早川さや香のプロフェッショナルの唯言 | 日本のお姉さん

早川さや香のプロフェッショナルの唯言

早川さや香のプロフェッショナルの唯言↓

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~濃く熱く、ひたむきに生きる仕事人に聞くライビング・メッセージ!~
第1回 佐藤辰男 氏(角川グループホールディングス代表取締役社長兼COO)
よく死ぬこと=よく生きることだと言います。
各界の一流仕事人の人生観・死生観にせまる連続インタビュー第一回目は、
雑誌やコミック、ゲーム、映画と多岐にわたる事業で躍進する角川グループホールディングス社長・佐藤辰男氏の"唯言"をお届けします。

《唯言人》佐藤辰男 氏の半生
静岡県生まれ。大学卒業後の1976年、日本トイズサービス社に入社、「週刊玩具通信」編集部に勤務

1983年 角川書店の角川歴彦氏に見出され、コンピューターゲーム誌「コンプティーク」を創刊
1992年 同社から独立しメディアワークスを設立、「電撃王」など5誌を創刊
1995年 同社社長に就任
1999年 角川グループホールディングスに取締役として復帰就任
2008年 同社の代表取締役社長兼COOに就任

◆パソコンゲームで本格的に遊ぶ雑誌を創り、
日本中に大ブームを巻き起こした、「オタク文化」の第一人者といえる。
「オタク文化って、特殊なものみたいに言われますが、12世紀の鳥獣戯画…ウサギとカエルが相撲をとる…というマンガから始まって、漢字ひらがな文化+絵をからませて動かす表現は、とても広く好まれてきた形態で、とても日本人らしい感受性の発露だと思います。ゲームもその発展形として、美しく、情趣あるものになりました。そういうものが世界中を席巻して、ジャパン・クールだなんていわれることは、誇るべきことだと思います」

「ほんとうの一流の人って、オーラが“無い”んだよね。ポヤ~ンとどこかヌケていて、大丈夫かな?って思われる。それで自然と周りを張りきらせるので、大勢に助けられて、ますますVIPになっていくんだよね」

などと言っていたのは、どこぞのコンサルタントさんだったか。
たくさんの実業家を見てきた方の言葉だが、

「反対に“仕事できます!有能です!”みたいなオーラを出してる人って、1.5流なのね。年収も1~2千万円そこそこだったりね」

・・・おい!
このご時勢、年収が1千万もあれば上々である。
そんな全人口の2%のミリオネラーの心構えを説かれても真似っこできますかい!

凡人がポヤ~ンとしていたら、そのままポヤ~ンと日が暮れてしまう。と、思っていた凡人ライター(早川)は、角川グループの総帥・ホールディングスの佐藤辰男社長とお会いして、彼の言葉を思い出した。

そう言うと、失礼になってしまうだろうか。
もちろんオーラが無いわけがない。

相手を威圧しないよう、空気をまろやかにする・・・という高等戦術を自然になさっているようだ。社長はていねいに人生観・死生観を話してくださった。(以下、敬称略)

唯言その一
◆これまでの実績で、自分自身を褒められることは?
◇『君は素直で、いい』
「この会社・・・角川グループホールディングスの社長になるとき、会長(角川歴彦氏)から、言われたんですよ。56歳のおっさんが素直って、どう受け取ったらいいんだろうって思いましたが(笑)。ぼくは田舎の人間だし、自画自賛することも何もないし、まさに『素直』なんだろうなぁ、とは思います。
 『虚心』っていう言葉がありますが、相手のあるがままを受け入れよう・・・というところはあるのかな。逆に言うとそれしかない(笑)。あの、こういう感じで、ビジネスの話でなくてもいいんですよね?」

あまりにも「虚心」の方で、かえって緊張しそうである。

誤解のないようしるすと、ビジネスでは「計画管理型ホールディング体制」という目標を掲げ、もっか推進中の辣腕COOである。しかし、ムツカシイ話は角川グループの経営会議の場にまかせ、ここでは「虚心・佐藤辰男」に傾聴したい。

唯言その二
◆人生の転機/命拾い/曲がり角は?
◇『あの出会いがなかったら、雑誌の創刊という幸福は、味わえなかった』
「ぼくは、第二次オイルショックがあった1976年に大学を卒業していますから、とにかく就職先がなく、いろんな出版社にも落ちました。卒業ぎりぎりの2月に、ようやくおもちゃ関連の会社に受かったんです。おもちゃを買ってもらえずに育ったものが、おもちゃ業界新聞の記者になってしまった(笑)」(...次のページへ)

