頂門の一針 | 日本のお姉さん

頂門の一針

統計は未来を語らない
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前田 正晶

先日の夕食会で主宰者・渡部亮次郎氏も嘗て取材されたことがある故・本田宗一郎氏のことが話題となった。本田氏が優れた経営者であったことで全員の意見は一致していた。
私は本田氏が「統計は当てにしていない。あれは過去を語るものであり、過去からは未来は見えてこない。未来は俺が作る」という意味のことを言ったのが非常に印象的だった。私は本田氏はそれだけ未来を見る経営姿勢だったのだろうと判断していた。
実は、私はそれ以来統計というものは過去や歴史を知るという意味で重視するが、そこに現れている数字は飽くまで過去として考えるように心掛けてきた。

だが、私は統計等に使われている「数字」には一種の魔力があると思っている。すなわち、商談でも講演でも一寸した会話にでも、数字を引用すると聞き手に与える信頼感が増すのである。

聞き手は一瞬のことだし、余程予備知識でもない限りは、その数字の正当性を判断できないで信頼して貰える。
だからこそ、講演では数字を引用して自分の論旨の正当性というか信頼性を高める道具として活用してきた。引用する数字は細かい点まで正確であるべきだが、大雑把なものでも、四捨五入したものでも構わないと思っている。

少し話題が変わるが、私は現在アメリカに端を発したこの未曾有の経済・金融・財政等の危機を語る際には、この「数字」と「過去」が非常に重要な要素として採り上げられていると見ている。

例えば、アメリカが抱えているであろう不良債権の額などは、たとえ推定でも具体的に「何千兆円」と言わないと迫力不足となるのは否めない。
底が見えていない危機的状況で、当事者でもないものが、誰が正確な額を知り得るのだろうか?
だが、それは過去の統計から引用ないしは類推されてきたものに過ぎない。今や世界が直面しているアメリカ発の危機はブッシュ大統領が"unprecedented"=「先例のない」と形容したように、将に歴史上先例がないものである。
それに対応するのに、私の持論である「これからは過去に蓄積された経験と知識が物を言わない時代」であれば、過去の例を以て対応できる性質ではないと本気で危惧している。

しかも、我が国では政府も与党も野党も、皆現実の経済の世界で日常的に対応しているわけではない人たちの集まりである。官庁にしたところで、豊富な資料と統計を見て判断し、判定し、論じているだけで、自分たちで損するか得するかの経済行為をしているわけではない。
高邁な意見を述べ、評論をされるエコノミストや大学の先生方も、スタンドから見ておられるだけで、実際にグラウンドで球を投げ、それを打っておられるのではない。

従って、私はこれから先に何が起き、何が予測に反して起きないだろうとか、何が見えない角度から襲ってくるか等を、過去の先例にとらわれることなく調査・検討・推定して、どのような対応策を講ずるかを考えていくべき時だと言いたい。

G7だかG8だか知らないが、我が国と異なって「自分だけが良ければよい」や「自らの非を自発的に認めることをしない」国を一堂に集めても、オールマイティー(何でもこなせる)な対策は打ち出せないだろうし、現実に「アクション・プラン」で終わってしまったではないか。

他国が自分のことだけが関心事ならば、こちらもそういう対応を速やかにとって、国際協調は何処かにしまっておき、国民を少しでも安心させることを優先して欲しかった。

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荷風の「大恐慌」始末記
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平井 修一

1929(昭和4)年10月24日、ウォール街の大暴落から世界大恐慌がはじまった。

その日まで米国経済は第一次大戦後の繁栄を表面的には謳歌し、エリオット・ネスとアル・カポネがドンパチやっていた。この年の2月14日、聖バレタインデーの虐殺でカポネはマフィアのドンの地位を固めた。
ラッキー・ルチアーノは「殺し合いや地縁主義は終わりにしよう。コーサ・ノストラ=我らのもの、という考えが必要だ」とマフィアの再編を訴えていた(堺憲一「歴史と出会うとき」)。
パリのホテル・リッツのバーは禁酒法を嫌った陽気なアメリカ人であふれかえっていた。

<あの頃は、それなりによかったんです。ぼくらときたら王様も同然で、何をやってもうまくいきましたからね。何かぼくらのまわりに魔法がかかっていたみたいで。今日の午後、例のバーには知っている人間が一人もいませんでしたよ>(フィッツジェラルド「バビロン再訪」1930年執筆)

日本ではこの秋に田中内閣から浜口内閣に代わったが、景気は悪いままだった。我慢をすれば景気のよいアメリカ向け輸出が伸びていこうから、もう少しの辛抱だと政府は言っていた。

暴落の1週間前、永井荷風の日記から。

<10月18日。今秋、内閣更迭以来、官吏、会社員の月俸は減少し、禁奢の訓令布達せられしのみならず、酒シ(酒場)、舞踏場の取り締まり厳格となりしため、銀座はじめ市内の酒舗はいずれも景況落莫(らくばく)たり>

