軍事情報別冊 (スペイン&ラテンアメリカ講座 (12))  | 日本のお姉さん

軍事情報別冊 (スペイン&ラテンアメリカ講座 (12)) 

軍事情報別冊 (スペイン&ラテンアメリカ講座 (12)) 
 ~戦略・情報・兵法・地政学・言語・社会などから見る~
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先ずは、みなさん!

今月9日~14日の間、スペイン王国国王フアン・カルロス一世陛下及び同王妃陛下が日本を国賓として訪問されます。スペイン国王フアン・カルロス一世と聞けば、平成19年11月10日、チリのサンティアーゴで行われていた「第17回イベロアメリカ首脳会議」にご出席になり、会議中、ベネズエラのチャベス大統領が現スペイン国首相に対して、スペイン・米国間関係を批判して、一方的にまくしたてている時に、“Por que' no te callas”(*)(英語で相当の表現にするとWhy don't you shut up?になる。「お黙りなさい」の意味。)とおたしなめになられました。
(*)正確には、文頭に「?のさかさまになった文字」と、文末に「?」が入りますが、テキスト編集では文字化けするので、割愛しています。(おき軍事)この台詞がスペインの携帯着メロで大ヒットしたことが知られています。
YouTube(
http://jp.youtube.com/watch?v=gzu6NIXPPA8&feature=related
英語字幕あり)でご覧いただけます。(注意しなければならないのは、このようなスペインやラテンアメリカに関わる事象を調査する際、意外と“左巻き”系統の思想家・活動家、あるいは、シンパとかが大学で教授をしていたり、研究家を標榜し、その数が結構いて、もっともらしいことを公開したりしているので、自分自身にアンチ・ウイルス・ソフトを常駐させておくことが必要だということです。)国王に同席しているスペイン国サパテロ首相とは、前政権のアスナール首相とは異なり、政治的な立場も態度も反対の方です(サパテロ首相は、元々、与党ではなく野党でした。かつての列車テロ以降の選挙で勝利したのです)。が、会議中、反米のチャベス大統領が前アスナール首相を当時のスペインと米国(イラクがらみ)との関係から激しく“口撃”して来たのです。サパテロ首相は、前首相も同じ民主主義で選出されたことから、ここはきちんと“筋を通して”民主主義国家として反論するのです。しかし、チャベス大統領がまくし立ててくるので、国王がたしなめたのです。

この国際会議の中で、並み居る各国の代表を前にして、スペインの国王と首相の毅然とした態度と言動は、今の日本の与党にせよ、野党にせよ、比べて見れば、日本が情けなくなって涙が出てくるところでもあり、スペインの国民が本当にうらやましいとさえ思えます。歴史認識がどうのこうので、スグに外国に売り飛ばすような政治家が沸いているような日本とは違います。本当の政治家とは、ここで身代わりになってでも守ってやるのが本当です。これぞ、ノーブレス・オブリージュ。心根賤しい成り済ましサムライが政治家とは笑わせる時代です。(今の日本の与党も野党も、結局、国民泣かせに変わりはありません。本当に国民を笑わせて、観世音菩薩のような“畏れを無くすを施す者”=施無畏者の如き政治政党や政治家はいるでしょうか?絶対にいません。しかし、そのような問題を解決するのがみなさんの心一つなのです。)ここで、話題にもなりましょうから、現代のスペイン事情について知るには:
スペイン大使館(
http://www.spainbusiness.jp/icex/cda/controller/pageGen/0,3346,4928839_35729229_35711268_0,00.html )や
日本の外務省(
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/spain/data.html
を参考にして情報を仕入れてみてください。
また、訪日予定は、
外務省(
http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/press/release/h20/10/1183864_918.html )をご覧ください。

