読んでおいたほうがいい頂門の一針メルマガ記事
満座の中で恥をかかされた鳩山首相もはや「ガン」か
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花岡 信昭
*政治大国になろうとしなかったツケが噴出
ワシントンで開かれた核安全保障サミットは、日米同盟関係の冷却化と日本の国際的地位の低下をもろに証明するものとなった。
その背景にあるのが、周知の通り、米軍普天間基地の移設問題をめぐる鳩山政権の迷走だ。
鳩山首相は自らの不用意な対応が招いた「普天間危機」によって、その政治生命を断たれようとしているかに見える。
47カ国首脳が参加したハイレベルの国際会議となったが、全員の記念写真が日本の置かれた地位を象徴している。4列に並んで写真におさまったのだが、鳩山首相は3列目の右端である。
日本はG8サミット(主要国首脳会議)のメンバーでありながら、こうした核をめぐる安全保障という舞台では、中央に位置することができないのである。
世界第2の経済大国という立場は、中国にGDP(国内総生産)で追い抜かれたばかりか、トヨタがアメリカで狙い打ちされるという国際戦略の脆弱さを見せつけ、すっかり影が薄れてしまった。
筆者はトヨタ問題について車の技術的欠陥といった問題ではなく、追い落としの策謀だと考えている。機敏に対処できなかった官民あげての対応の稚拙さを反省すべきだろう。
経済大国の座が揺らぎ、一方で、政治大国にはなろうとしてこなかったツケが一気にここで噴出したといっていい。
*日米会談はわずか10分、米中会談の9分の1
オバマ大統領は13カ国首脳との正式会談を行った。
中国とは予定時間を大幅に超えて90分間の会談となった。鳩山首相とは夕食会の冒頭、10分間だけの非公式「会談」にかろうじて応じただけだ。
オバマ大統領が「みなさん、食事をはじめていてください」と声をかけ、隣席の鳩山首相のほうへ向きなおって言葉を交わした。
米側の精いっぱいの配慮という見方もあるが、これは満座の中で恥をかかされたようなものだ。
「会談」で普天間の話がどこまで出たかははっきりしない。米側の発表でも「普天間」の固有名詞はなかった。
鳩山首相は「5月末決着」を公約としてきたが、ここにいたっては、事実上、断念せざるをえないだろう。
首相周辺からは「決着というのは、ある方向を決め、それに沿って米側との協議を続けていくこと」といった言い訳がましい声も聞こえてくる。
これでは決着ではなく、ごまかしだ。
昨年2月のできごとを思い出している。
非公式な話だから、あまり外部では明らかにしてこなかったのだが、鳩山政権の本質を知るには参考になるかと思う。こういう状況にいたっているのだから、もう時効だろうと勝手に判断した。
*民主党政権誕生に向けた経済人主催の会合で……
ある経済人から声がかかった。「このままいけば、民主党政権が誕生する。そのとき、どういう内外政策が必要か、多方面から集まって議論する場をつくりたい」という。
そういう機会もおもしろいかなと思い、第1回の会合に参加した。会場は国会裏手の十全ビル。鳩山事務所のあるビルの会議室である。
ちょっと早めに着いてしまったので、1階の喫茶店で時間をつぶしていたら、そこへ田岡俊次氏が入ってきた。朝日新聞出身の著名な軍事ジャーナリストである。筆者よりも5歳ほど年長だ。
「あれ、田岡さんも呼ばれたの。何をどう話し合おうというんだろうね」
「なんだか、よく分からないなあ」などと、双方とも首をひねった。
田岡氏は朝日の社会部出身で、建設談合のスクープなどその取材力には定評があった。
筆者は産経新聞出身だが、朝日と産経は基本路線が違うものの、現場の記者同士がいがみ合っているわけではない。筆者も朝日に友人知己は多い。
田岡氏は「朝日新聞初の軍事専門記者」を目指してきたそうで、かつて防衛庁(現在の防衛省)詰めとして、ご一緒したこともある。
*元朝日記者の田岡俊次氏は防衛庁担当時の・・・
その当時のビッグニュースとして思い出すのが、1983年9月の大韓航空機撃墜事件である。
慣性航法装置の入力ミスにより、大韓機がソ連(当時)領空に入りこんでしまい、サハリン沖でソ連空軍機に撃墜された。
このとき、田岡氏も筆者も防衛庁を担当していた。夕刊の締め切りぎりぎりのきわどい時間帯であった。「サハリンに着陸」という外電ニュースが入り、どこの夕刊も「よかった、よかった」という雰囲気の紙面で
