☆ 幻に終わった「日の丸」売却話 ―――― 竹下義朗さん
ようちゃん、おすすめ記事。↓≪WEb熱線≫
▼▽ 歴史再考 ▽▼
☆ 幻に終わった「日の丸」売却話 ―――― 竹下義朗さん
原著:2001/05/07
平成11(1999)年7月22日、日の丸・君が代を日本の国旗・国歌とする『国旗及び国歌に関する法律』──いわゆる『国旗・国歌法』が国会で成立し=同年8月13日施行、物議を醸した問題が法制化という形で決着をみました。しかし今尚、左翼や教育現場など、日の丸・君が代反対!と主張して止まない勢力が存在します。そこで今回は、日本の国旗「日の丸」について触れてみたいと思います。「日の丸(正式には「日章旗」という)」は、法制化以前も日本の国旗=旗印)として認知されていました。例えば、古くは戦国最強の大名といわれた甲斐の武田信玄や、徳川の世の礎を築いた家康が、日の丸=赤丸を軍扇などに使用したといわれていますし、江戸時代には幕府の御城米廻船=御用船)に日の丸の掲揚が義務づけられていました。まあ、これらが、日本の国旗であったかどうかというには疑問の余地があるかも知れません。しかし、近代的概念に基づく国旗を、当時の価値観や概念に求めること自体が無理な話で、現代の価値観で当時の「日の丸」が国旗であったかどうかを論じること自体が既にナンセンスとも言えます。ただ、当時から既に日の丸が、ある種、日本を象徴するデザインとして認知されていたことだけは事実です。ーーーそして時は幕末へと移ります。安政元(1854)年、アメリカとの間に『日米和親条約』を調印、開国に踏み切った幕府=日本政府)は、日本に来航する諸外国の船舶と、日本の船舶との識別の為に、日の丸を「日本惣船印」と定め、これ以後、日本の船舶は日の丸を掲揚することが義務づけられたのです。さらに、安政5(1858)年『日米修好通商条約』に調印した幕府は、今後、列強諸外国と付き合っていく中で国旗が必要であると感じ、翌安政6(1859)年、日本惣船印として既に使用していた日の丸を「御国惣印」と定め、ここに日の丸は正式な「日本の国旗」となったのです。
そして、万延元(1860)年、『日米修好通商条約』批准書交換の為、幕府が派遣した渡米使節団がニューヨークはブロードウェイで目にしたもの・・・それはアメリカ国旗である星条旗と共に掲げられていた「日の丸」だったのです。このように幕末、「御国惣印」──日本の国旗として定められた日の丸ですがなんと「売却」話が降って沸いたのです。明治の文明開化期、「白地に赤く、日の丸染めた」洗練されたデザインながら美しい日の丸が、日本に着任した各国大使に注目され、遂にはフランス(泉欣七郎・千田健共編『日本なんでもはじめ』※注:安津素彦『国旗の歴史』によればイギリス)が、正式に政府代表を立てて、「日の丸を500万円(当時の金額)で我が国に売却して欲しい」と依頼してきたのです。財政難で、金は幾らあっても足りなかった明治政府にとって、提示してきた500万円は喉から手が出る程欲しい金額でした。しかしその誘惑を、明治政府は「国旗を売り渡すことは、国家を売り渡す事」として断ったのです。結果的にこの売却話は幻に終わり、日の丸は日本の国旗として存続した訳ですが、当時、500万円の誘惑を断ち切って国旗「日の丸」を守った明治の先人達が現在、日の丸反対!!と叫んでいる連中を目にしたら、一体どんな風に思うでしょうか?「折角、喉から手が出る程欲しかった大金を断ってまで守った国旗なのに、何たることか・・・」と草葉の陰で泣くことでしょう。その意味でも、先人達が守った国旗「日の丸」を、私達はこれからも守っていかなくてはならないと思うのです。ところで、法制化以前、日の丸反対派は「日の丸は法律で定められていないのだから日本の国旗ではない!」などと主張してきました。
しかし、世界を見渡してみると、憲法で定めている国(独・仏・伊・シナ等)や国旗法で定めている国(米・ノルウェー・スウェーデン等)がある一方で、憲法・法律以外の規範で定めている国(カナダ・韓国等)や、イギリスのように何の規定もない国=慣習によって国旗として認知されている)まで様々です。また、「法律で定められていないから国旗ではない」というのであれば、そもそも「日本」という国名(国号)自体が「法律で定められていないから国名ではない」ということになってしまいます。しかし、「日本という国名に反対!」などという主張は、とんと聞いた事がありません。なぜなら「日本」という国名は、慣習として国民に根を下ろしているからです。そう考えると、本来、慣習(慣例)で国旗・国歌として認知されていた日の丸・君が代を、法律に明文化したところで、当たり前だったことを当たり前として追認しただけとはいえないでしょうか?