では・・・今回は、前回からの続きです。(前回の記事はこちらで⇒
http://espania.okigunnji.com/2008/10/post-7.html
スペインから日本へと色々と導入されそうでされなかった「軍事的事象」についての観察を勧めて行きたいと思います。みなさんは、導入されていたらどうであったのか、あれこれと考え、自分の思考と感情・心理的な嗜好を以て、次の段階へと加工することは、所謂、歴史小説家の世界でありましょう。しかし、あなたにやっていただきたいのは、スペインとの交渉を観察しながら、日本人そのものの思考と行動について知るということです。これは、「己を知る」、このための習慣づくりの一助となればと思います。軍事的事象について観察する際には、言わずもがな・・・のことがあります。それは、「戦い」とは、即ち、我と相手との自由性に基づいて展開されてい衝突的、摩擦的な事象であり、所謂、それは、因果の法則通り、過去の“因”により、現在の流動的、瞬間に次ぐ瞬間の中での千変万化を経て、そして“果”となる未来へとつながっている「問題の解決に他ならない」ということです。その問題とは、どうあれ、みなさんは規模の大小、関与の多少、感情的な善悪はあれども「当面するもの」なのであります。故に、勝負をして、白黒を着ける訳です。これが“表”です。そして、同時に、これらの“裏”には、勝負をしない、白黒を付けない・・・という考えがあり、それらの方法もある訳です。

軍事と言えば、このような「表裏一体の基礎的な考え」があるので、「敵対性」とは何か?とか、「敵愾心」とは何か?とかについて、そして、平和創造の要素ともなっている「破壊的な事柄」や「罠にはめたりする狡猾さ」ついても自ずと“総合的に思考を巡らせる”必要が生じて来て、それが当たり前になっているものです。(即ち、大きな観点から言えば、“武道心=総合的頭脳活用法”とか言われるところです)しかし・・・ありがちなこととは、軍事的事象が語られるところでは、多くの場合、この肝心の“武道心”のところを抜いて、理論(本当は、“理屈”というものです。理屈は、どこに存在しているのが?それは、脳の中に於いてです。即ち、ヴァーチャル世界であります。要は、頭で分かったつもりとか、頭だけで処理しようとするようなこと)で押し切ろうとするような興味深い傾向があります。

みなさんは、この違いを今一度、反芻しつつ、認識しておくことが必要です。サイト『古伝空手・琉球古武道(
http://kodenkarate.jp/ryukyukobu.html )」にある「琉球古武道」の“孫子兵法と古伝空手・琉球古武術との関係」、サイト『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』の「孫子時評・第11回」( http://sonshi.jp/jihyo.html )にある孫子塾・塾長、古伝空手・拓心観道場の佐野寿龍先生による詳しい解説をここで必ず熟読して、先ずは、「違いの分かる人になること」、「侍の思考と行動についてそれは一体何か自分の思考と行動で体験する」、「言葉と現実は異なるもの」といった基的な段階を登り重ねながら、自分自身を”それなりランクアップ“し、”武闘派として慣らして行って“ください。では、始めましょう。12.比較軍事史から考える。

・日本の「国軍」の“編制・編成”の問題
これについては、もっと比較軍事史の点から考えられてもよい問題点です。が、16世紀の日本では、幕藩体制(要するに徳川一家による世襲的な軍事独裁政権)の故、スペインのような、国家を背景とした統合的な軍事力は、当然のことながら、全く成立することはありませんでした。
これを、豊臣家ならどうなったかとか、その他の戦国大名ならどうなのか、もしくは、勤王的勢力が日本を支配していたらとか、いろいろと考えてみると面白いと思います。そして、仮に成立していたら、大陸や太平洋を越えたあたりに「東インド会社」のような国策の経済団体など存在したかも知れません。ここでは、次のような興味深い点が指摘されます。

