「大統領のお医者さま」 (春 具 )おもしろかったです。
2009年4月24日発行JMM[JapanMailMedia] No.527 Friday Edition http://ryumurakami.jmm.co.jp/
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■ 『オランダ・ハーグより』 第216回
「大統領のお医者さま」
□ 春 具 :ハーグ在住・化学兵器禁止機関(OPCW)勤務
■ 『オランダ・ハーグより』 春 具 第216回
「大統領のお医者さま」
ちょっと旧い話ですが、この一月、ドクター・ビル・クロース Dr. Bill Close の訃報がありました。
もっとも、WHOとか赤十字のような医療支援を仕事をされている方、あるいはアフリカ問題に精通されている方を除いて、ビル・クロースという医師を知っている読者は少ないでありましょう。クロース医師は、いまのコンゴ民主共和国がザイール共和国と呼ばれる以前、まだコンゴ共和国とよばれていた時代(ややこしいですけど、わかります? 1960年の話です)、帝国主義的な純粋さで彼の国に赴き、医療活
動を行なったアメリカ人医師であります。後年は大統領の侍医として知られることになった。
クロース医師の仕事を語るにはまず当時のコンゴ民主共和国、じゃなかったザイール、じゃなかったコンゴ共和国の状況を知らなくてはなりません。
コンゴはおおくのアフリカ諸国と同じく、複雑な歴史を持つ。
1960年、ベルギー国王の私有地だったこの地域は国家として独立を手に入れるのですが、あまりに早急な独立だったので、国内統治のインフラが整わないままひとりだちすることになった。ジョセフ・カサブブ氏が大統領、パトリス・ルムンバ氏が首相となる。だが、独立に際して植民地時代から白人憎しと思っていた軍部が残留白人(おおかたはベルギー人とフランス人)に攻撃をかけるのです。ベルギーは在留ベ
ルギー人と外国人保護のためと称してコンゴに派兵する。明白な主権侵害であるが、ベルギーは自衛権を主張して入り込むのです。
その間に、コンゴの南部にあるカタンガ地方が、コンゴからの独立を宣言してしまう。コンゴの南はダイアモンドやウラニウムが豊富な地域で、独立運動はツオンベ氏が首班となり、鉱石利権をねらう欧州企業(おもにベルギー)の後押しでクーデターを撃ったのであります。(コンゴはカタンガ無くしては成り立たない。鉱物資源がとられてはアフリカ一の貧乏国になってしまうのです。ですからここはどうしてもゆずれない。)
ルムンバ首相は国連へ助けを求め、安保理事会はコンゴへ国連軍の派遣を決める。
だが、ハマーショルド事務総長は「国連軍はバッファーだ」と言って、発砲することを許さないのです。銃を撃たない国連軍を見て、ルムンバは「反乱軍を駆逐できない国連は中立どころかカタンガの味方だ」と怒り、ソヴィエトに助けを求めにいってしまう。
ソヴィエトはルムンバに武器を供与してカタンガ攻撃を支援するのですが、この攻撃は失敗に終わる。カサブブ大統領はルムンバをはずし、軍人のモブツ大佐を首相に昇格させるのです。
職をはずされたルムンバはコンゴ東の故郷へ帰り、そこで独立運動をはじめるのです。彼は暗殺されてしまうのですが、つまり、1960年のコンゴには(1)首都のレオポルドヴィルにカサブブ・モブツ政権、(2)南のカタンガのエリザベスヴィルにツオンベ政権、(3)東のスタンレーヴィルにルムンバ残党政権、と3つも政府が存在したのであります。
ハマーショルド事務総長はツオンベ氏に会いにローデシアへ向かう途中、飛行機事故で亡くなってしまう。そして、ハマーショルド氏の跡を継いだウ・タント事務総長は国連軍にカタンガ攻撃を許可するのです。ツオンベ氏は脱出し、カタンガはコンゴに再併合されてコンゴ危機は収拾されたのであります。
(コンゴ危機は、国連軍に当時のおかねで4千万ドルという莫大なコストがかかったオペレーションでありました。ハマーショルドの対処に批判的だったソヴィエト、フランス、ベルギーはこのコスト分担の支払いを拒否するのです。おかげで国連は破産寸前までいった。これが第一回目の国連財政危機でありました。この件は国際司法裁判所までいき、「国連のある種の経費に関する事件」として法学者に知られておりま
す。)
クロース医師は、コンゴがベルギーから独立を果たす少し前、1950年末にザイールへやってきました。アメリカの教会団体がすすめる「Moral Re-armament 道徳の再強化」という運動の一環として、布教のためにアフリカへやってきたのであります。動機が布教ですから、彼の活動は献身的である。簡素な診療所を建て、診察を始めるのです。
