降らざるは無かった当時の回教徒が、今尚其真骨頂を蘭印の政治に発揮せんとするのである。勿論土人の政治運動が一年十年にして其目的を達成し得べきではないが、土人覚醒の曙光は既にこれを認めることが出来る。千九百十一年の昔にあって、「蘭領東印度は将に新時代に入らんとす」と喝破した、仏人カバトン氏の卓見は、流石に偉いものである。

エルベフェルトの首
今から二百年前の話だが、独逸人の血を受けた混血児ピーテル・エルベフェルトという男ジャガタラ地方に声望を振ったものだが、千七百二十一年遂に彼は剣を把って和蘭に叛いた。カルタダイヤと相結んで気勢侮り難く、戦乱は二年に跨ったけれども、叛軍竟に敗れて巨魁四十九名は斬棄てられ、エルベフェルトは千七百二十二年四月二日磔殺に処せられた。其刑場であったジャガタラの小丘に□璧を建て、スンダ語と蘭語で□徒の罪状を彫り込んである。ソシテ其台の上に、エルベフェルトの真物の首だというのが暴されている、ソノ眼窩陥れる無残の首は槍の□尖で脳天から台に突刺され、二寸許りも頭の上に飛び出しているではないか。首の真贋は我等の知る処でない。が、然し「叛するものは斯くの如く誅せらる」という所謂みせしめも、これは聊か手厳し過ぎる。しかも残虐性を刺戟して、先年のガルート事件の如き暴動に、人心を向けるような傾きはないか。ジャガタラの大道に曝された此髑髏も、二百年の雨露に叩かれし鬼哭啾々の凄味がなく、見ようによっては威風凛然たる俤がないでもない。殊に椰子油工場と背中合わせの此刑場に、赤い女褌の乾曝されてある等懲らしめの威力はモハヤ認めることが出来ない。

(六)
エルベフェルトの梟首一つで、土民の叛乱を未然に防ごうとした和蘭の圧政政策も、時代の趨向に逆ろうことは出来なくなった。そしてキップリングの長嘆も緩和せられカバトンをして予言の的中を誇らしめようとしている。

イスラム党の潜勢力
土人政党中、斬然頭角を露わしているものは、何といってもサリカット・イスラム党である。サリカット・イスラム党が千九百十六年バンドンで第一回の国民議会を開いた頃は、会員三十六万と称せられていたが、今では二百五十万人の秘密結社を組織して、領袖チョクロ・アミノト及びアブヅル・ムイスの両氏が牛耳を執り、自由民権のために虹の如き気焔を吐いているのである。斯くてこれ等の領袖は、戦端の第一矢を糖業者に放ち蘭人の資本を排斥して土人もまた利益を均等に獲得すべき運動を起こしたのであった。其結果彼が如き糖業大ストライキの勃発を見たのであったが、罷業資本を有せざる団体の運動は、財界の悪化に後援続かず、一先ず退陣してやがて機会を硯っている始末である。

土人の自由平等熱
サリカット・イスラム党の強大なる潜勢力は単に瓜哇のみに限らない、其他の蘭印諸島に侮るべからざる勢力を扶植するに至った。而して彼等の高唱する自由博愛平等の標語は、事毎に勃発して諸所における擾乱となり、遂に乱人の政治に一転化を与える効果を齎した。千九百十四年サリカット・アバンの名に於てスマトラ島乱れ、越えて二年ジャンビの叛乱がありクヅー郡に一揆起り、ケデイリ州の暴動等、諸在乱れて自由民権の思想は火の如くに燃え、就中ガルート事件の残虐は欧洲人を戦慄せしめたのであった。茲において和蘭政府の方針は漸く一変し、千九百十八年国民議会を招集して、総督の諮問機関となし、民意参酌の実を挙げんとするに至った。而してサリカット・イスラム党の領袖が議席を占め、未だ心許ないものではあるが、兎にも角にも彼等の理想の一端はこれで達せられたものといってよい。

和蘭の土人緩和策
国民議会の開設と共に、和蘭の土人緩和策は頗る真剣となって来た蓋し真剣とならざるを得なくなったのである。政府委員ミュールリング氏が議会に於いてなした演説の一●に曰く
新思潮に逆って無碍に之を阻止せんとするならば、却って過激思想を助成するに至るであろう。土人間に政治的覚醒を叫ぶ声が潮漫し、自由に憧れる心は燎原の火の如く熾んである。我等は今少し土人のいう処に耳を傾けなければならぬ。ソシテ彼等をして今少し政治を理解せしめ、蘭土和光同仁の善政を布かなければ嘘である。且つ政府は土人間の諸政党に超然として、公明なる批判者たることを期すべきである。
と結んで土人の喝采を博したのであった。僅々数年前には、威圧強制殆ど土着民の言論を蹂難して憚らなかった和蘭政府が卒爾として此演説をなさしむるに至った民心の趨嚮は、我等の深く味わうべき処であろう。

