≪アジアの街角から≫戦争に負けた国 ☆ 変えるべきもの守るべきもの(下)
戦争に負けた国 ▽▼
☆ 変えるべきもの守るべきもの(下) ―――――――――― やせ我慢さん
・日本の良いところが壊れていく理由
先稿で、日本が大きく変わっていった節目は80年代だと書きました。そうであれば、その原因はもっと以前から始まっていたことになります。
ーーー実際には、終戦直後のアメリカによる占領政策から始まっています。
それは、公職追放や教育改革など、多様な面に及びますが、ここではもう少し大きい視点で考えてみます。
この原因を考える時、大きく分けて、個人の内面である「内なる理由」と、社会環境などの「外なる理由」の二つがあると思います。
・外なる理由-世間の喪失
最初に挙げるべきものは、「世間の目」と呼ばれていた地域社会あるいは社会全体からの抑制や批判が、非常に少なくなったということです。ーーー日本人の美点を支えていた一つの力が、そうした世間の目でした。
親兄弟に恥をかかせないとか、あるいは敬意を払っている人や親しい人たちに笑われたくない、そんな抑制が働いていたのは確かだと思います。
しかし、そうした抑制は、二つの大きな理由で消えていこうとしています。
・大都市への人口集中
人口が集中している大都市では、地方からの出身者が多数を占め、隣の人のことは全く知らない状態で、地域社会というものが多くの場合形成されていません。
個人は、何千万という人間の中に埋もれ、大きな犯罪ならばまだしも、モラルや気配りが欠けていようと嘘をつこうと、職場や友人といった狭い世界以外では直接的に社会から批判されることはありません。
一方で、地方での地域社会も若者が大都市に出ることで崩壊が進んでいます。
場所によっては、歴史のある祭りも維持できないほどだそうです。
大都市では、周りの目がなく、地方では年長者による知恵の伝達が難しくなっています。
・大人たちの無責任な迎合
地域社会の目が急速に減っていく中で、それに代わるべき社会全体の目はどうでしょう。
それは多くの場合、新聞・テレビといったマスメディアや、知識人・政治家・役所といった公の目ということになります。しかし、その公の目であるべき人たちが、無責任にも自分たちの都合や偽善で、犯罪者やモラルの欠けた人たちを持ち上げているのです。
残虐な殺人を行った人間を、まるで可哀想な人間のように扱い、契約期間の決まった、更新されなかったというだけの話を、まるでいきなり首切りしたように騒ぐのです。
本来ならば、その罪を社会から糾弾されるべき人間が奇妙なほど気を使われ、あるいは計画性のなさを諭されるべき人たちが、まるで一方的な犠牲者のように同情されています。
これでは、個人の中に抑制とか自省などというものが働きようがありません。
そうした無責任な迎合主義に流されてか、警察や裁判でも不思議な判断が少なくありません。年寄りの自転車を用水路に投げ込むという、性質の悪いイタズラをした子供たちを叩いて叱ったら、叩いたほうが逮捕されるというのでは、社会がモラルを支える力は弱まるばかりです。
地域の目もなく、公の目は迎合してくれるのですから、モラルや自省を捨ててでも無茶な言い分を口に出したほうが得をするということになります。
公の人々による無責任な迎合主義が、日本人の美点を壊し続けている事は確かだと思います。
無責任な迎合主義といえば、
不法外国人の増加と甘い対策が、都市部における体感的な治安悪化を生み出し
ている点も見逃せません。実際に多くの外国人が刑務所の中に居るという現実を見れば、不法滞在者を、取り締まりを徹底し、また犯罪を犯した者を強制送還していく事は当然の対応です。
ところが、ご存知の方も多いでしょうが、不法入国者だろうと他人のパスポートで入国しようと、まるで悲劇の主人公にしてくれます。
法を守った上で最善の方法を考える、そうした当たり前のことを、公の目たる人たちが誰も口にしないのです。
結局、地域社会の目という意味でも、公の目という意味でも、「世間の目」がほとんど機能しなくなったということではないでしょうか。
都市に人口が集まり、地域社会が薄れていくのは仕方のないことかもしれません。しかし、今の一極集中は余りにも偏り過ぎていると思います。
