どこかのサイトからコピー&ペースト インドネシアの独立戦争(注釈と資料) | 日本のお姉さん

どこかのサイトからコピー&ペースト インドネシアの独立戦争(注釈と資料)

医者ではなく、雪印乳業の人だったわ。

それに、南アフリカで早々に強盗にあったのは、

スペイン人とチュウゴク人ではなくて

どうも、北欧の人っぽい。

すみません。ブログにいい加減なことを書いてしまった。

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C-6 独立戦争(注釈と資料)
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page031.html

318.独立宣言の発布319.45年世代
320.スマラン事件321.スラバヤ100日戦争
322.バンドゥン火の海事件323.スマトラ島の戦い
324.バリ島の戦い325.リンガルジャティ協定
326.マディウンの内乱327.ジョグジャの戦い
328.スディルマン将軍329.オランダの孤立
330.ハーグ円卓会議331.南マルク共和国
332.ダルル・イスラムの反乱


C-6.独立戦争(注釈と資料)

C-1.ジャワ王朝史 C-2.地方王権 C-3.オランダ支配史 C-4.民族意識の形成 

C-5.日本の占領 C-6.独立戦争 C-7.人物列伝 C-8.日本との関係史

C-6 独立戦争

318.独立宣言の発布
 1945年8月16日夜、レンガスデンクロック(→316)からジャカルタに戻り、17日の未明に始まった独立宣言起草会議は夜も明ける頃にようやく終わった。一度解散して銘々の自宅に引き上げて再度集合して17日午前10時、東プガンサアン(Pegangsaan)通56番地のスカルノ宅(→161)で独立宣言を読み上げた。⇒東プガンサアン通56番地

 毎年8月17日の独立記念祝典はインドネシア最大の公式行事である。1週間程前から準備参加して当日は路地の奥でも盛大に祝われる。しかし最初の独立宣言の式典(注1)には徹夜の会議で疲れていた民族主義者達や噂を聞き付けて集まった人で5百人弱にすぎなかった。ファトマワティ・スカルノ夫人の手製のメラ・プティ(→296)が掲げられた。独立宣言が発せられた後、伴奏なしでインドネシア・ラヤ(→297)が歌われた。⇒独立宣言の発布

 この時スカルノはマラリアの発熱で倒れる寸前であったと後に語っている。何れにせよ8月15日、16日はほとんど睡眠もとれなかったはずである。

 インドネシアの独立宣言は発せられたが、ラジオ放送は日本が管理していた。その日本の目を盗んで夜のニュースでインドネシア人によって独立宣言が発せられたことが世界に放送された。実際にどれだけの人が耳にしたかは分からないが、インドネシア人にとっては万感の思いの独立宣言であった。しかし独立は単に宣言するだけで達成されるものではなかった。独立宣言は国家誕生の試練の開始であった。

 かつての宗主国のオランダは植民地時代の蘭印軍はニカ(注2)と名前は変え、戦勝国として連合軍の尻馬に乗ってインドネシアに戻ってきた。ニカの任務は日本占領前の状態に戻すことであった。オランダの論理によればインドネシアの独立宣言は日本占領中の日本のお膳立てであり、日本の敗戦により全ては白紙に帰しインドネシアの独立などは論外であった。

 オランダの批判をかわすために、そして何よりインドネシアの自尊心のためにも独立宣言に日本人は関与していないとインドネシアは主張してきた。しかし場所を提供した前田海軍少将(→313)が独立宣言の起草に立ち会っていたとの証言を西嶋重忠氏が述べているが、インドネシア側の関係者は断固として日本人の関与を否定している。インドネシア人だけによるインドネシア独立宣言の起草は“建国神話”である。 

 独立宣言に日本がどのように関与したかの議論には日本憲法に対するアメリカの関与の議論と似ているところがある。どちらも日本あるいはアメリカという外国が係わったという事実はあったであろう。しかしその後「外国の影響はなく自分達だけでやった」というのが国民のコンセンサスになったならばそれで十分であり、それをなおかつ詮索(せんさく)するのはお節介(せっかい)であろう。

注釈と資料-318 ⇒317.独立宣言の起草

319.45年世代

 独立宣言の発布に続き、翌18日の議会で憲法が制定され、大統領と副大統領にスカルノとハッタを選出した。一国の独立は国際的に認知を得てはじめて成立するものであるが、インドネシアの独立宣言は国際的には無視されたに等しかった。

 降伏した日本軍はビルマのラングーンに駐屯していた連合軍東南アジア方面総司令官マウントバッテン大将に呼びつけられてラングーン協定を結ばされた。協定により日本軍は連合軍の進駐が整うまでの治安維持の責任とともに所有兵器を完全に保持して連合軍に引き渡すこと、住民の独立援助や兵器引き渡しが厳禁された。

日本軍は連合軍の命令を下部に伝えたため、命令に忠実に従いインドネシア側からの武器引渡し要求に断固拒否したところでは襲われた。スマラン事件(次項)、トゥビン・ティンギ事件(→323)などで日本側に多くの犠牲者を出した。