プレー氏の警告
蘭稜経済新聞主筆プレー氏は其著「二十世紀に於ける蘭領東印度」に於いて、深刻なる警告を蘭人の前に投付けている。
和蘭は決して貧乏国ではない。本国においては米国の鉄道株に投資して、其配当で徒食する懲多の資本家が居る。けれども由来本国の実業家は和蘭の属領に頗る冷淡であって、外国資本家の跳躍に放任しているではないか。ボルネオ。スマトラ其他の諸島は本国の資本家を待つこと頗る急である。シカモ殆んど抛棄して商権を外人に渡さんとするは何事であるか。バタビヤ商業組合の委員七名中三人までが外人である云々
従来蘭人の瓜哇に対する努力は全く薄いものであった。ソシテ一時は英国に侵略せられた程であったに拘らず、不評判なる財政々策を踏襲して苛斂誅求、未だ蘭人のなすべき大企業に手を染めたものはない。英領濠洲と馬来の間に介在する蘭領東印度の産業は、日英米国仏の活躍に俟って、徒手傍観しつつあるのは和蘭の国策として悲しむべきものであろう。

(七)
蘭領東印度は南洋の宝庫であると共にまた実に和蘭の金庫である。今蘭人が手を空しくして外人の開拓に任ずる時、蘭領に対して外人は如何なる地盤を築き上げつつあるか。

南洋華僑の忍辱
支那人の南下進展は其源を遠く四百年の昔に発し、所謂南洋華僑と称して南を図る発展児の数は今や三百五十万を算し、年々彼等の故郷に送る益金は実に五千万等弗を下らないという。彼等の大多数は福建広東の族であるが、其磽●にして肥沃の野に乏しく加うるに人口の過剰は今尚年三十万人の移住者をトコロ天式に押出しているのである。農業に商業に彼等の長所美点とも称うべき不屈不撓の忍辱的大精神は、四百年の歴史と三百五十万人の力とを以て、到る処抜くべからざる強大なる底力を培ってしまった。和蘭政府が土着の支那人に強制徴兵を迫らんとしたる時の如き、将た又暴戻なる戦時利得税式の徴税を強いんとしたる時の如き、彼等の反対の如何に強大にして且力あったかを物語るものではないか。建源号主黄沖涵は其富一億と謳われ、正に南洋華僑随一の分限者である。スマランの都の誇りとなって、奇岩怪石を池畔に累ね、大小の庭柯を透して明媚の風光を造りたる彼の大庭園は今公開せられて行人の観るに任しているが、彼は名もなき塩魚行商の小倅であった。スマトラに四千万の巨財を積んで、黄沖涵の塁を摩せんとする張鴻南も華僑一方の雄ではあるが、彼とて眇たる新材行商の賎夫であった。忍辱と精励とか彼等の特徴である限り、黄、張の雄は第二人者に終るべきであるまい。斯くして、十百の黄張現るるに難からずとせば、南洋華僑も又太だ偉いかな。

英国人に倣うべし
キャンベルの著著に拠れば、瓜哇内乱の昔にあって、早くも英国の商館が開かれている。英人は其時代から、領土侵略の野望はなかったが、堅実なる経済発展の攻究を怠らなかった。コハ蘭領スマトラの北岬が馬来半島の南端と鼻づらを突合い、ボルネオ、ニューギニアに於ける英領が蘭領と背中合せをやっているのみならず、蘭印の南に濠洲を控えているのであるから、蘭印に根拠を構えて南北を繋がんとする大経綸を捨てることは出来ないのである。
ソコで学者名士の瓜哇に渡って真摯なる研究を遂げた者も少くなく、馬来の富を双肩に荷なう護謨の如きも、其移出は学者研鑚の結晶より初まっている。ワーレース氏は有名なる博物学者であるが、彼は千八百五十四年から九年の間瓜哇瘴癘の地に留まって其貢献小ならざる者がある。ソシテ彼はタルナテで熱病に襲われ、病床に苦吟しつつマルサスの人口論を繙き結果ダルウイーンと揆を同じうして適者生存の学説を発表したのは有名な話である。爾来英人の真面目は年と共に善果を産み、砂糖珈琲煙草その他の農業は勿論商業に貿易に海運に他国の追随すべからざる盛運を保つに至った。バタビヤに於けるマクレーン・ワットソンや、スラバヤに於けるアレザー・エートンやスマランに於けるメ・ネール等の諸商事会社が、光輝ある繁栄を続けているのは全く偶然でない。農業に於ても英蘭瓜哇植民会社は実に三十一万バウの大私有地を擁して、英人農業の権威となったものである。之には流石の和蘭政府も参って終い、七重の膝を八重に折って「何卒売り給われ」と頼み込んだのが千九百十八年のことである。哀願二年辛うじて英蘭の妥協成り、和蘭政府は千七百万盾の小切手を発行して漸つと和蘭領と銘打った訳であった。彼等は三億五千万弗の大資本を蘭領に投下してセッセと勢力の扶植に務めている。袖手傍観して偏に独逸賠償を待侘びている仏人の如きは以て談するに足りない。カバトンは「仏人の蘭領にあるは少許の栽培業者で、多くは理髪師洋服屋に過ぎない」と悔しがっているのも尤もである。