「世間の目」が意味を持つには、都市のサイズがある程度以下である必要があるのでしょう。地方分権による分散化で、職場と住居の距離が縮めば、少しは地域社会の復権につながるかもしれません。
また、「公の目」たる人たちの、無責任な迎合主義は徹底的に批判されるべきです。自らの目的や自己満足の為に、日本人の良いところを破壊する手助けをしているのですから。
~~~二つめの、「内なる理由」は、
「権威」という、人間の社会性にとって不可欠なものが、意図的、時には無自覚に壊されていったことこそ、日本人の美徳をゆっくりと壊していった元凶だと考えます。
まず「権威」とは何か、なぜ重要なのかを知る必要がありますが、実に大きなテーマですから、私が気が付いた点だけ、できるだけ端折って書いてみます。
・権威とは何か
権威とは、無条件な信奉であり、帰依です。幼子が、親の後を随いて歩くようなものです。そこには、何の理屈もなければ、強制もありません。ーーー純度の高い「権威」は、ただそこに在るだけで安心を与えます。
自意識を持つ年齢の人間でも、対象に「権威」を認めるきっかけこそ何らかの理由を必要としますが、いったん認めてしまえば、新たな権威を見つけない限りほとんどの人は信奉し続けます。ーーーもちろん、そうした純粋な「権威」というものはめったにありませんが。
多くの場合の「権威」は、いくつかの頼りない根拠を基にして、なんとなく認められていたり、あるいは「権力」を併せ持っていることで補強されているものです。
たとえば偉い大学教授の権威は、その学識や地位・権力を根拠にして認められますが、その学識が、実は大した事がないと判ったり、その地位を追われれば一気に下落します。
もちろん、地位や権力を失っても、その人間性を尊敬する人がいれば、その人にとっては一つの「権威」であり続けます。しかしそれも、より高い人間性を持つ人の出現で、色褪せてしまいます。
しかし本当に純度の高い「権威」とは、他に代わりの存在がない=少なくともその文化圏では)ものです。
・権威がなぜ人間に必要か
人間の成長過程、そして社会の維持には、「権威」というものの存在が必要だと考えます。
それは、平等とか権利などのような、人によって作られた理念ではなく、人間という生き物が持つ本能や社会性の問題で、食事や睡眠と同じだと思います。
なぜなら、人間は社会的動物であり、その性質を何万年と受け継ぎ発展させてきた生物だからです。ーーーそうしないと人類は、生存競争の中で生き残れませんでした。
では社会的とは何かと言えば、「情報伝達」と「役割分担」だと考えます。
つまり、人の話を聞き、自分のやるべき事を知るということです。逆に言えば野生の獣のように、人の話を聞かず、自分勝手な欲望だけで行動する人たちが多数では、社会は成り立たないのです。
情報の伝達をスムーズに受け入れる、自己を抑制して分担すべき役割を果たすそれは全員に理屈を説明して納得して貰ってから実行するようなものではありません。幼子から大人まで、誰もが自然とそれを行うように、本能の中に組み込まれているのでしょう。
その仕掛けが、「権威」というものではないでしょうか。
そして「権威」は、人が成長に応じて接する社会の段階ごとに、それぞれ別なものが必要です。幼い子供にとっては両親であり、やがてそれは学校の教師や周りの大人たちへと変わっていきます。
各段階毎に、それぞれの権威を思いつくままに並べてみます。
親、教師、(規則・法)、先輩、年長者、上司、著名人、メディア、知識人、公的機関、政府、元首、神(あるいは神の代理人)――――。
人はそうした権威に対して、まず盲目的に信じ敬い、やがてその権威を乗り越えていきます。あれほど親を絶対視していた子供が、親よりも教師の言う事を信じるようになり、さらには別の権威を見つけていくのです。
そうやって人は、自然と成長の段階を踏みます。
社会のそれぞれの段階における「権威」の連続する存在は、その社会の背骨だと考えます。なぜなら、自らが盲信する相手があってこそ、自己を抑制してスムーズに「情報の伝達」と「役割分担」を受け入れられるからです。
そうした背骨がしっかりあれば、表面的な姿がどう変わろうとも、その社会の本質は変わりません。
では、先人から情報を受け取ることや、社会の中での役割を理解したら、もう権威は必要なくなるのでしょうか?
