国際派日本人の情報ファイル 世の中には軍備を背景にしなければ外交もまとまらない国もあるのです。
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JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■
軍人の名誉 ( MoMotarou放送局)
【軍人の名誉】 君命も受けざる所あり。
--戦陣の指揮者は、君主の命令であっても 受け付けない所がある。敵情によって応変の、処置が必要だからである。(孫子)
★ ★ ★
どうもあれは良くないと思います。田母神元行航空幕僚長に対して、退職金の自主返還を求めたことです。懲戒免職でもないのですから取り上げる必要もありません。「軍人の士気」に影響します。浜田防衛大臣の「器」も疑われます。
■テレビ映り
最近はマスコミやジャーナリズム出身の議員が増えたことで、随分言動が派手になってきました。桝添厚生大臣もTVタックル時代と変らず、元気のよいテレビコメントをしておりますが、言い訳ばかりが目立ちます。視聴率と議員の質とは関係ないでしょう。
■防衛族
不明を恥じなければなりませんが、最近まで「防衛族」とは我国の「国防」のことを議論する議員集団かと思っておりました。守屋事務次官の事件や、山崎拓議員のことを調べていると判ったのですが、「防衛族」とは「防衛備品調達利権組合互助会」の色彩が強い集まりだったのですね。国防品は高額な兵器が多いし、一般消費財でもないから価格もハッキリしないし、参入業者も限られてきます。そこに利権が生まれるのでしょう。
■利権と化した「村山談話」
後生大事に使っている「村山談話」も実は大きな利権と関係しているはずです。あれを唱えておれば「中国様」の覚えもよろしいから、何かと中国との交渉にも有利になります。ハト派と言われた河野衆議院議長も「村山談話利権」」を使っておるわけです。故後藤田官房長官が本を出した時、一番の大口購入者は日中友好協会だったとか。これなども印税を使った政治献金です。コイズミ元首相の秘書官が辞めたあと出した本がランキングの上のほうだったことがあります。これなんかは「強制配給」もあったのではないでしょうか。
■軍人の誉れ
戦後軍人の立場が「卑しめられる」ようなことが多々あったようです。街で軍服を着た姿を見ることが出来なくなりましたが、基地のお祭りなどに行くと若い女性が、制服姿の自衛官と並んで写真を撮っている場面を良く見ます。また防衛大学では乃木さんや東郷さんの写真も無く、外国から派遣された留学生を驚かせております。
■「治に居て乱を忘れず」
現在の世界金融混乱の中、自分の国は自分で守らなければならない状況が生まれてくるでしょう。先日は中国海軍の最新型ミサイル戦艦四隻が、沖縄付近を航行しているのが自衛隊機によって確認されました。これは一種の「威力偵察」です。世の中には軍備を背景にしなければ外交もまとまらない国もあるのです。
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◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.28 荒木 肇
第28回 架かっているだけの「橋」にはならない
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架かっているだけの「橋」にはならない
在日米陸軍司令部陸上連絡官 H2佐 派遣期間(1999年3月~2001年3月)
米陸軍第1軍団司令部連絡幹部派遣期間(2001年7月~2004年7月)
▼陸上連絡官の概要
連絡将校(LO)といわれる。海外に常駐する自衛官は大きく5つに分けることができる。1つは外務省に出向して大使館に勤務する防衛駐在官。これは、「大使館付き武官」ともいわれ、駐在する国や周辺各国とのおつきあいや、情報収集などを行なう。2つ目は、警備官である。幹部自衛官の志願者から選ばれて大使館などの警備にあたる。3つ目は、海外留学をする自衛官。アメリカやドイツ、フランス、イギリスなどの大学に留学する。4つ目は、国際機関に勤務する。スイスにある化学兵器禁止機関(OPCW)に出向しているA陸将補は、その手腕、知識、人柄が高く評価されている。そして最後の5つ目が今回、お話をいただく、「連絡幹部(LO)」である。その仕事は、簡単にいえば、日米双方の間の「橋」にあたる。アメリカ陸軍の司令官や、幕僚、スタッフたちに陸上自衛隊についての助言をする。日米共同訓練や共同会議が行なわれる。そうした時の調整や、情報などを収集する。お互いに訪問したり、会談したりする日米の高官たちの連絡役、そして研修者たちへの対応などである。 H2佐は、キャンプ座間(神奈川県座間市)と、ワシントン州フォートルイス基地、アメリカ陸軍第1軍団の連絡官として2回の異文化生活を体験している。