そして、女性の服装にも目くじらをたてるような節約・勤倹令は枝葉末節であり、「国家富強のもとは国民の気概と政治家の良心とにあり」と批判している。

翌年の正月4日、元銀行員でお金持ちの荷風は銀行へ行く。

<昨年より銀行取付騒ぎ起こるべしとの風説しきりなれば、万一を慮(おもんばか)り、朝のうち京橋・第百銀行に行き、預金を引き出して三菱銀行に移し入れる>

正月早々に預金を引き出す客があふれたから、多分利回りのよさを謳っていた第百銀行は慌てただろう。「大恐慌は滞貨の激増、諸物価の暴落、生産縮小、経済停滞、金融不安をもたらし、失業者は世界中で5000万人、工業生産高は44%も減少した」(大日本百科事典)。

<世界恐慌はたちまち日本経済をその渦中にまきこみ、日本資本主義を根底からゆさぶった。・・・生糸の輸出は激減し・・・中国およびインドへの綿製品の輸出も減った。

・・・29年度に比して30年度は、輸出は31.6%減、輸入は30.2%減で・・・生産制限による大量首切りと中小企業の倒産とによって失業者は激増・・・300万人に達した>(岩波新書「昭和史」)

<夜逃げ、行き倒れ、一家心中、娘の身売りが日常茶飯的なものになり、「大学は出たけれど」などという就職難を題とする映画がつくられるという時代相になった>(和歌森太郎「よくわかる日本史」)

1929年末から32年あたりまで3年間、不況の底にあった。そのあとにようやく天気が晴れるが、皆どうして生き延びたのやら。

1930(昭和5)年12月31日、荷風はこう記す。

<今年、夏過ぎてより世の中不景気の声一層はなはだしくなり、予が収入も半減の有様となれり。郵船会社の株は無配当となり、東京電燈会社のごときも一株金一円の配当なり>

1932(昭和7)年9月16日、

<隣家の人、このごろラヂオを引きたりと見え、早朝より体操および楽隊の響き、聞こえ出し、眠を妨ぐことはなはだし>

消費が回復しだしたのである。1933年の荷風は無事であった。

1933(昭和8)年12月31日。

<午後、村岡千代子来たり、金子50円借用したいという。余、ことの意外なるに一驚して答うるところを知らず>

貧しい人は大変だが、荷風は頼られるくらいになった。一説によると昭和8年は戦前の全盛時代だという。となれば、恐慌は1930年から32年までの3年間であったか。

庶民は来るべき不況をどう乗り切るべきか。無職の小生ができることはこんなことぐらいだ。

 1)銀行から金をそーっと下ろし、金(ゴールド)をそーっと買い、米、味噌、醤油、乾物、缶詰などを3年分、備蓄する。

 2)株、国債など証券はそーっと売ろうにも売れないから、この際、タンスに入れて塩漬けする(暴落覚悟だが将来は値が戻るかもしれない)。

 3)食糧確保のために農業、漁業などに従事する人としっかりコネをつけておく。人脈がものを言うので嫁とり、婿とりは特に大事だ。米、英、豪、支那、亜細亜、南米と姻戚・友人関係を結ぶことも検討したい。

 4)失業すると再就職は難しいので、現職の家族は職場にしがみ付かせる。

 5)できれば疎開用に田舎に家を用意する。友だちと共同でもいいから「田舎暮らし」の体制を整えること。費用はたかが知れている。

 6)「もったいない」精神で質素倹約に努め、貝のようにじっとして、嵐が過ぎるのを待つ。

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伊東巳代治の情報工作
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  伊勢 雅臣

■1.ロイターへの機密費■

第二次伊藤博文内閣で書記官長(現在の内閣官房長官)をつとめていた伊東巳代治(みよじ)から伊藤総理にあてた機密費の報告書が残っている。

支出の部
一、金四百九十九圓九十九銭九厘 
ルートル社トラフォルド渡三月分・・・

ルートル社とは、英国の通信社ロイターである。当時、世界最大の通信社であり、かつ日本を含む極東において独占的な集配信権を握っていた。
トラフォルド(トラフォード)は、その横浜支局の通信員であった。500円は、現在価値にして1千万以上の金額である。

この金額はトラフォード個人への支払いの一部で、ロイター全体への支払いを含めると、毎月総額7千円、現在価値にして1億4千万ほどの金額を支払っていたという。

時あたかも日清戦争直後、明治日本が国際社会にデビューした初舞台であった。その時代に、伊東はロイターを操って、国際世論を日本に有利に動かそうとしていたのである。

■2.情報官僚への道■

明治政府屈指の英語遣いと言われた伊東巳代治は、明治維新の11年前、安政4(1857)年に長崎で生まれた。長崎奉行に仕える下級武士の家だったが、土地柄から、武家というより商家のマインドを持って育ったようだ。