あった。
その中で、かろうじて朝日と産経が「撃墜されたという情報もある」と触れた。朝日はもちろん田岡氏の取材によるのだろうと思う。しばらくして、田岡氏に確認し否定されなかったことを覚えている。
産経は防衛庁にやたら強い先輩記者がいて、この人が自宅にいながら核心情報をつかんだ。筆者はこの先輩が社に一報を入れる直前に「サハリン着陸は間違いかもしれない。空幕のようすがどうもおかしい」とデスクに電話を入れていて、なんとか記者クラブ担当の面目を保った。
後で聞くと、このデスクは筆者の電話が事前にあったため、その先輩の情報の精度を確信して製作工場に走り(当時は鉛の活字を使うアナログ時代で、編集局と製作局が隣接した位置にあった)、製作担当者に口で言いながら記事のリード部分を修正したという。
余計な話になるが、フリージャーナリストの上杉隆氏らが記者クラブの横並び体質を批判している。同じ記者クラブにいても、こういうスクープ合戦が行われているのだということを知ってほしいものだ。
*鳩山氏が何を求めているのか判然としなかった
で、鳩山事務所会議室での初会合には、30人ほどが集まった。リベラル系の政治学者などもいたが、ほとんどが企業関係者であった。
初回なので、各自が短時間、話をしろというので、筆者は、「田岡氏と外交、安全保障問題を議論するのは結構だが、路線の違いは明白で(田岡氏は対米追随批判派、筆者は日米同盟重視派といえた)、いくら話し合ってもかみ合わないと思う。それでいいのかどうか」といった提起をした。
途中で休憩が入ったので、鳩山氏に「そういうことですから……」と、考えを聞こうと声をかけたのだが、ぐっとこちらをにらみつけているだけで、何も言わなかった。
初回会合が終わって、近くの中華料理店に場所を移し、会費制で懇親会も行ったが、筆者の提起に対して、だれからも話はなかった。
その後、この会合に出るのはやめた。出席すると数時間も拘束されるので時間の調整がつかなかったこともさることながら、鳩山氏が何を求めているのか判然としなかったためだ。
いま考えると、両論併記でもいいから、日米同盟や外交・安全保障の基軸となるべき考え方をまとめるべく、無理をしてでも出席していたほうがよかったかなとも思う。
もっとも、「友愛」を先頭に押し立てたのでは、現実的な外交・安保政策は確立しようがない。外交とは、手で握手しながら、足でけり上げるといったたぐいの権謀術数の世界だ。
鳩山首相のそうした「あやうさ」は政権発足当時から指摘されていたのだが、やはりその通りになった。
*米「サギ」、中「カモ」、日「ガン」、その鳥の正体は?
普天間移設問題では、すでに4年前に日米間で名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部にV字型滑走路をつくるという合意ができている。
鳩山首相は政治的な巧みさを見せようとしたら、「不本意ではあるが日米合意ができている。国家間の合意なのでこれを踏襲せざるを得ない」という態度を取るべきであった。
これが政治の知恵というものだ。
それが「沖縄県民のみなさまのお声を踏まえて」とやったものだから、20年前の状況に戻ってしまった。移設受け入れを容認していた名護市では反対派の市長が誕生した。
その後の迷走ぶりはもう言葉にならない。キャンプ・シュワブ陸上部への移設案、ホワイトビーチ沖埋め立て案、さらには徳之島などへの分散移転など、さまざまな移設案が飛び交った。
鳩山首相は「トラスト・ミー」とオバマ大統領に明言し、「腹案がある」と大ミエを切った。現地に自ら乗り込んで説得するといった場面はなかった。
永田町にはざれ歌が流行している。バージョンはいくつもあるが「永田町には奇怪な鳥がいる」というものだ。
この鳥はアメリカには「サギ」、中国には「カモ」と見られているが、本人は「ハト」だと言っているものの、日本人には「ガン」として受け取られている、といった内容だ。
半年前の衆院総選挙圧勝がウソに思えるほど、悪しざまに言われる首相となってしまった。
自民党内には「追い詰められて、やぶれかぶれの衆院解散に打って出ないともかぎらない」と衆参ダブル選挙を懸念する声が急浮上している。
<<永田町の奇怪な鳥、バージョンはいくつも>>
