経団連「移民論旨」の破綻(博士の独り言) | 日本のお姉さん

経団連「移民論旨」の破綻(博士の独り言)

経団連「移民論旨」の破綻(博士の独り言)

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大量移民受け入れ政策
他国の事例を未然の教訓に

【金融危機】オーストラリアが移民政策見直しへ
【シンガポール=宮野弘之】 世界中に広がる金融危機の影響で、オーストラリアが伝統的に進めてきた大量移民政策を見直す方向となった。ラッド首相は先週、移民受け入れ数を減らす可能性を記者団から問われたのに対し、「経済状況に応じて調整していく」と述べ、移民政策を見直す可能性を初めて示唆した。背景には景気低迷で失業率が増え、国民の間に、増え続ける移民受け入れに反対する声が強まっていることがある。産経新聞 10月15日朝刊(面)より参照のため抜粋引用/写真は同記事より参照のため引用
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国状に応じた「移民」政策を

 表題は、オーストラリアにおける「移民受け入れ」政策の状況を伝える記事だ。一般に、移民受け入れは、すなわち、相応の国家予算を資することになる。その様子を読み取れる記事である。オーストラリアの場合も決してその例外ではなく、外国から多くの移民を受け入れて、社会に定着させる。そのプログラムにどれほど多くの予算を費やしているか。また、移民して来た「人」を自国民とする以上は、福祉や社会保障に国力を割くことにもなる。そのバランスの上で、移民の増加が、国内の雇用や賃金にどう影響するのか等。同記事は、その様子を窺(うかが)える事例を示しているかに映る。

 記事に云く、「同国は毎年5月に、会計年度にあたる7月からの1年間に受け入れる移民の数を決める。移民・市民権省のまとめによると、1997会計年度の受け入れ人数は6万7000人だったが、2002会計年度に10万人を突破。07年度には15万人を超え、今年度は19万人を受け入れる計画で過去最大。これに家族を含めると、ここ数年は毎年20万人を超える移民を受け入れてきた」と。大きな数だが、これは、容量が大きなオーストラリアであればこそ、実現できた数値と謂えよう。

 あくまで、単純におしなべた数値に他ならないが、ここで、いわゆる、その国の「適正人口」の要素となる事項を、オーストラリアと比較してみたい。先ず、オーストラリアの国土面積は、7,686,850km2(世界第6位)で、日本の約20.3倍。人口密度は、3人/km2で日本(337人/km2)の112分の1。ウランや金鉱、鉄鉱石などの天然資源が豊富であり、食料自給率も200%を超えている。対して、日本の場合は、天然資源の輸入依存度は高く、食糧についても同様である。日本の食料自給率は40%を下回っており、たとえ、自給率100%と謂われる米を考慮しても、100%にはおよばない。国を「容れ物」に喩(たと)えて比較しても、余りにも違い過ぎる。

 いわゆる、移民「1000万人受け入れ」構想は、将来の達成目標としながらも、しかし、その達成のために、このオーストラリアと比肩し、さらに同国を上回るペースでの大量移民「受け入れ」の想定を余儀なくされる。現状でさえ、オーストラリアの112倍の人口密度を有する日本へ、どうして、ビジョンが示す大量移民を受け入れる余地があるのだろうか。無謀なまでに、日本の適正人口を無視した「闇ビジョン」であることが判る。その国の政策は、つぶさな国状と国力に即したものでなければならず、一部の政治家、経済人を自称する人々が「机上」で策定するものでは無いはずだ。
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移民に関する豪州国内世論の変化

 表題では、ラッド首相の談話として、云く、「移民受け入れ数を減らす可能性を記者団から問われたのに対し、「経済状況に応じて調整していく」と述べ、移民政策を見直す可能性を初めて示唆した」と。また、同国内の世論として、云く、「(10月)13日に発表された全国世論調査結果によると、移民の受け入れ数を減らした方がよいと考える人の割合は、04年の34%から07年は46%にまで増加したという。こうした傾向は移民受け入れの割合が高いビクトリア州で強かった」とある。この容量の大きなオーストラリアでさえ、国内で、「移民受け入れは減らした方が良い」とする世論が高まっているようだ。