▼感激した第1軍団長の言葉
第1軍団とわが陸上自衛隊の縁は深い。日米共同演習の相手は第1軍団である。そこで、陸自からはアメリカのワシントン州フォートルイスの第1軍団司令部に、いつでも1名の高級幹部(1佐もしくは2佐という)を派遣している。「のちに大将に昇進されたヒル中将でした。私が赴任してから1年のおつきあいで、昇進されて南方軍統合司令官になられました」その昇任式、送別パーティーの時のことである。当時、第1軍団は「ヤマサクラ演習」などでわが陸自とは、たいへん深い関係にあった。この演習は、日米定期共同訓練の重要な1つである。本来、軍人の昇任、とりわけ将官のそれは、とてもおめでたいことであり、名誉なことである。正当に功績や能力を評価された結果が昇任であり、本人ばかりか親しい友人にとっても誇らしく、嬉しいものだそうだ。ヒル中将には多くの陸自将官の知り合い、友人が多かった。昇任式は、なかなか日程が決まらず、しかも、場所はアメリカ、そのため陸自の将官たちは誰も参加できなかった。そこで、H2佐は大きな引け目を感じながらパーティーに出席することになった。恐縮しながらヒル中将に、陸自からの出席者は自分だけになってしまったことを詫びた。たかだか自分は2佐(中佐)にすぎない。明らかに役不足で申し訳ないと。すると、ヒル中将は、なぜ、そんなことを言うのかと、にっこり笑いながら問いかけてきた。
「自分は2佐(中佐)にすぎないと貴官は言うけれど、貴官は第1軍団では日本陸上自衛隊の代表ではないか。つまり、貴官はここでは、陸上幕僚長(ふつう陸将はアメリカ軍では中将にあたる。陸幕長は4つ星、フォースターは大将である)の代理である。私はそのつもりで貴官に接してきた。どうぞ、誇りをもって頑張ってほしいと言われました」 H2佐は、涙が出るほど嬉しかったという。それまで、周囲はみなアメリカ人。他にはただ1人、オーストラリアからの連絡将校がいるだけだった。正直言って、不安と、疎外感にさいなまれてもいたという。そんな時に、ヒル中将からかけられた温かい言葉。連絡将校としての誇りを教えてもらった。それからはH2佐は自信をもって米軍とつきあえるようになったという。いや、もちろん、完璧になったわけじゃありません。まだまだ不十分ですが、今ある自分の基礎になっていることは確かですと、現在のH1佐はふり返る。
▼防大に補欠合格、環境を変えたいと思った
防大27期生である。共通1次試験の前の混乱で、入校人員が異常に多かった26期の翌年になる。この期は、着校日(3月末に入校予定者は防大に着かなければならない。生活体験を通して、入校式に備えることになっている)になっても定員を満たさないという事態になった。多めに発表する合格者の中からの入校辞退者数が、見通しを大きく超えてしまったのだ。防大は急いで補欠合格を出し、三月の末になって該当者に連絡が入り出した。
「4月1日、午後7時でした。F地連(当時は地方連絡部)から電話が入りました。入校する、辞退する、どちらかの返事は明日の昼まで。もし、入校するなら3日に着校とのことでした」すでに地元の国立大学への進学は決まっていた。F県には自衛隊を目にする機会はほとんどなかったし、自衛隊について意識することもなかった。防大の試験を受けたきっかけも、放課後、教室を掃除していた時のことである。担任の先生が、受験志望者は願書を取りに来いと黒板の右隅に書いた。防大って何?と友人に聞いたら、お金をもらえて勉強できるんだそうだと教えてくれた。1次試験の日程は学習研究社の模試と重なっていた。しかし、防大受験は無料である。これはいいとばかりに受けてみたのである。結果発表は2月14日、バレンタインデーだった。同期の中には、合格発表とチョコレート、両方手に入れた者もいますが、私はどちらも縁がなかったとは、H1佐のユーモアである。入校を選んだのは、まあ、冒険心だったのでしょうとH1佐。中学は徒歩10分、高校も歩いて5分、このまま地元の国立大学では自宅通学、何か自分の環境を変えたいと思っていたらしい。どちらかというと、入校、自衛官への道は偶然としかえいない。
