敗戦日本の忘れ物(3) ≪ WEB 熱線 第1100号 ≫ | 日本のお姉さん

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▼▽ 歯軋りゴマメの自虐史観 ▽▼
☆ 敗戦日本の忘れ物(3) ――― 歯軋りゴマメさん


あの大出入りの結果の不始末には、前に触れた「無責任体制」が大きく関っていたと思うんじゃが、更に又、今で言う「KY」や、それに伴うメディア活用の稚拙さも大きかったように思えてならんのじゃ。元々、中国東北部は漢民族には権限のない地域で、しかも、多くの現日本人の少々遠くはなるが御先祖サマのいた地域であって、日露戦争の勝利で得た権益を守るためもあって、当時の日本国内と中国大陸の情勢を考えれば、彼の地への進出にはそれなりの理があった。尤も、既にひっくり返った清朝の末裔をわざわざ引っ張り出して、ミエミエの傀儡「国家」にする必要があったかどうかは疑問じゃが――――。

古来、中国大陸では漢字文化圏の諸民族が中原で覇を競うことは「中原逐鹿」として認められており、「清」は満州族ながら将にそのような覇者だったのであり、当然日本にもその資格があった。

辛亥革命で清が引っくり返った後はいうならば群雄割拠状態、植民地のアジアでの最後の拠点とばかり、西欧ハゲタカ共が入り込み、ちょいと出遅れ気味のアメタカも虎視眈々と狙っており、大陸は複雑な状況にあった。が、それでも「中原逐鹿」の伝統は残っていた筈で、昭和のいつ頃だったか、孫文が神戸での演説で「東洋の王道を採るか、はたまた西洋覇道の犬に成り下がるか、それは日本の選択だ!」と述べたのにそれが示されていたように思えるんじゃがの。そして、この伝統の下での大陸進出は可能だった筈じゃが、当時の日本は「有資格」との自覚はなかったように思える。

西洋覇道というドラキュラに咬まれて、自分がドラキュラになっとるのに気付かぬまゝ大陸へ、「宣戦布告にすると何やらと面倒だから事変にしておけ」との姑息、且つ違勅の進入を続けたのは、大いなる鹿の逐い方の間違いで、しかも最終的に「負けた」が故に「侵略」になってしまったのと違うかの。然し乍ら、少なくとも「満州」における権利は認める等して、必ずしも日本側の主張の全面否定ではなかったリットン調査団の報告結果の受入れを蹴飛ばしたり、「中国は一撃すれば終わる!」等と舞い上がり、アメリカのチャイナスクールやユダヤ資本の画策もあって、「相手にせず」のはずの蒋介石にしてやられ、清朝崩壊後、半ば群雄割拠状態の中国の諸勢力を一斉に「抗日」に向わせてしまったのは、将に大いなる「KY」の結果じゃなかろうか。

中国側は、国際連盟の総会で訴えたり、欧米メディアを通じたりして「日本悪玉」を印象付けるのに成功したのに対し、日本側はといえば「東亜の解放」との大義名分を持ってはいたが、ーーー名分としての実際の中味が決まったのは昭和18年になってからというから、~~~あまりにも遅過ぎて、お粗末もいいところじゃ。序[ついで]に言えば、件の「南京大虐殺」騒動にしても、発端となった「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」を、中国系アメリカ人に書かせアメリカで出版させるというテキのメディア活用に、してやられたまゝじゃ――――。

また、近衛首相の「東亜新秩序」構想は、ぶっちゃけて言えば、先発毛唐組の張った縄張りに対する縄の張り直し宣言みたいなもので、特にアメリカは自分達の利権の制限を画したものと非常な警戒感を持った。

近衛首相としては至極大真面目な構想で、そのように受け止められることを想定していなかったようで、皇族出身らしい「KY」じゃ――――。しかもこのオッサンの極め付きの「KY」は、在中国ドイツ大使トラウトマンが、蒋介石と日本軍との間に立って出した、参謀本部でさえ乗り気になったうまい条件の手打ち案を、何をトチ狂ったのかこれを蹴飛ばしたことじゃ。それでも飽き足らずにこのオッサン、「蒋介石を相手にせず」と又々ドデカイ「KY」声明を発したが、それはトラウトマン案蹴飛ばしと相まって、その後中国戦線を泥沼化に追い込むに至った実に重大なものじゃった。

国際連盟からの脱退を、当時は「栄光ある孤立」などと囃し立てたがトンデモな話で、実際は脱退により様々な情報が入らなくなって世界情勢に対する「KY」が深まり、それに既に無明道に陥っていたとしか思えない統制派独裁路線と相まった結果が上記のチョンボであり、松の廊下のヒステリーもどきの真珠湾への突入じゃなかろうか。