 1945年8月15日の終戦以降の日本軍の犠牲者は2千人といわれる。この数字は日本軍が1942年にインドネシアを攻略した際の犠牲者を数倍上回る。

武器引渡しをめぐる軋轢(あつれき)の中ではスラバヤでは最も円滑であった。スラバヤには岩部少将の率いる陸軍の混成旅団と柴田中将の率いる海軍司令部があったが、両者の判断が日本とインドネシアの摩擦(注)を最小限にとどめた。⇒独立戦争の象徴・竹槍

10月に設立されたインドネシア共和国軍は武器もない、弾薬もない、食糧もない、医薬品もない、あるのは兵士の愛国心だけという軍隊であった。

 インドネシアは日本軍の武器は咽(のど)から手が出るほど欲しかった。日本軍は古くて使用に耐えない武器を廃棄すると称して、再組み立てが可能な程度に分解し、インドネシア側が回収しやすいような場所に故意に捨て、かなりの日本軍の武器が密かにインドネシア軍に流れた。この過程で日本軍からインドネシアに流れた武器は6万個といわれる。日本軍の使い古した武器でも貴重品であった。⇒独立戦争の兵士(絵画)

 武器もさることながらインドネシアに最も不足していたのは戦闘の指揮者である。ペタ(→309)出身者だけでは不足し、千名ともいわれる日本兵が戦闘指指揮者としてインドネシア軍に参加した(→359)といわれる。

⇒オランダの雑誌 

 独立を伝え聞いたインドネシア人の意気は高揚した。当時は「ムルデカ(MERDEKA)=独立」が市民の挨拶用語であった。当時のインドネシア人はオランダ復帰を阻止のため、戦闘に参加しなくても何らの形で独立戦争に関わった。独立戦争参加の国民の共有体験は後に「45年世代」という言葉を生み出した。

 主として1920年代生まれからなる45年世代は若年者に対し一目おかれる存在となり、インドネシア各界の人脈を形成していた。しかし何時までものさばる45年世代が時代の推移とともに弊害をももたらすようになり、その最たるものが1921年生まれのスハルト大統領であった。

釈と資料-319

320.スマラン事件

 中部ジャワ州スマラン市の旧跡の一つにブルー刑務所がある。場所は都心の一等地である。刑務所は支配者の権力と威厳を見せつける場であり、植民地行政の常として都心の中心が選ばれた。

 インドネシアではブルー刑務所は独立戦争の一つとしてスマランの戦いのあった所としているが、日本人には大勢の民間人犠牲者を出した痛恨の場所である。

 そもそもスマランはオランダ植民地時代から鉄道労働者を中心に社会主義者勢力の強い所であり“赤い都市”といわれていた。日本の敗戦によりインドネシアが独立宣言を発した当時のスマランは無秩序状態にあった。⇒青年の塔

 インドネシア側は来たるべきオランダとの戦いのための日本軍の持つ武器・弾薬を渇望した。武器の引き渡しをめぐるインドネシアと日本側の交渉は決裂し両者の関係は日々に悪化する中で、スマランでは1945年10月14日に事件が起きた。

日本側が武器引き渡しに応じなかったためインドネシア側は日本の軍人、軍属、民間人を捕えて人質にし、彼らを処刑すると脅し処刑にとりかかった。急の知らせに城戸部隊が出撃し刑務所を囲み、インドネシア民兵を打ち倒して刑務所に突入した。精鋭をいわれていた城戸部隊(注)としてはそれまで必死に耐えた隠忍自重が切れた瞬間であった。

 刑務所の中では既に民間人を含む日本人は一方的に虐殺されていた。殺されたばかりの牢獄の中は血の海であり血の臭いがたちこめ惨殺は凄惨(せいさん)を極めていた。

 民間人が殺されたから日本軍が出撃したのか、日本軍が出撃したから民間人が殺されたのか明らかでない。前者であるとしても犠牲者の数だけいうと日本側460名に対しインドネシア側は約2千人の犠牲を出していることを銘記しなければならない。

 スマラン事件には次の有名なエピソードがある。日本人の虐殺された牢獄の壁に血で書かれた文字があり、そこには片仮名で『バハギア・インドネシア・ムルデカ』と読めた。「Bahagia Indonesia Merdeka」の意味は【インドネシア独立万歳!】である。さらに「インドネシアの独立のために喜んで死す」と日本語で記されて「大君…」でこと切れていた。これを記したのは雪印乳業の阿部頌二である。

 この血書はインドネシア側、日本側の両者に胸うつ美談として語り伝えられた。スカルノ大統領の演説をはじめ幾つかの書に引用されている。この話の流布(るふ)は当時の混乱に両者が自制を取り戻す契機となる効果があった。⇒鎮魂の碑

 例年10月14日、スマランで行われる儀式には恩讐(おんしゅう)を超えて日本からの参加者も出席する。ジャワ海に注ぐ河口に北の日本の方角を臨み鎮魂碑が建立された。460名余りといわれる犠牲者にうち確認された188名の名前が刻まれている。
                                   注釈と資料-320 ⇒134.スマラン市