▼「捨てる神あれば拾う神あり」の連絡幹部への道
幹部候補生学校で施設科(工兵)への道が決まる。多くの若手幹部と同じように、部隊勤務、入校をくり返した。3佐になる頃には陸上幕僚監部人事部にいた。担当は、即応(そくおう)予備自衛官制度の立ちあげだった。これまでの予備自衛官より、さらに進んだ制度である。年間の招集訓練も30日と、ふつうの予備自衛官の5日と比べれば、ずうっと増えた。勤務する企業にも給付金が贈られる。30日間も訓練で休ませるのだから、その補償でもある。
制度ができると、防衛部予備自衛官運用室に異動した。今度は、予備自衛官の予算要求関連業務につく。忙しかった。ほとんど六本木の職場で寝泊まりをしていた。そんな中、海外出張した先輩、上司、同僚からお土産がわたされる。外国産のウィスキーやワイン、正直言ってうらやましかった。H3佐が海外出張のチャンスに恵まれなかったことには訳がある。尉官の頃に、英語課程(POE)の入校をしていなかったのだ。自衛隊は外国語教育に熱心である。とりわけ米軍との関係があるから、英語能力は特に重視する。東京都小平市にある小平学校は、語学教育のメッカであり、選ばれた幹部や陸曹・陸士は、そこで語学漬けの毎日を送る。
2佐になった。陸自では3尉・2尉を初級幹部という。1尉・3佐を中級、2佐・1佐を高級幹部とする。米軍だけはなく、どこの国でも2佐(中佐)はカーネルである(もっとも、大佐(1佐)はフル・カーネルという言い方で区別して格がちがった扱いは受ける)。軍人としては堂々たる立場になる。異文化にふれたい、自分の視野を広げたいとH2佐は熱望した。希望は、防衛駐在官、大使館付きの武官である。先輩の中にも、POEを修(お)えてなくても、指名されてから改めて教育を受けて赴任した人もいる。「駅前留学」の学校の手続きをし、英語の単語帳だけを読む日々が続いた。もっとも、忙しくて英語学校に通う暇はほとんどなかった……。指定は外れた。言われた理由は、やはり、POEの履修がなく、陸幕での勤務も予備自衛官関連のみということから経験不足と判断されてのことだったらしい。落ちこんだ。でも、気を取り直して業務に打ちこもうとしていたある日。室長から呼ばれた。座間の在日米陸軍司令部の陸上連絡官をやってみないかという話だった。「キャンプ・座間といっても、日本国内です。英語を使うとはいえ、半分は日本語で仕事をするわけで、もともとの希望とは大分ちがっていました」でも、『捨てる神あれば拾う神あり』ということわざを思い出し、ありがたくお受けしたという。周囲の方々の配慮のおかげであり、今も感謝しているとH1佐は語る。
▼通じない「阿吽(あ・うん)」の呼吸
連絡官の仕事は、簡単にいえば「橋」である。日米双方向からの架け橋である。橋は渡ってもらってこそ橋であり、しかも、案内付きの使い勝手のよい橋であることを心がけてきたとH1佐は言う。使われない橋は、ただの無駄遣いにすぎないとも。キャンプ座間での時代2年間と、アメリカ第1軍団司令部での3年間の前後2回の異文化生活があった。その中での大きな体験は3つになる。1つは、「あ」といえば「うん」と応える呼吸がアメリカ軍、アメリカ人にはないことだった。「言葉を換えれば、曖昧(あいまい)が通じない。もっと極端に表現すると、相手を信用しないことに規準を置くといっていいでしょうか」わが国社会や組織では、何となく物事が決まったり、話がついたりする。相手がすべてを語らなくても、意味不明な言葉、たとえば「それはそれとして」といったような言葉があって、話が進んでいくことが多い。アメリカでは国民すべてに社会保障番号がある。この番号がないと、契約やさまざまな予約をすることもできない。ホテルの予約でも、確認番号を貰わなければ、後でトラブルになっても取り合ってもらえないという。すべてが「契約社会」という、相手との同意を明確にしておく社会形態である。そのことは2つ目の異文化、民主主義の教育にも関わってくる。
ある、米国在住の日本人教育者から聞いた話と前置きしながらH1佐は語ってくれた。アメリカの学校教育の目的は、民主主義を教えることだ。民主主義社会で生きていくためには、騙(だま)されないための知識を得ること、社会に参加することが必要であるからだ。「毎週、ショー・アンド・テル(Show and Tell)という授業がありました。自分の好きなものをクラスの友だちに紹介する。他の生徒から質問を受ける。紹介、質問、回答といった一連の動作を通じて、会話に参加することを教えているのだと思いました」教師は、その中で、とくに質問のしかたに重点を置いて指導するらしい。このことは、話し言葉軽視、会話軽視のわが国の学校の授業とはずいぶん異なる点だと、筆者(荒木)も思った。わが国の授業では、どうしても、子ども同士の話し合いでも教師が正面に出てしまう。子どもたちが互いの発言に耳を傾け、質問をし、話を続けていく時間はなかなか目にすることができない。子どもたちの中には、理解も曖昧なまま、なんとなく、質問もできずに黙って聞いているだけの存在が多かったようにみえる。