ーーー「日の丸」関連年表
1673(寛文13)年江戸幕府、御城米廻船に船印として日の丸の幟を掲揚するよう指示
1854(安政元)年江戸幕府、日の丸の幟を日本惣船印に制定。薩摩藩主島津成彬、元旦に鹿児島城内から桜島の初日の出を見て「これじゃこの色じゃ」と叫んだのが日の丸が赤丸になった元という。(『炉辺南国記』に所見)
1859(安政6)年江戸幕府、日の丸を御国惣印=国旗に制定
1860(万延元)年幕府渡米使節団、ブロードウェイで日の丸により迎えられる
1870(明治3)年太政官布告第57号「商船規則」制定(縦横比率は7対10とし、赤丸は旗の中心から100分の1竿側=左寄りとする)
1899(明治32)年船舶法を制定し、船舶の国旗掲揚について定める
1931(昭和6)年帝国議会に「大日本帝国国旗法案」が上程されるも審議未了、廃案
1945(昭和20)年連合国軍総司令部(GHQ)の方針として、国旗掲揚はその都度許可が必要とされる
1947(昭和22)年小学校学習指導要領(1)社会科編(試案)に、国旗について学習する事を記載
1948(昭和23)年GHQ覚書で、12祝祭日の国旗掲揚を正式に許可
1949(昭和24)年GHQ覚書で、国旗掲揚に関する制限廃止
1950(昭和25)年国民の祝日には学校や家庭等で国旗を掲揚する事を勧奨(天野文相談話)
1958(昭和33)年学習指導要領改訂
1974(昭和49)年田中角栄首相、「日の丸・君が代」の法制化を目指す方針表明
1989(平成元)年新学習指導要領で「国旗を掲揚、国歌を斉唱するよう指導する」
1994(平成6)年村山富市首相(社会党委員長)「日の丸・君が代」を容認
1999(平成11)年2月共産党、国旗・国歌の法制化が「最低限必要」との新見解発表
1999(平成11)年3月小渕恵三首相、法制化検討を指示
1999(平成11)年6月「国旗・国歌法案」を閣議決定。公明党「審議慎重」を条件に「日の丸・君が代」法制化容認の党見解
1999(平成11)年7月「国旗・国歌法案」衆議院通過
1999(平成)年8月「国旗・国歌法」成立。「国旗・国歌法」公布・施行
~~~余談(つれづれ)オリンピックの表彰式やサッカーのワールドカップなどで日の丸が掲揚され、君が代が流れた時、会場に陣取っていた日本人観衆から、「日の丸・君が代反対!」などの野次が飛んでいたでしょうか?テレビのオリンピック中継で、金メダリストを讃えて日の丸が掲揚され、君が代が流れている場面を観ていたとき、感動こそすれ、嫌悪感を抱いたでしょうか?このように感動的な場面では反対を口にせず、平常な時には糾弾する反対派のやり方は、正直いって卑怯とはいえないでしょうか?= この稿おわり =79
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
▼▽ インド徒然 ▽▼
☆ インドの日本食レストラン事情 ――――――――――― はぐれ雲さん
インドに駐在する日本人が急増している。この1年で500人ほど増え、今は3000人ぐらいになっている。駐在員・家族が一番欲し、苦労しているのは日本食、日々インド料理ばかりでは胃がもたない。だが、日本食材はインドでは入手困難、日本や近場のシンガポール、バンコック、ドバイなどで買い込んで、インドに持ち込まなければならない。新鮮な魚や牛肉・豚肉などは夢の食材。日本食の保管も大変である。インドでは大きい冷凍庫は必需品である。経済的負担にもなる。ある人に、インドでは日本レストランはどのぐらいあるのかと訊ねられた。ーーー数えるほどしかない。数年前の記憶を辿ってみた。
ニューデリー地区には、
「田村」が2軒、最近ニューデリー近郊のグルガオンにも1軒出したそうだ。元日航ホテルにある「さくら」‥‥閉店も近いという噂がある。オーナーとの問題があるらしい。今、どうなっているか分からないが「けやき」という炉辺焼きの店もあった。あとは、オベロイとハイヤット、ホテル内に寿司や日本風鉄板焼きが食べられるレストランがある。ーーーこれぐらいだろうか?日本食材屋の「大和屋」があり、日本人は重宝しているようだ。
ムンバイ地区、
タジ・ホテル内に「わさび」という店がある。ここの寿司は結構美味いという評判だが、値段が超高い。寿司ネタは日本からドバイ経由ムンバイに持ち込むそうだ。タジ・ホテルは、近々ニューデリーのタジ・ホテルに「わさび2号店」を出す予定と聞いている。インド人と結婚した日本女性が日本レストランを始めたという噂も聞いたが、夫婦仲が拗[こじ]れ離婚したと聞いた。日本レストランはどうなったかは定かでない。ムンバイ駐在中、マリオット・ホテルに日本レストランが開店したが、あまり流行っていなかった。ムンバイ市内から遠いからである。今はどうなっているか。オベロイ・タワー(ヒルトン・タワー)の中に、日本風の‘うどん’などを出す店もある。ーーームンバイ地区はこれぐらいだろう。