永田町に奇怪な鳥がいる、というざれ歌が流行している。いくつものバージョンがあって、製作者は不明だ。
要は「ハト」の鳩山首相は、「サギ」や「カモ」ではないかとあちこちで言われているが、結論としては「ガン」である、といった内容である。
出所はどこか、あちこち調べてみたら、日本財団の笹川陽平会長のブログに「決定版」が出ていた。なんと19種類の鳥が登場する。
以下がその「決定版」。
なるほど、この種の小話は笑いの裏側に奥深さがある。 笹川会長、勝手に引用させていただきます。すみません。
決定版 永田町を舞う「謎の鳥」
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/2360
日本には謎の鳥がいる。
正体はよく分からない。
中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。
「カッコウ」だけは一人前に付けようとするが、
お「フクロウ」さんに、「タカ」っているらしい。
それでいて、約束したら「ウソ」に見え、
身体検査をしたら「カラス」のようにまっ黒、
疑惑には口を「ツグミ」、
釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、
実際は「ヌエ(鵺)」のようだ。
頭の中身は「シジュウガラ」、
実際は単なる鵜飼いの「ウ」。
「キジ」にもなる「トキ」の人だが、
私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。
【日経BPネット拙稿・時評コラム「我々の国家はどこに向かっている
のか」14日更新分】再掲載
★★花岡信昭メールマガジン789号【2010・4・19】★★(転載許諾済み)
野武士集団とお公家さんの知恵較べ
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古澤 襄
田中角栄氏が由起夫・邦夫の父親・鳩山威一郎氏を口説いた台詞(せりふ)は「田中軍団は野武士の集団。上品なお公家さんがいない」だった。
角栄氏の愛弟子・小沢一郎氏が鳩山由紀夫氏を首相に担いだのは、角栄DNAを思わせる。
しかし、このお公家さんは飛んだ見込み違い。方向音痴の宇宙人で、おまけにお喋り放題男だから問題が続出。せっかく参院選と総選挙で勝利して民主党政権を作ったのに、半年で政権基盤がガタガタになってしまった。
やはり柄は悪くても野武士集団のパワーを失っては政権維持ができないと小沢氏は思っているに違いない。気楽なお公家さんにはホトホト手を焼いている。
今の小沢グループは若い野武士と老練な侍大将を取りそろえ、くのいち女軍団もいる。小沢氏にとっては”虎の子”の戦闘集団である。お公家さんを下ろして、出来れば若大将を先頭にして、一勝負する気になったとしても不思議ではない。
ところが一度、総理官邸の主となったお公家さんは、首相専用機で夫婦同伴の世界外交、九月にはモスクワ訪問を早々と予約した。総理公邸の風呂場も改築して、引っ越しする気などはサラサラない。したたかなのは、お公家さんの方かもしれぬ。
一方、自民党の方も正真正銘のお公家さん・谷垣禎一氏が大将。品がよいのは宏池会の伝統だが、無類の戦(いくさ)下手。宏池会で野武士といえば古賀誠氏ぐらいだったが今は老将。昔日の面影がない。
だが、お公家さんを甘くみてはいけない。手練手管、権謀術策では単純明快・単細胞の野武士よりも遙かに上回る。自民党のお公家さん集団の方は内部分裂を繰り返しているから、野武士軍団が一斉に突撃すれば、蜘蛛の子を散らすように「メルト・ダウン(消え去る)」すると小沢氏は高をくくっているのだが、身内のお公家さんの方はそうは問屋がおろさない。
お公家さん首相は16日は国会見学に訪れた地元・北海道の後援者に対し、普天間問題について「結論を出します。どうせできないだろうとメディアが書いていますが、心配なさらないで結構。信じてください」と
声を枯らして訴えた。
「絶対に負けない」という言葉は真剣そのもの。「トラスト・ミイ(信じて)」を後援者に言ったことになる。
普天間移設が未決着の場合でも、お公家さん首相は引き続き政権にとどまる意向とみえる。「信じて」と言いながら決着先送りするのは、お手のもの。野武士の頭領とお公家さん首相の知恵較べは、どちらに軍配があがるのだろうか。