3つ目は人々の生き方だった。生き方とは価値観の現れだとH1佐は思っている。わが国では、人それぞれの価値観を「共有」しようとする。対して、アメリカでは、人それぞれの価値観の中で「共存」しようとしているという。わが国では、どうしても周囲から同調を求めるような圧力があり、人もまた、気を遣い周囲とあわせようとする傾向がないだろうか。 「周りに迷惑さえかけなければ、すべての価値観は認められているように見えました。自分らしく生きていくことができるのです」フォートルイス基地の官舎の隣人だった、米軍将校夫妻の話をしてくれた。ご主人は退役した中佐、夫人は現役の大佐だった。元中佐は家事と息子の教育を担当していた。わが国では、そういう状況は男として、やや肩身が狭いのではないかと思う。ところが、奥さんはご主人が料理に得意なことを自慢する。ご主人は秋になれば趣味の狩猟にでかけるという。また、ふだんは基地内の馬場で馬を飼っていた。仲の良い夫婦であり、互いを尊敬しあっておられたという。 「色々な価値観のある人生を見せてもらいました。自分の生き方って何だろうなどと考えさせられる3年間でした。また、自分らしく生きていくことを大切にすることを学びました」
▼目的合理思考のアメリカ軍
自分が変わった。それは、米軍との関係で学んだことであり、今も心がけていることだがとH1佐は語る。「変化に強くなった」という。さまざまな研修や演習に参加した。計画は緊密に立てていく。でも、実際の行動は予期に反することだらけになる。もちろん、指揮がトップダウン型のアメリカ軍では、司令官の判断一つで計画がすべて吹っ飛ぶこともある。その原点は、「今おかれている状況の中で、ベストの選択をする」ということだ。状況が変われば、もちろん、行動方針も変わるというわけだ。「彼らと行動を共にする中で、『いかに今ある状況の変化に早く対応するかが大切なんだ』という計画担当将校の言葉が忘れられません。過去の状況から立てた計画に固執せずに、新たな状況の中で最良の方策に変えていくこと。すなわち、変化に強くなることに他なりません」
H1佐は、まだまだ自分などは努力途上ですと謙虚に声を落とした。「目的合理的思考」とは、「何のために」を明確にすることであり、合理的思考とは、「目的を達成するために無駄をなくす」ことだそうだ。アメリカ軍勤務でもっとも感じた目的思考は「敵に勝つ」ということだった。米軍の隊務、組織そして装備は、すべてが敵に勝つためにシステム化されているということだ。敵に勝つためには一切の制約を設けない。それは、予算面や組織面でも変わらない。敵が変化すれば、その敵にもっとも対応しやすい組織や装備に短時間に変化していく。目的さえしっかりしていれば、手段や方策の段階で試行錯誤はあっても、方向性としてぶれることはない。あくまでも私の解釈ですが……と前置きしてH1佐は話を続けた。私が認識した合理思考というのは、目的を確立したら、方策の段階で目的からはずれるような無駄を排除することだという。過去やっていたからと検討を加えずに今回も継続、よくある話だ。過去に学ぶのは大切だが、目的や経緯をしっかりつかんで、現在の目的に合っているかを見きわめていく。この姿勢が大事だと思う。
▼帰ってきてから
あの9.11テロの最中の米国滞在だった。戦時体制のアメリカにいたから、いくぶん誇張された感覚だったかもしれないが、わが国の素晴らしさを再認識したという。四季があって美しい、歴史と文化が素晴らしい、そして安全な国である。ほんとうに豊かな国だと実感した。すらりとした長身(ただし、がっちりしている)、白皙(というには、演習による日焼けでやや黒い)の工兵将校によく見かける学者タイプの軍人である。現在は、指揮官として部隊の運営に日々、努力している。「阿吽(あうん)の呼吸」はどうですか尋ねたら、帰国してしばらく困ったことがあるという。言いたいことを口に出す、我慢しないで積極的に聞く・話すが身についてきた。わが国では、ときにそれが誤解もされる。ちょっと、苦労しました……と苦笑いが返ってきた。