321.スラバヤ100日戦争

 日本の敗戦ともにどこかに潜んでいたオランダ人がスラバヤに現れ、大和(ヤマト)ホテルの屋上にオランダ国旗を翻えさせた。これを見たスラバヤの青年が屋上に登りインドネシア国旗に変えた(→296)。大和ホテルは市内有数の建物であり、植民地時代のオラニエ・ホテルであ
る。
 1945年10月26日、マラビィ(Mallaby)准将の率いる英国軍はスラバヤに上陸してきた。オランダが旧植民地へ直に復帰することにアメリカは反対(注)したらしい。そこで英国が連合軍代表として日本の占領を引き継ぎに来たものである。
戦傷の癒えないオランダは旧植民地に軍隊を本格的に派遣する余裕はなかったが、英国軍に紛れて兵を送り込んだ。⇒反オランダポスター

 インドネシアは英国軍はオランダ軍と一体と見なしていたので上陸した英国との間で小競合いが生じた。スラバヤのインドネシアの住民は日本軍からの兵器を手にしていた。停戦が話し合われ、10月30日、停戦協定調印5時間後に英軍のマラビィ准将は白昼に乗用車が爆破されて死んだ。暗殺事件の犯人は不明であるが、英国軍を巻き込むためのインドネシアの仕業に見せ掛けたオランダ側の謀略という説もある。

 英国軍は激怒してインドネシア側に犯人と武器の引き渡しを迫り、報復のためシンガポールから強力な兵団を投入した。しかしスラバヤ市民は断固として英軍の要求を拒否した。この際に「死か独立か(Mati atau Merdeka)」という独立インドネシアを風靡(ふうび)する言葉が生まれた。インドネシア政府もスラバヤ市民を制御できなかった。⇒「死か独立か」

 11月10日両軍は全面衝突する。ヤマト・ホテル、ジュンバタン・メラ(→141)など町の中央で市街戦となった。英国の犠牲は将軍2名、死傷者1000名に対してインドネシア側の死者は艦砲射撃、空襲で一般市民を含み、5千人から2万人といわれる。

 この戦いは「スラバヤ血の海戦争」あるいは「100日戦争」といわれる、100日とは独立宣言からの日数である。インドネシア独立戦争の開始を告げる戦闘としてブン・トモ(Bung Tomo)という英雄の名とともにインドネシア人が銘記している。スラバヤ戦争の意義はインドネシアの独立の要望は一部民族主義者のものでなく全インドネシア人の願望であることを世界に知らしめたことである。

 スラバヤには独立宣言を発しただけのジャカルタへの対抗意識もあったであろう。『アレアレ・スロボヨ(arek Suroboyo)』という言葉はスラバヤ戦争に参加した人の合言葉である。11月10日は英雄の日としてインドネシアの記念日である。同日、スラバヤでは勇敢に戦って亡くなった多くの青年を悼む儀式が厳粛に行われる。⇒ブントモ・スラバヤの英雄

タイやフィリッピンに抑留されていた旧蘭印軍の兵士がジャカルタに戻ってきた。首都は共和国派とオランダ派の武装対立から治安は乱れ、オランダ側の跳梁にインドネシア要人の安全さえも脅かされ、共和国は首都をジョグジャカルタ(→120)に移した。

注釈と資料-321 ⇒140.スラバヤ市 


322.バンドゥン火の海事件

(バンドン)

 西部ジャワのバンドゥンでは、連合軍は降伏した日本軍に何時までも治安維持を任せるわけにはいかないので、英国軍がバンドゥンに進駐し日本軍は御役御免になった。英国軍には旧植民地政府関係者や釈放されたオランダ人が同行していた。

日本軍から密かに得た武器で武装したインドネシア軍との勢力争いから町の中央を通る鉄道を境界にして北部を英国軍、南部をインドネシア軍がすみ分ける形で安定していた。


 平穏なバンドゥンの状況に対してスラバヤから"口紅"が送られた。独立戦争の火花を切ったスラバヤ(→321)の青年は意気軒昂にあふれていた。口紅の意味するところは「バンドゥン(スンダ)の女々しい諸君よ!、君らには武器よりも口紅が似合いだ」という奮起(ふんき)を求めるインドネシア流の叱咤激励(しったげきれい)である。

英国軍はバンドゥンを完全支配下にしてからオランダ軍に引き渡すために1946年3月、一斉攻撃を予告した。状況判断から戦闘を避けたインドネシア軍は、オランダ軍の兵站(へいたん)に使用されないため町に火を放って市の周辺に逃げ込んだ。⇒燃えるバンドゥン(絵画)

この事件は「バンドゥン火の海事件(Bandung Lautan Api)」としてインドネシア国民に銘記されている。第二国歌ともいうべき『ハローハローバンドゥン(→825)』はこの故事がテーマである。自国軍に火を放たれた焼け出された庶民は迷惑そのものであろうが、この行動は止むに止まれない愛国的戦略であったとしている。しかし徹底抗戦を行わなかったことの戦術としての不味さを指摘する声もある。

 バンドゥン火の海事件で後退した共和国軍であるが、その後は戦いを通して精鋭化する。後のレンヴィル協定(→329)の結果、根拠地の西ジャワのポケット地区に共和国軍3500名が取り残され、東の共和国地域に移動することになった。マホメットの故事にちなみ“聖遷”といわれる。艱難辛苦をへて後にインドネシア最強のシリワンギ師団になる。