もっとも、まだ近代医療のほとんどない国家でありますから、まともな医療器具はほとんどない。手にも入らない。手術にトンカチやのこぎりといった大工道具を使ったこともあるらしい。まるで西部劇の世界であります。消毒液もウイスキーだったかもしれない。
かたや独立の混乱がひろがるなか、多くの白人はどんどん国外へ脱出していく。そのなかで彼は残って診察を続けたのであります。多いときには一日350人もの患者を診たというが、10時間の労働として2分にひとりの検診という計算になりますね。
医療が崩壊してお医者さんに過重な負担が負いかぶさっている国の話を聞きますが、それとおなじであったようです。
ところで、欧米諸国はコンゴを独立させたあと、誰を首班にしておけば有利かということにアタマをめぐらせておりました。1960年、新生コンゴとベルギー政府が独立後の諸問題をブラッセルで話しあった時、ブラッセルのアメリカ大使館がコンゴ代表団を招いてレセプションを催した。館員がコンゴ代表団員ひとりひとりに張り付いてグラスを手にしながら個別に話をし、あとでひとりひとりの印象をまとめたのですが、代表団名簿には名前が載っていないけれど、モブツという若い男はすごいぞという話になった。大使館の館員が一致して、モブツは若いが賢くアタマも切れそうだ、あいつを青田買いしておくといいのだろうという結論になったというのです。モブツ氏はルムンバ首相の秘書としてブラッセルに来ていたのであります。
そのモブツ氏は、1965年に(CIAの支援によるといわれる)無血クーデターで政権を握り、大統領となる。
そして、ビル・クロース医師はひょんなことからモブツ大統領の知遇を得ることになるのであります。
あるとき、大統領の大叔母が救急車でクロース医師の診療所に担ぎ込まれたのです。
大叔母はその晩、夕食に魚を食べ、その骨がのどにつかえて気絶しそうになった。あわてた侍従たちが、いちばん信頼できそうな医者をということで、クロース医療院へ彼女を運び込んだのであります。
大叔母ののどにささった魚の骨を、ウイスキーで消毒したのこぎりとトンカチで無事に取り除いたクロース先生は、モブツ大統領に感謝され、家族の侍医に指名される。
モブツ一家の信頼が決定的になったのは、息子の割礼手術を成功させたときだという。割礼手術は、それを行っている国では非常に宗教的な意味があり、クロース先生もはじめての経験で、失敗したら殺されるだろうなと覚悟しながら手術に取り組んだらしい。(日本のお姉さんの説明:割礼とはイスラム教徒が子供の時に、局部の皮を切り取る儀式で普通はナイフで切り取るが、たまに患部が膿んで死ぬ人もいる。女児の場合は、肝心な部分を切り取って切り口を小さい穴を残して縫い合わせてしまうので、大人になってから不潔になって病気になる人もいるという習慣。男子の場合は皮かぶりがいなくて不潔にならないからいいのだが、女児に対して行うのは悪習だと思う。)
手術は成功し、こうしてクロース医師は大統領とアポイントメント無しで直接会うことのできる特権をもつ数少ない西洋人となったのであります。
本国アメリカからは教会の潤沢な資金が届く。アメリカ政府はモブツを支援している。現地では大統領の信頼がある。それらの組み合わせは、当然のことながら相当なメリットですね。クロース医師はそのメリットを最大限に生かしながら、診療だけでなく医療行政についてもアドヴァイスを行うようになっていった。そのことはひろくアフリカに支援活動をする国際機関やNGOの業務にもよいインパクトを与えていったのであります。
ずっと後のことですが、こういうエピソードもあった。コンゴを流れるエボラ川流域で奇病が発生し、400人あまりの地元民がわけのわからない高熱で死亡するという事件がおきた。ザイール政府は手の施しようがないままうろうろしたのですが、それを聞いたアメリカの疫病予防センターが救援物資と医者を派遣することにしたのです。ですが、それらはキンサシャまでは届くけれど、そのあとコンゴ国内の輸送がどうにも都合がつかない。
それでも彼らは取るものも取り敢えず出発するのですが、キンサシャへ向かう途中、彼らは飛行機の中であるアメリカ人に出会うのです。そのアメリカ人は彼らの話をふんふんと聞き、飛行場に着いたあと、ちょっとここで待っていなさいと言って電話をかけに行く。しばらくすると軍用機がやってきて、飛行機はそのままお医者さんたちと物資を乗せてエボラへ向けて飛び立ったのであります。
このアメリカ人がクロース医師だったのですが、彼は大統領とのホットラインを存分に活用して欧米の医療支援団体、赤十字、世界保健機構などの国際機関とのパイプをつくりあげる。そのことで支援・援助の能率はおおきく向上したのであります。