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JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■
軍人の名誉 ( MoMotarou放送局)
【軍人の名誉】 君命も受けざる所あり。
--戦陣の指揮者は、君主の命令であっても 受け付けない所がある。敵情によって応変の、処置が必要だからである。(孫子)
★ ★ ★
どうもあれは良くないと思います。田母神元行航空幕僚長に対して、退職金の自主返還を求めたことです。懲戒免職でもないのですから取り上げる必要もありません。「軍人の士気」に影響します。浜田防衛大臣の「器」も疑われます。
■テレビ映り
最近はマスコミやジャーナリズム出身の議員が増えたことで、随分言動が派手になってきました。桝添厚生大臣もTVタックル時代と変らず、元気のよいテレビコメントをしておりますが、言い訳ばかりが目立ちます。視聴率と議員の質とは関係ないでしょう。
■防衛族
不明を恥じなければなりませんが、最近まで「防衛族」とは我国の「国防」のことを議論する議員集団かと思っておりました。守屋事務次官の事件や、山崎拓議員のことを調べていると判ったのですが、「防衛族」とは「防衛備品調達利権組合互助会」の色彩が強い集まりだったのですね。国防品は高額な兵器が多いし、一般消費財でもないから価格もハッキリしないし、参入業者も限られてきます。そこに利権が生まれるのでしょう。
■利権と化した「村山談話」
後生大事に使っている「村山談話」も実は大きな利権と関係しているはずです。あれを唱えておれば「中国様」の覚えもよろしいから、何かと中国との交渉にも有利になります。ハト派と言われた河野衆議院議長も「村山談話利権」」を使っておるわけです。故後藤田官房長官が本を出した時、一番の大口購入者は日中友好協会だったとか。これなども印税を使った政治献金です。コイズミ元首相の秘書官が辞めたあと出した本がランキングの上のほうだったことがあります。これなんかは「強制配給」もあったのではないでしょうか。
■軍人の誉れ
戦後軍人の立場が「卑しめられる」ようなことが多々あったようです。街で軍服を着た姿を見ることが出来なくなりましたが、基地のお祭りなどに行くと若い女性が、制服姿の自衛官と並んで写真を撮っている場面を良く見ます。また防衛大学では乃木さんや東郷さんの写真も無く、外国から派遣された留学生を驚かせております。
■「治に居て乱を忘れず」
現在の世界金融混乱の中、自分の国は自分で守らなければならない状況が生まれてくるでしょう。先日は中国海軍の最新型ミサイル戦艦四隻が、沖縄付近を航行しているのが自衛隊機によって確認されました。これは一種の「威力偵察」です。世の中には軍備を背景にしなければ外交もまとまらない国もあるのです。
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◆「海を渡った自衛官─異文化との出会い─」vol.28 荒木 肇
第28回 架かっているだけの「橋」にはならない
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架かっているだけの「橋」にはならない
在日米陸軍司令部陸上連絡官 H2佐 派遣期間(1999年3月~2001年3月)
米陸軍第1軍団司令部連絡幹部派遣期間(2001年7月~2004年7月)
▼陸上連絡官の概要
連絡将校(LO)といわれる。海外に常駐する自衛官は大きく5つに分けることができる。1つは外務省に出向して大使館に勤務する防衛駐在官。これは、「大使館付き武官」ともいわれ、駐在する国や周辺各国とのおつきあいや、情報収集などを行なう。2つ目は、警備官である。幹部自衛官の志願者から選ばれて大使館などの警備にあたる。3つ目は、海外留学をする自衛官。アメリカやドイツ、フランス、イギリスなどの大学に留学する。4つ目は、国際機関に勤務する。スイスにある化学兵器禁止機関(OPCW)に出向しているA陸将補は、その手腕、知識、人柄が高く評価されている。そして最後の5つ目が今回、お話をいただく、「連絡幹部(LO)」である。その仕事は、簡単にいえば、日米双方の間の「橋」にあたる。アメリカ陸軍の司令官や、幕僚、スタッフたちに陸上自衛隊についての助言をする。日米共同訓練や共同会議が行なわれる。そうした時の調整や、情報などを収集する。お互いに訪問したり、会談したりする日米の高官たちの連絡役、そして研修者たちへの対応などである。 H2佐は、キャンプ座間(神奈川県座間市)と、ワシントン州フォートルイス基地、アメリカ陸軍第1軍団の連絡官として2回の異文化生活を体験している。
