☆ 人種差別撤廃を発議した常任理事国日本 | 日本のお姉さん

☆ 人種差別撤廃を発議した常任理事国日本

帝国電網省 

☆ 人種差別撤廃を発議した常任理事国日本 ─────── 竹下義朗さん
                           原著 2004/06/07

かつて日本が国連の常任理事国だった、ということを皆さんはご存じでしょうか? 国連と書きましたが、ニューヨークに本部を置く現在の国連=国際連合(連合国:United Nations)ではありません。

第一次世界大戦後の大正9(1920)年1月、スイスのジュネーブを本部に発足した「国際連盟=League of Nations」の事です。

この国際連盟=当時の「国連」において、日本は常任理事国だったのですが、その日本が、連盟設立に際してある一つの重要な提案をしていた事はあまり知られていません。そして、その提案の行方が、後に日本と世界の歴史に重大な影響を及ぼしたのです。

というわけで、今回は日本が発議した提案と、その行方について書いてみたいと思います。

大正8(1919)年2月13日、第一次世界大戦の戦後処理を行う為に開催されたパリ講和会議の際、米国大統領・ウィルソンの首唱による「国際連盟」設立の為に同時開催されていた国際連盟規約委員会の席上、日本は既に固まっていた14ヶ条に加えて、第15条として、
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人種、或いは国籍如何により、法律上或いは事実上、何ら差別を設けざることを約す
└--------
という条項、所謂「人種差別撤廃条項」を盛り込もうとしました。

しかし、欧米列強社会に蔓延{はびこ}る根強い人種差別意識を目の当たりにした日本は、より採択可能な修正案として、人種の文言を削除した、「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」を提案し、評決にかけられたのです。

=「国民の公正な処遇」によって人種差別撤廃を実現しようとした。

同案は、16票中11票の賛成多数だったにも関わらず、議長であったウィルソン米国大統領が、突如として「重要案件は全会一致でなければならない」等として勝手にルールを変更し不採択を宣言、日本提案の「人種差別撤廃条項」は「幻の第15条」として葬り去られてしまったのです。

しかしこの評決については、さすがに同じ欧米列強の一員であったフランス全権団からも、
┌--------
それまで2回の票決では全会一致の規則が適用されていなかった、にも関わらず今回に限って全会一致の規則を適用する事には納得できない。
└--------
との抗議がなされた程でしたが、

これに対してウィルソン米国大統領は、
┌--------
我々の一部にとってはあまりにも障害があるので、規約にそれ=人種差別撤廃条項を挿入する事はできない。
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と嘯{うそぶ}いた挙げ句、議長役を放り投げてとっとと帰国、自らが提唱した「国際連盟」にも米国は参加せず、米国不参加の国際連盟のお手並みを拝見、といった態度を取ったのです。

ちなみに米国が自認する「民主主義=デモクラシー」とは「多数意見の尊重」が基本の筈です。それを、採択に際して突如「全会一致」の論理を持ち出した
米国の論理。
ーーーここに図らずも、欧米列強の「本音=論理」が垣間見られた訳です。

当時、日本が提案した「人種差別撤廃条項」は、時代を先取りした極めて画期的なものでした。しかし、皆さんの中には、

あの提案は、米国内における日本人移民に対する不当な差別や排斥を撤廃させる為になされたもので、それほど崇高な理念の為に提案されたものではなかった。ーーーと仰る方もおありでしょう。

確かにそういった側面があったのは事実です。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか? 例えば、当時、根強い有色人種差別社会であった米国において、人種差別撤廃を求めて戦っていた全米黒人新聞協会は、
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我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に最大の敬意を払うものである。全米1200万の黒人が、息を呑んで会議の成り行きを見守っている。
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と論説し、日本提案の行方に対して、非常に大きな期待を寄せていました。

また、欧米列強によって分割・植民地支配されていたアジア・アフリカ地域の民衆も、日露戦争の際、面積で60倍、国家予算・鉄鋼生産高・造船能力も約10倍であった超大国ロシアを破り、

有色人種国家で唯一、列強=一等国に数えられる事となった日本の提案に、有色人種の民意=人種差別撤廃・植民地解放)をダブらせて支持をしたのです。

しかし結果は前述の通り、米英のエゴによって葬り去られてしまったのです。

ーーーしかし、歴史の巨大な潮流は後戻りする事を許しませんでした。

日本は、有色人種唯一の「列強」であり、かつて東アジア世界の盟主として君臨しながら、欧米列強による分割という憂き目をみている支那に代わって新たに東亜の盟主の座に就き、自ら有色人種の利益代表=代弁者を自認するようになったのです。そしてその一つの帰結が、

ーーー日本が米英に戦いを挑んだ大東亜戦争(太平洋戦争)だったのです。

昭和16(1941)年8月14日、大西洋上で会談していた米国大統領フランクリン・ローズヴェルトと、英国首相ウィンストン・チャーチルは、欧米列強の本音を代弁する形で、ある共同宣言を発表しました。所謂『大西洋憲章』と呼ばれるものです。その内容は、

