日本のクリスチャンとしてはおもしろい解説だった。(頂門の一針) | 日本のお姉さん

日本のクリスチャンとしてはおもしろい解説だった。(頂門の一針)

横綱に何故品格を求めるのか
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川上 恭司

朝青竜引退をめぐって、賛否両論、議論が割れている。その原因は、善悪は別として、日本人の潜在意識の中に存在する、ある考え方にあるのであろう。

日本の伝統文化のほとんどには「道」がつく。柔道、剣道、茶道、花道、しかりであり、挙句の果ては外来スポーツである野球にまで「野球道」なる言葉がまかり通るようになっている。

これは何故なのか。原因は日本人の宗教観にある。

話は飛躍するが、仏教用語に六波羅蜜という言葉がある。京の六波羅もこれが語源である。これは、今から2000年前、お釈迦さんが教えた人間トレーニングプログラムとして、提唱されたものであり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の6つをやれば、人間が磨かれると教えてくれた六波羅蜜なのである。

六波羅蜜とは

 その1.布施

坊さんにお布施をすることもそうだし、笑顔で相手をいい気持ちにさせるのも布施業である。スポーツで人々に夢や勇気を与えるのも、布施業の一種だし、「世のため人のため」も、もちろん布施業である。別の言い方をすれば、坊さんに銭をやれば、自分の人格が磨かれるというものである。真偽は不明であるが・・・。

 その2.持戒

人間は生きるために、食欲、性欲、独占欲等の煩悩を必然的に持たされており、もちろん、これら基本的欲求がなければ、生物として存在できない。

しかし、往々にしてこれら煩悩は際限がなくなり、食べ過ぎてメタボになったり、性欲の虜となり社会的地位から家庭から全て無くしてしまう事がよくある。

これらの欲求はどれも人間として絶対に必要な要因なのであるが、問題は、これらをコントロールできるか否かなのである。腹八分目で食欲をコントロールする力、妾を一人か二人に抑えておく力(タイガーに教えてやりたかったが・・)、これを戒め、持戒と言う。

これをコントロールする練習をすれば、人格が磨かれると教えている。
ゴルフにおいても如何に欲をコントロールするかがスコアメイクの秘訣である。

 その3.忍辱(ニンニクと読む。臭いニンニクとは違う)

“耐え忍ぶ”だけで人間が成長するようである。素行の悪い子供を、野球部等の運動部に入部させ、理不尽なしごきの中で耐え忍ぶだけで立ち直って行く例とか、古くなるが戸塚ヨットスクールでの更生の例とかは、これかもしれない。

昔から“辛抱する木に花が咲く”と言われており、耐え忍ぶこと、辛抱すること自体にも意味があるようである。体のでかい不良を相撲部屋に入門させ、稽古で理不尽なしごきに耐えさせるだけで、人格が磨かれると言っている(ワシが言ってるのではない、お釈迦さんが言ってるらしい)。

 その4.精進

練習々々また練習の繰り返しのみで、人間が成長するということらしい。
考えてみれば、北島康介とかイチローは、学問的には大したことはなさそうであるが、コメント一つ聞いただけで人格者であることが解る。

たかがボール遊びとか、水遊びだけで、あれだけの人間性ができあがる原因は、忍辱、精進その他の六波羅蜜の修行の結果かもしれない。

 その5.禅定

禅の心、動じない心である。この心を磨くことで人格を上げて行こうという試みが禅宗であるが、凡人としては、なかなか難しい心境である。

どんなスポーツでも平常心は大切であり、宮本武蔵は特にこれを磨くことによって強くなったと言われている。相撲も同様、この不動心で強くなっていくが、結局は人格を磨く方法論なのである。

 その6.智慧

六波羅蜜では1から5の修行ができた後に、智慧が浮かんでくると教えている。すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定等をクリアしたら、世の中が見えてくるらしい。

スポーツで言えば、無意識のうちに相手の動きが見えてくる超能力の領域である。王、長嶋、大鵬、青木等かつての名プレーヤー達は、ほとんど理解不能なコメントを残している。ここまで来ればもう、神さんになるしかなく、それを横綱と呼ぶらしい。

考えてみれば、道は違えども、人の営みは全て六波羅蜜のトレーニングプログラムで自分を訓練していると言える。力士も、プロ野球選手も、漁師も、大工も、芸術家も、企業経営者も、医者も全て、人助けをし、自分を戒め、耐え、精進し、心を落ち着けて、自分を磨いている。

