区別と差別は違う(外交と安全保障をクロフネが考えてみた) | 日本のお姉さん

区別と差別は違う(外交と安全保障をクロフネが考えてみた)

区別と差別は違う(外交と安全保障をクロフネが考えてみた)

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国籍法”改正”の山場は今週と見られていたが、与野党からそれに対する懸念の声があがったのを受け、参議院法務委員会は27日、同法改正案の採決をいったん見送った。

参考記事

だが、今国会が来月25日まで延長されることが決定したので、依然厳しい情勢に変わりはない。
 
国籍法改悪が見送りになることが一番なのだが、国籍法の”改正”を前提として、偽装認知の防止に向けた付帯決議の内容をつめるようだから、せめて実効性のあるものになるよう諸先生方の努力が実を結ぶことを祈るばかりだ。

 
 さて、今朝の産経新聞・正論欄に稲田朋美議員が登場なされていたが、国籍法改正にあたってDNA鑑定を取り入れることの困難さを指摘なさっていた。

婚姻関係のない親子にDNA鑑定を導入するなら、婚姻関係のある親子にも導入しないと、最高裁に再度憲法違反をいわれる恐れが大きいからだという。

正論

 私は必ずしもそうは思わないのだが、それはひとまず置いておくとして、やはり諸悪の根源は、人と人との間に必要な区別を差別と強引に決めつけて違憲判決を出してしまった最高裁にあると言わざるを得ない。

これまで父が日本人で母が外国人かつ出生後に認知された子で、夫婦が婚姻関係になかった子は日本国民ではなかった。

日本国民である者とそうでない者の間には当然区別があってしかるべきだが最高裁はそれを否定、日本国民でない者にまで「日本国民は法のもとに平等である」と定めた憲法14条を適用してしまった。

そこがすべてのボタンの掛け違いの始まりであり、これまでたいした矛盾もなかった日本の法体系の一部を、最高裁が自らの主観でいじくってしまったために、次から次へと矛盾が発生するようになってしまった。

国籍法が違憲とされたから、国籍法を変えなくてはいけなくなったが、そうなると悪用される恐れが出てくる。

それを防止するためDNA鑑定を入れようとすると、今度は民法と矛盾してしまうのではないかという指摘が出る。

はじめから、日本国民とそうでない者との間の区別を認め、その人が帰化をして日本国民になってから憲法14条を適用しても遅くはなかったのであり、帰化がしにくいから・面倒だからといって最高裁が憲法を”解釈改憲”するなら言語道断である。

 前回エントリーでも取り上げたように、国策で大量の移民を入れたり、外国人に参政権を与えることや、”多民族共生社会”なるものを日本で実現しようと訴えている勢力には、”人権尊重”の美名のもと、「日本にいる外国人と日本国民の扱いを完全に平等にしろ」と主張している人達がいる。

そうした思想は、本来日本国民ではない人に憲法14条を勝手に適用してしまった最高裁にも、多大な影響を与えたものと思われる。

 よく「外国人だって税金を払っているのだから、参政権が与えられてしかるべきだ」という人がいるが、外国人だって日本国民の税金でつくった社会インフラの恩恵にあずかっているのだから、税金を払ってその一部を負担するのは当然のことである。

外国人だって、道路や橋を利用するだろうし、警察に身を守ってもらってもいる。子供を公立学校に通わせている人だっているし、火事を出せば、消火に駆けつけるのは韓国・中国・アメリカの消防車ではなく日本のそれである。

 よって、外国人に参政権がなかったり、警官や自衛官のような公務員になれないのは、差別ではなく必要な区別である。

もし日本国民と同じ待遇を受けたいのなら、日本国籍をとって日本国民として恩恵を受けるとともに義務もしっかり果たさなければいけない。

ひとたび日本国民となれば、その人を肌の色・性別・思想信条などで差別することに私は絶対に反対である。

最高裁も含めて、彼らは「必要な区別と差別の違い」が全くわかっていない。

 諸外国にも、その国の人間と外国人との間の区別は存在する。

たとえば韓国だが、外国人が韓国に入国する際、韓国を批判する印刷物を持ちこむことは禁止されているはずである。税関を通るときに持っていることが発覚すれば没収されるだろう。

韓国人は自国をいくらでも批判するのだから、韓国人と外国人は言論の自由という観点から見て明らかに不平等だ。

しかし、それでもあえて韓国に入国しようとする外国人は、韓国側が定めたそうした区別には従うべきだろうし、納得できないなら初めから韓国へ行かなければ良い。

 日本を”多民族共生社会”にしたい人達が理想視する移民国家にだって、その国の人間と外国人の間の区別は厳然と存在する。

例えば、中東の産油国カタール。

カタールは豊富なオイルマネーをバックに、カタール国民の2倍以上の外国人労働者を受け入れている移民先進国だが、それではカタールは本国人と外国人に区別の無い”多民族共生社会”なのだろうか?