 また云く、「調査を担当した同州メルボルンにあるスインバン工科大学のベッツ教授は、地元紙に対し、「景気が低迷し失業率が高まると、移民のために給料が下げられたり、職を奪われたりすると考える人が増えるため」としている」と。同国内でも、移民に由来するさまざまな問題が生じている。それゆえ、記事に記される世論にも変化が見られる。その様子が窺える記事となっている。紙面の一隅で見過ごされがちな記事だが、こうした他国の事例を、未然の教訓とすべきであろう。

すでに行き詰まっている「提言」

 この15日の日経新聞朝刊には、次の記事があった。誤って同紙面を掃除に使ってしまったので、Webから引用させていただく。云く、「日本経団連は14日、人口減少社会に向けた提言書を公表した。高度な技能をもつ人材や留学生を中心とする移民を海外から受け入れ、日本経済の競争力を保つべきだとの見解を示した。これまでも外国人の働き手が必要と主張してきたが、移民の受け入れまで踏み込んだのは初めてとなる」(「Nikkei Net」
10月14日付)と。先稿でも指摘させていただいたが、同提案は、かの「移民1000万人受け入れ」ビジョンに沿ったものであろう。提言の次の内容(概要)がそれを物語っている。

 また云く、「「人口減少に対応した経済社会のあり方」と題する提言をまとめた。今後50年の間に、日本では働き手となる15―64歳の人口は4600万人弱に減る。今よりも半減することを踏まえ、人材確保が欠かせないと強調した。その柱として「日本型移民政策」の検討を掲げ、関連法整備や担当大臣設置を求めた。高度人材や留学生に加え、看護師といった一定の資格をもつ「中度人材」の活用にもふれた」(同)とある。将来に対してビジョンを設けることは無意味とは謂えない。だが、そこで留意すべきは、往々にして、「現在」の経済水準や技術、社会状況の側面を「基点」として論じがちな傾向にあることだ。

 たとえば、人口が減る。ゆえに(=イコール)人手が足りなくなる。生産性が低下する、といった単調な議論は、将来を予測する1つの指標とはなり得るが、しかし、強引にも「数値」の補填で繕おうとすれば、将来の「現実」をカバーし得るものにはならない。貧血になったら輸血で補え、とするかの矛盾を生むのみで、必ずしも、将来の問題解決にはつながらないのである。人口が減る。だからこそ、生産性を維持し、あるいは現在以上に引き揚げるためには、何をどう改善すれば良いのか。また、どのような社会システム、技術を改良、充実させればそれを補えるのか等々。議論のベクトルは、先ず国内に向けてこそ、はじめて、政策、ビジョンと謂えるのではないか。この意味から、経団連の論旨はすでに破綻しており、見直すべき要素が充ち満ちている。

また、外国人の移民受け入れ、とは表向きの体面は良いが、小ブログでも度々触れて来た通り、その「移民」の大半は、特定国からの移入であることを、入国管理局などの数値から割り出している。すなわち、移民数が増大するほどに、それに比例するかのように、近隣の特定国からの移民数を引き揚げる結果を招く。その柱としているかの留学生「30万人計画」もまた、留学生が約12万人とされる現時点でさえ、8人に5人が中国からの移入であることからも明白だ。その先には、否応なく「日本自治区」が見え隠れしており、経団連諸兄や上げ潮派は、そのための内通者として内側から門戸を開けようとしているかにさえ映るのである。
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■ 主な関連記事:

トロイの木馬「経団連」
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【筆者記】

 もう1つの危惧は、移民「1000万人受け入れ」ビジョンの柱とも目されている「国籍取得」の容易化である。外国人ならば、帰国、または問題がある場合の送還という手だてで対処できる。だが、容易なまでに日本国籍を付与してしまえば、最早、そうした対処も不可能となるからだ。諸外国では、帰化した国の言葉すら満足に身につけず、移民が固まってコミュニティを形成するケースは多い。いわば、一国の中に多重国家を形成する。その点が諸国では問題となっている事例もまた参考とすべきではないか。以上、紙面記事を用い、小考を報告する。
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