日本人は、伝統としてこれらを「道」と捉えてきた。剣道、柔道、相撲道、野球道、茶道、花道、大工道、左官道、医道、果ては極道まで、全て自分を磨く道なのである。

現代に生きる日本人も、無意識のうちにこの価値観の中にあり、オリンピック選手が出発時に「皆さんに夢と勇気を与えるために頑張ります」と布施行の重要性を称えているし、「品格、品格」と定義の曖昧な価値観でチャンピオンを非難するのである。

善悪は別であるし、この六波羅蜜の真偽は不明である。しかし、この際、はっきりと認識しておいたほうが良いことは、我々日本人は、この六波羅蜜の価値観の中で生きており、人格形成をしようとしない横綱はクビなのである。
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日本の伝統の行事とも伝統のスポーツとも呼ばれる相撲の横綱にまでなったくせに、元横綱朝青龍はモンゴル人の感覚のまま日本の相撲界でいきてきた。

親方がルーズでいい加減で、相撲のことや日本の相撲の横綱がとるべき態度について、全く弟子に教えずにわがまま放題にさせてきたため、元横綱朝青龍の失敗は親方の失敗とも言える。お金を稼いできてくれるから

「まあ、いいじゃないか。」という考え方だったのだろう。

日本人は、スポーツを極めた人は人格も磨かれていくべきだし、スポーツ選手は一般人よりも強いのだから、人を殴るということなど、とんでもないことだと思っている。

一般人でも、お酒を飲んでいようが飲んでいまいが、「暴力はダメ」だと、駅のポスターにも書いてある。

日本の常識だと思う。

酒に飲まれて暴力を起こすような人は、自分のコントロールができていない、ダメな人なのである。

おまけに知人男性ではなくて、マネージャーを殴ったことにして、先回りして記者会見をして謝っていた。

ダメな人はいくら強くても、横綱をしている資格は無い。

今までのことは、「まだ若いから。」「モンゴル人だから。」で済んでいたけど、一般人に「殺してやるよ。」と言って、車の中に拉致し、げんこでアゴやら鼻を殴って、鼻の軟骨を折った人は、今後も酒に飲まれて暴力ざたを起こす人だと思う。自分をコントロールできない人を、日本の伝統行事か伝統のスポーツのトップに置いておくのは、日本人に対する教育にもよくない。トップに立つなら、好き放題をしても赦されるなんて、日本の社会の秩序が乱れる。スポーツのトップに立つような人は、自分を制することができる人だろうし、みんなの見本になるべき人だから。

そう考えるのは、日本人の宗教観から来ていると、川上 恭司さんは言っている。

聖書では、「愚かな人は自分の心をコントールできない。」とか、「自分の心を治められない人は、街を治めることもできない」とか、「親は子供に、怒りをそのままぶちまけるて子供を怒らせたりしょげさせたりしないように」とか、「争い好きな女は、骨の中の腐れ」だとか、きっついこともいっぱい書いてある。

王さまになる人の資質についても書いてあったりする。そして自分の家族を治めることができない人は

教会のリーダーにはふさわしくありませんとも書いてある。

自分の家族の世話もできない人が他人の世話などできないということだ。

そして、小事に忠実な人は大事にも忠実であるとも書いてある。


いろんな小さい失敗を繰り返していたモンゴルの草原を駈けていた少年は(実際は馬になんかのってないし、パオにも住んでないし、普通の家に住んでいた少年だったと思われるが)

ついに、酔って他人に絡んでケガを負わせるという、スポーツ選手としても、一般人でも赦されない大きな失敗を犯して、引退となったワケでした。


しかし、スポーツ選手など道(みち)を極めた人に人格者であることを求めるのは、日本人の宗教観だというのは、本当かもね。言いかえれば、日本人は、独特な道徳観念を持っているのね。

日本人が、スポーツ選手のインタビューなどを聞くのが楽しみなのは、あれは「説法」か何かのように聞いているからなのね。また、彼らも気の利いたいい事を言うんだもの。

長嶋さんでも野村さんでも、何を言っているのかよくわかんないけど、ありがたいような面白いような意味不明なことを言うから、興味がわいてくる。何かぐちゃぐちゃのおもちゃ箱の中にお宝が隠されていそうで、興味深く聞いてしまう。叶姉妹のお姉さんだって、たまにいいことを言っている。

日本人には有名人やスポーツ選手は、自分の人生のお手本とか、トップを極めたアイドル(偶像)のような存在なのね。ためになることを言ってくれる人が必要なのかもね。

元横綱朝青龍はその期待に背いた。日本人の道徳観念(宗教観)にふさわしくないトップだった。

人間的にはかわいらしい人だったと言うが、かわいらしい外国人なんて、そこらへんにもいっぱいいる。

日本人は、元横綱朝青龍には、かなり寛容だったし、今だってかなり寛容に接していると思うよ。