8歳にして、長崎奉行所の英語伝習所で宣教師から英語を習った。15歳にして上京し、工部省電信寮の官費生となって、当時最先端の情報技術である電信を習った。

17歳になると神戸の外人居留地で発行されていた英国人経営の新聞社『兵庫アンド大阪ヘラルド』に雇われる。こうして、巳代治は若くして、英語、情報技術、メディアの知識を得た。これが明治日本の最初の情報官僚というキャリアにつながっていく。

20歳の頃、当時、参議、工部卿など新政府で枢要の地位を占めていた伊藤博文に見出され、以後、その片腕として八面六臂の活躍を始めるのである。

巳代治の情報官僚としての最初の大仕事が、明治12(1879)年のグラント米国前大統領の受け入れであった。当時、琉球の帰属問題が、日本と清国の間で持ち上がっていた。日清両国は双方とも琉球の領有権を主張し、膠着状態にあった。

このタイミングで米国大統領を8年も続けた大物政治家が両国を歴訪することになった。グラントがどちらの国を支持するかによって、国際社会の世論も左右されると思われた。

最初にグラントを迎えた清国は、大いに歓待して、琉球問題をめぐる日本の非道ぶりを訴えた。内務卿として、この問題を担当していた伊藤は困惑したが、巳代治はグラントに日本の立場を積極的に主張すべしと提言した。

巳代治は、琉球が古来から日本の版図に入っていたことを、地勢、風俗、慣習、言語、歴史にわたって詳述する文書を作成し、さらにこれを証拠立てる古文書も英訳して、伊藤からグラントに直談判させた。

グラントは日本の主張に理解を示し、清国に対して「日本に対する抗議を早く撤回して、両国は仲良くなるべきである」と勧告した。また『ニューヨーク・ヘラルド紙』は、日清両国の主張と、グラントの日本支持
の見解を掲載した。

この成功体験から、代治は国際世論の重要性を理解した。

■3.外交交渉の体験■

明治18(1885)年、伊藤博文は特命全権大使として清国に派遣され、巳代治も随行した。前年に朝鮮で勃発した親日派のクーデターが、清軍の応援を受けた李朝により阻止されていたのだが、その後始末を清国との間で交渉するためであった。

伊藤は、往路の船の中で、巳代治の準備した委細を聞いただけだったが、ひとたび交渉が始まると俄然、目つきが変わった。清国側は通訳を介した母国語での交渉を求めたが、伊藤は断固拒否して、交渉言語は英語とするよう強硬に主張した。

外交文書を英語で作ることによって、日本の文明開化の進展を欧米列強にもアピールしようという狙いである。

初めから日本側に不利な交渉だったが、最終的には日清両国は朝鮮をめぐって対等である、という立場を貫くことができた。巳代治は伊藤の粘り強い交渉ぶりに感嘆した。

しかし、これは双方にとって満足のいく状態ではなく、中途半端な朝鮮の状況は、10年後に勃発する日清戦争の火種となっていく。伊藤博文の交渉相手は、最高実力者・李鴻章(りこうしょう)で、まさに日清戦争後の講和会議の前奏曲となった。

巳代治はこの外交交渉を体験した後、国際問題に強い関心を持ち、常に列強の動向を注視して、メディアを通じた情報収集と広報宣伝に務めるようになった。

こうして伊藤が日本の政治外交の中心となり、巳代治がその耳や口となるという体制ができあがった。明治18(1885)年、伊藤が初代の内閣総理大臣になると、巳代治は総理秘書官に選ばれた。

■4.パブリック・ディプロマシー(広報外交)■

明治27(1894)年8月、日清戦争勃発。日清の戦いを、横で欧米列強がじっと眺めていた。隙あらば介入して、獲物の分け前を分捕ろうとするハイエナのように。その動きに注視し、わが国に不利な動きをしないよう誘導する必要があった。

そこで鍵を握るのが、列強の政府要人や外交官だけでなく、それぞれの国の世論であった。そしてテレビもラジオもない時代に世論を動かしていたのは、各国の新聞であった。国際外交の舞台に始めて立つ日本にとって、名だたる外国新聞を味方につける事が、明治政府にとって大きな課題だった。

日清戦争では欧米の有力紙は、日本、清国、そして戦場となった朝鮮半島に多数の特派員を派遣した。特ダネを上げようと躍起になっている彼らに、有益な情報を与えながら、日本に好意的な記事として本国に送らせる。今日で言えば、パブリック・ディプロマシー(広報外交)である。

