貧しき者は(国民年金の花柳な生活) | 日本のお姉さん

貧しき者は(国民年金の花柳な生活)

貧しき者は(国民年金の花柳な生活)

「貧しき者は幸いなり」という言葉も半分は当たっている。今日の東証はいきなり8千円ぎりぎり迄下がったので皆大騒ぎだ。こういう時「花柳な生活」は気楽なものである。元々「株」などというものには縁がなく、見た事もない代物だから、どれだけ下がろうがただの紙切れになろうが関係ない。

 あれは大金を持つ上流の人がじっと座ったままキーボードのキーをチョンと敲くだけで何十万も入って来る不労所得だから尚更だ‥‥。まあ、そういう具合に大見得を切れるのも今日までかも知れない。

 明日になって尚一段の下げ局面が展開したらその影響をモロに受けるのは先ず下流の人々からだ。「大和生命」が破綻し、これをテレ朝が「大和証券」と間違って放送するおまけまで付いて、どうやら貧乏人は関係ないどころではなく、最も被害を受けそうな事態になって来た。貧しき者は不幸だ。

 給料生活者のうちでもネットカフェから出勤している様な人は真っ先に失職するだろう。仕事のない人間が一番惨めである。年金生活者も原資を失ってしまうのだから将来の保障はなくなる。働けないだけにもっと惨めだ。

 しかし、元凶はアメリカだから日本は落ち着いて居れば良いのである。パニックになる謂われはない。それより、気を付けなければいけないのは、これから起きるであろう彼らの「強請り」「タカリ」を如何に上手く排除するかという事であろう。

 もう一つ、余り騒いでいるとその間にこっそりと悪だくみが進んでいる事がある。そちらの方がもっと怖い。

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心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(聖書)

マタイによる福音書5章3節

この“山上の説教”の冒頭(3~12節)では、八つの「幸いです」が繰り返されています。どの節も前半部分で現に幸せの事実が指摘され、後半はその理由が説明されています。ここでの注目点は、イエス様は民衆に対して、幸福になる方法や秘訣、また幸福の哲学を教えようとされてはいないということです。ただ現に幸福である事実を指摘し、知らせているだけなのです。そしてどれも、“心の状態”がどうであるかが幸福であることの論点となっているのです。

この話をされているイエス・キリストというお方は、当時の人々から注目されていただけでなく、現代においてもなお関心を払われている人物です。物議を醸したあの『ダ・ヴィンチ・コード(ダン・ブラウン著)』においても「イエス・キリストは恐るべき影響力を備えた歴史上の人物であり、おそらく古今東西を通して最も謎に満ち、霊的な力に富んだ指導者だった」と証言されているとおりです。このイエス・キリストが「おめでとう!あなたは、実に幸いだな」と感嘆の声をあげているその“幸い”についてみていきましょう。

一つ目の幸いは、「心の貧しい者」だとイエス様は言われます。「心の貧しい者は幸いです。」(3節)。経済的に欠けた状態を連想する「貧しい」ということばが、“心”に限定されて使われている点が特徴です。このことばの意味するところは、自分自身の内に何も頼るものがない状態、つまり“心の破産状態”のことなのです。

普段私たちが使う、「貧しい」ということばは、単に生活に余裕のない状態を指すことが多いと思います。例えば「服は着ているけれど、良い服を買うことができない」ときに使う貧しさです。その貧しさの度合いは、自分で働いて自分の必要を満たすことができる程度です。心の貧しさに置き換えるならば、まだ自分のうちに何かしらの期待できる部分があると思っている心です。ですから苦しくても神に全てを明け渡すことをしないのです。

しかし、イエス様が述べているところの貧しさとは、生存に必要な物質が不足しているほどの厳しい状態を意味します。世界には12億人もの人々が一日わずか1ドルで生活していると言われていますが、これらの人たちが「貧しい」と言う場合は、こちらに当てはまるのです。

心の貧しさに置き換えるならば、生きていくための資源が自分の中にまったく無いことを知って、必要な助けと力を神の前に見いだす心です。胸をたたきながら、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、『神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18章13節)と祈った取税人の姿と重なります。

