なぜアチェが特別な自治区なのか、これで分かった
331.南マルク共和国
1949年、インドネシア連邦構成国家が雪崩(なだれ)のごとく単一国家(→368)になる際に、スラウェシ島では若干の抵抗があった。キリスト教徒が多数であるマルク(モルッカ)諸島はインドネシアへの統合は容易ではなかった。アンボン人のソウモキル(Soumokil)、マヌサマ (Manusama)、マヌフツ(Manuhutu)はスカルノ大統領の顧問としてモルッカの特別扱いを要請してきたが、大統領の受け入れる所とならなかった。⇒RMSの首脳
1950年4月24日、モルッカの代表はアンボン(→226)で南マルク共和国(RMS=RepublicMaluku Selatan)の独立を宣言した。⇒アンボンのRMS集会
突如としての独立宣言は蘭印軍傘下にいたアンボン人兵が呼応することを期待したものである。ハーグ協定で蘭印軍に従軍していたアンボン人兵士はインドネシア共和国軍に編入されることになっていたが、彼らは折からのRMSの独立宣言を知り、インドネシア共和国軍への編入を拒否しRMSへの参加を望んだ。
オランダはRMSが自らの策謀でないことを国際世論に証明するために、これらの兵を一時的にオランダ本国に引き取らざるをえなくなり、その結果生じた亡命アンボン人問題は現在にい
たるまでオランダの苦悩の種となっている。 RMSの反乱そのものはやがて鎮圧され、反乱軍はアンボン島隣接のセラム島(→226)のジャングルに逃げ込みゲリラ戦となったが、1952年、首謀者ソウモキルは逮捕され完全に平定された。RMSを主導したアンボン人は都会人で近隣の島の住民から浮き上がっていたことが失敗の理由であろう。
スカルノ大統領をはじめ独立当時の民族主義者は宗教、民族、歴史において特異なアンボン人(→622)がインドネシアに併合される苦悩を理解するところがあったと思われる。スカルノ大統領がアンボン人のレイメナ(Johannes Leimena)を第一副首相にとり立て、腹心として常時、官邸に居させたのはアンボン人への配慮であろう。
スハルト政権に代わってからはアンボン人の扱いは厳しくなった。1966年12月、スハルト軍事政権によってRMS首謀者のソウモキルが処刑された。その報復に亡命アンボン人によってオランダのインドネシア大使館が放火された。インドネシアではアンボン人への監視体制が一層、強化された。
軍も行政からもアンボン人は排除され、マルク州の中枢へジャワ人が進駐してきた。インドネシア独立によって民族として割をくったのはアンボン人である。
近年、アンボン移住と称してイスラム教徒が送りこまれた結果、イスラム教徒がキリスト教徒と拮抗(きっこう)するまでになった。アンボンのイスラム化がすすむ中で起きたのが昨今のアンボンの宗教紛争(→737)である。アンボン人はRMS前科が在るゆえ抹殺するというのがイスラム過激派の論理である。こうしてイスラム狂信主義者がキリスト教徒を追いつめれば、再びRMSの再興がささやかれるのは当然である。
注釈と資料-331 ⇒692.オランダのアンボン人
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332.ダルル・イスラムの反乱
(ダルルイスラム)
インドネシア独立戦争においてイスラム教徒も武装してオランダと戦った。これらの兵士はヒズブラ(Hizbullah=イスラム挺身隊)といわれ、できたばかりの弱体な共和国の国軍の統制外で独自のゲリラ活動に専念した。特に西部ジャワは敬虔なイスラム教徒のスンダ人の地盤であるためヒズブラの活動が目立った。
オランダとの独立戦争の過程で1948年のレンヴィル協定の休戦の線引きで西部ジャワはオランダの支配地域となり、共和国軍隊は西部ジャワから移動することになった。この協定の評価は共和国内でも論議を呼んだのは事実であるが、ヒズブラは共和国自体を“裏切者”と見なして西部ジャワからの移動を拒否した。⇒スカルノ大統領(1950年)
西部ジャワに踏み留まったヒズブラはやがて共和国自体のアウトサイダーとなり、独自のイスラム国家「ダルル・イスラム(Darul Islam略してDI)」を目指すゲリラ活動を行った。
共和国とオランダの独立戦争が終了しかけた頃、DIが1949年に共和国からの分離独立を宣言したことによって共和国の"内なる敵"との戦いが始まった。この反乱の指導者のカルトスウィルヨ(Kartosuwiryo)はチョクロアミノト(→287)の弟子であった。ジャワ人であるが敬虔なイスラム教徒としてスンダ人に信頼されていた。
カルトスウィルヨの呼び掛けに応えて反乱は西部ジャワから敬虔なイスラム教徒の地盤であるアチェ(→083)と南スラウェシ(→199)に飛び火し全国規模の反乱となり、一部には共和国に敵対しオランダと野合するむきさえあった。最終的にDIのすべての反乱が鎮圧(注)されるのは1965年である。
DIの反乱に呼応してアチェでは軍司令官を反乱の首謀者に担ぎアチェの自治拡大を要求したが、最終的には中央政府の説得に帰順した。アチェが特別州(→083)として他の州と異なる位置づけを得ているのはこの反乱の成果である。その後、アチェ問題(→435)の根は深く潜在していたが、スハルト体制の崩壊後一気に表面化しハビビ、ワヒド、メガワティ政権を揺さぶった。⇒アチェのモスク
南スラウェシの反乱は野心家カハル・ムザカル(→202)によって率いられた。反乱の宣言に『マジャパヒト(→248)を粉砕せよ!』がうたいあげられたごとく、反乱の根底にはイスラム信仰に加え、反ジャワ感情の民族問題がからんでいた。
西部ジャワと南スラウェシのDIの反乱に対して共和国は一切の妥協を排して徹底的に弾圧した。反乱者は野盗集団となるまでに追い詰められ、死にいたるまでゲリラとなって闘った。共和国成立の過程でDIの狂信的反乱は共和国に深い傷を与えた。特に犠牲の大きかった国軍ではイスラム過激派へのアレルギーとなった。インドネシアの政治運営を車の運転に例えるとDIは右側の路肩の外にあり、左側の路肩の外のPKI(共産党)と同じく、踏み外してはならない危険ゾーンである。
注釈と資料-332