2010.04.19 Monday name : kajikablog
━━━━━━━
官房長官の吉凶
━━━━━━━
渡部 亮次郎
田中角栄が逃げたたった一つのポストが「官房長官」だった。このポストのこなし方は、それくらい難しいし、場合によっては、その政権の命運を左右するし、自身の政治家としての将来を決する。
<新党大地の鈴木宗男代表は18日、神奈川県藤沢市内で講演し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「鳩山由紀夫首相が5月末に決めると言ってるんだから、首相に任せたほうがいい。官房長官が『5月末は難しい』などと暗い顔して言ったらダメだ」と述べ、平野博文官房長官の姿勢を批判した。
社民党の阿部知子政審会長も同じ講演会で、普天間問題をめぐる平野氏の対応について「優しさとか、粉骨砕身して沖縄の問題に答えを出していこうという姿勢が感じられない。沖縄の人と心底ひざを交えて話す勇気と気概がない」と痛烈に批判した。(産経)>
平野長官を斬って延命を図る鳩山首相という場面、無きにしも非ず。
<鳩山内閣の支持率低下は鳩山氏自身の迷走が原因だが、それに輪をかけて側近の平野官房長官の無能ぶりがあるという。「平野A級戦犯説」すら取り沙汰されている。>と2010.04.19 Monday name : kajikablog
(古澤 襄)
田中が逃げたのは、親分佐藤栄作が政権を握っている時代。佐藤は田中の手綱を引き締めないと、暴れ馬になり、自分の後継に福田赳夫を据えられなく恐れがあると判断。官房長官にして手許で監視しようと考えた。
既に佐藤の後継者として、福田と戦うことを決意していた田中はあらゆる策略を用いて官房長官構想を潰した。佐藤の逆鱗に触れたわけだから一時は無役にされた。ライバル福田は喝采した。そこがこの政治家の弱点である。
野に放たれた田中は佐藤派は勿論、各派に亘って多数派工作に専念、佐藤の知らぬところで党内の多数を制してしまった。対して福田は「上善水の如し」と嘯き、なんら工作をしなかった。多数派工作をすれば佐藤の自尊心を傷つけると判断したのである。
結果は田中の圧勝。福田は下野せざるを得なかった。私はNHKで福田番だったが、なぜか田中内閣の官邸クラブにサブ・キャップとして入れられた。
官邸クラブを離れて数年後、「友人」園田直(すなお)から相談をかけられた。「福田内閣がやっと出来る、何大臣をやったらいいか」
「そりゃ内閣官房長官しかないでしょう。内閣を握りながら次期首相の大平と緊密な連絡がとれるポストといったらここしかない」「やはりそうか、じゃ決めた」で別れた。
福田は官房長官には安倍晋太郎を考えていた。晋太郎の岳父岸 信介は福田の親分でもある。その岸から予て「注文」があったのだ。
園田はそれを先刻承知。さっさと塩川正十郎を副長官に連れて官房長官室を「占拠」。
何しろ福田にとって園田は政敵田中角栄と話をつけてきた「恩人」である。やんちゃな園田の態度を認めるしかなかった。昭和51(1976)年12月24日のことだった。
「官房長官を安倍に」と言う岸の要求は激しかった。福田は1年後の11月28日に内閣改造を行なったが、園田を斬るわけには行かず、たった一人残留させ、閣内ナンバー2たる外務大臣に横滑りさせた。
園田は胸中の怒りを抑えながら、「密約」に従い、この一年後に大平政権を樹立する事に精力を傾注しながら、田中政権以来、政府の懸案である日中平和友好条約の締結に全力を傾けた。このとき秘書官は NHK国際局副部長から招かれた不肖私であった。
園田は官房長官として、次期首班を約束されている幹事長大平に対して福田の任期を1年延長する交渉を続け、ほぼ了解を取り付ける寸前まで行っていた。首相にはまだ報告できる状況ではなかったが。
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花岡 信昭
*政治大国になろうとしなかったツケが噴出
ワシントンで開かれた核安全保障サミットは、日米同盟関係の冷却化と日本の国際的地位の低下をもろに証明するものとなった。
その背景にあるのが、周知の通り、米軍普天間基地の移設問題をめぐる鳩山政権の迷走だ。
鳩山首相は自らの不用意な対応が招いた「普天間危機」によって、その政治生命を断たれようとしているかに見える。