▼感激した第1軍団長の言葉
第1軍団とわが陸上自衛隊の縁は深い。日米共同演習の相手は第1軍団である。そこで、陸自からはアメリカのワシントン州フォートルイスの第1軍団司令部に、いつでも1名の高級幹部(1佐もしくは2佐という)を派遣している。「のちに大将に昇進されたヒル中将でした。私が赴任してから1年のおつきあいで、昇進されて南方軍統合司令官になられました」その昇任式、送別パーティーの時のことである。当時、第1軍団は「ヤマサクラ演習」などでわが陸自とは、たいへん深い関係にあった。この演習は、日米定期共同訓練の重要な1つである。本来、軍人の昇任、とりわけ将官のそれは、とてもおめでたいことであり、名誉なことである。正当に功績や能力を評価された結果が昇任であり、本人ばかりか親しい友人にとっても誇らしく、嬉しいものだそうだ。ヒル中将には多くの陸自将官の知り合い、友人が多かった。昇任式は、なかなか日程が決まらず、しかも、場所はアメリカ、そのため陸自の将官たちは誰も参加できなかった。そこで、H2佐は大きな引け目を感じながらパーティーに出席することになった。恐縮しながらヒル中将に、陸自からの出席者は自分だけになってしまったことを詫びた。たかだか自分は2佐(中佐)にすぎない。明らかに役不足で申し訳ないと。すると、ヒル中将は、なぜ、そんなことを言うのかと、にっこり笑いながら問いかけてきた。
「自分は2佐(中佐)にすぎないと貴官は言うけれど、貴官は第1軍団では日本陸上自衛隊の代表ではないか。つまり、貴官はここでは、陸上幕僚長(ふつう陸将はアメリカ軍では中将にあたる。陸幕長は4つ星、フォースターは大将である)の代理である。私はそのつもりで貴官に接してきた。どうぞ、誇りをもって頑張ってほしいと言われました」 H2佐は、涙が出るほど嬉しかったという。それまで、周囲はみなアメリカ人。他にはただ1人、オーストラリアからの連絡将校がいるだけだった。正直言って、不安と、疎外感にさいなまれてもいたという。そんな時に、ヒル中将からかけられた温かい言葉。連絡将校としての誇りを教えてもらった。それからはH2佐は自信をもって米軍とつきあえるようになったという。いや、もちろん、完璧になったわけじゃありません。まだまだ不十分ですが、今ある自分の基礎になっていることは確かですと、現在のH1佐はふり返る。
▼防大に補欠合格、環境を変えたいと思った
防大27期生である。共通1次試験の前の混乱で、入校人員が異常に多かった26期の翌年になる。この期は、着校日(3月末に入校予定者は防大に着かなければならない。生活体験を通して、入校式に備えることになっている)になっても定員を満たさないという事態になった。多めに発表する合格者の中からの入校辞退者数が、見通しを大きく超えてしまったのだ。防大は急いで補欠合格を出し、三月の末になって該当者に連絡が入り出した。
「4月1日、午後7時でした。F地連(当時は地方連絡部)から電話が入りました。入校する、辞退する、どちらかの返事は明日の昼まで。もし、入校するなら3日に着校とのことでした」すでに地元の国立大学への進学は決まっていた。F県には自衛隊を目にする機会はほとんどなかったし、自衛隊について意識することもなかった。防大の試験を受けたきっかけも、放課後、教室を掃除していた時のことである。担任の先生が、受験志望者は願書を取りに来いと黒板の右隅に書いた。防大って何?と友人に聞いたら、お金をもらえて勉強できるんだそうだと教えてくれた。1次試験の日程は学習研究社の模試と重なっていた。しかし、防大受験は無料である。これはいいとばかりに受けてみたのである。結果発表は2月14日、バレンタインデーだった。同期の中には、合格発表とチョコレート、両方手に入れた者もいますが、私はどちらも縁がなかったとは、H1佐のユーモアである。入校を選んだのは、まあ、冒険心だったのでしょうとH1佐。中学は徒歩10分、高校も歩いて5分、このまま地元の国立大学では自宅通学、何か自分の環境を変えたいと思っていたらしい。どちらかというと、入校、自衛官への道は偶然としかえいない。
▼「捨てる神あれば拾う神あり」の連絡幹部への道