いいえ、人は幾つになっても、自分を省みることを忘れれば獣になります。
もう教わることはない、真似たり学ぶことはない、そういう段階になっても、常に我が身を省みる為の「鏡」が必要です。子供から地位や名誉を経た高齢者まで、あらゆる人にとっての純粋な「権威」が必要なのです。
学識や地位・名誉・お金・権力など、いずれ誰かに超えられてしまうような、そんな「権威」では足りません。誰にも真似る事も超えることもできない、そうした純粋な「権威」です。ーーーそうした純粋な「権威」はその国にとっての「神」であり「神の代理人」です。
簡単な例なら、キリストでありローマ法王です。もちろん日本でいえば、天照大御神を始めとする八百万の神々であり、その末裔である「皇室」です。
ローマ法王は中絶を悪と明言し、実社会で批判や摩擦を呼び起こしていますが日本の皇室は拉致問題ですら声高に何かを主張するのではなく、「この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったか、との思いを消すことができません」 と、日本国民全員が自らを省みるよう促すのです。
政治や社会に権力を行使せずに、ひたすら人々の心に寄り添おうとする姿勢という意味で、皇室は世界でもっとも純粋な「権威」ではないかと考えます。
両親から教師と、各段階毎に「権威」が存在し、その「権威」の連なりの先に「皇室(あるいは神々)」がある、これが日本社会の背骨です。この背骨がしっかりしている社会は、安定しモラルも保たれやすく、また社会に混乱があった場合でも、国家の分断や崩壊という最悪の状況に至りにくくなります。
幕末の倒幕軍・幕府軍の戦いにしても、討幕軍が官軍になり錦旗を持ったことで、決定的な内戦状態に至らなかった面があると思います。また、クーデターによる権力の争奪が少なくないタイでは、国民の敬意を集めている国王が最後の安定装置になっているそうです。
こうした社会の背骨である「権威とその連鎖」がなくなってしまえば、社会の中での「情報伝達」「役割分担」がスムーズに行われなくなり、いわゆる「下克上」のようなものになってしまいます。
そこでは、誰もが獣のように自分の欲望で動き、力のあるものたちが、その支配力の奪い合いが、限度なく繰り返されるのです。
さて、そんな社会に「モラル」や「共同体が育んできた長所」が生き残れるでしょうか?
日本の終戦という、飢え死にする人間が珍しくなかった時代を経ても、日本人のモラルや長所が残った理由はなんでしょう?
終戦により、多くの権威が力を失いましたが、まだ戦前の社会で育った大人たちが沢山いましたし、なによりも権威の頂点である「皇室」が存在していました。大きく傷付いたとはいえ、社会に権威の連鎖がかろうじて残ったことで、日本人の良き部分が継承されたのだと考えます。
しかし、その社会の背骨たる「権威の連鎖」を、意図的(あるいは無自覚に)に壊そうという攻撃が、戦後からずっと続いています。70年代中盤から80年代にかけて、戦前の社会で育った年代層が社会の中枢から外れていった時期を境に、そうした攻撃は大きな成果を収めつつあります。
日本人の美点が失われることを心配するなら、構造改革や自由競争を槍玉に挙げるのは見当違いです。戦後ずっと続き、大きな効果を挙げつつある「権威」への攻撃こそを案じるべきです。
日本の社会の中に、「権威の連続」がきちんと復活すれば、日本人が培ってきた良き点は必ず残ります。それは、明治維新・敗戦という大きな時代の節目ですら、なんとか残ってきたのですから。
では、戦後から続く「権威」への攻撃、消し去ろうとする動きはどんなものなのでしょう。
・内なる理由-権威の喪失
日本人の良き点を支えてきた、社会の背骨である「権威」が、意図的かつ執拗に消し去られてきました。日本人の美点が失われていく理由の一つ、「内なる原因-権威の喪失」とは、そうした意味を込めたものです。
典型的な例は、学校教育の現場です。
子供の人権とか意見を大事にしよう、一見もっともらしい言葉に踊らされ、親や教師の権威が否定されてきました。親は子供の気持をいかに汲み取るべきかなどという教育論が蔓延し、授業中に走り回る子供を叩いただけで教師が謝罪させられるという状況では、そこに権威の生まれようがありません。