明治政府にとって幸いだったのは、この時に英語、情報技術、メディアに通暁した巳代治を政府中枢に抱えていたことだった。

■5.欧米メディアへの仕掛け■

ロイターに金を渡して操縦しようという試みは、巳代治の前に、駐英公使・青木周蔵が行い、契約まで至っていた。

しかし、その契約では互いに情報を提供しあうという事は取り決められていたが、ロイター側は日本に有利な情報を流そうとはしていなかった。横浜にいるロイター通信員のジョン・ホールはその契約の存在すら知らないようだった。

そのために日清戦争の戦況がロイターを通じて、日本に不利な形で全世界に流されていた。しばしば日本側が大勝を得ても、清国側に同情的な記事が配信されていた。このあたりは、青木が欧米メディアの知識を有せず、またロイター通信員との間で個人的な信頼関係を築いていなかったのが原因であろう。

巳代治はこの事態を解決するために、横浜で発行されていた英字紙『ザ・ジャパン・メール』の社主であり、ロイター通信員も兼ねていたフランシス・ブリンクリーに目をつけた。

ブリンクリーは日本語、日本文化に精通しており、日本人女性を妻に迎え、明治政府に好意的な論陣を張っていた。巳代治はブリンクリーに重要な戦況ニュースを毎日渡すので、それをロンドンに向け発信するよう依頼した。

巳代治はさらに日本を経由して戦地に赴く欧米有力紙の記者に直接会って、日本の立場や戦況を自ら説明した。中でもタイムス記者トーマス・コーウェン、ニューヨーク・ヘラルド新聞通信員A.B.ガービルなどには、両名従軍中、戦況に進展があった場合は、両名の名をもってそれぞれの本社に電信で報告する、と約束した。

戦地からの電信はままならないし、電信自体が極めて高価であったから、両記者にとって好都合な申し出であった。また巳代治としても日本側からの発信情報を直接欧米各紙に伝えられるので、願ってもない連携である。メディアをよく知った巳代治ならではの仕掛けであろう。

こうした巳代治の工作によって、欧米紙での論調は日本に好意的なものになっていった。

■6.「日本による虐殺」■

開戦後4ヶ月経った12月12日、アメリカ最大の大衆紙『ザ・ワールド』は、従軍記者クリールマンの署名による短文記事「日本による虐殺」を掲載した。旅順口を占領した日本軍が、「無抵抗で非武装の住民たち」を3日間に亘って虐殺した、という内容である。

実際に現場の写真をとった日本人カメラマンは、「之を以て普通戦時の出来事として見るの外別に太く人心を驚倒する惨事と思惟する能はず」と述べている。

清国軍兵士は民間人の服を着てゲリラ攻撃をしてくるので、一概に民間人虐殺とは言えないし、戦時にはセンセーショナルな報道が売り物になりがちであるからだ、と言う。[1,p131]

しかし、この記事をもとに、世界各地で日本糾弾の論調が広まっていった。巳代治はこれに対し、明治政府の弁明書を各国の記者に本国宛に伝送させた。フランスの『フィガロ』紙記者フェルマン・ガネスコは、クリールマンの記事が虚構である可能性がある、と付け加えて、打電した。

さらに英国の通信社セントラル・ニュース社のストーン記者は、クリールマン記者が「虐殺を重ねる日本軍を忌み嫌った従軍記者たちは、同行をやめ、帰還した」と報じた一文に関して、帰還したのは冬支度のためなのであって、記者たち自身がこうした偏向報道に驚いている、と伝えた。

こうして騒ぎ立てているのは結局『ザ・ワールド』だけとなり、他の欧米の重要な新聞はいずれもクリールマンの記事を攻撃する事態となった。

新聞対政府という構図ではなく、自由なメディア同士の論争という形で、この「虐殺」報道が日本叩きに発展するのを押さえ込んだのは、巳代治の広報外交の成果である。


■7.外国人記者らへの目配り■

翌1895(明治28)年1月、日本の勝利が確定的になり、従軍記者たちが日本経由で帰国を始めた。巳代治は彼らを丁寧に受け入れ、戦地で見聞きしたことを聞き出しながら、母国に帰ってから不穏当な報道にならないようチェックした。

前述のフィガロ紙記者フェルマン・ガネスコなどは、日本に到着するなり、自ら巳代治を訪ねてきて、日本の陸海軍の規律厳粛ぶりを口を極めて賞賛し、これまで世話になったことに厚く礼を述べた。巳代治はそれほどの信頼関係を、外国記者らと築いていたのである。

ただ、その中に『ザ・タイムズ』紙のコーウェン記者の姿がないのが気になった。巳代治はすぐに調査して、彼が自ら見つけた特ダネを、いち早く報ずるために英国軍艦に乗り込んだことをつかんだ。

「コーウェンも日本については好意を抱いているので問題はない」と伊藤総理に報告している。外国人記者は 1人でも見逃さないほどの巳代治の目配りであった。

■8.「ロシアと朝鮮」■

その後もロイターは、日本に好意的な立場からの報道を続けた。たとえば、この年の12月16日付け『ザ・タイムズ』は「朝鮮の引渡し」と題して、次のようにロイター電を伝えた。