チェンナイ地区、
「赤坂」と「天竺」という店がある。近場で獲れる新鮮な魚を使った日本料理も食べられるが、最近、リカー・ライセンスをめぐって州政府とトラブっているとの噂を聞いた。どうなる事か。
バンガロール地区、
日本レストランがあるかも知れないが、あまり耳にしない。コルカタにいる日本人は少ないので、日本レストランは出そうにもない。コチという街に、日本人がシェフとして雇われ日本風海鮮料理を出す店があった。コチでは様々な種類の魚が獲れ、海岸で焼き魚にして食べさせてくれる店も沢山あり、観光の名所になっている。3年前にそのレストランに行ったが、確かに美味い魚であった。ーーーあれからどうなっているか…。日本食らしい日本食が食べられるレストランはこれぐらいである。全部で10店程度である。今は、もう少し増えているかもしれないが、日本人が少なく、日本食材が入手しづらく、採算に合わない。日本人シェフも定着しない。開店しては閉店する。この繰り返しである。日本人ばかりでない。インドに駐在する‘外人’は急増している。ニューデリー近郊に日本人村を造る構想まで出てきている。今後、日本人だけを対象とするのではなく、寿司・日本食の好きな‘外人’を対象に営業すれば採算が合ってくるかもしれない。外人にとっては‘日本食’は‘健康食’油っこいインド料理の油から解放され胃に休息を与える料理でもある。日本レストランの出店を検討している起業家もいる。ーーー早く出店して外人を救ってやってもらいたいものである。
ーーー現在ニューデリーに駐在している知人から連絡。
タジ・マハル・ホテルの「わさび」ニューデリー店は、今年の5月にオープンしたそうだ。寿司も食べられる。昼食の寿司ランチは定価1500ルピー、日本茶やサービス料、チップなど入れて、一人前ざっと2000ルピー≒4300円。寿司ネタからキュウリなどの野菜まで、週二回日本から直行便で空輸、食材は極めて新鮮だそうである。夜は酒や肴など入るので、1万円程度かかるが、日本の高級ホテルの寿司屋で食べたと思えば、そう高くない値段である。シンガポール並みである。板前さんは日本人、インドも徐々に変わりつつある。JALのニューデリー直行便は週7日、毎日飛んでいる。空輸も量が増えれば安くなるだろう。ニューデリー近郊の日本人人口は約1500人~2000人、最近はインド進出のFSの為、数ヶ月間も長期出張するビジネスマンも増えている。
日本人ばかりではない。外人にも寿司ブーム、寿司レストランが流行ることは間違いない。但し、問題は日本食材や日本酒・焼酎の高額輸入税とリカー・ライセンスである。輸入税に関しては、インド・フランス間でワイン輸入税の軽減の交渉中、意外と早く軽減されるかもしれない。インド商工相と二階経産相の間で合意された「日本人村」建設構想、実現の為には日本食材や酒などの高額な輸入税とリカー・ライセンス問題が大きな障壁となる。外資導入策の一環として、早く障壁を取り除いてもらいたいものである。~~~そうすれば、日本人の食環境もかなり改善されるだろう。
―― <注意>
ニューデリー市内を歩くと「銀座」とか「ふじや」とか、日本名のレストランに出くわす。日本レストランだと勘違いして飛び込む日本人旅行客がいるが、これらのレストランは‘中華レストラン’である。今から50年程前に起こった印中国境紛争の時、過激なインド人の襲撃を恐れて、店の名前を中国名から日本名に変えた経緯があると聞いた。当時のインド人が「中国名と日本名を判別できたのか?」と疑問に思ったが、それは兎も角、今は、インド風味の中華レストランになっているので要注意!= この稿おわり =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
▼▽ ただいま考え中 ▽▼
☆ 保守を自任する皆様へ(2) ――――――――――――――― RAM さん
さて、この更迭劇を保守層はどう扱うべきか、ということについて考えてみましょう。その前に確認しなければいけないことは、目的は何か、ということです。自虐史観からの脱却、というのがこの論文の主旨です。この主旨を継承・拡大するのを目的とするのか、今の言論空間の歪みを正すのを目的とするのか、で執るべき戦術はかなり違ってきます。両方、というのは、最終的にそうであっても、一度には無理です。ここに、先の戦争での失敗の原因のひとつも存在します。「大東亜共栄圏の確立」などというのは、大き過ぎて単なるスローガンでしかありませんが「日本国の大陸権益の維持」と「アジアからの欧米勢力の排除」も、互いに重なる部分はあっても、当時の情勢で一度にしようと欲張った結果が、あの敗戦でした。中国と戦いながら米英とも戦うことはできなかったのです。