47カ国首脳が参加したハイレベルの国際会議となったが、全員の記念写真が日本の置かれた地位を象徴している。4列に並んで写真におさまったのだが、鳩山首相は3列目の右端である。
日本はG8サミット(主要国首脳会議)のメンバーでありながら、こうした核をめぐる安全保障という舞台では、中央に位置することができないのである。
世界第2の経済大国という立場は、中国にGDP(国内総生産)で追い抜かれたばかりか、トヨタがアメリカで狙い打ちされるという国際戦略の脆弱さを見せつけ、すっかり影が薄れてしまった。
筆者はトヨタ問題について車の技術的欠陥といった問題ではなく、追い落としの策謀だと考えている。機敏に対処できなかった官民あげての対応の稚拙さを反省すべきだろう。
経済大国の座が揺らぎ、一方で、政治大国にはなろうとしてこなかったツケが一気にここで噴出したといっていい。
*日米会談はわずか10分、米中会談の9分の1
オバマ大統領は13カ国首脳との正式会談を行った。
中国とは予定時間を大幅に超えて90分間の会談となった。鳩山首相とは夕食会の冒頭、10分間だけの非公式「会談」にかろうじて応じただけだ。
オバマ大統領が「みなさん、食事をはじめていてください」と声をかけ、隣席の鳩山首相のほうへ向きなおって言葉を交わした。
米側の精いっぱいの配慮という見方もあるが、これは満座の中で恥をかかされたようなものだ。
「会談」で普天間の話がどこまで出たかははっきりしない。米側の発表でも「普天間」の固有名詞はなかった。
鳩山首相は「5月末決着」を公約としてきたが、ここにいたっては、事実上、断念せざるをえないだろう。
首相周辺からは「決着というのは、ある方向を決め、それに沿って米側との協議を続けていくこと」といった言い訳がましい声も聞こえてくる。
これでは決着ではなく、ごまかしだ。
昨年2月のできごとを思い出している。
非公式な話だから、あまり外部では明らかにしてこなかったのだが、鳩山政権の本質を知るには参考になるかと思う。こういう状況にいたっているのだから、もう時効だろうと勝手に判断した。
*民主党政権誕生に向けた経済人主催の会合で……
ある経済人から声がかかった。「このままいけば、民主党政権が誕生する。そのとき、どういう内外政策が必要か、多方面から集まって議論する場をつくりたい」という。
そういう機会もおもしろいかなと思い、第1回の会合に参加した。会場は国会裏手の十全ビル。鳩山事務所のあるビルの会議室である。
ちょっと早めに着いてしまったので、1階の喫茶店で時間をつぶしていたら、そこへ田岡俊次氏が入ってきた。朝日新聞出身の著名な軍事ジャーナリストである。筆者よりも5歳ほど年長だ。
「あれ、田岡さんも呼ばれたの。何をどう話し合おうというんだろうね」
「なんだか、よく分からないなあ」などと、双方とも首をひねった。
田岡氏は朝日の社会部出身で、建設談合のスクープなどその取材力には定評があった。
筆者は産経新聞出身だが、朝日と産経は基本路線が違うものの、現場の記者同士がいがみ合っているわけではない。筆者も朝日に友人知己は多い。
田岡氏は「朝日新聞初の軍事専門記者」を目指してきたそうで、かつて防衛庁(現在の防衛省)詰めとして、ご一緒したこともある。
*元朝日記者の田岡俊次氏は防衛庁担当時の・・・
その当時のビッグニュースとして思い出すのが、1983年9月の大韓航空機撃墜事件である。
慣性航法装置の入力ミスにより、大韓機がソ連(当時)領空に入りこんでしまい、サハリン沖でソ連空軍機に撃墜された。
このとき、田岡氏も筆者も防衛庁を担当していた。夕刊の締め切りぎりぎりのきわどい時間帯であった。「サハリンに着陸」という外電ニュースが入り、どこの夕刊も「よかった、よかった」という雰囲気の紙面で
あった。
その中で、かろうじて朝日と産経が「撃墜されたという情報もある」と触れた。朝日はもちろん田岡氏の取材によるのだろうと思う。しばらくして、田岡氏に確認し否定されなかったことを覚えている。
産経は防衛庁にやたら強い先輩記者がいて、この人が自宅にいながら核心情報をつかんだ。筆者はこの先輩が社に一報を入れる直前に「サハリン着陸は間違いかもしれない。空幕のようすがどうもおかしい」とデスクに電話を入れていて、なんとか記者クラブ担当の面目を保った。
