なんのために生きるのか | 日本のお姉さん

なんのために生きるのか

何のために生きている? ブログネタ:何のために生きている? 参加中
本文はここから
最近、なにげなく観ていたテレビの番組で、
お笑いタレントさんが、「なんのために生きるのか」と
ゲストに質問をしていた。
ある芸能人の女の子のサイトに、読者が
質問をするコーナーがあって、その女の子がいつも
適当に短い答えを書いているのだそうだ。
その答えがいつも変わっていておもしろいのだと言っていた。

その質問コーナーに、ある学生が、
「なんのために生きるのか」」という質問をしたそうだ。
その女の子は、短く、
「そんなん、死ぬとき分かる」と答えたそうだ。
お笑いタレントは、おもろい、おもろいと言っていたが、
死ぬ時、分かっては遅いのではないかと、わたしは思う。

何のために生きるのか。
それを考えることは、人間としての基本でしょう。

動物は、そんなことは考えない。動物のような人間は
そういうことなどは考えない。
でも、普通の人間は、なぜ、自分はここにいるのか。
自分の存在は、何の意味があるのか。
自分は何のために生きるのか。
神は存在するのか。神と自分の関係はどうなのか。
死後はどうなるのか。他人が言うことは正しいのか、
真実とはいったい、なんなのか。
生きがいとは、なんなのか、愛とは人生とは、なんなのか
などなど、一度は考えるものなのだ。

そういうことは、だいたい中高生がマジメに考えている。
生き始めて、10数年しかたっていないし、受験などを
経験し、これからの長い人生を生きていくためには、
数々の難題があって、そのつどクリアしていかねば、
周りからも自分も自分の価値を評価できないと思えば、
(本当は学力では、人間の価値を評価できないのですがね。)
生きているのは、なかなか大変なものだと考えるように
なるからだ。それに、中高生には、ヒマがたっぷりある。
勉強や部活や遊びや趣味に忙しくても、考えるヒマも十分
あるのだ。

家庭や学校やバイト場などで、いろんな幸せな出会いや
不幸な出会いを経験し、喜んだり苦しんだりしながら、
ストレスを克服して、大人になっていくのだ。

そういう時期に、マジメに「なんのために生きるのか」と
考えることは、とても大切なことだし、人間として
当たり前のことなのではないかと思うのだ。

大学生になって、中高生の時代になかった楽しみを知ると、
そんなことを考えたことも忘れて、各自の興味がわいた
方向に就職したり、興味がわいた人と結婚したりするのだと
思う。就職したり、結婚すると、忙しすぎて人生について
考えるヒマなどなく、あっという間に中年になる。
中年になると、少年、少女の頃の純粋な気持ちは消えうせて
いるため、金のことや世間体のことばかり考えていて、
人生について考えない。むしろ、仕事や経済的なことや
個人的な趣味の追求や、娯楽や
家庭の悩みや楽しみに没頭している。
一日24時間では足らないぐらい、毎日忙しくて大変なのだ。

それでも、たまに、「なんのために生きるのか」という
質問に出くわすと、フト、純粋だった頃の自分に戻り、
答えを探そうとしてみるのだ。

テレビでは、おじさんたちが、「みんな、それぞれの答えを
持ってますよねえ。ボクだったら、ボクは親や兄弟や
好きな友人が生きていると嬉しい。だから同じように
親や兄弟や友人たちも、ボクが生きていたら嬉しいから
みんなが嬉しいために生きているって答えますネエ。」と
言っていた。

お笑いの芸能人は、「お前は、何のために生きてんねん。」と
まわりの人に聞きまくっていた。みんなが答えに窮するうちに
そのまま、時間が来て番組が終わった。

わたしは、クリスチャンなので、答えを持っている。
人は、神さまのために生きているのだ。
人は、神さまに命をもらったので、寿命が来るまでなるべく
元気よく過ごせるように努力しなかればならない。
神さまを信じたクリスチャンは、神さまの栄光をあらわすために
生きている。クリスチャンを見ると神さまの性質が分かるように、
イエス・キリストに似たものとして生きるのが生きる理由だ。

人は、生きている間に神さまに出会って、神さまに
罪を赦されて、天国に行けるような身分になっておかねば
ならない。そのために、人生を使わねばならない。
そして生きている間、神さまに祈りながら、日々助けを
いただきながら、神さまに喜ばれる仕事をするために
生きているのだ。

神さまが罪を赦す方法は、ただひとつ。
神さまが、聖書の預言どおりに
この世界に送り込んだ、神さまのひとり子が、十字架に
かかって、人類の罪の身代わりに死んだこと、
三日目によみがえったことを、自分のためだったのだと
知って信じること。

信じる者は、罪が赦され、死後も裁きにあわず、神さまの
国に戻れる。もともと、人間は、神さまと仲良く語らいながら
エデンの園で暮らしていたので、天国に行くことは、
本来の状態に戻ることなのだ。
神さまがこの世界に遣わした神さまのひとり子は、
イエス・キリストとして、全世界に知られている。