これは田母神氏の言うように、将に「嵌められた」結果じゃが「嵌められた」こと自体が大いなる恥辱であるのに、氏のように、嵌められたゞけだから俺達の落度ではないとの弁明は、恥の上塗りに過ぎなかろう。「真珠湾攻撃」は、絶対に与えてはならない介入の口実をアメリカに与えてしまったわけじゃが、これに関して最近、将にビックリ仰天の情報に出くわしたのじゃ。ーーーそれは、皇居の中にもう一つの御前会議があり、そこでは対米英開戦が昭和13年迄には決定されていた、というもの。つまり2・26事件が収束した直後からその検討が始まっていたわけで、事実ならばホンにオドロキ、モモノキじゃ。2・26は、統制派による皇道派ぶっ潰しのためのやらせじゃったが、それは皇道派の主張する対ソ連対策重視路線を腕力で排除し、自分達の主張の対米英強硬路線を推し進めるのが目的だったとのこと。将にトンデモなチャカ振り回し事件じゃが、それは昭和天皇も承知の上とのことで、もう最上級のオドロキじゃった――――。昭和天皇の「馬曳け!」なる弁は、反乱軍賊軍認定宣言と真犯人隠蔽へのパフォーマンスに過ぎなかったようじゃの。ーーー昭和天皇は、統制派の人物を殊更可愛がったとのことで、或いは、、との気がせんでもない。グルー駐日米大使は、度重なる日米交渉中、日本側の提案が何れも前提条件ばかりで抽象的な語句の羅列に終止し、具体的な中味が見えてこない、との苛立ちを日記に書いており、本国へも打電している。

然し乍ら上記のような背景があったとすれば、首脳部としてはそれを交渉に当る外相達に知らせる訳にはゆかず、言質を取られぬよう敢えて大使の言う「抽象的」な内容に終始させて、交渉はしているとのポーズだけを示したのじゃなかろうか。東條首相は、戦後、戦犯としての拘留中、房内で「俺には開戦責任はないが、敗戦責任はある」との弁を残したが、これは上記のことに関連した発言のように思えてならない。グルー大使は非常な親日家で、真摯に交渉に当っていたが、本国首脳はこの日米交渉を、日本側をドンパチに引き込むまでの時間稼ぎとしか看ておらず、大使の交渉を重くは看ていなかったようじゃ。それでも大使は、ハルノートの内容の概要を事前に知ったとき「真珠湾攻撃」を本国首脳へ打電している。ーーー大使がどうして知ったかは「?」じゃが、ーーー道理で、真珠湾に航空母艦がいなかった筈じゃよーーー
「ハル・ノートのような失礼な要求を突き付けられたら、モナコのような小国でも立ち上がるだろう」などとのリップサービス‥‥とわしゃ思っとるが‥‥にその気になって、「そうだ、だから立ち上がったんだ」と力み返っとる御仁が少なからずいらっしゃるようじゃが、これまた「KY」症候群じゃかろうか。テキさんは、そんなことは先刻承知の上で、それまでも上野介よろしくチクリチクリとイビリ続け、最後の切り札としてこのノートを突き付けたら効果テキメン、松の廊下のヒステリーもどきに真珠湾へ突っ込んで行ったという次第?皆さん、ハル・ノート、ハル・ノートと鬼の首でも取ったように仰るが、それを付きつけられるに至る、我がほうがやらかした「KY」チョンボに言及しないのは、~~~片手落ちなんじゃなかろうか~~~ = この稿つづく =
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●お寄せいただきましたご意見や感想
┌──────────「紋起さん」60代@男性@近畿
歯軋りゴマメさま、興味深く拝読させて頂きました。賛同する点多々ございますが、ただ、私は、天皇陛下に責任を問うことが問題解決を更に複雑にするように思います。例えば、社会保険庁の杜撰な事務や不正な処理について、大臣の責任を問うような追求を野党がやりますが、これが本質的な「トカゲの尻尾切り」だと思うのです。なぜなら、トップを替えたら、無責任な事務処理、仕事振りが変わるかといえば全く役に立たないはずです。したがって、大臣を辞めさせて終わりにする愚は役に立たない、ということをいい加減に認識するべきだと思います。再発防止は、人なのか、仕組みなのか、仕事に関与した組合なのか、・・等々の原因の論理的究明がなされなくてはなりません。それが究明し終えて、対策を施し、効果があったところで責任を取らせることは必要でしょう。ーーー必要があれば、刑務所に入っていただく刑罰を科すべきです。