後で聞くと、このデスクは筆者の電話が事前にあったため、その先輩の情報の精度を確信して製作工場に走り(当時は鉛の活字を使うアナログ時代で、編集局と製作局が隣接した位置にあった)、製作担当者に口で言いながら記事のリード部分を修正したという。
余計な話になるが、フリージャーナリストの上杉隆氏らが記者クラブの横並び体質を批判している。同じ記者クラブにいても、こういうスクープ合戦が行われているのだということを知ってほしいものだ。
*鳩山氏が何を求めているのか判然としなかった
で、鳩山事務所会議室での初会合には、30人ほどが集まった。リベラル系の政治学者などもいたが、ほとんどが企業関係者であった。
初回なので、各自が短時間、話をしろというので、筆者は、「田岡氏と外交、安全保障問題を議論するのは結構だが、路線の違いは明白で(田岡氏は対米追随批判派、筆者は日米同盟重視派といえた)、いくら話し合ってもかみ合わないと思う。それでいいのかどうか」といった提起をした。
途中で休憩が入ったので、鳩山氏に「そういうことですから……」と、考えを聞こうと声をかけたのだが、ぐっとこちらをにらみつけているだけで、何も言わなかった。
初回会合が終わって、近くの中華料理店に場所を移し、会費制で懇親会も行ったが、筆者の提起に対して、だれからも話はなかった。
その後、この会合に出るのはやめた。出席すると数時間も拘束されるので時間の調整がつかなかったこともさることながら、鳩山氏が何を求めているのか判然としなかったためだ。
いま考えると、両論併記でもいいから、日米同盟や外交・安全保障の基軸となるべき考え方をまとめるべく、無理をしてでも出席していたほうがよかったかなとも思う。
もっとも、「友愛」を先頭に押し立てたのでは、現実的な外交・安保政策は確立しようがない。外交とは、手で握手しながら、足でけり上げるといったたぐいの権謀術数の世界だ。
鳩山首相のそうした「あやうさ」は政権発足当時から指摘されていたのだが、やはりその通りになった。
*米「サギ」、中「カモ」、日「ガン」、その鳥の正体は?
普天間移設問題では、すでに4年前に日米間で名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部にV字型滑走路をつくるという合意ができている。
鳩山首相は政治的な巧みさを見せようとしたら、「不本意ではあるが日米合意ができている。国家間の合意なのでこれを踏襲せざるを得ない」という態度を取るべきであった。
これが政治の知恵というものだ。
それが「沖縄県民のみなさまのお声を踏まえて」とやったものだから、20年前の状況に戻ってしまった。移設受け入れを容認していた名護市では反対派の市長が誕生した。
その後の迷走ぶりはもう言葉にならない。キャンプ・シュワブ陸上部への移設案、ホワイトビーチ沖埋め立て案、さらには徳之島などへの分散移転など、さまざまな移設案が飛び交った。
鳩山首相は「トラスト・ミー」とオバマ大統領に明言し、「腹案がある」と大ミエを切った。現地に自ら乗り込んで説得するといった場面はなかった。
永田町にはざれ歌が流行している。バージョンはいくつもあるが「永田町には奇怪な鳥がいる」というものだ。
この鳥はアメリカには「サギ」、中国には「カモ」と見られているが、本人は「ハト」だと言っているものの、日本人には「ガン」として受け取られている、といった内容だ。
半年前の衆院総選挙圧勝がウソに思えるほど、悪しざまに言われる首相となってしまった。
自民党内には「追い詰められて、やぶれかぶれの衆院解散に打って出ないともかぎらない」と衆参ダブル選挙を懸念する声が急浮上している。
<<永田町の奇怪な鳥、バージョンはいくつも>>
永田町に奇怪な鳥がいる、というざれ歌が流行している。いくつものバージョンがあって、製作者は不明だ。
要は「ハト」の鳩山首相は、「サギ」や「カモ」ではないかとあちこちで言われているが、結論としては「ガン」である、といった内容である。
出所はどこか、あちこち調べてみたら、日本財団の笹川陽平会長のブログに「決定版」が出ていた。なんと19種類の鳥が登場する。
以下がその「決定版」。
なるほど、この種の小話は笑いの裏側に奥深さがある。 笹川会長、勝手に引用させていただきます。すみません。
決定版 永田町を舞う「謎の鳥」
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/2360