ア)陸戦能力について
戦国時代に終止符を打った徳川家康は、“元和堰武”以降、スペイン以外の外国(これはスペインの敵対国でした。即ち、イギリスとオランダです。ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンらの存在に注意してください)とも通じて、海外における十分な軍事知識を獲得する機会がありながら、スペイン軍やそれに敵対していたイギリス軍やオランダ軍の軍制改革・軍事技術の変革に伴う欧州の軍事革命とは、何故か、距離を置いていました。そして、徳川家康は、日本の支配者として君臨しつつも、外国勢力への対抗力は、全くと言って良いのですが・・・整理していません。ここでぬかりなく、外国勢力への対抗力の組織はおおやけには無理でも、外国情報には敏感で努力していたところもありましょう。即ち、薩摩あたりです。また、ここでは、英語で“レネゲイド”などという、キリスト教棄教者(要するに南蛮浪人です)の存在も陰ながら・・・考えられましょう。しかし・・・欧州の軍事革命との同時代性を考慮すれば、ここから日本の軍事は、足踏みすることとなったのでした。即ち、当時の欧州で現れてくる「常備軍的」な武闘組織、要するに、当時なりに考えられても良さそうな「日本軍」の創設もなく、また、欧州に見られる混合戦術の研究も何も実施されなかったのでした。詳しくは、松村劭著『名将たちの戦争学』文春新書、2001をご覧ください。また、松村氏の著作には、本当に大学でスペイン史の専門家を自称・標榜しているような先生方とは、本当に質的に「雲泥の差」のある、軍事専門家からのスペイン軍事史に関する記述が多々ありますので、参考にしてください。

イ)海戦能力について
日本は、豊臣秀吉による朝鮮の役の後も水軍の改善・整備を行うことはありませんでした。当時のスペイン、イギリス、オランダ等の先進的な“海軍”の編制や進んで造船技術を採り入れた外洋型艦船の建造も本格的に学び身につけることもなく、逆に鎖国を行い、厳しい法度で船舶の建造や航路を規制するのでした。このようなところから、伊達政宗によって派遣された、支倉常長を団長とする慶長遣欧使節(遠藤周作著『侍』のモデルになっています)の目的を戦略的観点から再考すると、伊達政宗は、スペインの太平洋航路沿いに位置する三陸のリアス式海岸に良港を設営し、スペインとの軍事同盟によって新政治体制の設立、あるいは奥州藤原氏の先例に倣い、東北地域での独立国の可能性も“想像”されるのです。(これは、歴史小説にすれば、とても面白いと思います・・・ひょっとすると、塩竃港あたりなど“サンタ・エスメラルダ”とかいうようなスペイン風の名称になっていて、“どこぞの変なスペイン語の先生”より、よっぽど上手なスペイン語を話す混血のイケ面とか美人なんぞが多数住んでいるところが出来上がっていたかも知れません。)

・軍用馬の輸入について
フロイス自身が日本の馬は、ポニーのような小型馬であると記述しています。が、何故か、日本とスペインとの長い交易期間の内では、軍事に最も有益な外国産の馬は、日本に輸入・定着していないのです。実際に外国から馬が輸入されて日本の軍用馬の馬格改造に挑むのは明治以降のことでした。ここから戦国時代の騎馬軍団の実態(特に機動突撃について)も改めて見つめ直す意見が出て来ています。ここで、さらに付け加えると、欧州の畜産技術そのものが伝わらなかったと考えられます。もし、本格的な家畜の輸入があれば、去勢や交配(品種改良)等の技術と共に乳製品、そして、食肉(加工・料理も含めて)の方法も伝わると考えられるものです。和菓子になったカステラやコンペイトウのような“レベル”での和風の肉加工食品(所謂、西洋のハムなり、ソーセージなりのようなもの)とか、炙り焼きやオーヴン形式での肉料理など見られません。これは、食文化の観点や注目されつつある食育の面からも大変興味深いところとなっています。また、一般人全体に肉食が定着していたのなら、現代のメタボリック・シンドロームなどは、事前に漢方医学や日本的な養生法などを通じて、本当は、現代においてなかったのかも知れません。メタボリック・シンドロームなんぞ、これは、そもそも、戦後になって、米国の統治下においてのドサクサ時期(所謂、食料欠乏の苦しい立場の時期)に日本の食文化や食習慣が変更され、摂取する肉や油の量がえ、食の慣習そのものが変質したものと考えられます。

