歴史再考☆ 天皇恐るべし「無力な王」の大いなる力 (竹下義朗)  | 日本のお姉さん

歴史再考☆ 天皇恐るべし「無力な王」の大いなる力 (竹下義朗) 

歴史再考
☆ 天皇恐るべし「無力な王」の大いなる力 ―― 竹下義朗さん 原著:2000/04/07

慶応3(1867)年12月9日「王政復古の大号令」が発せられ、徳川慶喜は将軍職を正式に辞任、源頼朝以来675年間続いてきた武家支配は幕を下ろしました。

その後、戊辰戦争から廃藩置県に至る歴史の流れの中で、日本は封建制から中央集権制へと脱皮を図っていく訳ですが、その中で最も大きな役割を果たしたのは、実は「無力な王」でしかなかった天皇の存在だったのです。

というわけで、今回は明治維新を通して「無力な王」──天皇の恐るべき力について書いてみたいと思います。

明治維新。結論からいうとこの「革命」=「明治維新」は、天皇の存在なしには到底あり得なかったのです。なぜなら、最後の将軍・徳川慶喜は、幕末擾乱[じょうらん]の時世にあっても、尚、相当の軍事力を保持していたからです。

いくら薩長主体の倒幕派が勢いを得たとはいっても、慶喜が本腰で「征薩長」(薩長征伐)に乗り出したら、薩長同盟が大打撃を受けることは火を見るよりも明らかでした。

よしんば薩長同盟が列強の支援を受け、幕府と互角に戦ったとしても、それはそれで「列強の代理戦争」となり、事態の長期化による国力の疲弊と、列強による植民地化への道を開く事となったでしょう。

しかし歴史はそうなりませんでした。ーーー軍事的には必ずしも優勢とはいえなかった薩長同盟が幕府を倒し「明治維新」を成し遂げてしまったからです。

なぜ、薩長同盟は倒幕に成功したのか? それこそ今迄「無力な王」でしかなかった天皇の「恐るべき力」が発揮されたからなのです。

天皇の「恐るべき力」ーーーそれを端的に示しているのが「錦旗」──いわゆる「錦の御旗[にしきのみはた]」と呼ばれる代物です。これは天皇の象徴であ
る「菊の御紋」が刺繍された幟旗[のぼりばた]でしたが、天皇から下賜されたものでも、ましてや勅命[天皇の命令]で作られたものでもありませんでした。

実は、長州藩の大村益次郎が個人的に作らせたもので、いわばフェイク=贋作だったのです。しかし、なんとこのフェイクが、戊辰戦争の勝利を薩長同盟=新政府側に導いたのですから、歴史とは実に皮肉であり、ある意味、不可解ともいえます。

さて、大政奉還によって政権を朝廷に返上した慶喜ですが、その後の王政復古・小御所会議といった一連の動きの中でも隠忍自重していました。

しかし薩摩が江戸市中擾乱[じょうらん]を起こすに及び、遂に自ら「討薩長」の軍を率いて、明治元(1868)年1月3日、鳥羽・伏見において薩長同盟軍と激
突したのです。これが世に言う「鳥羽・伏見の戦い」であり「戊辰戦争」の始まりでした。

この戦闘で慶喜軍は決して劣勢ではありませんでした。しかしある代物の登場で慶喜軍は戦意を喪失、総崩れとなり薩長同盟軍に大敗を喫してしまったのです。

その代物こそが「錦旗」だったのです。「たかだか旗キレじゃないか・・・」と思われる方もおありでしょう。そう、確かにそれは単なる「幟旗」でした。

しかしその単なる「幟旗」によって、「朝敵」の汚名を恐れた慶喜軍は大敗を喫したのです。そして、緒戦における「錦旗」の威力に味をしめた薩長同盟軍
──官軍は、その後も「錦旗」を最大の武器に東へ東へと進軍して行き、戊辰戦争に勝利したのです。

天皇の恐るべき力が次に発揮されたのは「廃藩置県」の時でした。

明治2(1869)年6月17日、明治新政府は、全国諸藩の「版(領地)と籍(領民)の奉還を許可する」という名目で「版籍奉還」を実施し、藩主を藩知事に任命
しました。

この間、諸藩の持つ自治権を次第に骨抜きにし、明治4(1871)年7月14日、「廃藩置県の詔書」を発布。ここに、幕藩体制=封建制の遺物であった藩は、
遂に廃止、新たに「道・府・県」が設置され、日本は中央集権国家を完成させたのです。

しかし、この大改革=廃藩置県も、天皇の威力なしには実現不可能でした。
仮に、中世ヨーロッパ諸国やシナで、この廃藩置県と同様に中央政府が封建領主から既得権益である「自治権」を接収し、中央集権国家を作ろうとしたら、

ーーー果たしてこれ程スムーズに事が運んだでしょうか?

おそらく、百年もの時間が必要だったのではないでしょうか?そして、日本がこの廃藩置県という大改革を短期間で達成し得た最大の武器こそ「廃藩置県の
詔書」という「天皇の威力」だったとは言えないでしょうか。

天皇の恐るべき力。その後も「天皇の威力」は歴史の場面々々で発揮されました。

ーーー歴史の局面で発揮された「天皇の威力」(昭和天皇の場合)

・昭和11(1936)年2月26日:2・26事件

決起した皇道派青年将校達は「玉=天皇」を確保し、天皇の威力を以て「昭和維新」を断行しようとした。

・昭和20(1945)年8月15日:終戦の日(終戦の詔勅)

「玉音放送=天皇の肉声」によって、日本軍は整然と武装解除に応じ、進駐軍(連合国軍)を日本本土に迎えた。

・終戦直後:天皇不訴追・天皇制存続

大東亜戦争における敗戦国・大日本帝国の元首であり、軍最高司令官の地位にあった昭和天皇は、終戦後、連合国から「戦犯として裁かれるべきだ」といった要求が出たが、結果的に訴追を免れた。また、敗戦国の「皇帝」だったにも関わらず、退位する事なくそのまま在位し、更に「天皇制」も、政治的権力を
喪失しただけで存続した。

これ以外にも、昭和天皇の危篤から崩御に至る間の内外の過敏な迄の報道。そして厳かに行われた大喪の礼。

国家元首でもなく政治的権力もない象徴天皇──今上天皇の即位の礼に参列した世界各国の首脳・・・・

「無力な王」の筈の天皇が時折垣間見せる、言葉では言い表せない不思議な力


・・・まさに、「天皇、恐るべし」のひと言です。
 = この稿おわり =69