「出版社で雑誌を作りたい希望はあったが、勤められないものはしょうがない。
新聞記者も面白いし・・・と目の前の仕事に取り組んでいたという。

「70年代には、すでにアーケードゲームや、『アタリ』などのテレビゲームがアメリカから輸入され、任天堂からも出ていました。PCも、70年代なかばにアップルが発売されて、ソフトとして表計算、ワープロ、ゲ-ムなどが出ていました。80年代にはゲーム&ウォッチも家庭に出回っていたし、83年5月の発売を控えたファミコン前夜でもあったんです」

やっぱりチャンスは、「虚心」の人に訪れるのだろうか。

「コンプティーク」創刊号。当時のキャッチコピーは“パソコンと遊ぶ本”
1982年、「週刊ザテレビジョン」を創刊して、「テレビのブラウン管や、PCの周辺に、もっと新雑誌の可能性がある」と考えていた当時の角川書店専務・角川歴彦がパソコン雑誌の企画をもとめていることを、共通の知人を通して知った。

「それで家に帰って、こんな雑誌があったら面白いだろうなーっていう企画を、当時はワープロもありませんから、紙に手書きして持っていったんです」

それを見た歴彦は「じゃあ君やってくれ!」と即決した。こうして83年パソコンゲーム誌「コンプティーク」が誕生。しばらく売行きは芳しくなかったが、85年に入って、隠しコマンドなど「裏技」の掲載が大反響。
7万部だった発行部数が、8年間で25万部にまで伸びていた。

◇『続けたいから、やめた』
――順調に業績をあげる中、1992年~93年「角川書店のお家騒動」などと呼ばれる一連の事件が起こる。当時の社長である角川春樹と歴彦兄弟の経営判断にズレが広がり・・・

――くわしい事情は過去報道にゆだねるが、角川書店は存亡の危機、その子会社である、佐藤が率いるオフィスも風前の灯だった。佐藤は、歴彦の後を追うように会社を辞めた。

そして、スタッフらを前に、歴彦元副社長と小さな編集プロダクションを始めたい。一緒にやりたい者がいれば手を挙げてほしい、と涙ながらに語った。全員が挙手をして、スタッフ七〇人全員が佐藤に続いて辞表を出したという。

「それはもう、自分達が生んで育ててきた雑誌が、もうやれなくなるっていう思いといったら……。だから、角川書店を辞めるというのは、非常にリスクの高いことだったのかもしれないけど、何か辞めてしまおうっていうのでなく、続けたいからやめる。辞めることで新たに出発する。そういう気持ちだったんです」

リスクも不安も山積みだったという。

1992年、新会社メディアワークスを設立し、「電撃スーパーファミコン」「電撃王」「電撃PCエンジン」「電撃コミックGAO!」「電撃コミックメガドライブ」と立て続けに5誌を創刊。

「でも、作家さんたちは角川書店側に置いてこなきゃいけなかったし、本家のライバル誌をつくるんだから、法的な不安もありました。おまけにスタッフは、みんな『編集者』だから、『総務』『経理』『営業』をやったりするのはシロウトで。役割分担しましたけど、製紙会社さんとか銀行さんと、イチから付き合う大変さは・・・」想像を絶するものがあった。(...次のページへ)
もうね、最初の2年ぐらいは厳しくて、ずっとメソメソしていました。やっぱりダメなんじゃないのって。でも、部下の子たちがみんな志が高かったし、前に進むしかない感じでした。
94年にソニーからプレイステーションが出たとき、これに合わせて「電撃プレイステーション」をつくったら、競合誌がなくてとても売れたんです。それで何とか経営が成り立つようになりました。歴彦会長は、いまだに『何年の何月に、初めて黒字になった』ってピンポイントで言います。どれだけうれしかったかって話ですよね」

その後、メディアワークスは角川グループホールディングスに復帰。くじけっぱなしだったと云いつつ、生き残りのエキスパートに見える佐藤。出版社もきびしく淘汰されそうなこの時代にあって、「出版も映像も、ネットも“組んずほぐれつ”させながら、ありとあらゆる形にこだわらないコンテンツの送り手になることが、これからの時代に生き残れる選択だと思うし、角川グループには合っていると思います。われわれの流すものが、サービスとしてあらゆる環境に流れていく、そういうメガ・コンテツ・プロバイダーでありたいですね」出版社の生き残り方について話してくださった。では、自身の理想の生き方、そして、それを反映する理想の「死に方」は?


