1回の努力に対して1回良いことが起1回の怠惰に対して1回悪いことが起こらないのは何とも思わない。
主要紙の社説執筆者も参考にしている!?
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【世界の新聞「101紙」の視点】
~2010年6月24日(木)の紙面より~
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【最近の社説の、ここに注目】
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23日付「東京新聞」
『暴走殺傷 “希望格差”はあるのか』の社説。
『事件は、まだ解明段階にある。勤めていた工場内で人を次々とはねるとは言語道断だ。許されない。何の不満があったのか。似たような事件が相次ぐのは、希望が見えにくいからだろうか。』
『事件はきのうの朝、広島県のマツダの工場で起きた。四十二歳の元期間従業員の男が乗用車を暴走させ、歩いていた社員ら十一人を次々とはねた。』
『「精神的にむしゃくしゃして、殺すつもりだった」。逮捕された後、そう供述した。車内には包丁もあった。「工場で包丁を振り回すつもりだった」と言うから、さらに惨劇となる恐れがあった。』
『「クビになり、恨みがあった」と動機を口にする。そんなことで社員を無差別殺傷の標的にするのは憎むべき身勝手な犯行であり、理由にもならない。』
『会社の説明では、男は半年間の契約で四月一日からこの工場で働き始めた。しかし、同月十四日に「一身上の都合」で自ら退職した。実際に働いたのは八日間だけで、特に問題はなかったという。』
『思い出されるのは二年前の東京・秋葉原での無差別殺傷事件だ。』
『歩行者天国にトラックで突っ込んで七人を死亡させたとして裁判中の被告は、自動車関連工場の派遣社員だった。』
『「派遣が終わると言われ『自分は必要とされていない』と感じ、不満のはけ口だった携帯電話サイトの書き込みも無視された」ために「自分の存在を認めさせようと、復讐(ふくしゅう)を考えた」と検察側は指摘した。』
『マツダの工場では二〇〇八年秋に、期間従業員など二千二百人の非正規社員が働いていたが、リーマン・ショック後の業績悪化で九十人に激減。最近の持ち直しで、再び二百人以上に増やした。』
『派遣社員や期間社員が、生産の“調整弁”のように使われているのは、この工場に限らない。賃金や福利厚生など、正社員との差は歴然とある。容易に埋められるものではない。』
『六年前の著書で「日本社会が将来に希望が持てる人と絶望している人に分裂していくプロセスに入った」と分析し「希望格差社会」と命名したのは山田昌弘中央大教授だった。』
『「努力は報われない」と感じた人々から希望が消滅していくと警告していた。』
『犯罪は許されず、社会一般と軽率に結びつけることは、厳に慎まなければならない。しかし、連続することに対し、警戒を怠るわけにゆかない。』
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他の人を殺す「殺人」も、自ら命を絶つ「自殺」も、その元となる部分は同じだという話を聞いたことがある。
つまり、自分が現在感じている耐え難い苦痛から逃れるために、「その苦痛の原因となっている人の命を絶とうとする」のか、「その苦痛を感じている自分自身の命を絶とうとする」のか、
という違いなのだろう。
今回取り上げたマツダ工場における事件や、2年前の東京・秋葉原における事件のような、「誰でもいいから殺したい」という無差別殺傷事件が後を絶たない。
また、自殺者数も毎年3万人以上と、こちらのほうも増加傾向にあるようだ。
特に自殺については近年、「経済・生活問題」をその理由とするものが増えているらしい。
繰り返される無差別殺傷事件も自殺の増加も、そこには通底する部分…「経済・生活問題」といったものがあるのかもしれない。
近年の自殺について、「経済・生活問題」を原因動機とする具体的事例を確認すると、
*自社の倒産・廃業(多くの事例で債務返済難)
*失業及び再就職難
*収入減少・他者の債務保証等
*仕事の量・質の変化(過大な責任、長時間残業)
といったことが挙げられるらしい。
一方の、無差別殺傷事件の動機について。
マツダの場合は、
『「クビになり、恨みがあった」』
秋葉原の場合は、
『「派遣が終わると言われ『自分は必要とされていない』と感じ、不満のはけ口だった携帯電話サイトの書き込みも無視された」ために「自分の存在を認めさせようと、復讐を考えた」』と、社説には書かれている。
債務の返済が果たせず自社が倒産・廃業した場合や他者の債務保証を負わされた場合、或いは仕事において過大な責任や長時間労働を課せられた場合などにおいて、他者を恨んで無差別殺傷に及ぶといったケースはほとんど聞かない。
逆に、クビにされた恨みを胸に秘めて自ら命を絶つといったケースは皆無ではないのだろうが、「経済・生活問題」を原因動機とする場合の割合としては、かなり低いものと想像する。
このあたりの違いが興味深い。
耐え難い「経済・生活問題」に陥った時に感情の矛先を他者に向けるような人だったから、クビにもされるし、その存在も無視される…。
そう言ってしまったら言い過ぎだろうか。
(桐鳳)
【編集後記】
「ハインリッヒの法則」というのがあります。
「1件の大きな事故・災害の裏には、29件の軽微な事故・災害、そして300件のヒヤリとした事例・ハッとした事例がある」というものです。
個人的にこの法則の割合は、「努力や怠惰に対する報い」にも適用できるのではないかと考えています。
たとえば、1回の大きな良い報いの裏には、29回の軽微な良い報い、そしてそれは300回の努力によってもたらされる、というところでしょうか。
言い方を変えれば、少し割合は違ってくるかもしれませんが、30回の努力で1つの小さな良いこと、300回の努力で1つの大きな良いことがもたらされるというニュアンスになります。
そしてこれは、「怠惰」と「悪い報い」の関係についても同様です。
人というもの、自分が努力をした場合については、すぐにその結果が返ってこないと不満に感じたりはしないでしょうか。
たとえば、他の人よりちょっと頑張った日が続いたのに何も良いことがないと、すぐに不満に感じたりします。
「努力しても意味ないじゃん」というところでしょうか。
逆に、怠惰に過ごした場合については、それですぐに悪いことが起こるとは思わない。
たとえば、ちょっと怠惰な日が続いたとたんに悪いことが起こったりすると、自分の不運を嘆いたりしないでしょうか。
「なんだよ、ツイてねえな」といった具合です。
また、「努力には自覚があるが、怠惰には自覚がない場合が多い」というのも大きな特徴かもしれません。
「努力を続けた」という自覚はあるでしょうが、「怠惰な状態が続いた」という自覚はない場合も多い。
だから余計に、その割合を誤って捉えがちになるように思います。
1回の努力に対して1回良いことが起こらないと不満に思うのに、1回の怠惰に対して1回悪いことが起こらないのは何とも思わない。
そんなところがあるような気がします。
(桐鳳)
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
あなたに素敵なことがいっぱいありますよう…。
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