神さまに創られた人間は、神さまと仲良くしていなければ
心に空しさがあって、他人に愛を求めても完全に愛を
補充することはできない。人間の愛は、完全ではなく
愛し合って結婚した夫婦でも、時にはケンカしたり、
仲直りが上手くできなくて離婚したりする。
または、浮気をして、相手を裏切ったりもする。
人間は、神さまに創られたため、神さまという存在を
必要としている。それは、宗教心と呼んでもいい。
それで、世界の創造主である神さまを信じたくない人は
人間が勝手に作った偶像を、自分の神として礼拝する。
それで、自分の宗教心を満足させようとする。
でも、本当の神さまはただひとりしかいないので、木や石で
できた偶像を神として礼拝するということは、実は
神さま以外の霊的な存在を礼拝しているということなのだ。
つまり、神さまではない、悪の霊を神として拝んでいると
いうわけだ。神さま以外の霊を拝んで、それに奉仕する
ことは、神さまに対する罪です。

人間はなんのために生きるのか。

生きている間に、自分の創造主である神さまに出会って
罪の裁きから救われるために生きているのです。
そして、神さまに与えられた命を大切に管理し、神さまの
栄光をあらわすために生きているのです。
これは、聖書にはっきりと書いてあるから、本屋で聖書を
買って読んでみてください。

高校生の時に、クラスの子に、同じ質問をしてみたことが
ある。その男の子は、「それを見つけるために生きて
いるんや。」と言っていた。死ぬ間際に、神さまに感謝して
天国に行くことを確信して死んでいくことが、彼には
できるのだろうか。死ぬ前に「何のために生きてたんや?」
なんて自問しながら死ぬのは情けない。
神さまは、全ての人の人生は、旅をしているようなものだと
聖書に書いてくださっている。人生は、天国に向かう旅の
ようなもので、一日一日は、神さまがくださった日。
聖書の中に、「わたしは、それを喜び、楽しもう。」」という
ダビデ王の書いた詩がある。旅人には帰る家がある。
そして旅路を一生懸命に頑張って生きている。
旅をする間には大変なことも起るし、楽しいことも起る。
旅人は、ある日、家に帰ることを知っている。だから
浮浪者ではない。全ての経験を心に刻んで、旅人は
旅の一日一日をエンジョイしながら生きるのだ。

人間は、神さまのために生き、神さまの元に戻るための
道を歩んでいるのです。生きている間が、神さまを信じて
神さまとの関係を修復するチャンス。
このチャンスを逃さないように。命がある間に、神さまを
信じていつでも天国に行ける状態になっていてください。
神さまがくれた命を大切にして、一日一日を神さまが
喜ばれることのために使ってください。
もちろん、仕事をして、その報酬で食べることは人間の
義務です。そして富める者が弱くて貧しい者を助けて
生きるのは、神さまの願うことです。
神さまは、悩むもの、悲しむものの声を聞いておられます。
自分だけ食べて、食べ物が無い者を見殺しにすることは
神さまの願いではありません。人間の心には罪があり、
罪があるから罪を犯す。そのような暗い世の中で、
神さまの願いを実現していくのが、神さまを信じた者の
勤めです。
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コメントをくださった方へ:
世界の創造主はひとりなので、
その神さま以外のモノを拝むことは罪だと聖書に書いて
あります。また、神さまの存在を信じるだけでは天国には
入れません。悪魔や悪の霊たちも神さまが存在されて
いることぐらいは、知っています。
だから、普通の日本人のように、すべての物の中に
神が宿っていると考えているだけでは、天国にいけません。
全ての物質の形は、神さまがキープしていて、すべての物は
神さまの中に存在していると聖書には書かれているので、
全ての物に神が宿るという考え方は、そんなに間違っては
いないし、人間は神のカタチに似せて作られているため
感情もあり、意志もあり、想像力もあり、
物を作る力もあります。
でも、人間を拝んだり、木や石でできたモノを拝むことは
創られた方に対する罪です。水や空気や太陽は、人間が
生きるために必要なモノで、神さまが人間のために用意
されたものなのに、そんな物質を拝んだり、先祖という
死んだ人間を拝むのは、神さまに対する罪です。

神さまが存在するとか、自分の中にも神がいるとか
全てのモノに神が宿っていると思っているだけでは、
天国に行けません。

知ってもらいたいことは、ひとりひとりが生まれてから死ぬ
までの間に犯した罪を、神さまが死後に裁くということです。

その罪が赦されているか、いないかで地獄か天国かが
決まるのです。神さまは、人間を愛しておられるので、
どんな人でも望めば天国に行けるようにしてくださっているのです。
つまり、罪のない神さまのひとり子が、人間の身代りに
十字架の上で地獄の罰を受けたので、それで裁きは
終わっている。それを信じないなら、自分の罪の罰は
死後に受けなければなりません。
自分を創ってくださった神さまを無視して、人間が好き勝手に
想像して作った偶像や、自分に都合のいい宗教を信じる者は、
天国に行けない。
神さまの存在を信じているだけでは、天国に行けないのです。
罪に対する神さまの怒りは、人が思っている以上に厳しいと
いうことです。
神さまが自分の右の座にいる父と子の関係の、もうひとりの
神を人間の身代りに裁かねばならないほど、
神さまにとって罪の問題は重要なことなのです。
神さまは、愛があるだけでなく、罪に対する厳しさがある方
なのです。罪がある人間は必ず裁かねばならない。
だから、神さまは、代わりに罪のない神さまのひとり子を
裁いたのです。信じる者を地獄から救うためです。