<ロイター通信は、列強が日本に対し、朝鮮より撤退するよう先制要求を行ったとの報には根拠がないとの情報を入手した。

日本側は朝鮮に駐屯する部隊は極力少なくしたいと自ら考えており、以前にも報じたとおり、遼東半島との通信線の防護のために十分な部隊だけ配置している。現在行われている遼東半島からの撤退が完了次第、この必然性はなくなる。>

翌年4月20日付『ザ・タイムズ』は横浜発ロイター電として、「ロシアと朝鮮」と題する次の記事を載せた。

ロシアに派遣された(朝鮮の)特使は、借款の取り付けについて授権されているのみならず、朝鮮王宮の警備のための部隊、および政府と軍隊のための顧問の派遣を要請する見込みである。現在、ロシアの軍艦九隻が長崎に停泊し、ルリク号他5隻の艦船の到着を待っている。>

こうした報道を通じて、国際世論は「朝鮮に領土的野心を燃やしているのは日本ではなく、ロシアである」と見なしていったのであろう。

■9.明治日本の広報外交■

日清戦争は、明治日本が国際社会にデビューした最初の舞台であった。
それは欧米列強注視の中で行われた。

後に、ロシアが独仏を含めた3国干渉によって、日本に遼東半島割譲を放棄させ、同半島南端部の旅順・大連を租借して我が物にするなど、欧米列強は隙あらば獲物を得ようと虎視眈々と日清の戦いを見ていたのである。

一歩、間違えれば、「日本は朝鮮と清国の領土に野心を燃やしている」とか、「旅順口虐殺事件」を大々的に喧伝されて「日本は好戦的な野蛮国家だ」などと、反日的な国際世論が醸成される恐れもあった。後の大東亜戦争ではまさにそうした事態に陥った。

幸い、巳代治を中心とした緻密な広報外交が奏功して、日本軍は立派な規律を備えた近代的軍隊であり、かつ領土的野心を燃やしているのはロシアの方だ、という認識が国際世論の中で広まった

この後、日本は日英同盟を結び、英国の後ろ盾としてロシアと戦う。欧米諸国で多大の起債を行って戦費を調達した。さらに戦勝を得た後は、アメリカの好意的な仲裁を得た。

親日的な国際世論がこれらの基盤にあった。これは巳代治が始め、その後も明治政府が推し進めた広報外交の賜物である。


■リンク■
a. JOG(464) サムライ達の広報外交
~ 米国メディアにおける日露戦争
 彼らは卓越した英語力で、日本の立場を語り、 アメリカ国民を味方に引きつけた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog464.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 原田武夫『「日本叩き」を封殺せよ~情報官僚・伊東巳代治の メディア戦略』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062133490/japanontheg01-22%22
■■ Japan On the Globe(568)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
地球史探訪:明治日本の広報外交
~ 情報官僚・伊東巳代治の情報工作
 日清戦争当時、英国通信社ロイターを操って、
国際世論を誘導した情報官僚がいた。
■転送歓迎■ H20.10.12 ■ 38,923 Copies ■ 2,980,896 Views■
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先輩・アカの東海林太郎
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渡部 亮次郎

東海林太郎しょうじ たろう(1898-1972)秋田市出身。秋田中(現県立秋田高校)から東京音楽学校ヴァイオリン科に合格。しかし南満洲鉄道(満鉄)に居た父に猛反対されて,断念。早稲田大学商学部へ進み、卒業し
てすぐに満鉄の社員として8年間勤務。アカだから左遷されていた。

早大在学中から佐野学に師事して共産主義思想に傾倒する。

<佐野 学(さのまなぶ 1892年2月22日 - 1953年3月9日)は昭和初期の日本共産党委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。