幹部候補生学校で施設科(工兵)への道が決まる。多くの若手幹部と同じように、部隊勤務、入校をくり返した。3佐になる頃には陸上幕僚監部人事部にいた。担当は、即応(そくおう)予備自衛官制度の立ちあげだった。これまでの予備自衛官より、さらに進んだ制度である。年間の招集訓練も30日と、ふつうの予備自衛官の5日と比べれば、ずうっと増えた。勤務する企業にも給付金が贈られる。30日間も訓練で休ませるのだから、その補償でもある。
制度ができると、防衛部予備自衛官運用室に異動した。今度は、予備自衛官の予算要求関連業務につく。忙しかった。ほとんど六本木の職場で寝泊まりをしていた。そんな中、海外出張した先輩、上司、同僚からお土産がわたされる。外国産のウィスキーやワイン、正直言ってうらやましかった。H3佐が海外出張のチャンスに恵まれなかったことには訳がある。尉官の頃に、英語課程(POE)の入校をしていなかったのだ。自衛隊は外国語教育に熱心である。とりわけ米軍との関係があるから、英語能力は特に重視する。東京都小平市にある小平学校は、語学教育のメッカであり、選ばれた幹部や陸曹・陸士は、そこで語学漬けの毎日を送る。
2佐になった。陸自では3尉・2尉を初級幹部という。1尉・3佐を中級、2佐・1佐を高級幹部とする。米軍だけはなく、どこの国でも2佐(中佐)はカーネルである(もっとも、大佐(1佐)はフル・カーネルという言い方で区別して格がちがった扱いは受ける)。軍人としては堂々たる立場になる。異文化にふれたい、自分の視野を広げたいとH2佐は熱望した。希望は、防衛駐在官、大使館付きの武官である。先輩の中にも、POEを修(お)えてなくても、指名されてから改めて教育を受けて赴任した人もいる。「駅前留学」の学校の手続きをし、英語の単語帳だけを読む日々が続いた。もっとも、忙しくて英語学校に通う暇はほとんどなかった……。指定は外れた。言われた理由は、やはり、POEの履修がなく、陸幕での勤務も予備自衛官関連のみということから経験不足と判断されてのことだったらしい。落ちこんだ。でも、気を取り直して業務に打ちこもうとしていたある日。室長から呼ばれた。座間の在日米陸軍司令部の陸上連絡官をやってみないかという話だった。「キャンプ・座間といっても、日本国内です。英語を使うとはいえ、半分は日本語で仕事をするわけで、もともとの希望とは大分ちがっていました」でも、『捨てる神あれば拾う神あり』ということわざを思い出し、ありがたくお受けしたという。周囲の方々の配慮のおかげであり、今も感謝しているとH1佐は語る。
▼通じない「阿吽(あ・うん)」の呼吸
連絡官の仕事は、簡単にいえば「橋」である。日米双方向からの架け橋である。橋は渡ってもらってこそ橋であり、しかも、案内付きの使い勝手のよい橋であることを心がけてきたとH1佐は言う。使われない橋は、ただの無駄遣いにすぎないとも。キャンプ座間での時代2年間と、アメリカ第1軍団司令部での3年間の前後2回の異文化生活があった。その中での大きな体験は3つになる。1つは、「あ」といえば「うん」と応える呼吸がアメリカ軍、アメリカ人にはないことだった。「言葉を換えれば、曖昧(あいまい)が通じない。もっと極端に表現すると、相手を信用しないことに規準を置くといっていいでしょうか」わが国社会や組織では、何となく物事が決まったり、話がついたりする。相手がすべてを語らなくても、意味不明な言葉、たとえば「それはそれとして」といったような言葉があって、話が進んでいくことが多い。アメリカでは国民すべてに社会保障番号がある。この番号がないと、契約やさまざまな予約をすることもできない。ホテルの予約でも、確認番号を貰わなければ、後でトラブルになっても取り合ってもらえないという。すべてが「契約社会」という、相手との同意を明確にしておく社会形態である。そのことは2つ目の異文化、民主主義の教育にも関わってくる。
ある、米国在住の日本人教育者から聞いた話と前置きしながらH1佐は語ってくれた。アメリカの学校教育の目的は、民主主義を教えることだ。民主主義社会で生きていくためには、騙(だま)されないための知識を得ること、社会に参加することが必要であるからだ。「毎週、ショー・アンド・テル(Show and Tell)という授業がありました。自分の好きなものをクラスの友だちに紹介する。他の生徒から質問を受ける。紹介、質問、回答といった一連の動作を通じて、会話に参加することを教えているのだと思いました」教師は、その中で、とくに質問のしかたに重点を置いて指導するらしい。このことは、話し言葉軽視、会話軽視のわが国の学校の授業とはずいぶん異なる点だと、筆者(荒木)も思った。わが国の授業では、どうしても、子ども同士の話し合いでも教師が正面に出てしまう。子どもたちが互いの発言に耳を傾け、質問をし、話を続けていく時間はなかなか目にすることができない。子どもたちの中には、理解も曖昧なまま、なんとなく、質問もできずに黙って聞いているだけの存在が多かったようにみえる。