なぜ、このような「心の貧しい者」が幸せなのでしょうか。その理由が後半に記されています。「天の御国はその人のものだからです」(3節)。このような心の貧しい経験をした人には、神のご支配が障害なしに及ぶというのです。つまりこの地上ですでに天の御国の素晴らしさを経験できるということなのです。これが「幸いです!」の理由です。あなたはどちらの「心の貧しさ」をお持ちでしょうか。

某バプテスト教会の聖書のメッセージより。

http://www.kemigawa.org/061015_msg.html

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最後の言葉が少しむずかしいので、補足します。

心が破産した人は、本気で神さまに助けを求めます。

その人は、神さまから祝福されます。

この神さまとは、人間が作りだした宗教や偶像や

自然界の現象などではなく、

自然界や人間や宇宙を創造された創造主である

ただひとりの神さまのことです。

神さまは人を、神さまと親しく語り合いながら

生きる者として創造されました。


ただ、人類の最初の人であるアダムは、神さまに

従う人生よりも自分が神になる人生を選びました。

その時から、人間の心に罪が入り込み、人と神さまの

関係は壊れてしまいました。


心に罪のある人間は、死後に誰一人神さま国である

天国に入ることはできません。地上の楽園であった

エデンの園は、人間に与えられず、人はひたいに汗を

しながら日々の糧を得て生きる存在になりました。


このように、神さまの祝福を得ることができなくなった

心に罪が入り込んだ罪びとを、天国に入れようと、

神さまがイスラエル人に預言者をあたえ、預言者に

聖書を書かせました。その内容は、罪びとの身代りに

罪のない神のひとり子が、この世に使わされて

大勢の人の前で、人類の罪を身代りに背負って死ぬ。

その打たれた傷によって、多くの人類が、「罪の罰」から

救われて天国に行けるようになる。戦いの報酬である

分捕りものを受けるように、救い主は、多くの人を

自分の子供とするという、救いの預言です。


心が破たんした人は、自分の罪や無力さを認め、

神さまが、罪を赦してくださることを受け入れます。

自分の力では、自分の罪を消すことはできないし、

犯した罪を無かったことにはできないのです。

神さまだけが、罪を赦すことができる。

それは、神さまのひとり子が人間の姿をとって

罰を受けて、人類の罪を処分されたからです。


だから、心が貧しい者は、神さまの救いを受けることが

でき、天国に行ける。

まだまだ、自分は何かできるとか、断食や善行を積めば

天国に自力で行けるだろうとか、自分はほかの人より、いい人だ

とか、自分に自信がある人は、天国には行けないのです。

人間は、自分の力では、天国には行けません。生まれつき

心に罪が入っているから、罪を犯すのだし、一生のうちに一度も

罪を犯さない人なんて、いるはずがない。

罪を犯さないのは、神さまと神さまのひとり子と、聖霊の神さまと

天使たちだけです。天使は、人間の罪の罰を身代りに

受けるような、愛はないし、義務もない。

神さまのひとり子は、父である神さまの気持ちに応えて、

神さまに積極的に逆らった人類の救済のために、聖書の預言

通りに、十字架にかかって死に、葬られ、三日目に

よみがえって天に帰られたのです。

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「最近、夢をかなえる象」という本が流行っているようで、

テレビドラマにもなりましたが、

いつもそばにいて、アドバイスをしてくれる人生の

アドバイザーが一人いてくれたらいいなと、

ドラマを見て思う人がいると思いますが、

ちゃんと、神さまは聖書に人生のアドバイスを書いてくれて

いますから、ぜひ本屋で購入して読んでみてください。


心の貧しい人は、神さまに祝福されるのです。


ただし、家々を訪問して「これが本当の聖書」と言いながら

本を売りにくる自称キリスト教の宗教団体がいますが、

それは、異端です。聖書とやらも、ニセモノですから

買わないようにしてください。異端のニセキリスト教には

近寄らないようにしてください。聖書は本屋で売っているのが

ホンモノです。