・騎乗銃兵について
上記と関連して興味深い点は、伊達政宗の軍には、騎乗ピストル銃兵が登場しており、これとよく似たものが欧州では“カラコール戦法”(ピストルでの馬上射撃を列単位で行い、次の列と入れ替わり、反復して攻撃する戦法。ちなみにスペイン語で“caracol”という語は、馬術の半回転の他に、カタツムリ、巻き貝、渦巻き毛の意味もあります。)として知られています。伊達氏のものについては、発想的には、伊達政宗と懇意であったスペイン人宣教師ソテロの存在もあり、慶長遣欧使節(遠藤周作著『侍』で有名。太平洋を横断し、メキシコを通過、大西洋を渡ってスペインまで行っています)も実現しているところから、欧州のものを伝聞した可能性が考えられます。しかし、欧州では「軍事に馬を組み合わせて活用」(騎兵、牽引、輸送等)することが見られ、特に騎乗して戦闘する発想が継続的に発展(後に龍騎兵などへ)して行くのですが、日本では幕藩体制以降、伊達軍のような事例は消滅し、欧州の「騎兵」的な発想を持った戦闘集団が登場するのは、幕末維新の戦闘(官軍側に騎兵隊があったでしょうか。その反対の幕府軍側においても...です)でも見られず、そのようなことは、近代陸軍を創設した明治以降のことなのです。(ひょっとして、スペイン式の戦闘術は、当て字を使ったりしつつ、古流の馬術や砲術などに相伝されているかも知れませんが・・・。ウイーンには「スペイン馬術学校」がありますが、欧州流儀の馬術もあったのかどうか・・・調査や確証は、今後のきちんとした研究者たちの課題でありましょう。)

・甲冑について
欧州からの輸入甲冑が南蛮甲冑として使用されました。また、その対銃弾用の効果的な機能は、“縅(おどし)”ではない金属一体化構造の故なるもので、これが日本の「当世具足」にも影響を与えて、その模倣品も作成されるようになったものです。織田信長や徳川家康のものは知られています。また、劇画『花の慶次』にも、主人公着用のものとして、たびたび現れているようです。最近では、五月人形にも上杉謙信や伊達政宗着用という南蛮甲冑が現れて来ました。参考までに大阪・松屋町の老舗・久宝堂(
http://www.kyuhodo.co.jp/gogatsu/nanban_kacchu.htm )のサイトをご覧ください。
(松屋町・・・ですが、大阪では、玩具や人形の問屋さんの多い通りです。大阪の悪い冗談などでは、「悪いドタマ(頭の意味)、松屋町(“まっちゃまち”と発音)行って、変わりをこーてこいや(買ってこい)」と言うと、そんなん売ってへんわー」などと返答しています。)この点、日本では、火器の普及に合わせ、それなりの防御対策が見られています。また、当世具足では「満智羅(まんちら)」という首周辺から上半身を守る“防弾チョッキ様”の鎧の下に着る“ライナー的な防具”が開発されています。これが元々、ポルトガル語と思われるところから察すると、欧州の甲冑を輸入して、そして影響を受けて出来た単語と考えられるものです。ちなみに、スペイン語には、”mantilla”(マンティーリャ)というのがあり、女性が使う頭と肩を覆う薄絹のショールのようなものを指します。

・軍事思想や政治思想の伝播について
当時の欧州からキリスト教以外の思想、即ち、スペイン・スコラ哲学、それの影響を受けたオランダ啓蒙思想、マキアヴェッリの政治思想やギリシア・ローマの古典作品等が流入する機会はあったものと推察されますが...それらが日本人に本格的に伝えられた形跡は見当たりません。もし、流入していたら・・・伝統ある漢籍学者らがそれらの研究を開始して、17世紀以降には、それなりに独自の日本の哲学や思想を模索し始めていたことでありましょう。また、日本の思想史には、多大な変化を与えていたことであろう...と考えられるのです。しかし、この面でも軍事と同じく日本には伝播していません。徳川幕藩体制は、この欧州の哲学・思想分野に関しては、かなり神経質な態度を取り続けています。このようなことが近代日本の基礎となった明治以降の日本人の西洋や欧米といったものに対するものの見方と考え方にかなりの反作用を及ぼしたと考えられるのです。