唯言その三◆わたしの死生観◇『落地生根』「ぼくは、いろんな出会いがあって、いろんな変化の中を生きてきたなと思うんですけども・・・横浜だったか、神戸だったかな、忘れちゃったけど、中華街のおばあさんの言葉で、『落地生根』というのを新聞で読んだんです。 一人の人間が故郷を離れて異国の地に渡り、その土地になじみ、家業や家庭を築き、やがてその地の土に帰っていく。華僑とか、ユダヤの人の死生観なんでしょうか。タンポポとか、雑草がすべてそうだと思いますが、ああ、自分にピッタリだなと思ったんですよね。人間って、そういう面がありますよね。誰の子として生まれるかわからないし、生まれてからどんな人と出会うかわからない。そういう意味では、99%は運命として与えられて、1%だけを一所懸命、自分でなんとかして生きようよってことなんじゃないかなあ。風に吹かれ、飛ばされて、人生は自分の思うようにならないことがほとんどですからね」(...次のページへ)

◇『一粒の麦 もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし』 (『ヨハネ伝』第12章24節より)
「ちょっとキザっぽいですが、この言葉も自分にピッタリくるんです。ぼくは何の宗教観ももっていないんですけど。
 麦が死んで地面に落ちると、初めて芽が生えてくる・・・要するに、死んで初めて代々つながっていくっていうことですよね。人間ってそういう宿命があると思う。生きている間は殻の中で、一粒の実として生きているけど、地に落ちて死んだら、そこから別の花が咲いていけばいいなと」

佐藤はあまり否定的な言い方をしないが、風に逆らい崖にしがみつき、自分だけが咲き誇っても、地の養分にもならず朽ち果ててていくだけ・・・そんな生き方はさみしいなあ、と思わされる。生き物は後進の花を咲かせてナンボ。それは、最高責任者としての責任感から来る思いでもあるのだろうか?

唯言その四
◆責任と自分と仕事のカンケイ
「よく冗談っぽく言うんですけど“責任”っていうのは、自分から抱えこんで使命感をもってやるものじゃないと思うんだよね。
 たいがい、後ろから矢みたいに飛んできて、で、“この矢はどこに刺さるんだろう”と思っていると、あれっ自分の背中に刺さってた…という(笑)」

それが佐藤の“責任”のイメージだ。

「なんでこんな責任を負わなきゃいけないんだろう・・・そう思っていると、とても不満だし辛いじゃない? でも、責任ってきっと、会社とか社会とかの中で生きていくうちに、いつの間にか背中に刺さっているものだと思うんです。刺さったその矢を、何とかしようともがくのが、責任と自分の関係なんじゃないかな。そこから何かつかんだり、絞り出したりするのが、自分の仕事っていうものじゃないかなあと思います」

さきほどの唯言とつなげると、責任という矢はとても痛いものだが、そこからも芽は出るし、育ててることもできる・・・とも受け取れる。そう考えると気楽になれる。社長は「辛そうなことを辛くないように考えるのがうまい」人なのかもしれない。

おわりに、唯言伝達人より
◆形見分け
「あるがまま」とか「素直」とか「風にとばされる種」とか「背中に刺さっちゃった矢」とか。
佐藤社長は、淡々とそういう言葉を繰り返されました。長らく同族経営であった出版社で選出された、新世代のリーダーなのだなぁと思わされました。

素直ということは視野が広く、たくさんの情報を、曇りなく判断できる能力ということかもしれません。つまらない意地や頑迷さがないので、新事業や環境にスッと入っていかれる。そして目の前の業務に没頭される、その積み重ねが今に繋がるのでしょうか。

書くとそんなこと、と思われるかもしれませんが、これが意外と難しい。少なくとも私は今晩のごはんや、今日眠るマクラでさえ、これでなくてはいやだと思ってしまいます。同じ雑草でも、「こうでなきゃ」という条件をいっぱいもっている草ほど、ひ弱なのかもしれません。

そしてペシャンと踏まれればおわり。でも、「佐藤辰男の草」はたくさんの種へと生まれ変わり、多くの土地でまた生きていける。「辰男の草」を皆さまにおすそわけしますから、いっしょに今より数センチだけ、遠くへ飛ばされてみませんか。
※参考文献『全てがここから始まる』/佐藤吉之輔(角川グループホールディングス)より

《唯言人》佐藤辰男 氏の半生

静岡県生まれ。大学卒業後の1976年、日本トイズサービス社に入社、「週刊玩具通信」編集部に勤務

1983年 角川書店の角川歴彦氏に見出され、コンピューターゲーム誌「コンプティーク」を創刊
1992年 同社から独立しメディアワークスを設立、「電撃王」など5誌を創刊
1995年 同社社長に就任
1999年 角川グループホールディングスに取締役として復帰就任
2008年 同社の代表取締役社長兼COOに就任


◆パソコンゲームで本格的に遊ぶ雑誌を創り、
日本中に大ブームを巻き起こした、「オタク文化」の第一人者といえる。
「オタク文化って、特殊なものみたいに言われますが、12世紀の鳥獣戯画…ウサギとカエルが相撲をとる…というマンガから始まって、漢字ひらがな文化+絵をからませて動かす表現は、とても広く好まれてきた形態で、とても日本人らしい感受性の発露だと思います。ゲームもその発展形として、美しく、情趣あるものになりました。そういうものが世界中を席巻して、ジャパン・クールだなんていわれることは、誇るべきことだと思います」