東京帝国大学法学部卒、新人会に参加。卒業後、後藤新平の伝手で満鉄東亜経済調査局に勤務した後、早稲田大学で教鞭を取る>

東海林太郎はこの時に教え子となって左傾思想にかぶれた。当時はそれをアカにかぶれたと言って、敬遠された。

東海林は卒業間際に庄司久子と結婚した。後に静と再婚。

東海林は1923(大正12)年9月南満州鉄道株式会社に入社、庶務部調査課に勤務。関東大震災の時である。

<1923年の関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日の午前11時58分(以下日本時間)に、伊豆大島、相模湾を震源として発生した直下型の大地震(関東地震)による災害である。
東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東各地を中心に、関東地方の広い範囲に大きな被害をもたらした。
死者・行方不明者10万5千余人、避難人数109万人以上、住家全壊10万9千余、住家半壊10万2千余、住家焼失21万2千余(全半壊後の焼失を含む)
東海林は既に満洲に渡っていたようだ。入社後「満州に於ける産業組合」を脱稿するが、当然ながらあまりにも左翼的ということにより、1927年、鉄嶺の図書館に「左遷」される。
図書館長は「出世」だと NHK深夜便は調査不十分の放送をするので立腹するという友人は多い。図書館には4年もくすぶっていた。
一時期は特高(特別高等警察=日本共産党員或いは共産主義者取締り警察官)にマークされるほどの活動的共産主義者であったという。
満鉄勤務ながらクラシック歌手への夢を捨て切れずに退職して上京。歌手として売り出すまで弟三郎と早稲田鶴巻町で中華料理店を経営。そこに早稲田出身の政治家河野一郎が客として訪れたという話を河野から聞かされたような気がする。
声楽を下八川圭祐に師事し昭和8年に時事新報の音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。
34歳で歌手に転身というわけ。荘司史郎などの芸名で一時期、コロムビアなどで歌っていた。
しかしコロムビアでは松平晃を売り出すため、東海林との契約は断った。9年、キング専属だったのだが、1曲だけとの依頼でポリドールで吹き込んだ「赤城の子守唄」が大ヒット。クラシック歌手の夢と現実の乖離である。
同曲のアトラクションのため、日比谷公会堂で白塗りで浅太郎を演じるなど、とても晩年のイメージから想像がつかない奮闘ぶりを見せるが、その際に東海林に背負われる子供役だったのが後年のスター高峰秀子だった。秀子を養女に考えたこともある。
<高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924(大正13)年3月27日 - )は函館市出身の女優、エッセイスト。愛称デコちゃん。夫は映画監督、脚本家の松山善三。本名は松山秀子>。84を過ぎて麻布でご健在である。

<1929年映画『母』に子役でデビュー、1979年に引退宣言。引退後は普
段の生活に根ざしたエッセイを多数発表している。>

ところで東海林は澄んだバリトンを生かして日本調歌謡で東海林太郎〔本名〕時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。
島崎藤村の「椰子の実」を最初に歌ったのも東海林である。しかし売れるのは股旅物などとあっては不本意ながら流行歌手の道を歩まざるを得なかった。
その後も「一つ山越しゃ、ロシアの星が」の歌詞を「他国の星が」に改めた「国境の町」も大ヒットし歌手としての地位を確立した。「夜が冷たい」の歌詞を文法がおかしいと作詞者に猛烈に抗議し、不承不承に吹き込んだ「旅笠道中」。
長谷川一夫の映画「雪之丞変化」の主題歌「むらさき小唄」、野崎観音〔大坂・大東市〕のPR盤として制作された「野崎小唄」、軍歌という呼称を嫌って戦時歌謡を主張し続けた「麦と兵隊」など次々とヒットを飛ばした。
ところが、敗戦後の一時期、戦前のヒット曲が軍国主義につながる国粋的なヤクザものは禁止され進駐軍から睨まれ不遇の時代が続いた。ビクターへの入社も、ビクターが竹山逸郎を売り出す事からられ、レコード会社も弱小のマーキュリーなどを転々として恵まれなかった。
1946(昭和21)年ポリドール復帰第1作が「さらば赤城よ」。1949年キングレコードへ復帰。1953年マーキュリーへ移籍。その後、次第に地方公演で人気を回復、1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。1963年に任意団体(当時)日本歌手協会初代会長に就任。
空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演したりして脚光を浴びた。
しかし健康に問題を抱えた。昭和23、30、39年にそれぞれ直腸ガンの手術を行って、28年には最愛の妻の静を亡くすなど私生活でも苦難の日々であった。渡部は昭和28年秋、秋田高校創立80年記念祭に先輩を招聘する計画を立てたが無視された。
終戦近くから南軽井沢に住み、大好きなクラシックのレコードをボリュームいっぱいにかけたりしていたが、晩年の数年間は仕事の関係で東京でのホテル暮らしが多く、46年7月からマネージャーの住む東京・立川市の羽衣町3丁目に引越した。
地元に溶け込もうと、付近をよく散策したり、チャリティコンサートを開き収益を地元の障害者施設に寄付するなどした。しかし体調悪化は抜き差しならないところまできていて、燕尾服の下に血の滲んだ晒しを巻いてステージをつとめ、薬の服用から顔が紫色になるために、人前では化粧をしていたという。
昭和40(1965)年に紫綬褒章、44年に勲四等旭日小綬章、47年には勲三等瑞宝章を受章。
同年9/26午後2時半に立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問われて、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、9/27午前には病院へ入院。
次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られて10/4午前8時50分に立川中央病院で死去。享年73。最後のレコードは46年10月の「ある少尉の遺書」と「わが命暁まで」のカップリングとなった。「東海林太郎後援会」「東海林太郎歌謡芸術保存会」のメンバーは3000人を数え、中高生などの若いファンも多く、47年10/19午後1時からの青山葬儀所での葬儀には佐藤首相など多数が参列した。
「佐藤栄作日記〔朝日新聞社〕第5巻」には「一時から東海林太郎君歌手協会葬に出席して協会顧問として弔詞をよむ。秋田市出身のいわれをもって石田博英君も弔詞。その他古賀政男、ビクター等等で盛葬だった」とある。
秋田市の西船寺に眠る。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは有名だが、「場末のキャバレーでもコンサートのつもりで歌う」「歌の心をつかみ、歌の美しさを知るために」直立不動で歌っていると語るなど、生涯、歌に関する真摯な姿勢は変わらなかった。
毎日1時間の発声練習を死の直前までかかさず、病床につく数日前までテレビ録画の仕事をしていた。「ステージは一尺四方の道場」「シューベルトを歌う心で歌謡曲を歌う」と語り、ステージの4時間前には必ず食事を済ませたり、ホテルもピアノのない部屋には泊まらないなど、徹底したプロ意識を見せていた。
「心の底から歌っていない」演歌は技巧に走るから嫌い、リサイタルも嫌い、戦後の歌手は「歌の本質を知らない」と評価していなかったが、ピンキーとキラーズの今陽子だけはお気に入りだった。