それは違う。

カタール国民は結婚すると政府から祝い金として500万円相当が、新居を建てるなら住居購入資金としてさらに2000万円相当が支給される。

だがそれはカタール人同士の結婚に限られ、結婚相手が外国人であればそうした援助金は受け取れないという区別がある。

カタールにいる外国人は”多民族共生社会”が認められているどころか、カタール人同様イスラムの戒律を最大限尊重し、その戒律に従わなければいけない。

イスラム教では飲酒は厳禁であるが、”多民族共生社会”をつくられなけばいけないから、カタール人は禁酒でも、非イスラム教徒の外国人は自由に飲んで良いということにはならない。

カタールにいる外国人は政府に高いお金を払ってお酒の購入許可証を発行してもらわなければいけないのである。

(完全禁酒のサウジで飲酒が見つかれば、宗教警察がやってきて外国人でもムチ打ちだろう)  

日本では大人なら飲酒の自由があるが、カタールにいる外国人と飲酒が許された国にいる人間とでは明らかに不平等である。

ホットパンツにキャミソール姿の女性が歩いているなんて日本では珍しくないだろうが、カタールのモスクでそんな格好をしていたらタダでは済まない。

これとて表現の自由という観点から見て、カタールの中にいる外国人とそうでない人とでは不平等だ。

カタール人と外国人が交通事故を起こしたら、外国人はまず裁判に勝てないともいう。

 それは行きすぎなのかもしれないが、外国人がその国を訪れたり移民する場合、あえてその国のお世話になるのだから、その国の文化・習慣を尊重し、外国人に対する区別を受け入れるのは当然のマナーだと思う。

ある人が友人の家に招待されて、やれ「家具の趣味が合わないから変えてくれ」だの、その家の主人がしているロレックスの時計を「私がそれを持っていないのは不平等だから、私にも買ってくれ」だの言い出したらどうだろうか。

こんな非常識な人間もあるまい。

カタールを含めた諸外国がとっている外国人への区別に対し、外国人は最大限尊重すべきである。

だからこそ、昔から「郷に入らば郷に従え」とか"When in Rome, do as the Romans do."と言ったのであろう。

カタールを含めた諸外国がとっている外国人への区別に対し、外国人は最大限尊重すべきである。

 これは日本にもいえることだ。

日本に来る外国人は、まず日本の文化・習慣を尊重するべきであろうし、日本に来た以上、日本社会が定めている日本国民と外国人との区別も受け入れるべきである。

どこまでが必要な区別でどこからがやってはいけない差別か、という問題もあるが、それを決めるのは日本の主権を持つ国民とその代理者である国会だ。

選挙で選ばれていない裁判官やましては外国人ではない。

その意味で、国会が定めた国籍法の日本国民と外国人との区別を、今年6月に最高裁が、自らの主観でもって勝手に差別と決めつけてしまったのは、日本の主権が裁判官ではなく日本国民にあるとしている日本国憲法第一条に違反している。

差別と区別の見分けがつかない最高裁。

それが一番良く表れているのが、最高裁が現在の国籍法が憲法違反だという根拠を述べた、「父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かは、子にとっては自らの意思や努力では変えることのできない身分行為」 という部分ではないだろうか。

もし「子にとって自らの意思や努力では変えることのできない行為」を不平等な差別とするならば、お金持ちの子に生まなかったことが差別になり、日本国民に生まなかったことも差別としなければいけなくなるのではないだろうか。

そうなれば、日本社会が収拾がつかない大混乱におちいること必定だ。

日本の最高の法の番人たる最高裁は、行きすぎた平等主義と「かわいそう」という感情に流されて、法をないがしろにしてしまったのではないか。

  ”多民族共生社会”や”人権尊重”といった一見誰も反対できないような美名のもと、「日本にいる外国人と日本国民の扱いを完全に平等にしろ」という人達の存在を指摘したが、たいていどこの多民族国家・移民国家にも、本国人と外国人の間に何かしらの区別は存在しているのである。

「日本にいる外国人と日本国民の扱いを完全に平等にしろ」と主張する人達には、正真正銘の外国人も含まれているようだが、それこそ前述の、他人の家に招待されて、やれ「家具の趣味が合わないから変えてくれ」だの、その家の主人がしているロレックスの時計を「私はそれを持っていないのは不平等だから、私にも買ってくれ」だの言う非常識きわまりない人間ではないだろうか。