(八)
独米人の活躍
英支両国民の発展は既に述べた通りであるが、将来更に怖るべき蘭人の強敵は実に独逸商人であろう。由来独逸人は総ての産業に学術を応用し、その巧なる組織によって徹底的に事業を完成する国民である。去れば農鉱業は勿論のこと、電気事業機械工業其の他の商業に於て独特の勢力を扶植しているのは事実である。農事会社としては、ストライツ・ウント・スング・シンヂケートがあり、商事会社としてはベーン・メーエルが重きを成し此両者はヘルフェリッヒ氏が重役を勤めて、活躍を続けると共に一方二百五十万ギルダーの東印度物産銀行を設立して農業方面の一大努力を試みようとしているのである。戦争中英国の資本に駆逐されて、其雄図は半ばにして挫けんとしたが、平和来と共に彼等の商館は一斉に開かれ、トラストを作って失いたる地盤の恢復に努力しつつある彼等の勇気は寔に賞すべきものがある。蘭紙の或者は一警告を発して「和蘭商人は全線に亘って独逸と競争するの覚悟をしなければならぬ。蘭人の最も怖るべきは独逸商人である。」と云っているのを見ても、彼等の武者振りの如何に雄々しいかが判る。独人に次で米人の活躍も侮るべからざるものがある。スマトラに大護謨園を開きたるが如き、又石油戦に於けるスタンダードの画策の如き、全く米人の活動が比律賓群島より漸次南下せんとする努力は明かに認められる。仏伊白の対外発展が萎微振わざる際、英米独支のみが、我等の好敵手であれねばならぬ。

将来の蘭領印度
和蘭の政策が外国資本を恃んで其属領の開拓を欲しているのであるから、蘭領無限の宝士は日英米独の新勢力に其富源を拓かれるであろう。併しそは将来の話であって少くとも此処暫らくの間は大いなる変化を見ずして、将来の基礎を固めるものであろう。そしてその期間こそ我等の心を用うべき時代であることを忘れてはならぬ。戦後各国の経済恢復に努めつつあるに拘らず、欧洲の諸産業は資本労力の不足に悩まされて逡巡の姿を更めない。そしてヴァンダーリップ氏の言草じゃないが、西欧諸工業国に於ける国帑の疲弊は、産業に携わる労資両面に対し、精神上の悪影響を与えているのだから、一層恢復を遅延せしめようとしている。此結果蘭領東印度の現在及び或期間の未来に於ては、刮目すべき大変化を見られまいというのである、而して

(一)外国生産品の市場としては少くとも現在並で、過剰生産品の大流入は望まれざると共に、蘭領内に小規模ながら新規の工業が企図されるかも知れない。
(二)原料品の供給という立場から見て、蘭領は依然大きな強味を失う筈がない。
(三)戦後の列強が国内の政治経済修復に相当の努力を必要とするから、当分蘭領は列国より困却されるかも判らない。

けれども、其一定期間の未来というものが三年なるか五年なるか素より揣摩することが出来ない。そこに準備の急が潜めるもので、我等の東印度発展の画策が、今日に出でなければならぬ所以ともなっているのである。