3つ目は人々の生き方だった。生き方とは価値観の現れだとH1佐は思っている。わが国では、人それぞれの価値観を「共有」しようとする。対して、アメリカでは、人それぞれの価値観の中で「共存」しようとしているという。わが国では、どうしても周囲から同調を求めるような圧力があり、人もまた、気を遣い周囲とあわせようとする傾向がないだろうか。 「周りに迷惑さえかけなければ、すべての価値観は認められているように見えました。自分らしく生きていくことができるのです」フォートルイス基地の官舎の隣人だった、米軍将校夫妻の話をしてくれた。ご主人は退役した中佐、夫人は現役の大佐だった。元中佐は家事と息子の教育を担当していた。わが国では、そういう状況は男として、やや肩身が狭いのではないかと思う。ところが、奥さんはご主人が料理に得意なことを自慢する。ご主人は秋になれば趣味の狩猟にでかけるという。また、ふだんは基地内の馬場で馬を飼っていた。仲の良い夫婦であり、互いを尊敬しあっておられたという。 「色々な価値観のある人生を見せてもらいました。自分の生き方って何だろうなどと考えさせられる3年間でした。また、自分らしく生きていくことを大切にすることを学びました」
▼目的合理思考のアメリカ軍
自分が変わった。それは、米軍との関係で学んだことであり、今も心がけていることだがとH1佐は語る。「変化に強くなった」という。さまざまな研修や演習に参加した。計画は緊密に立てていく。でも、実際の行動は予期に反することだらけになる。もちろん、指揮がトップダウン型のアメリカ軍では、司令官の判断一つで計画がすべて吹っ飛ぶこともある。その原点は、「今おかれている状況の中で、ベストの選択をする」ということだ。状況が変われば、もちろん、行動方針も変わるというわけだ。「彼らと行動を共にする中で、『いかに今ある状況の変化に早く対応するかが大切なんだ』という計画担当将校の言葉が忘れられません。過去の状況から立てた計画に固執せずに、新たな状況の中で最良の方策に変えていくこと。すなわち、変化に強くなることに他なりません」
H1佐は、まだまだ自分などは努力途上ですと謙虚に声を落とした。「目的合理的思考」とは、「何のために」を明確にすることであり、合理的思考とは、「目的を達成するために無駄をなくす」ことだそうだ。アメリカ軍勤務でもっとも感じた目的思考は「敵に勝つ」ということだった。米軍の隊務、組織そして装備は、すべてが敵に勝つためにシステム化されているということだ。敵に勝つためには一切の制約を設けない。それは、予算面や組織面でも変わらない。敵が変化すれば、その敵にもっとも対応しやすい組織や装備に短時間に変化していく。目的さえしっかりしていれば、手段や方策の段階で試行錯誤はあっても、方向性としてぶれることはない。あくまでも私の解釈ですが……と前置きしてH1佐は話を続けた。私が認識した合理思考というのは、目的を確立したら、方策の段階で目的からはずれるような無駄を排除することだという。過去やっていたからと検討を加えずに今回も継続、よくある話だ。過去に学ぶのは大切だが、目的や経緯をしっかりつかんで、現在の目的に合っているかを見きわめていく。この姿勢が大事だと思う。
▼帰ってきてから
あの9.11テロの最中の米国滞在だった。戦時体制のアメリカにいたから、いくぶん誇張された感覚だったかもしれないが、わが国の素晴らしさを再認識したという。四季があって美しい、歴史と文化が素晴らしい、そして安全な国である。ほんとうに豊かな国だと実感した。すらりとした長身(ただし、がっちりしている)、白皙(というには、演習による日焼けでやや黒い)の工兵将校によく見かける学者タイプの軍人である。現在は、指揮官として部隊の運営に日々、努力している。「阿吽(あうん)の呼吸」はどうですか尋ねたら、帰国してしばらく困ったことがあるという。言いたいことを口に出す、我慢しないで積極的に聞く・話すが身についてきた。わが国では、ときにそれが誤解もされる。ちょっと、苦労しました……と苦笑いが返ってきた。
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