⇒独立戦争の兵士

連合軍の代表として英国軍はジャワ島とスマトラ島に進駐した。東インドネシアはオーストラリア軍が担当した。インドから派遣の英国軍の兵はインド兵やグルカ兵(注)であった。インド兵はインドネシアの独立要求の理解者であり、兵舎を抜け出してインドネシア軍に参加するインド兵もいた。新生インドの指導者ネール首相はインド兵がオランダのためにインドネシア共和国相手に参戦することに激しく英国に抗議した。

第二次世界大戦後の米ソ冷戦の深刻化に伴い、ソ連がインドネシアの英国の行動を植民地帝国の復活として批判し始めた。英国自身がインドの独立問題を抱えている際にオランダのために犠牲を出し、国際的評判を落とすことは割りに合わなかった。

 リンガルジャティで休戦協定のおぜん立てを行い、英国はインドネシアからの撤退を急いだ。
オランダが英国に全面的に代わって乗り込んでからはインドネシア人の独立戦争は積年の怨念(おんねん)を伴い激しさをました。  

注釈と資料-322 ⇒107.バンドゥン市

323.スマトラ島の戦い

  日本軍はジャワ島のペタ(→309)と同様にスマトラ島にもインドネシア人からなる軍隊組織を設立した。スマトラ・ラスカル・ラキャット(スマトラ義勇軍)は日本の各部隊に分かれて5個所で編成され、スマトラ島全体の統一組織はなかった。新生国家の軍の中枢になるという意識はジャワ島と比べると弱く、戦争末期にスマトラ義勇軍の日本に対する不平・不満が嵩じており、日本軍の統制は破綻しかけていた。

日本敗戦による独立宣言後、ジャワ島からの情報がスマトラ島の青年を興奮させた。乱れ飛ぶ情報の中でスマトラ島では様々なグループが徒党を組んだ。彼らは日本軍に武器を求めて押しかけた。日本軍の中には呼応してインドネシア軍に身を投じる人(→359)もいた。


メダンの南方にトゥビン・ティンギ(Tebing Tinggi)という中都市がある。トゥビン・ティンギに駐在していた日本軍に地元の青年グループが武器の譲渡を迫った。抵抗を禁じられていた日本兵は武器を渡して丸腰になったが、日本兵60名は青年グループにその場で惨殺された。

 青年グループはさらに武器を求めて日本軍を襲ったが、隠忍自重を重ねてきた日本軍の堪忍の緒が切れて青年グループに反撃した。機関銃の威力にインドネシア側に多くの死者を出し事態は鎮静化した。
トゥビン・ティンギ事件はスマラン事件と同様に急進派に引きずられて生じた悲劇である。トゥビン・ティンギには記念碑がある。インドネシア独立のためにインドネシア人2000名と日本人が犠牲になったと記されている。 

⇒独立戦争(絵画)

 スマトラ島の独立戦争は民族解放運動のみならず社会革命の側面がある。独立戦争当時、メダンを中心とする東海岸州といわれた元スルタン領では人民統一戦線が組織され、旧体制のスルタンは権力も権威を失った。

 そもそもプランテーション(→502)の開拓以前はマレー人(→605)のスルタンがいたが、オランダの植民地体制はスルタン制の擁護によって東海岸州を統治してきた。スルタンが植民地体制と結託して土地使用の利権を手に経済的にめぐまれていたことへの反発があった。

 スルタンがムラユのマレー人であるのに対して、住民はバタック人(→607)などの移住してきた雑多の民族から構成されおり、しかも非ムスリムが多いことはスルタンへの尊敬度合いも薄れた。民族問題、宗教問題の背景も革命の要因であろう。

独立戦争において先鋭化した急進派によって社会革命の嵐が吹き荒れた。各地のスルタンは捕えられて処刑された。スルタンのみならずその一族の貴族も殺された。これの犠牲者の中にはアミル・ハムザ(→991)というスルタンの一族の詩人もいた。

 ジャワ島では民族主義者を擁して独立への道が用意されたが、スマトラ島では民族意識を発露する場も塞がれていたために突然の日本敗戦による無秩序がひどかった。

⇒地図(トゥビンティンギ)、

注釈と資料-323 ⇒088.新開地・デリ地方 


324.バリ島の戦い

 ジャワの民族主義者の影響を受けてオランダ植民地から解放されたいという願望は東インドネシアにも芽生えていた。日本の占領末期にスカルノは東インドネシアのマカッサル(→200)とバリ島にも遊説に回り歓迎された。しかしジャワ島やスマトラ島の盛り上がりと比べると東インドネシアのインドネシア独立への熱意はやや冷めていたのではないか。

 ジャワ島とスマトラ島を陸軍に、東インドネシアを海軍にと軍政を分担させた日本の巧妙な分断統治、民族主義運動に冷淡な海軍の統治下であった所為もあるが、もともと東インドネシアの民族、宗教の複雑な構成はインドネシア独立運動に収斂(しゅうれん)しにくかった。

 その中でバリ島で独立戦争を戦った英雄にグスティ・ングラ・ライ(Gusti Ngurah Rai)中佐がいる。デンパサール国際空港は彼の名にちなむ【ングラ・ライ空港】である。称号名(→642)から貴族である。1946年、ングラ・ライのオランダ軍に対するマルガ(Maruga)の戦いで同志94名は全員戦死した。ププタン(→173)を思わせる戦死であり、デンパサールやマルガには立派な記念碑が立てられている。⇒ングラ・ライ像写真