土人と経済観念
蘭印の発達は土人の経済的覚醒を必要とするが、この方面に対する土人の覚醒は殆どない。政治的に目覚めたサリカット・イスラム党員は瓜哇島民の一割をも占めることが出来ない、即ち十人の中で九人強までは政治経済に無関心の生活を送っているのだから、イスラム党は土人生活の向上を、経済的覚醒より着手すべかりしか、又政治的覚醒より始めたが宜かったのか勿論両者を加味しての活躍には違ないが、商業組合式に生れて忽ち政党化せることの稍早過ぎた観がなかったであろうか。
ウォレース氏は
土人の大多数は今尚無智で観念の最も簡単なる結合すら不能の有様である。彼等の文明は自ら生じたのではなくて、印度人アラビア人の模倣に過ぎない
と嘆じて其前途を危ぶむと共に更にヘルフェリッヒ氏の如きは、土人の経済的欲望は到底望むべからざるものであるとさえ断言しているのである。尤も此議論は土人の生活費が何時まで、現在の如く低廉で済むかという事が問題の解決になろう。

(九)
嘗て土人理事官ウトヨ氏のいった如く、和蘭の伝統的政策は、仮りに自由主義を加味した人道的政策といい得る場合に於いても、単に
土人を飢えしめないというだけであって、常に土人の精力と想像力を殺して居る。だからヘルツェリッヒ氏も土人は賃金を値上げすればそれ亦少く働くので、賞与金其他の奨励方法を以て労働効果を増進せしめようとした試は悉く失敗に終っている。故に人為的に生活の向上を図らんとするは徒に贅沢を奨励するようなものだ。
と極言するに至った。然しながら過去の事実を基調とし現在の社会的現象の総てを律するということも極端であろう。殊に現在の蘭領土民の大部分は今尚資本の意義を知らず、又貯蓄及財産資本化の必要に迫られていないのであるから社会情態の全く異なれる欧洲人と比較して、余りに怠惰であることを極端に責めるのは無理である。

経済的覚醒の時
裸足半裸で軒下に眠る多くの土民とて、何時までも現下の状態を続けるものではあるまい、況んや教育の漸次普及し来れると、世界大勢の駸運とは、土民の経済的覚醒を喚起すること頗る急なものがあり、其速力も意外に遅くないのであるから、土民と雖も欧洲並の経済組織を必要とする時代の到来は必ずしも長いものではあるまい。シカモ、其道程として、従来土人の生活は精神上物質上家族若しくは村落を中心としていたものが漸次欧洲におけるが如く個人主義に傾いて来た点に認め得べく、其原因たる(一)人口の増加、(二)必需品の増加、(三)収入資源の増加等が尚其域を進むる時に、この傾向は一層拡大するであろう。

投資に同仁主義
和蘭は千八百七十年以来、私人の事業に対しても自由解放の政策をとっている。そして原則上、蘭人の企業も外人の企業も凡て同一の権利を確保しているから、何人の往いて農工商を営むも、決して掣肘せられることはない。既に述べたるが如く、和蘭本国が外資の流入を待つに非ずんば、此宝土の開発を望むことが出来ないのであるから、我国民の投資地としては絶好のものであること、今も昔に変りはない。現に千九百十二年バタビヤにおける護謨会議の席上でイデプルダ総督は「外資の投下されたる額は頗る巨額に達しているが吾人はこれを感謝するものである。我植民政策は宏量で、我植民地の門戸は広大である。吾人は此確信の上に門戸開放の政策をとり、蘭領東印度の開発に対し、資本を投じ、努力を用うる外国人を歓迎す」と宣言しているではないか。又土人の蘭資排斥運動が暗に其勢力を増さんとする傾向あるを看取し、某蘭人事業家は、特に日本の投資を待って合弁式の企業根柢を作り、ソシテ其萌牙を挫こうとするものもあるのである。尤も近年土民の政治運動熾烈となり、其原因が経済問題に発しているので、政府も従来の如く土人労働階級の声を無碍に圧迫することが出来なくなり、土人運動を緩和せんとして、千九百十八年の第一回国民議会において、ステイルム総督が
蘭領東印度の食糧及び生活必需品の自給自足は急務であると共に望み得られないことではない此目的のために已むを得ざる場合は、一部資本家の希望に反しても砂糖煙草その他輸出農業の耕地面積の強制的縮小の必要が起って来るかも判らない。
と演説したに対し、従来の資本保護、欧人農業奨励の政策に一変化を来せるものだと揣摩し、近時欧洲人に対する租税過重の財政政策と相俟って、「斯くの如きは蘭領東印度開発の前途に暗影を投ずるものだ」と非難する者が少くなかったのである。然しながら我等をして言わしむれば、欧洲人に租税の重きを課するは従来の政策であって和蘭の財政が主としてこれのみに依らなければならぬもの即ち外国資本の投下を排斥して和蘭自らが何物をも為し得ざることを暴露しているものではあるまいか。爾来四年を経過しているが、護謨園椰子山其他の栽培業者が、払下げた土地の開拓経営を保持する力なく、切りに日本人及び欧洲人に譲渡せんとして焦りつつあるもの頗る多い現状ではないか。