・鎖国政策と日本の軍事
16世紀以降の欧州の軍事は、絶対王政の勃興からも分かるように、戦争状態が殆ど断絶することがなかったが故に、各国で政治、経済と共に継承・発展されて行きました。また、軍事全体が、進んだ兵器の使用方法や軍の編制の問題、そして・・・政治・外交・社会等との関係から複雑化・深化して、単なる暴力の行使よりも、さらなる知的要素が必要不可欠となって行き、「戦争についての科学的研究」が発展して行くこととなりました。しかし、一方の日本では、元和偃武を経て、その後、「鎖国」を断行した結果、約250年間、徳川家の“世襲制軍事独裁政権”を現状維持させるための「幕藩体制」の下で、不満分子を制圧した”天下太平”の状態が現れた代りに、日本独自の道を歩むこととなりました。しかし、この徳川時代にこそ、武術の諸流派が整理され、儒学者(といってもその淵源たる筋は、“侍”がやっていました。ここを注意しなければなりません。これが日本の特殊性なのです)が軍学、兵学を研究し、それなりの“体系”が出来上がって行ったのです。

徳川時代になると、16世紀に見られた日欧の軍事革命における同時代性(シンクロ)の動きは、停止を迎えることとなりました。その後、幕藩体制が崩壊(日本史では、日本政治の大規模な変革には、必ず外国の圧力が作用している点と合わせ考えると興味深いものです)して、近代国家として生まれ変わる明治維新までは、日本軍事史において軍事革命を体験することはなかったのでした。途中、欧州の三兵戦術は幕府兵学者の高島周帆(東京の“高島平”の地名に残る)により紹介されましたが、既得権益に固執する当時の御用兵学者らに反対され、結実しませんでした。ところで、三兵戦術については、この“戦術”という言葉がオランダ語の“TAKTIKEN”の訳語であると考えられています。高野長英著『三兵答古知幾』の答古知幾(タクチーキ)や宮本武蔵著『五輪書』、山本常朝著『葉隠』にも“カチクチ”という言葉で出現している興味深い言葉です。


維新後、それまで続いた約250年間の政治・軍事・経済の“鎖国によるトライアッドの空白”は、“新生明治日本”によって一気に回復されることになりました。それは、欧州様式の政治・軍事・経済の“トライアッド”を自らのものとし、欧州の先進的な軍事のハード・ソフトの両面を数年間の内に会得して、時代的格差を埋め、克服したのです。日本は、幕末維新や明治初期に日本軍事史において、自らに軍事革命(例:“鳥羽伏見の戦い”での幕府側の戦国時代的装備に対し官軍側が西洋近代的装備で粉砕したこと、また、“西南戦争”での徴兵による国軍が士族集団に対し勝利を収めたことなど)を「仕掛け」、わずかの間に“革命事象”を達成することとなったのです。明治時代・・・ですが、同じ時代に、先んじて日本よりも欧州様式の軍事を導入し、当時の先端技術と兵器(例:大型戦艦:「定遠」、「鎮遠」等)を購入・装備していた清国を日清戦争で打ち破り、その後、日露戦争では、列強の軍事大国ロシアを陸戦、海戦共に退けたことは、東洋蔑視の当時、日本人が他のアジア人とは異なる「資質」を世界に見せたのであり、世界的にも注目しなければならない事実でありましょう。

このことは、現在に至っても、世界が日本について経済や技術の競合に関しての潜在心理ともなっていると思われます。次回は、いよいよ16世紀の日欧比較軍事史の総括を行いたいと思います。次回でスペインとお付き合いするための、日本人としての常識というか基礎のところを終了することになります。そして・・・やっと本番というか・・・12月からは、スペインから学び取れる戦略、情報、兵站、地政学、兵法、言語、文化などの盛り沢山のものを“欧州”とか、“人間”とか、“普遍性”とかいうような大きな概念をバックにしつつ進めて行きたいと思います。みなさんが、ますますプロフェッショナル的になり、手練れとなられるようプログラムを組んでおります。乞御期待。(つづく)
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