 しかし見方を変えればバリの独立戦争は彼らだけであり、あとに続く者がいなかったということである。しかもその同志のうち11名は元日本兵であった。このように独立戦争時のバリ島におけるオランダへの挑戦にもう一つ迫力がなかった。

⇒独立戦争記念碑

 インドネシア独立戦争の過程で追い詰められたオランダは《東インドネシア国》を設立しバリ島はそれに含められていた。その意図は《インドネシア共和国》の領域をジャワ島とスマトラ島に限定し、バリ島以東を切り離そうとするオランダの策謀である。

 1949年にインドネシア連邦共和国(→368)として独立で妥協した際にバリ島は東インドネシア国を代表した。その後インドネシア連邦内の雪崩(なだれ)現象で東インドネシア国も、1950年に主権を放棄してインドネシア共和国へ統合した。以来バリ島はインドネシア共和国の1州として今日に及んでいる。その間にアナック・アグン・ゲデ・アグンというバリ人政治家が活躍したが、スカルノ大統領の共産党傾斜の中で退けられた。

 これら一連の経緯においてインドネシア独立戦争に対するバリ島の冷ややかさが気になる。インドネシアに対してバリ島に何か違和感があるとすればそれは宗教である。バリ人にはインドネシアの独立戦争はジャワ島とスマトラ島のイスラム教徒の戦争でヒンドゥー教のバリ島は疎外されているという意識があったのでなかろうか。

 またカースト制(→642)という社会規範に慣れ親しんだバリ人にとって共和制はコンセプトして下剋上(げこくじょう)であり生理的に受け入れがたかったこともあろう。

 しかしバリ人にはマジャパヒト王国(→248)を引き継ぐジャワ文化の正統派という意識もある。
アイルランガ王(→333)もバリ島の出身である。ガジャ・マダ大臣(→335)もバリではバリ島生まれと信じられている。スカルノ大統領の母はバリ人である。バリ人はインドネシアの歴史に大きく係わっている。

注釈と資料-324

325.リンガルジャティ協定

 連合軍として進駐してきた英国はインドネシア人の抵抗を受けて犠牲者が続出した。また、英国軍にいるインド兵には独立を求めるインドネシアに同情する者が多かった。ネール首相がインド人兵のインドネシア派兵を非難した。このためできるだけ早くインドネシアから手を引きたかったのが英国の本音であった。

キーラン郷の斡旋で1946年11月にインドネシアとオランダの間でリンガルジャティ協定が合意された。リンガルジャティ(Linggarjati)とは交渉が行われたチルボン(→118)近くの保養地の名である。⇒リンガルジャティ交渉

 リンガルジャティ協定では《インドネシア共和国》の主権の及ぶ領土はスマトラ島、ジャワ(マドゥラ島を含む)島に限られていた。しかも共和国の上に《インドネシア連邦》が形成され、さらにその上に《オランダ・インドネシア連合王国》を作るというものである。インドネシア共和国はインドネシア連邦の一員(注1)でしかなかった。

 インドネシア側のシャフリル首相(→444)とオランダ側のファン・モーク(H.J.van Mook)の交渉によって合意されたが、両者とも国内の支持基盤が弱かった。⇒ファン・モーク

 協定に対してインドネシアでは愛国者を憤慨させたが、スカルノ大統領の支持により何とか批准をえた。シャフリル首相はインドネシア共和国の存在をオランダに認めさせ、対等で交渉の席に就かせたことに意義があると確信していた。しかしオランダへ譲歩しすぎであると国内での風当たりはきつく、首相辞任を余儀なくされた。

一方、オランダを代表したファン・モークはジャワ生まれで戦前は植民地政庁の副総督であった。共和国に妥協(注2)しつつオランダの権益を守ろうとした。しかしオランダ本国では共和国の存在を認知すること自体に抵抗があった。労働党政権から保守的なキリスト教政党政権に代わり、モークの立場を困難にした。協定の批准は得られたものの権限を越える妥協をしたと非難され、以後の協定の実施には強硬姿勢を打ち出しインドネシア側を硬化させた。

 オランダはリンガルジャティ協定を評価する度量にかけていたため、インドネシアを追い詰め結果的にすべてを失った。もしオランダが誠意をもって協定を実施しても、結果として今日のような形でインドネシアは独立したであろうが、英国がインドの独立を受け入れたたような名誉ある撤退は得たであろう。オランダは独立戦争間における唯一の機会を逃した。ファン・モークとリンガルジャティ協定がオランダで再評価されるのははるか後年のことである。

イギリスはインドの独立問題を抱えており、いつまでもインドネシアにかまっている余裕はなく、協定締結後、早々とインドネシアを撤退した。その後へオランダは本国から兵を送り込んできた。リンガルジャティ協定の細目について合意ができない間にオランダ側が仕掛けて1947年7月から警察行動(注3)を起こし、主要都市、スマトラ島の農園、油田を占領した。オランダは自ら泥沼にのめり込んだ。