酒豪としても知られ、歌手協会でも「良きにはからえ」の親分肌の人間であった。どんな目下の人間にも礼儀正しく接する人で、読書家でもあった。藤山一郎との不仲も有名である。
直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させるものであり、「一唱民楽」の言葉のごとく、歌は民のためという信念を持ち、あの常に真剣勝負の姿の歌唱魂は激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。
また、彼の人生は癌との闘いのそれでもあり、病魔を克服しての音楽人生だった。遺した名曲のリスト。
昭和9年   赤城の子守唄
       山は夕焼
       国境の町
昭和10年   旅笠道中
       むらさき小唄
       野崎小唄
       お駒恋姿
昭和11年   お夏清十郎
        椰子の実
昭和12年   すみだ川
昭和13年   上海の街角で
        麦と兵隊
昭和14年   名月赤城山
昭和16年   琵琶湖哀歌(小笠原美都子と)
戦後      楡の花咲く時計台など多数。

「人物昭和流行歌史・直立不動の精神-東海林太郎」(菊池清麿)及びフ
リー百科事典ウィキペディア、さらに誰か昭和を想わざる(作者不詳)
等を参考。2006・07・16  再掲

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話 の 福 袋
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 ◎<ビッグ3>ガケっ縁 販売も株価も急落

世界規模に拡大した金融危機が、米大手自動車メーカー3社(ビッグ3)を直撃している。10日、最大手ゼネラル・モーターズ(GM)による3位クライスラーの買収協議が表面化した。

さらに2位フォードが傘下のマツダ株売却の検討に入った。生き残りをかけた再編、リストラを迫られるビッグ3。米メディアは「GMが米連邦準備制度理事会(FRB)に特別融資を求める公算」とも報じており、
自力再建できるのかギリギリの局面が続いている。
GMは、証券大手リーマン・ブラザーズの破綻(はたん)以降、きわめて厳しい事態に陥っていた。
もともと低所得者向け高金利住宅ローン(サブプライムローン)問題に絡む不良資産を抱えて業績の悪化していた金融関連の元子会社GMACが、自動車ローンの大量の焦げ付きなどで経営危機に直面。GMの本業、自動車販売も「リーマン・ショック」で客足が途絶え、大幅に落ち込んだ。
以前から低水準だった株価は一段と下落し、9月26日に10ドル割れ。10月9日には4ドル台まで急落し、市場で飛び交う「会社更生手続きを進めるのではないか」との憶測の火消しにGM側は追われ続けた。GMはあえてビッグ3の一角、クライスラーの買収に打って出ることで起死回生を狙った形だが、先行きに明るい展望があるわけではなく、GMの苦境を救う手立てになるかは未知数だ。
マツダ株の売却に動いたフォード・モーターも、苦境に立たされているのはGMと同じ。フォードの株価は10日、1ドル台まで落ち込み、資金繰りに行き詰まる恐れが出てきた。
マツダ株はフォードにとっては貴重な虎の子だが、運転資金捻出のために手放さざるを得なくなった。

金融危機の深刻化で、銀行の貸し渋り傾向が日に日に強まっており、GMもデトロイトの本社売却など資産の切り売りで難局打開を目指すが、資金繰りの展望は一向に開けていない。【ワシントン】