(脱線しますと、エボラ川の疫病のとき採取された血液の標本で、世界はエイズを知ったのだという。)
こういうクロース医師の行動は、結果はどうあれ、あの頃の時代の趨勢もありましょうが、「帝国主義的だ」と何度か批判されたことがある。
それで思い出すのは、同じ時期、コンゴの西に位置するガボンのランバレネという村で、おなじように医療のボランティアをやっていたアルベルト・シュヴァイツア医師であります。
シュヴァイツアは医者である前に、世界的なオルガニストで(バッハのオルガン曲の名手として知られる)、神学者で、哲学者でもあった碩学であります。オルガンのレコードで印税を稼ぎ、ノーベル平和賞をとり、多くの著書をものにしてその資産をすべてランバレネの診療所経営に使い、人生の後半をアフリカの医療に捧げた人物であります。
西欧のアフリカ政策に批判的な文章を多く書き、神学者として論陣も張っていた。
西洋からの医療援助はひも付きだと論じ、西洋が潤沢な資金を投入するのはアフリカに対する思いやりからではなく、共産主義の波及を止めるための方便であるに過ぎない、彼らの援助には「隣人愛」どころか「布教」という意味合いさえもないのだ、と歯に布を着せない批判をしたのであります。カタンガに国連が無力な軍を送ったことを批判し、ハマーショルド事務総長と手紙のやり取りをしたこともある。
シュヴァイツア医師は当時の援助外交と国際社会のアフリカ政策を一般的に論じたので、クロース医師を名指しで批判したのではないけれど、アメリカの教会はさっそく反撃に出て、シュヴァイツア医師(牧師)を中傷するキャンペーンをはじめた。
曰く「シュヴァイツア医師は近代医学の進歩を無視し、ふるい理論で患者を診ている」
曰く「ランバレネの診療所は30年もたってぼろぼろになっているのに、”苦労しながらアフリカを献身的に救っている”というイメージのために、建て替えようとしない」
曰く「ぼろの診療所の庭には鶏や豚が放し飼いになっていて、不潔だ」
曰く「ヨーロッパの医師を雇用せず、腕のない現地人の看護婦に頼っている・・・」
このやりとりをみていたアメリカの「プレイボーイ」誌は、1965年、これはおもしろい記事になりそうだとライターをランバレネに送り、シュヴァイツアとのインタビューをおこなった。
(「プレイボーイ」のような雑誌にクリスチャンのお医者さんがインタビューを受けるというと不思議に思われるでしょうが、それはクリスチャンのお医者さんが不謹慎なのではなく、それほど「プレイボーイ」誌の問題意識が高かったということであります。さらにいえば、「プレイボーイ」誌の原稿料はじつに破格で、そのために優れた作家が喜んで書いた。このインタビューは1965年に掲載されたあと、「Playboy Reader」という「プレイボーイ」誌発刊12周年記念の単行本に挿入され、わたくしはその本をもっていて、いまそれを読み返しながら書いております。)
以下は、「プレイボーイ」のライターとの問答であります。
PB「あなたはカタンガ事件について国連を批判されているが、ランバレネのよ うな僻地にいて、コンゴのような他国のできごとを論じるに足る情報はお持ちなのですか。
AS「いや、わたしは世界から孤立しているとは思わない。それよりも、孤立しているほうが静寂のなかで集中して考えることができるのです。コンゴは昔から絶望的に混乱している国です。なにしろ国が広すぎるのです。植民国家が勝手にこんなに広く国境線を引いたのだから、いまになってばらばらになるのはあたり まえです。そもそも部族はそれぞればらばらであるべきなのだ。アメリカや西欧が必死にお金をつぎ込みながらまとめようとするのはなぜだかわかりますか。共産主義を怖がっているのです。でも、心配する必要はない。アフリカはまともな共産国家にはなれません。
PB「アフリカにはどのような解決が必要だと思いますか。
AS「わたしは予言者ではないので、この大陸がどうなればいいのかわかりません。だが、時間をかければアフリカはじぶんで解決策を見つけるでしょう。われわれは急ぎすぎている。国連がカタンガに侵攻するようなかたちでは解決しないのです。わたしはそのことをハマーショルド氏に手紙を書いたことがありました。彼は言い分けがましい返事をくれたですけどね。」
PB「あなたは30年前に建てた病院私設を改善しようとせず、ヨーロッパの先進技術を持つ看護婦や医者を使うこともしないという批判があります。西洋の医者や看護婦さんを連れてくれば現地人のトレーニングにもなるのではないですか。」