(十)
口に「図南の鵬翼」を唱えて、惰眠三百年の夢に耽れる我等の祖先の悲しみは既に述べた。無智蒙昧の土民も覚醒の曙光を認め、和蘭本国も正義人道による仁政を布かんとし、英米独の活躍児が蘭領の天地に其地歩を固めつつあることも、既に述べた如くである。然るに我国の南洋経綸は幾干も其駸運を認めることが出来ないではないか。蘭印の人口四千五百万その中日本人の数は四千二百人に過ぎない、そして護謨砂糖その他の産業に携わる法人の数は二十を算すべしというも、多くは出遅れて減価償却に身を窶している、個人商店又粗悪にして高価なる邦品を持倦み、英独商品の好況を羨む許りである。西を見ても、邦人の影は頗る薄いではないか。我等は今にして南洋経綸の大勢力を試みなければ、我等の祖先の遺憾を百年千年の後に伝うるものであろう。

砂糖では日本人
農業工業に於る日本人の活躍は未だモノになっていないのであるが、砂糖の取引だけは正に日本人の天下である。我等が瓜哇を中心として蘭印の諸島に遊び、到る処嗟嘆の声を発するばかりであったが、スラバヤにおける邦商の大活躍を見るに及んで、聊か溜飲を下げることが出来た。鈴木は一昨年依頼彼のフレザー・エトンを負かし、建源を破り糖商割拠の中に第一位を支うるに至った。三井も久しく第五位に甘んじていたが、昨年以来砂糖にも其勇を挺んでて今や第三位を占め近くフレザー・エトンを破って珠洲金の堅塁を陥れんといているのである。そして其他の邦商が入乱れて砂糖に各功名を争いつつある壮観は、正に人意を強うするものがあった。然しながら我等は此種の活躍よりも、渡来して百年の地盤を固むる大農工業に永遠の力を罩むることを望む。当面の利潤は浮べる雲に均しく、過って失うに易きが故である。

邦商の心すべき事
兎に角蘭印に渡来せる同胞の活躍は、漸次効果を収めつつあるのも事実である。茲において我等は思う、冀わくは大資本商店が薄資の小商人を困惑せしむる勿れ。小商人は一都会に反噬して惧に斃るるの愚をなすことなかれ、そして辺陬の都邑に入って其新天地を築くべきである。吹矢、文廻しの輩が、土人に対して我等を謬らしむるは忌むべきであるが、彼等の為すところは其勇に富めるを賞すべく、小商人は宜しくその決心を以て小邑に基礎を立つるの必要がある。一方内地の商人は、送れる処の見本と甚だしく異なる商品を投付くることを止めなければならぬ、又外品を模倣して其レッテルの影に潜む陋劣なる暴利を忘れなければならぬ。昨秋以来和蘭官憲の摘発せる偽模造商品の大部分が殆ど邦品であった抔は、我等の面を蔽うて恥辱を感ずるところであった。正に誡むべきことであろう。

大挙南洋に来れ
大韓半島の植民は赴くべき処に赴いた観がある、満蒙の開発また然り南米北米既に思わしからずとせば、我等は路を南洋に取るより仕方がないではないか。狭隘なる国土に大人口が溢るればこそ、一風一雨に米作を案じて食糧問題の突発となり、職を争うて生活に●しむ就職難となり危険思想となるのである。これ等の社会問題は現代の耕地整理や開墾助成法を以て解決し得べきでなく、浪花節を以て丸め終おせんとするも無理である。必ずや海外に押出して新天地を拓かしめなければならぬ。荘子という洒落者は有りもせぬ大鵬という鳥を造り、「扶揺に搏きして九万里の天に上り、南に徒るの図をなし、将に南溟に適かんとす」といった。これは我等のために誨えたようなものだ。天下泰平となった慶長の初、独眼竜伊達正宗は図南の雄志抑え難く
幾踏危機志未酬 欲征南蛮作奇功 図南鵬翼何時奮 久待扶揺万里風
と賦したものだ。彼が「英雄武を用うるの地なし」と嘆じたのも今の我等と同感である。只剣と算盤との異である。来れ南洋へ、ソハ凡ての我等の問題を解決するであろう。(完)
データ作成:2004.4 神戸大学附属図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501424&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00501424