注釈と資料-325 ⇒376.シャフリル体制 

326.マディウンの内戦

 オランダの警察行動という名目の軍事行動に対して国連からの批判が高まり、アメリカの斡旋によりレンヴィル停戦協定が締結された。戦闘が小休止の間にインドネシアでは権力抗争に明け暮れている折にムソ(注)がソ連から帰国して共産党が勢力を伸ばしてきた。

 1948年9月18 日深夜、東ジャワのマディウン(Madiun)に駐屯していた左翼に影響された人民民主戦線派のダフラン中佐指揮の第 29 旅団が権力の奪取を計り、「インドネシア・ソヴィエト共和国」の樹立を宣言した。⇒共産主義者ムソ

人民民主戦線は前首相シャリフディン(→376)が同年 2 月に結成した組織で,共産党,社会党などが中核であった。マディウンにはスパルディを首席とするシャリフディン派の政権がつくられ、中部・東部ジャワの各都市にその動きが広がり、ジョグジャカルタのインドネシア共和国と対立し内戦となった。

スカルノ大統領は共産党による共和国転覆の企てとして、ラジオで国民に《ムソ=共産党》と《スカルノ・ハッタ=共和国》の二者択一を国民に迫り、中央政府への軍民の支持を呼びかけた。

軍主流は反共産党であったことから共和国は断固たる姿勢でマディウンの反乱軍を鎮圧し反乱は平定された。共産党の最高指導者ムソに内通していたシャリフディン元首相は逮捕されて処刑された。⇒シャリフディン元首相

1947 年のコミンフォルムの成立とともに打ち出されたジダーノフの「二つの陣営論」によれば、インドネシアはベトナムとともに社会主義平和戦線の一員として位置づけられていた。反中央政府のクーデータ暴発はコミンテルンの教唆(きょうさ)であった。ソ連輸出の革命はインドネシアで失敗したが、混乱時で共産党の処分がうやむやにされたことが、後に共産党がカムバックして、1965年の9月30日事件(→384)にまで行き着く要因になった。

 インドネシアで共産党は革命勢力であったが民族政党でなかった。インドネシア民族よりも国際的な指示に忠実な共産党の勝手な行動は植民地時代にもインドネシア民族政党の足を引っ張った前歴(→288)がある。9月30日事件を契機とするインドネシアでの共産党の完膚なきまでの撲滅には共産党の度重なる前科を斟酌しなければならない。

 独立戦争の最中にインドネシア共和国は対オランダのみならず対共産党の内戦で苦しんだが、共産党に断固たる姿勢を貫くことはアメリカをしてインドネシア支持に向かわせ、インドネシア独立が認知される国際的背景となった。しかしマディウン事件による共和国内の武力闘争は共和国の軍事力低下を招きオランダに付け込まれた。

 1948年12月18日、オランダはレンヴィル協定の破棄を通告して第二次警察行動と呼ばれる軍事行動を展開した。12月19日、オランダは空挺部隊を動員してジョグジャカルタ飛行場を襲って占拠した。直ちに市内の要所を急襲してスカルノ大統領、ハッタ副大統領と外務大臣を逮
捕し、共和国の首都ジョグジャカルタはオランダに占領された。

注釈と資料-326 ⇒381.共産党の跋扈


327.ジョグジャの戦い

 レンヴィル協定の一方的破棄によるオランダの実力行使を予想していたインドネシア側は非常時に備えてスマトラ島に臨時内閣を組織する権限の委譲準備をしておいた。従ってオランダに急襲されて共和国首脳が逮捕されるや、直ちにスマトラ島でシャフルディン・プラウィラヌガラの率いる共和国臨時政府(→098)が名乗りをあげた。

 オランダの目論見に反してインドネシア独立戦争の“モグラたたき”にも似た抵抗は止むことはなかった。

 ジョグジャを追われた共和国軍のゲリラ戦による抵抗は高まった。オランダの武力の前に装備の劣る共和国軍はちりちりばらばらになって山岳地帯に逃げ込み、居所を眩(くら)ますため点々と村から村へ移動した。共和国に共感し食料を補給し兵が十分に休息できる村ばかりではない。中にはオランダあるいはダルル・イスラム(→332)に通じている村もあった。夜半に移動する逃避行もあった。⇒独立戦争記念碑(マラン)

 題名の記憶はないが共和国軍の逃避行の映画で兵の家族が鍋と食料をもって行進についていくシーンには戦前映画の名作『モロッコ』を思い出した。白人女性がインドネシア軍に参加していたのも何かの事実があるのだろう。

 スディルマン将軍は結核の容態が悪化し、担架にかつがれて運ばれた。中国の"長征"に準えられるインドネシア国軍の逃避行であった。後に45年世代(→319)という用語は独立戦争の苦しさを共有する世代の連帯感であった。

 オランダは共和国の首脳を逮捕し首都も支配している以上、インドネシア共和国なるものは現実問題として存在しないと世界に吹聴(ふいちょう)した。したがって共和国軍としては何とかオランダに一泡ふかせて共和国の健在を内外に示めさねばならない。このような状況でジョクジャ攻撃の作戦が行なわれた。⇒ジョクジャの戦い ⇒独立戦争記念碑