AS「ここの患者たちは西洋の医療機械を見たこともないのです。建物は朽ちて看護婦は包帯も捲けない地元のアシスタントたちですが、そのほうがよほど安心なのです。庭に鶏が放し飼いになっているでしょう。そういう環境のほうが患者たちはよほど安心できるのですよ。」
PB「宗教は人を救えると思いますか。ここでいう宗教はあなたが学んだキリスト教も含んでですけど・・・。」
AS「わたしは今日の宗教が、本来の意味で人を救えるとは思わない。いまでも世界の争いは宗教の名によって行われているではないですか。それでも、ひとびとは宗教による救いを渇望している。いまの宗教はどれもひとびとの渇望を裏切っているとわたしには思えます。」
クロース医師は、10年あまりモブツ大統領と彼の家族の侍医としてザイールに暮らすが、大統領は次第に権力の甘さに溺れて腐っていき、腐敗と暴政とで悪名を高くしていく。その興亡は、いまでもアフリカ(だけではないけれど・・・)のおおくの政治家にみられる共通のパターンであります。
そして、モブツ氏は健康を害し、しだいに体力がおぼつかなくなる。独裁者が病気だと知られると、クーデターの懸念がでてきますね。クロース医師は大統領にもしものことがあったらと思うようになる。さらに、独裁者の常としてモブツ氏は側近の言うことも聞かないようになり、クロース医師の忠告にも怒りをあらわにするようになるのです。クロース医師は帰国を考え始めるのです(もうじきクーデターがおきてモ
ブツ氏は失脚するから、そうなるまえに国へ戻る方が懸命だと判断したという説明もある)。仕事も十分やったし、ここらが潮時かなと感じたのでしょう、彼は1970年代の末、アフリカを去ってアメリカへ戻ったのでした。
クロース医師は1994年にもういちど、コンゴ(ザイール)を訪れております。
大統領の頼みでキンサシャの総合病院の改築プロジェクトの手伝いをしたのでしたが、それが彼とコンゴとの最後のつきあいとなった。1997年に、カビラ将軍(いまの大統領の父)によるクーデターにより、モブツ氏は追放され、ザイールはコンゴ民主主義共和国と名を変えたであります。
いうまでもなく、わたくしはクロース医師とシュヴァイツア医師のどちらが正しい医療支援のモデルかということを論じようとしてきたのではありません。どちらの医師も成果を出し、多くのアフリカンが救われた。それはあの冷戦の時代にあって意味のあることだったなと、そのことを思うのであります。
ビル・クロース医師にはお嬢さんがひとりいて、名前をグレンといい、女優として活躍しております。
春(はる)具(えれ)
1948年東京生まれ。国際基督教大学院、ニューヨーク大学ロースクール出身。行政学
修士、法学修士。78年より国際連合事務局(ニューヨーク、ジュネーブ)勤務。2000
年1月より化学兵器禁止機関(OPCW)にて訓練人材開発部長。現在オランダのハ
ーグに在住。共訳書に『大統領のゴルフ』(NHK出版)、編書に『Chemical Weapons
Convention: implementation, challenges and opportunities』(国際連合大学)が
ある。( http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/9280811231/jmm05-22
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JMM[JapanMailMedia] No.528 Friday Edition
【発行】 有限会社 村上龍事務所
【編集】 村上龍
【発行部数】128,653部
【WEB】 ( http://ryumurakami.jmm.co.jp/
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アメリカの教会は、アフリカ人がエイズで大勢死んでいくのを悲しんで献金をつのって、アフリカ人を教育したり、治療して一定の効果をあげている。アメリカ人のクリスチャンたちの博愛精神は、日本人はかなわないと思う。日本人は、アフリカには、あまり関心がない。遠いからかな、、、。チュウゴク人は資源が欲しいからアフリカには関心が大ありで、昔から大勢の留学生を受け入れてチュウゴウ語で教育している。スーダンでは、卒業生はみんな政府の高官になっていて、高官たちは全員チュウゴク語もできるから、スーダンはチュウゴクとは相思相愛のベタベタの関係だ。聞いた話によると、昔、スーダンに派遣されていたチュウゴク人大使館の人がいいチュウゴク人だということでスーダン人の間で評判だったらしい。
スーダンでは、留学生作戦は大成功だし、チュウゴク人もそう言っている。