目的=戦略を絞らなければ、目標=戦術は先鋭化しません。
今回のケースで、当該論文の主旨を継承し普及・拡大するのを目的とするならば、保守層は言論空間への攻撃を一旦止めるべきです。その上で、あの論文の検証作業を総力を挙げてするべきです。あの論文の内容は、今まで知らなかった人がいる=多い)ものの、事実関係の誤認識も指摘されており、教科書に採用して定説にしてよいほどの正確・緻密なものではありません。これを、あの論文を叩き台にして詳細な検証を施し、「捉え方の異論はあっても、事実関係では異論の出しようがない」ほどのものに高める作業こそ急務なのです。この目標が達成できれば、自動的に、自虐史観からの脱却という目的も達せられます。そして自虐史観から脱却できれば、この異様な言論空間の歪みの矯正にも大きな道が開きます。その道の先に、この国の正気が存在するのです。皆さん、文句を言っている余力があるのなら、もう一度、勉強しましょう。あの論文を「捉え方の異論はあっても、事実関係では異論の出しようがない」ほどに語れるようになりましょう。そうして、それから語りましょう。今、手放しであの論文を賞賛すれば、少し本気で勉強した人には逆ネジで否定されます。その場合、たったひとつの事実関係の誤認識でもって、歴史の捉え方全体を否定されることになるのです。次回は、沖縄集団自決に関する大江(健三郎)裁判について、同じように、戦略目標と戦術目的という面からの評価を行います。 = この稿つづく =
┌―――――――――――――――――――
┌─┬───────────────────────────────┘
│●│ お寄せいただきましたご意見や感想。
└─┘
┌──────────「frfeedmanさん」50代@男性@北陸
また、いつか来た道をたどり始めているような気がしてならない。人間とは忘れる動物で、あの不幸で厳しく苦しい時代に、また戻りたくなったのかという危惧さえ感じられる。田母神氏の、あの自信に満ちた態度は何なんだろうと、一種の恐怖感さえ感じられた。現代日本にはああいう輩が台頭しはじめているのだろうか。田母神氏に従わされ教育された多くの若い自衛官たちに御同情を申し上げる。田母神氏は、言うまでもないないが極右である。そんな人間が自衛隊のトップにいたことに改めて驚かされた。国民の自衛隊に対する信頼が、また一つ崩れたような気がする。田母神氏は、歴史認識も間違っているし、日本国民やアジアの諸国民、さらにアメリカ国民に甚大な苦しみや不幸をあたえた旧日本帝国陸軍の、広い意味での責任を考慮していない。もし、日本があの大戦で勝利していたらまだ戦争は続いていたかもしれない。なぜなら、今の私にとって、あの当時の戦況で客観的に見て勝ってほしいのはアメリカのほうだからであり、当時の日本陸軍に勝ってほしくはないからである。自衛隊にとって一番大事なことは、シビリアンコントロールに服していることであり、そうでなければ日本――――(以下4行文字化けで判読不能)
└──────────
▼┌──────────「RAM さんから」
田母神氏の、あの自信に満ちた態度は何なんだろうと、一種の恐怖感さえ感じられた。現代日本にはああいう輩が台頭しはじめているのだろうか。ついこの間までは、左翼の人々があのような自信に満ちた態度で、中国などを賛美していましたね。田母神氏は、言うまでもないないが極右である。そんな人間が自衛隊のトップにいたことに改めて驚かされた。自衛隊トップに極左がいたら驚きますが、極右がいてなぜ驚くのでしょうか?田母神氏は、旧日本帝国陸軍の、広い意味での責任を考慮していない。旧軍の責任問題は、とっくに解決済みですね。歴史認識は一つではないでしょう。もし、日本があの大戦で勝利していたらまだ戦争は続いていたかもしれない。なぜなら、今の私にとって、あの当時の戦況で客観的に見て勝ってほしいのはアメリカのほうだからであり、当時の日本陸軍に勝ってほしくはないからである。そのお言葉を、空襲で被害を受けた方に言ってみてください。あるいは、戦後進駐軍にひどい目に遭わされた方、また、無実であるにもかかわらず「戦犯」として処刑された方、などに・・・。ついでに言いますと、最初のセンテンスの後「なぜなら」で繋ぐには、文章がおかしいですね。あなたの希望で世の中が動くという論理ですか?ひょっとして、あなたは「神」か何かですか?
└──────────