 第二代大統領のスハルトは独立戦争当時ジョクジャの守備隊司令官であったが、オランダにジョクジャを追われて貧村のビビスに司令部を設けていた。農民に身をやつしジョクジャのクラトン(→121)を訪れ、時のスルタンのハムンクブウォノ9世(→445)と連絡を保ち、攻撃準備を行った。スハルトはもともとが地元の農民の子であるだけに自然体でよかったはずだ。

 1949年3月1日(注)、スハルトの率いる部隊はジョクジャカルタを襲い市の中心部を6時間も占領した。スハルトが大統領在任時に『暁の攻撃(Serangan Fajar)』という映画が作られた。これによればスハルト中佐がすべてを取りしきったように格好よく描かれすぎているので当時の実情を知る軍人が苦笑したらしい。

2001年に日本映画『ムルデカ』が公開された。ペタ(→309)の教官がインドネシア人とともに独立戦争に身を挺するストリーである。ハイライトはジョクジャの戦闘で主人公は死ぬ。日本人が見ればそれなりに楽しめるが、ジョクジャの戦における日本人の貢献は史実から無理があるためインドネシアではさんざんの不評であった。

注釈と資料-327

328.スディルマン将軍

 日本の軍政監部が仕掛けた郷土防衛義勇軍ペタ(→309)の計画が発表されるやジャワの青年は意気を感じて応募した。日本の胡散(うさん)臭い意図は予感してもジャワ人自らの軍隊は魅力的であった。イスラム教学校のキヤイ(→870)であったスディルマン(Sudirman 1915-50)は指導者になりうる人という推薦によって幹部候補の教育を受けてペタ発足と同時にバニュマス(現在の西部ジャワ)州第三大団の大団長になった。

 スディルマンは相手はオランダであると深く期するところがあったらしい。ペタに失望したブリタルの反乱事件(→310)に続き、バニュマスでも1945年6月にグミリル事件というペタに不満を持つ分子の脱走にもスディルマンは動じなかった。

 日本軍人と衝突することが多く、ジャワ防衛組織の再編に異議を唱えそうな危険分子と見られ、教育を口実にボゴールへ送られている間に終戦となった。彼が帰団してみると兵器を返納してペタが解散されていたので烈火のごとく怒ったと伝えられる。彼は日本軍との交渉により武器を入手し来るべき時に備えた。

 独立宣言を発した共和国はオランダとの戦いが始まった。1945年10月に共和国軍が設立され、初代の国軍司令官はブリタルの反乱の首謀者であるスプリアディが選出された。彼の生死は不明であったので名誉称号である。

 各地に自然発生した独立のための軍組織は共和国軍として一元化され、各地代表の互選でスディルマンが実質の初代国軍司令官に就任した。人望があったのは事実であるが、軍の中央会議を開催しても物理的に集まることが可能であったのはジャワ島西部と中部の代表しかいなかったという事情もある。⇒スディルマン ⇒スディルマン将軍像(絵画)

 ペタの訓練はジャワ人の精神力を強化した。“共戦共死(Sehidup Semati)”をいっていた日本軍人は「天皇陛下の命令により」を口実に豹変(ひょうへん)した。しかしこの精神力は新生インドネシア軍の独立戦争に引き継がれた。

 オランダの第二次警察行動によってジョグジャが占領された時、将軍は結核に冒され病床にあった。しかし国難に病身をおして指揮を継続した。担架で運ばれながらゲリラ活動を指揮してオランダの補給線を翻弄(ほんろう)した。スディルマン将軍の率いる共和国軍のたどった道筋はスディルマン将軍のゲリラ・ルートとして知られる。

 1949年7月停戦に応じることになり将軍は共和国首都ジョグジャに凱旋した。独立交渉は難航したが12月27日に発効し、オランダはインドネシアの独立を認めた。スディルマン将軍がゲリラ戦で酷使した身体で息を引き取ったのはそれから間もない一月後であった。

 34歳の生涯は「パ・スディルマン」として親しみをこめてインドネシア国民に記憶されている。
首都ジャカルタのスディルマン通(→160)にその名を残している。

 スハルト大統領はジョグジャの戦いを描いた映画『暁の攻撃』においてもスディルマン将軍との関係を強調している。大統領室に描かれたスディルマン将軍の肖像画の脇にはスハルトがいた。

注釈と資料-328

329.オランダの孤立化

 インドネシア独立をめぐる当時の国際関係ではシャフリル(→376)の外交努力によりインドネシア独立問題は国連でとりあげられるようになった。オランダの第一次警察行動という軍事行動をうけ、1947年の国連決議に基づき調停委員会が組織された。その立会の下でアメリカの戦艦レンヴィル号の上で1948年1月に締結されたのが「レンヴィル(Renville)協定」である。

 インドネシア独立問題の実態が明らかになるにつれ、国際世論はヨーロッパの植民地宗主国に対して厳しくなった。国連は新しい理念の下に民族自決を掲げ、独立して新たな加盟国となった諸国は挙ってインドネシアを支持した。