・領土不拡大
・政治形態選択の自由
・公海の自由
・武力行使の放棄
・侵略国の武装解除

などからなっており、一見すると「素晴らしいもの」のように見えます。しかしこの憲章には、内容とは裏腹に欧米列強の本音が顔を覗かせていたのです。

例えば大西洋憲章第3項には、

┌--------「大西洋憲章第3項」

両国ハ、一切ノ国民ガ、其ノ下ニ生活セントスル政体ヲ選択スルノ権利ヲ尊重ス。両国ハ、主権及自治ヲ強奪セラレタル者ニ主権及自治ガ返還セラルルコトヲ希望ス。
└--------
と謳っており、一見すると植民地解放を表明しているかのように見えます。
しかしチャーチル英首相はこの条項に当たって、

「インドの主権は大英帝国が有している」

と明言、議会においてもその旨の答弁がなされたのです。そして第2項では、

┌--------「大西洋憲章第2項」

両国ハ、関係国民ノ自由ニ表明セル希望ト一致セザル領土的変更ノ行ハルルコトヲ欲セズ。
└--------
として、領土の現状維持を謳っており、前述の第3項と合わせると、大西洋憲章に謳われている事は、あくまでも欧米列強=白人帝国主義国)にのみ適用され、有色人種=当然、黄色人種である日本も含む)は適用外、

欧米列強がアジア・アフリカ・オセアニアに持つ植民地は絶対に手放さない=有色人種の独立は絶対に許さず引き続き支配下におく、といっている訳です。

一方、日本は支那事変・満州問題などで米英との対立が先鋭化し、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃を皮切りに、大東亜戦争に突入していった訳ですが、

開戦2年後の昭和18(1943)年11月6日、東京で開催されていたアジア首脳による史上初のサミット「大東亜会議」において大東亜共同宣言を採択、内外に発表したのです。

┌──────────「大東亜共同宣言」

抑{そもそ}も、世界各国が各{おのおの}其のところを得、相倚{あひよ}り相扶{あひたす}けて万邦共栄の楽を偕{とも}にするは、世界平和確立の根本要義なり。
然{しか}るに米英は、自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞{たくま}しうし、遂には大東亜の安定を根底より覆{くつがへ}さんとせり。

大東亜戦争の原因茲に存す

大東亜各国は、提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全{まつた}うし、左(*原文のまま)の綱領に基づき大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。

一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設す

一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す

一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚す

一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し、其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す

一、大東亜各国は万邦との交誼を篤{あつ}うし、人種差別を撤廃し普{あまね}く文化を交流し進んで資源を開放し、以て世界の進運に貢献す

└──────────

日本主導によるアジア最初のサミット、大東亜会議において採択された大東亜共同宣言。そこには、米英が欧米列強の大義=論理を掲げた大西洋憲章に真っ向から挑む、有色人種の大義が表明されていました。

その後、有色人種の盟主として、米英(欧米列強)に戦いを挑んだ日本は、昭和20(1945)年8月15日、敗北した訳ですが、皮肉にも、第二次世界大戦の結果誕生した国際連合=実質的には大戦中の連合国なのだが)の国連憲章では、

「諸人民(人種)の平等」が規定されており、人種差別撤廃条約・国際人権B規約=自由権規約等の国際法も整備されました。また、日本が大東亜共栄圏の大義の下に進めた欧米列強からのアジア植民地解放についても、

戦後、アジア・アフリカ・オセアニアの植民地が次々と独立していった訳で、少なくとも日本は、「戦争には負けたが理念では勝った」とはいえないでしょうか?

明治37(1904)年開戦の日露戦争、大正8年の国際連盟規約「人種差別撤廃条項」提案、昭和16年開戦の大東亜戦争という、日本の「有色人種としての戦い」は、半世紀を経て一つの結果を出したといえます。

これら一連の出来事を、単に、日本の帝国主義・軍国主義の歩みとしてしかみることができない人達に対しては、「白人対有色人種の暗闘」という側面から改めて近代史を振り返ってみる事をお勧めしたいと思います。


─── 余談つれづれ

よく、昭和8(1933)年の国際連盟脱退によって、日本は孤立の道を歩んでいったという話を耳にしますが、果たして本当にそうだったのでしょうか?

国際連盟は、加盟国50数ヶ国を数えましたが、そもそも発足当時から首唱国米国が不参加する等、大国の足並みが揃わず、常任理事国であった日本・イタリア(1937年)、ドイツ(1933年)は脱退、ソ連(1934年加盟・1939年除名)は除名される等、基盤自体も非常に脆弱でした。

更に、統一した平和維持軍が編成されなかった事で、「世界平和の確保と国際協力の促進」という目的を遂に果たす事ができないまま有名無実化していきました。ですから、

日本が国際連盟を脱退することなくそのまま留まったとして、果たして「別の歴史」を歩む事ができたのか?ーーー私は、矢張り同じ道を歩んだのではないかと思うのです。

というよりも日本の戦争は、突き詰めれば「白人対有色人種の戦い」=支那事変(日中戦争)も裏で米英が暗躍していた)であった以上、遅かれ早かれ日米は全面的に対決する運命にあった、「歴史の必然」であったと思うのです。


                        = この稿おわり =