そして教師自らも、権威としての役割を自覚することなく、単なる労働者だと言い放つのですから、お話になりません。それだけでなく、日教組のような組織が、子供を利用して国歌・国旗への拒否を煽り、象徴的な権威すら破壊しようとしています。
そうしたことは学校教育の場だけでなく、社会全体で行われてきました。
地域社会を基盤とした「世間の目」に代わるべき「公の目」であるべきメディアや知識人たちが、自分たちの思惑で無責任な迎合を繰り返しているのです。
法の権威を嘘と感情論で蔑ろにし、瑣末な揚げ足取りで国政の権威を貶めることに狂奔しています。そうでない人たちも、メディアなどからのバッシングを恐れ、多くが迎合するか沈黙しています。
学校教育で権威が教えられず、または否定されて、世論を引っ張るメディアや知識人までもがそんな状態では、子供たちが「権威」を認識するはずがありません。
「権威とその連続性」というものを学ばずにきた子供が大人になり、そして親の世代になってしまいました。ーーーその結果は、「公の意識」というものが存在しない、バラバラな個人の集まりという国になってしまいます。
多くの人が畏れるものがなくなり、法に触れさえしなければ----それすら怪しいが----何をしても良いのだと自分の欲望のままに振舞うようになるのです。
自分の責任や過失を省みる事もなく、恥じる事すらなく、人や国を訴えたり、法を曲げてでも助けろと言い出すのです。
ちなみに、既存の「権威」を破壊するというやり方は、革命を目指す人たちの常套手段です。特に共産革命では多くの実例がありますし、文化大革命でも知識人や要人が「批闘大会」で吊るし上げられ侮蔑されました。
日本でも、学園紛争が盛んだった頃、「団交」という吊るし上げで、学生が教師を徹底的に貶めたのです。もっとも林健太郎氏のように、8日間も監禁されながらも、警察による救出作戦を「只今学生を教育中。救出は不要」と言ってのけ、その論と胆力で学生達を圧倒した方もおられますが――――。
※ちなみに林教授は、1913年生まれ、戦前社会で成人しています。
そして、日本社会における「権威」への最大の攻撃は、歴史の継続性を否定したことです。
権威の裏付けは、歴史の流れの上に築かれ、継続していく社会の中で育まれてきました。その歴史の連続性を否定し、ある時期以前の日本は悪であると決め付けたのです。
その意味では、敗戦後の占領政策とそれに便乗した勢力が行ったことは、緩やかな革命だったのかもしれません。
そして、その流れの中で戦後利権構造が形作らてしまいました。
既存の権威を破壊し別な国にしようとした占領政策に乗っかって、利益を得る
構造を作ってきた戦後利得者たちが社会の要所を占めているのですから、権威
の崩壊が進むのも当然かもしれません。
しかし革命を望む一部の狂信者以外は、日本が歴史の中で育んできた「権威」を破壊することが、どんな結果を生み出すのかなど、まったく考えていないように思います。
構造改革・規制緩和・自由競争などの方向性が、日本の良き点を壊すのではないかという意見に、本当にそうなのかと考えてこの長い稿を書き始めました。
そして、それは違うだろうし、むしろ改革を阻む戦後利得者たちこそ、日本の美点を壊し続けてきたのだと確信しました。
といいますか、自由競争で日本の良さが失われるという理由を、ちゃんと説明している人を知りません。
さて、ならばどうすれば「権威とその連続性」を取り戻せるのか、その為には「何を守り、何を変えるべきなのか」それはまた改めて考えたいと思います。
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日本のお姉さんの意見。↓
聖書は、権威ある者に従いなさいと
書いてあります。彼らが神さまの意志に
反しない限りは。道徳的に間違ったことを
言う権威者には、従えませんが、
聖書はリーダーは、(神さまに)選ばれた人
なので、国民は権威に従うべきだと書いて
あります。国民のために良い事をしようと
頑張っているリーダーを意味もなく
けなしたり、反対するのは、国を愛して
いない人がすることです。
国民の利益を無視して外国人の
利益ばかり考えているようなリーダーは
リーダーになる資格が無いと思いますよ。
その人間は、どこかの国のまわし者です。