私が常々関心があるのは、何故負ける戦争をしたのかに関連して、主体的な行為をなしていた軍関係者の、不足していたこと(組織、思想、情報、論理等々)であります。貴兄ご指摘の、軍の最上級職位にあった宮様の問題は非常にあると思います。海軍の伏見宮の責任も重いです。ここから学ぶべきは、職位は血統で選んではだめであるということでしょう。(2世議員の問題も同様です)しかし、頭脳で優れていたとされる陸海大卒の集団が、何故、こんな馬鹿げた戦争を主体的に行ったのかの原因はいまだに究明されておらず、従って、現在もなお当時と同じ選抜採用方法、人事管理がなされ、軍部同様に霞ヶ関の堕落行政で国の行く道を誤っていると思います。そういう点についての、「何故、無責任な人たちが影響大なる地位に着いたのか」のご高見を伺いたいと思っております。
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┌──────────▼「歯軋りゴマメさんから」
紋起さんコメント有難うございます。然しエライ宿題を頂いてしまいました。実は、小生も中々理解が進んでいないのですが、これには2・26事件以後の人事が絡んでいるのでは、と感じています。ーーーこの事件後、所謂「軍部独裁、実は統制派独裁」が始まるわけです。城山三郎氏が、小説「落日燃ゆ」で非常に持上げている広田弘毅氏が、事件で倒れた岡田内閣に代わり組閣したのですが、現役の軍人でなければ陸軍大臣や海軍大臣になれないとする制度を、統制派の強い要求で受け入れてしまいました。――――この制度のホンネは、皇道派の荒木大将や真崎大将の、大臣としての復活を防ぐのが狙いでした。特に真崎甚三郎大将は、現今一般に伝えられている悪評とは異なり、実際は立派な人物であり、当時の軍人としてはいうなればリベラルな考えの持ち主で、統制派としては将に目の上のタンコブだったとのことです。2・26事件は皇道派潰し、且つそのトップの真崎大将を追い落とすために皇道派の中にスパイを送り込んでいた統制派が仕組んだ、実に狡猾なヤラセでした。この制度により、以後、陸軍ないし海軍の意に沿わない内閣ならば大臣を出さない、若しくは辞任するということで内閣を潰すも作らないも軍の思うまゝ、政治介入の「伝家の宝刀」を軍が握ることになりました。このことが軍の各部門の人事に大きく影響することになったと思います。

統制派は、いうなれば対米英強硬派で、各部門の長には、威勢だけは良い声のでかい連中が配されてゆき、陸海軍とも良識派は中央からは遠くに追いやられてしまいました。当初、対米英強硬路線は少数派で、皇道派のソ連対策重視路線が多数派だったとのことですが、2・26で実権を握った統制派が多数派となり、自分達の路線を推し進めていったわけです。対米英強硬路線なんて、どうみても非現実的で、当時ですらバカかキチガイかと言われたらしいのですが、国際連盟脱退により種々の情報が入らなくなっていた日本は、世界の情勢に対して「KY」状態になっていたのではないかと思います。統制派は、その後「大本営」を設置して「太平洋戦争」に突入してゆくわけですが、この大本営の「KY作戦」の連発で日本は敢無く敗戦に至るという次第です。最近、ネット上でショッキングな情報に接しました。それは、皇居内にもう一つの御前会議があり、そこでは対米英開戦が昭和13年までには既に決定されていたというものです。つまり、2・26を収束させた直後から検討に入っていたわけで、事実とすればホントにオドロキです。

現今巷間に伝えられている、御前会議における開戦決定までのすったもんだは一体何だったのか、また、グルー駐日米大使との度重なる日米交渉とは一体何だったのか疑問が残るばりです。昭和天皇は、統制派の人物をとかく可愛がったとのことですが、大陸進出における統制派の違勅行為を次々と追認していったのは、将に統制派シンパとしての確信的行為だったように思えます。昭和天皇の敗戦責任については、或いは総括の仕様がないのかもしれません。然し乍ら、天皇のみが三権の長であり軍の最高指揮官であるとする伊藤(明治)憲法の下では、天皇以外に軍人を制止できる者はいない筈であり、それを怠ったことに対する責任、そして最終的な敗戦責任は厳然としてあるわけで、その事実は何らかの形で明確にしておく必要はやはりあるのではないでしょうか。あまり纏まりもなく、長々と書いてしまいました。お問い合わせの回答になっているかどうか分かりませんが、以上、返信と致します。
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┌──────────「茶々丸さん」50代@男性@海外
「暴力団同士の縄張り争いじゃ」論は、単純明快でした。今まで、なんかしら“もわっと”したものを感じておりましたが、大変よく理解できました。大儀とか仁義とか、いろいろ世界を駆け回っておりますが、結局武器を持った暴力団のいざこざと解釈したほうが納得できます。近年のアメリカのやり方は結構露骨ですが、仁義や大儀を上手く振りかざして戦うのが当たり前なんですね。
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