断頭台のマリー・アントワネット(渡部 亮次郎)
断頭台のマリー・アントワネット
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渡部 亮次郎
10月16日はフランス国王ルイ16世の妃マリー・アントワネット Marie Antoinetteが断頭台で処刑された日である。1793年、今から215年前のこと。フランス革命も遠くなりにけり。
昔、東京の銀座では7月14日の夜を「パリ祭」と言って飲んで騒いだものだが、実際、この日にパリに出かけてみたら、1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、この事件の1周年
を記念して翌年1790年におこなわれた建国記念日(Fete de laFederation)が起源となっている。
要するにルイ16世とマリー・アントワネットが断頭台の露と消えた血なまぐさい記念日なのである。フランスは香水やケーキだけの国では決してないのである。
なお、フランスでは単に「Quatorze Juillet(7月14日)」と呼ばれ、「パリ祭」は日本だけの呼び名である。これは、映画『QUATORZE JUILLET』が邦題『巴里祭』として公開されヒットしたためで、邦題の考案者は映画を輸入した川喜多長政である。手品。
マリー・アントワネット(1755~93) はハプスブルク家の出身。 1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘としてウィーンに生まれた。
70年にフランスの王太子ルイと結婚したが、これはハプスブルク家とブルボン家の結びつきを強化するための、謂わば政略結婚だった。74年にルイはフランス国王として即位、王妃となったマリーとの間には女子1人、
男子2人が生まれた。
ところが王妃となるや、マリー・アントワネットは、王国行政の人事にしばしば口を差し挟んだために、宮廷内部に多くの敵をつくった。
美貌と才知に恵まれた彼女は,善良だが才気に乏しい夫王にあきたらなかった。いくつものスキャンダルをおこした。その都度、宮廷内の敵の口を通じて、男性関係についての噂や、浪費などのスキャンダルが外部に流され、民衆の間で悪評がひろがり、国王の失政は王妃の所為にされた。
1789年にフランス革命が勃発すると、態度を決めかねていた夫王を促して革命に反対するように仕向け,宮廷における反革命の陰謀の中心になった。
とくに,91年6月,実家オーストリアの皇帝と通謀して,フランス国王一家の国外逃亡をはかってフランス北東部のバレンヌで捕らえられた失敗するというバレンヌ Varennes 事件をおこし,王家に対する国民の不信を決定的なものにした。
パリに戻されたあと、92年に王政が廃止され、王家一家は監獄に幽閉された。
93年1月にルイが断頭台(ギロチン)で処刑され、マリー・アントワネットも反逆罪のかどで裁判にかけられて死刑を宣告され、同年10月16日、断頭台で処刑された。
その運命は悲劇的であるが,嫁して夫を軽んじ,王妃でありながら国民を裏切った彼女にとって,それはむしろ当然の報いであったと歴史家はおしなべて断罪している。美人の上に頭が良すぎる人は要注意。
Microsoft Encarta及び平凡社世界大百科事典 フリー百科事典『ウィキ
ペディア(Wikipedia)』2008・10・15
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人民が食べるパンが無いという話を聞いたとき、
マリー・アントワネットが、
「パンがないならケーキを食べたらいいんじゃない。」と
言ったというのはデマらしい。
マリー・アントワネットは、お化粧道具を入れるポシェットを
考案した女性だし、新しいフランスのお菓子もたくさん作り、
農家風なコテージで過ごすことを好むなど
かわいらしいところもたくさんある女性だった。
日本の蒔絵が好きで、蒔絵にデコパージュをして
生活用品として大事に使っていたそうです。
子供を産むときに、フランスでは、一般人が
出産の様子を見に宮殿に来てもよいということになっていて、
マリー・アントワネットは、大勢の人が見学している前で
子供を産まなければならなかった。
それを本で読んだ時は、わたしは無名の一般人で
いいと思った。出産の時に、そこらへんのヤジ馬に
見られるなんて、最悪だと思う。