 ◇再編、日本にも影響

ビッグ3を中心にした自動車業界再編の動きは、日本メーカーにも影響を及ぼしている。
フォードのマツダ株売却は「手元資金を確保するための苦渋の判断」(大手自動車メーカー幹部)で、マツダの支配権を同業他社に握られないようにするため、マツダ自身やマツダの取引先への売却を当面は目指すとみられる。
マツダと取引関係がある住友商事は「打診は来ていないが、あれば検討せざるを得ない」(首脳)とする。このため「同業の国内自動車メーカーは売却には絡まないのではないか」(大手)との見方が強い。
ただ、経営悪化に追い込まれるフォードが資金確保を優先し、「高い買収価格を示したところに売る」(大手証券)可能性も否定できない。
特に今春、フォードから英ジャガーなどを買収したインドのタタ自動車を「有力候補」とみる声は多く、国内自動車メーカーからは「低価格車に強く、勢いのある新興国メーカーとマツダの技術力が結びつけば脅威だ」(大手)との懸念も出ている。

国内各社がマツダ株の行方以上に注目しているのが、GMとクライスラーとの合併交渉の行方。両社は現在、金融危機やガソリン高で、フォード以上の経営危機にひんしている。
しかし、合併が実現すれば、世界販売台数でGMに肉薄していたトヨタ自動車を再び引き離す存在になる。規模の大きさを生かしたコスト削減も可能で、日本勢にとってこちらも脅威になりうる。
「弱者連合にすぎない」との見方もある一方、「再び侮れない競争相手になるかもしれない」(中堅メーカー)との声も出ている。
特に日産自動車は、クライスラーと小型車などのOEM(相手先ブランドによる受託生産)供給で提携しており、過去には仏ルノーとともにGMやクライスラーと資本提携交渉をしたことから、「日産自動車・ルノー連合も負けじと合併交渉に名乗りを上げるのでは」(関係者)との観測は強い。
ただ日産首脳は11日、「これだけ市場が揺らいでいる中では良い買い物とは言えない」と現時点での買収の可能性を否定した。
 ◇ことば ビッグ3

米デトロイト市周辺に本社を置くゼネラル・モーターズ(GM)、フォード、クライスラーの3大自動車メーカーの総称。20世紀の世界を代表する企業で、GMは一時、いすゞ自動車、富士重工業に出資し、スズキには現在も出資。
フォードがマツダを傘下に収めるなど、日本メーカーへの影響力も大きい。いずれも大型車が主力のため、近年は景気減速やガソリン高の影響で販売が落ち込み、フォード、クライスラーは世界販売台数でトヨタ自動車に抜かれた。
最近は「世界でも米国でもトップ3ではない」という意味から、「デトロイト3」と呼ばれることも多い。10月11日22時21分配信 毎日新聞

 ◎オーストリア極右政党党首が事故死
オーストリアの極右政党、未来同盟のハイダー党首(58)が11日、交通事故で死亡した。
警察当局によると、同国南部でハイダー氏自らが運転する車が道路から外れて横転し、頭や胸などを強く打ったという。事故原因は不明。
ハイダー氏は1986年に極右の自由党党首に就任、その後、同党と分かれて、未来同盟を結成した。
ナチス党員の家庭に育ち、ナチス擁護発言で物議を醸したこともある。未来同盟は先月下旬の総選挙で、前回の3倍増となる21議席を獲得した。
10月12日8時3分配信 産経新聞

 ◎食中毒か、1人死亡2人重体=前夜に茶わん蒸し-茨城県警

12日午前5時40分ごろ、茨城県常陸大宮市若林の飲食業寺門文男さん(73)宅から「祖母が呼吸をしていない状態だ」と119番があった。家族4人が救急車で病院に搬送されたが、文男さんの母のつるさん(95)が死亡、2人が重体で、1人が軽症。

家族で前夜に茶わん蒸しなどを食べたといい、県警大宮署は、食中毒の疑いがあるとみて調べている。
重体の2人は、文男さんの妻美江さん(65)と、美江さんのめいの大阪府河内長野市、銀行員麻生幸子さん(33)で、意識はあるという。
調べでは、4人は前夜に湯葉の刺し身や煮物、まいたけや鶏肉の入った茶わん蒸しを食べた。文男さんだけが茶わん蒸しを食べず、体調不良を訴
えていないという。 10月12日12時27分配信 時事通信

 ◎スマトラ島で、「絶滅種」のシカを発見

10月10日、スマトラ島で、「絶滅種」のシカを発見。Fauna & FloraInternational提供(2008年 ロイター)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081012-00000585-reu-int

[オスロ 10日 ロイター] インドネシアのスマトラ島の山間部で、
絶滅したとみられていたシカが80年ぶりに生息が確認された。専門家が
10日、明らかにした。
今回発見されたシカは、大型犬ほどの大きさで、ケリンチ・セブラト国立公園の山間部標高1951メートルに仕掛けられたハンターのわなにかかっているところを救出された。
今回、公園職員とともにシカを発見した動物保護団体「Flora & FaunaInternational」が発表した声明によると、このシカは1914年に初めて発見されたが、1930年以来目撃されていなかった。
また、今回発見された後さらに2頭が同公園の別の場所で撮影された。
10月12日9時4分配信 ロイター
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