日本には謎の鳥がいる。
正体はよく分からない。
中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。
「カッコウ」だけは一人前に付けようとするが、
お「フクロウ」さんに、「タカ」っているらしい。
それでいて、約束したら「ウソ」に見え、
身体検査をしたら「カラス」のようにまっ黒、
疑惑には口を「ツグミ」、
釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、
実際は「ヌエ(鵺)」のようだ。
頭の中身は「シジュウガラ」、
実際は単なる鵜飼いの「ウ」。
「キジ」にもなる「トキ」の人だが、
私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。
【日経BPネット拙稿・時評コラム「我々の国家はどこに向かっている
のか」14日更新分】再掲載
★★花岡信昭メールマガジン789号【2010・4・19】★★(転載許諾済み)
野武士集団とお公家さんの知恵較べ
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古澤 襄
田中角栄氏が由起夫・邦夫の父親・鳩山威一郎氏を口説いた台詞(せりふ)は「田中軍団は野武士の集団。上品なお公家さんがいない」だった。
角栄氏の愛弟子・小沢一郎氏が鳩山由紀夫氏を首相に担いだのは、角栄DNAを思わせる。
しかし、このお公家さんは飛んだ見込み違い。方向音痴の宇宙人で、おまけにお喋り放題男だから問題が続出。せっかく参院選と総選挙で勝利して民主党政権を作ったのに、半年で政権基盤がガタガタになってしまった。
やはり柄は悪くても野武士集団のパワーを失っては政権維持ができないと小沢氏は思っているに違いない。気楽なお公家さんにはホトホト手を焼いている。
今の小沢グループは若い野武士と老練な侍大将を取りそろえ、くのいち女軍団もいる。小沢氏にとっては”虎の子”の戦闘集団である。お公家さんを下ろして、出来れば若大将を先頭にして、一勝負する気になったとしても不思議ではない。
ところが一度、総理官邸の主となったお公家さんは、首相専用機で夫婦同伴の世界外交、九月にはモスクワ訪問を早々と予約した。総理公邸の風呂場も改築して、引っ越しする気などはサラサラない。したたかなのは、お公家さんの方かもしれぬ。
一方、自民党の方も正真正銘のお公家さん・谷垣禎一氏が大将。品がよいのは宏池会の伝統だが、無類の戦(いくさ)下手。宏池会で野武士といえば古賀誠氏ぐらいだったが今は老将。昔日の面影がない。
だが、お公家さんを甘くみてはいけない。手練手管、権謀術策では単純明快・単細胞の野武士よりも遙かに上回る。自民党のお公家さん集団の方は内部分裂を繰り返しているから、野武士軍団が一斉に突撃すれば、蜘蛛の子を散らすように「メルト・ダウン(消え去る)」すると小沢氏は高をくくっているのだが、身内のお公家さんの方はそうは問屋がおろさない。
お公家さん首相は16日は国会見学に訪れた地元・北海道の後援者に対し、普天間問題について「結論を出します。どうせできないだろうとメディアが書いていますが、心配なさらないで結構。信じてください」と
声を枯らして訴えた。
「絶対に負けない」という言葉は真剣そのもの。「トラスト・ミイ(信じて)」を後援者に言ったことになる。
普天間移設が未決着の場合でも、お公家さん首相は引き続き政権にとどまる意向とみえる。「信じて」と言いながら決着先送りするのは、お手のもの。野武士の頭領とお公家さん首相の知恵較べは、どちらに軍配があがるのだろうか。
2010.04.19 Monday name : kajikablog
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官房長官の吉凶
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渡部 亮次郎
田中角栄が逃げたたった一つのポストが「官房長官」だった。このポストのこなし方は、それくらい難しいし、場合によっては、その政権の命運を左右するし、自身の政治家としての将来を決する。