 英国から独立したばかりのインドはインドネシアの米不足を知り米を送ってきた。オランダ海軍が牽制するも輸送を阻止できなかった。

 当時のオーストラリアは白豪主義を堅持しアジアとは異質の国であった。しかし英国の植民地から独立したという経緯からインドネシアの独立運動に共感があった。オーストラリアの港湾労働者はオランダ船舶の荷役拒否ストライキを行ってインドネシアを支援した。第二次世界大戦においてオーストラリアは連合軍としてインドネシアでの戦闘に参加した。日本のインドネシア占領の間は蘭印亡命政府はオーストラリアに間借りしていた。オランダの後援者であったはずのオーストラリアまでがオランダを批判した。⇒スカルノ大統領の拘禁

オランダは第二次警察行動と称して、1948年12月19日、空挺部隊でジョグジャを急襲しスカルノ大統領以下独立国の首脳を拘禁し一挙に問題解決を図ろうとした。国際世論を逆なでするやり方は裏目に出、1949年1月国連ではオランダ非難決議が採択された。

個々の戦闘では優位であるにもかかわらず、オランダがインドネシア独立を受け入れざるを得なかった直接の動機はアメリカの圧力である。第二次警察行動はレンヴィル協定の実施についてアメリカがジャカルタとジョグジャカルタを往還中の出来事であったためアメリカの面子を潰す行為であった。

 アメリカはオランダに対してインドネシア独立を容認しない場合はマーシャル・プランの取り消しを宣告した。第二次世界大戦の戦勝国側であっても戦傷痕の深いオランダはアメリカのドルの援助なしには復興はありえなかった。⇒スカルノ大統領の凱旋

当時の世界情勢はアメリカの自由主義陣営とソ連の共産主義陣営が真っ向から対立していた。アメリカのインドネシア支持はインドネシアの独立運動が共産主義陣営に取り込まれないようにという戦略的判断もあり、必ずしも民族自決、植民地解放という大義だけではなかった。

1949年2月、オランダは国連を舞台とする国際世論に屈し共和国との交渉に同意した。5月、ルム・ロイエン(Roem-Royen)協定により停戦が合意され、スカルノ大統領はトバ湖畔のプラパットから移されてバンカ島(→104)に軟禁されていたが、7月に歓呼の声に迎えられてジョグジャカルタに戻った。

注釈と資料-329 ⇒468.オランダとの外交



330.ハーグ円卓協定

 1949年8月23日から11月2日までオランダのハーグで行われた交渉でオランダはようやくインドネシア独立を認めた。交渉当事者はインドネシア共和国代表ハッタ副大統領のみならずその他の連邦構成国も参加し、西カリマンタンのスルタン・ハミッド2世(注1)がその他連邦構成国の代表を務めた。⇒ハーグ協定の調印 ⇒ハーグ協定

 連邦制は当初からのオランダの主張であり休戦条約の条件であった。オランダの意図はインドネシア共和国をジョグジャカルタ周辺の地方政権扱いにすることであった。インドネシア共和国以外はオランダが急いで造った傀儡(かいらい)政権であったが、内心は共和国に賛同している者も多かった。彼らは円卓会議においてインドネシア共和国の主張に耳を傾け、1年後に連邦制から単一共和国になる種は播かれていた。

 1949年12月27日にハーグ円卓協定は発効し、この日ジャカルタの東インド総督邸のオランダ旗は降ろされ、インドネシア国旗のメラプティ(→296)が掲揚された。スカルノ大統領がジョグジャカルタから引越ししてきたが、現在の大統領官邸である総督邸の中は見事に空であった、と新居住者があきれていた。

 ハーグ協定で積み残した課題はニューギニア島西半分であるイリアンの帰属問題(→432)である。インドネシア連邦の主権はイリアンが除かれており、継続協議事項となった。後に再開された交渉でも破談してイリアン解放問題は武力衝突直前にまでいった。

 その他の難航事項は蘭印軍の解体とインドネシア人兵士のインドネシア国軍への受入であった。蘭印軍に参加していたアンボン兵は南マルク共和国(次項)の発足を知り、インドネシア軍への参入を拒んだため行き先がなくなり、とりあえずオランダに一時移住(→692)した。

 インドネシアは東インド政庁の債務をそのまま引き継いだ。ハーグ協定時点では旧植民地のオランダ資産は保護されており、オランダ資産がインドネシアに没収(→475)されたのは後にイリアン帰属問題がこじれた際である。⇒オランダ軍兵士の墓地(スラバヤ)

 ハーグ協定によりインドネシアは《インドネシア連邦共和国》として発足した。《インドネシア共和国》の領域はジャワ島とスマトラ島の共和国軍の支配している地域に限られていた。しかしインドネシア連邦共和国の代表者はインドネシア共和国のスカルノ大統領であった。

 連邦を構成する16カ国と地域(注2)はインドネシア共和国、東インドネシア国、パスンダン国、東ジャワ国、マドゥラ国、東スマトラ国、南スマトラ国の7カ国と中ジャワ、バンカ、ブリトゥン、リアウ、西カリマンタン、大ダヤク、バンジャル、東南カリマンタン、東カリマンタンの9の地域である。

 連邦制でオランダが形だけは確保したが、実を取ったのはインドネシアである。その証拠は、連邦を構成する各々の共和国が主権をインドネシア共和国に委譲したため翌年にはインドネシア連邦は解体しインドネシア共和国に一本化された。インドネシア共和国を連邦の一つに閉じ込めようとするオランダの目論見は潰(つい)えた。

注釈と資料-330