<新党大地の鈴木宗男代表は18日、神奈川県藤沢市内で講演し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「鳩山由紀夫首相が5月末に決めると言ってるんだから、首相に任せたほうがいい。官房長官が『5月末は難しい』などと暗い顔して言ったらダメだ」と述べ、平野博文官房長官の姿勢を批判した。
社民党の阿部知子政審会長も同じ講演会で、普天間問題をめぐる平野氏の対応について「優しさとか、粉骨砕身して沖縄の問題に答えを出していこうという姿勢が感じられない。沖縄の人と心底ひざを交えて話す勇気と気概がない」と痛烈に批判した。(産経)>
平野長官を斬って延命を図る鳩山首相という場面、無きにしも非ず。
<鳩山内閣の支持率低下は鳩山氏自身の迷走が原因だが、それに輪をかけて側近の平野官房長官の無能ぶりがあるという。「平野A級戦犯説」すら取り沙汰されている。>と2010.04.19 Monday name : kajikablog
(古澤 襄)
田中が逃げたのは、親分佐藤栄作が政権を握っている時代。佐藤は田中の手綱を引き締めないと、暴れ馬になり、自分の後継に福田赳夫を据えられなく恐れがあると判断。官房長官にして手許で監視しようと考えた。
既に佐藤の後継者として、福田と戦うことを決意していた田中はあらゆる策略を用いて官房長官構想を潰した。佐藤の逆鱗に触れたわけだから一時は無役にされた。ライバル福田は喝采した。そこがこの政治家の弱点である。
野に放たれた田中は佐藤派は勿論、各派に亘って多数派工作に専念、佐藤の知らぬところで党内の多数を制してしまった。対して福田は「上善水の如し」と嘯き、なんら工作をしなかった。多数派工作をすれば佐藤の自尊心を傷つけると判断したのである。
結果は田中の圧勝。福田は下野せざるを得なかった。私はNHKで福田番だったが、なぜか田中内閣の官邸クラブにサブ・キャップとして入れられた。
官邸クラブを離れて数年後、「友人」園田直(すなお)から相談をかけられた。「福田内閣がやっと出来る、何大臣をやったらいいか」
「そりゃ内閣官房長官しかないでしょう。内閣を握りながら次期首相の大平と緊密な連絡がとれるポストといったらここしかない」「やはりそうか、じゃ決めた」で別れた。
福田は官房長官には安倍晋太郎を考えていた。晋太郎の岳父岸 信介は福田の親分でもある。その岸から予て「注文」があったのだ。
園田はそれを先刻承知。さっさと塩川正十郎を副長官に連れて官房長官室を「占拠」。
何しろ福田にとって園田は政敵田中角栄と話をつけてきた「恩人」である。やんちゃな園田の態度を認めるしかなかった。昭和51(1976)年12月24日のことだった。
「官房長官を安倍に」と言う岸の要求は激しかった。福田は1年後の11月28日に内閣改造を行なったが、園田を斬るわけには行かず、たった一人残留させ、閣内ナンバー2たる外務大臣に横滑りさせた。
園田は胸中の怒りを抑えながら、「密約」に従い、この一年後に大平政権を樹立する事に精力を傾注しながら、田中政権以来、政府の懸案である日中平和友好条約の締結に全力を傾けた。このとき秘書官は NHK国際局副部長から招かれた不肖私であった。
園田は官房長官として、次期首班を約束されている幹事長大平に対して福田の任期を1年延長する交渉を続け、ほぼ了解を取り付ける寸前まで行っていた。首相にはまだ報告できる状況ではなかったが。
しかし、岸の圧力に抵抗しなかった福田に園田は愛想が尽きていたので、大平との交渉は沙汰止みとなった。その後、福田が密約を破って大平に総裁公選をあえて挑み惨敗。福田の恨みは深く、それに負けて大平が急死。本来なら福田に戻っても可笑しくない首相の座が、あろうことか鈴木善幸に渡った。
渡したのは大平への弔問から帰宅した角栄邸での田中・園田会談だった。
官房長官のポストとは、かくのごとく重く内閣の命運を左右し、政治家自身の行方を決める。「鳩山は官房長官の人選を間違えた」と言う批評は当然、平野に言わせれば首相を間違えた事にもなる。(文中敬称略)2010.4.19
渡したのは大平への弔問から帰宅した角栄邸での田中・園田会談だった。
官房長官のポストとは、かくのごとく重く内閣の命運を左右し、政治家自身の行方を決める。「鳩山は官房長官の人選を間違えた」と言う批評は当然、平野に言わせれば首相を間違えた事にもなる。(文中敬称略)2010.4.19